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Posts from — 3月 2008

老いの品格  <李白 はるかなる時空のひろがり>

CIMG1467a.JPG 李白は漂白と流浪の詩人である。西暦701年、蜀に生まれ62歳に没した。任侠の士ともいわれるが、豪放と繊細、陶酔と覚醒、世俗性と超越性など、遺された詩の心象には、人智をこえたはるかなる時空のひろがりを感覚的に可能にする詩人であった。

 李白の詩と特性はまず、その多様性であり総合性である。天下国家の議論から、酒、女性、旅愁、風景、哀傷まで李白によって歌われないものはない。古詩、律詩、絶句、排律まで全てに得意であった。「奔放」と「飄逸」は李白を形容するものだが、その言葉の裏にある「絶望」と「悲哀」こそ李白の本質があろう。

 一生の大半を孤独な旅人として過ごした。孤独とは一人という意味で社会との断絶を意味しない。李白にとっての女性はいつも妖艶で美しい。酒は三百杯をささげ、風景には切り裂く猿の声が響き、哀愁は夢みて揚州に達した。

 棄我去者       我をすてて去るものは
 昨日之日不可留    昨日の日にして留むべからず
 乱我心者       我が心を乱すものは
 今日之日多煩憂    今日の日にして煩憂多し
 長風萬里送秋雁    長風万里 秋雁を送り
 蓬莱文章建安骨    蓬莱の文章 建安の骨
 中間小謝又清發    中間の小謝また清發
 人生在世不称意    人生世にありて意にかなわず
 明朝散発弄扁船    明朝 髪をさんじて扁舟を弄せん

 私を棄てて去り行くもの、それは昨日という日であり、どうしても留めることのできない過去の時間である。そしていま私の心を乱すものは、それはほかならぬ今日というこの日、苦悩に満ちた現在の時間である。人生はままならず、髪を切って気ままな身の上、自由な天地に身を解き放とう。

世路有屈曲       世路には屈曲あり
 三萬六千日       三万六千日
 夜夜當乗燭       夜夜当に燭をとるべし

 歳月のなんと過ぎ行くことか。人間の生きがたさはなんということか。そして、だからこそ現世的な歓楽にたいして積極的でなくてはならない。人生の達観でなく確認である。歓楽の充足による人生の確認である。三万六千日とは百年である。永遠の屈曲の中で毎晩燭をとり現世の確認をするという李白の心象は「生きたらしく生きる」と言う。「しかして、浮世は夢の如し。歓楽をなすこと幾何ぞ。古人は燭をとって夜遊ぶ。まことに以あるなり」と記している。

 行路難    
 行路難
 多岐路
 今安在
 長風破浪会有時
 直桂雲帆済青海

 歩みがたい人生の行路 選びがたい人生の岐路 心静かにいきてゆくことの喜びは、いまや、どこへいってしまったのか。

 李白は続けて詩う。

 しかし長く吹き渡る風にのって、人生の大浪を克服する。その時が必ずくる。その時一筋に雲のようにひろがる帆をはって、時空の大浪を渡ってゆこう。

 李白の品格は限りがあり行きがたい人生にひとすじの雲帆をかけて輝いている。

 

 

3月 30, 2008   No Comments

老いの品格 <human measurement>

Lao_Tzu_-_Project_Gutenberg_eText_15250a.JPG 本日のニュースを見てみました。●福田政権半年 強気路線へ転換?             ●線路に突き落とされ男性死亡  ●バスに重機アーム直撃3人けが  ●鶴光さん元弟子 破門恨み脅迫 ●仏五輪開会式ボイコットも ●松坂、消化不良も「次頑張る」 ●王ソフト、3年ぶり開幕5連勝

 道を修めるものには以上の世間に起きている様々がどのように映っているのでしょうか。孔子様はその著「中庸」のなかで道についてこう説いています。「天命之謂性、率性之謂道、修道之謂教」いかなる事象に対しても道を修め修練により立命の境地に達することが出来るとしています。即ち老いの品格に達するには修道しなくてはなりません。
 では、

 自分の気を修めることができますか?
 煩わしいことに耐えられますか?
 苦にたえられますか?
 誘惑にたえられますか?
 人の悪口に耐えられますか?
 プレッシャーに耐えられますか?

 自分を改める決意ができたら山の如く動かず、水の如く柔軟に、賢者のような心で、月のように清浄で、太陽のように暖かく、風のように自由な心情に達するよう修練することが必要とあります。
 こんなに大変では、老いの品格に達するまえに死んでしまうのでは。いやそれでもいいのです。安心立命とは正にこのことのようです。

 少し難しくなりましたが、前述のニュースですが、まず福田が転覆し、駅ホームでは突き飛ばされても落ちないようホーム真ん中に立ち、重機が落ちても怪我ですんだことに天命を感じ、弟子など破門したことを反省し、中国のやり方は自分に向かう刃であるのにと人間組織の無能さに諦観し、松坂の肥満体格に米国の今を感じ、王監督の顔の必死さに共感するのが小生の今の老いの品格レベルであると猛省するのみと言うわけです。

3月 26, 2008   No Comments

老いの品格 <老いのはらわたを開く>

 はらわたを開くとは、本質を白日のもとに晒してみることである。老いを知るには老いの五臓六腑をひきずりだして各腑がいかにあるかを明確にして初めて可能となる。老いの五臓六腑は百八つの煩悩脂肪がひっついて恰もフォアグラ状態となっているはずだ。

 特に戦後のどさくさを生きた団塊の世代は過度の生存競争を生きながらえてきたから尚更である。生きるために塊となり、同輩を蹴落とすためには嘘言し、裏切ることも許されたはずだ。そうして疎外され本来もっていた熱き血潮も汚濁して、友に無関心とアパシーの目を向けた。その結果百八つの煩悩は硬いコンクリートのようなものとなって五臓六腑にとどまっている。

 老いのターヘル・アナトミアはこの汚濁して真っ黒となった五臓六腑を白日のもとにひきずりだして漂白しなくてはとても老いの品格など生まれてくるはずもない。ひきずりだして言い聞かせるのだ。<もうこれからは勝手な行動はゆるさんと>。

 古今東西の偉人達は老いに至って深く思索し<哲学>し、宇宙を真っ二つに切るテーゼを生み出して安心立命してきた。古のギリシャの哲学者が宇宙の真理を、旧約の聖書が預言者を、マホメッドがコーランを産んだのも人間の安心立命のため以外の理由はない。

 我々凡人はとても自ら安心立命の真理哲学など程遠いのだから、せめて身近に<これだ>と思える心の言葉にすがり頑固に他に惑わされずに生きることだ。さすれば<いわしの頭>も信ずることが出来る。小林秀雄は宮本武蔵の兵法を「命がけの実利主義」と言った。武蔵の真剣は生きる実利を空の中に掴みとる。構えれば相手も構える。構えてはとても先を制することはできない。おもいきるとは思いを切ることである。空のなかに安心立命を見たのである。

 老いのはらわたはどす黒く醜い。しかしこのはらわたをしっかり見なくては老いの品格などとても程遠いのである。

 

3月 24, 2008   No Comments

老いの品格 <ピンコロリ>祈念

 死は誰でも怖いものだ。老いるとは死と向かい合うことでもある。向かい合っても逃れることは出来ない。ましてや争っても無駄である。

 かくても歴史上の英雄達は死に際してなんと格好よかったことか。ローマのカエサルは暗殺の刃の前で「ブルータスおまえもか!」と人間の不義理をなじりながらも、過ぎてゆく自らの覇権への諦観を悟った。信長は明智と知って「是非もない」と歴史の慟哭と吐き捨てた。もっと身近でいえば、白州正子は「お楽しみ入院」という理想の叶った入院で最後を迎えたし、杉浦日向子は江戸人の死生観そのままに落語を聞いて旅立ったという。

 しかし普通の人達に従容として人生の最後を迎えるといってもそう簡単なことではない。ましてやかっこよくなどととてもとてもである。

 孔子様は君子と称して人間のなすべきことを説いた。「发彼用的,以祈尔爵,”祈、求也.求中以辞爵也.酒者,所以养老也,所以养病也,求中以辞爵者,辞养也.」と言っている。また「君子知天命、尽人事」人事を尽くして天命を知ると。

 日本では寿命というが中国では寿とは還暦をすぎたひとに用いられ長寿を願うときに使われる。また八十を上寿、七十を中寿、六十を下寿としている。

 とてもとても凡人に孔子様や老子様のように達観して死を従容して迎えることなどできはしない。PPK(ピンピンコロリ)ブートキャンプなるものがあるそうだし、PPK運動協会などもあるそうだ。凡人は死ぬまで元気でピンピンし、突然ある日コロリといけるよう手を合わせて祈念するのが肝腎と心得ること也。

 

 Confucius_02.png

3月 21, 2008   No Comments

老いの品格

 この3月で62歳と相成った。若き日に出会った初老の人達の年齢である。その人達は実に歳おいて見えたのだが、私もそう見えているのだろうかと思う。

 彼の孔子様はこういった。「人の身は百年を以って期とす。上寿は百歳、中寿は八十、下寿は六十なり。六十以上は長生なり。世上の人をみるに、下寿をたもつ人すくなし。五十以下短命なる人多し。人生七十古来稀なりというは、虚語にあらず。短命なるは生まれつきて短きにはあらず。十人に九人は皆みずからそこなうなり。これを以って人皆養生の術なくんばあるべからず。」

 孔子様の時代と今では人間を取り囲むものが全く違うので、何歳がどうのこうのと比較はできないが、古来の言い方を尊重すれば私もどうやら下寿に属していることは確かであろう。

 とすると彼の貝原益軒は、養生訓の中でこう言っている。「歳になってからは、若きときより月日の早きこと、十倍なれば、一日を十日とし、十日を百日とし、一月を一年とし、喜楽して、あだに、日をくらすべからず。常に時日を惜しむべし。心静かに従容として余日を楽しみ、怒りなく慾すくなくして、残躯をやしなうべし。老いてから一日も楽しまずして、空しく過ごすは惜しむべし。老後の一日、千金にあたるべし。」

 人は皆死ぬのだから、すなわち還暦を過ぎれば何時でも死は待っているのだから、老後の一日は千金に値するのだ。楽しめということと理解しなくてはならない。

 では楽しむとはどういうことなのか? 養生訓ではこう答えている。「およそ人の楽しむべきこと三あり。一には身に道を行い、善を楽しむにあり。二には身に病なくして、快く楽しむにあり。三には命長くして久しく楽しむにあり。この三楽なければいかなる大富貴をきわむとも益なかるべし」

 では、道を行い善を楽しむとはいったいなんのことか?彼の老子様は次のように言っている。「道生一、一生二、二生三、三生万物」なりと。道から一が生じ、一から二が生まれ、二から三が生じ、三から宇宙が創造されると。「道を修むれば品性は真正なものとなり、家において行われれば家の品格、村落において行われれば村落の品格、一国においておこなわれれば、国は豊かに富み国家の品格となる。」

 老いの品格とは道を修めるということになる。
次回には道を修めるとはいかなることかを古人にたずねることとする。温故知新。
 

3月 21, 2008   No Comments