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生存か死か?
Is this end of the beginning or beginning of the end?これが始めの終わりか、それとも終わりの始めなのか? ハムレットは生存か死かと独白した。永遠のテーマが今眼前にある。
余りにも酷くて減った株の額に悲壮な絶望はひきつった笑いとなってくる。失った額はもう判然としない。
敷衍すると年金世代はとんでもないものを失ったことになる、しかし戦後の昭和30年までに少年期を過ごしたものにはたいしたことはない。まだ食っていけるし、医療にもどうにかかかれる。今はチフスも赤痢で死ぬものもごく少ない。
昭和39年の東証日経平均株価は1200円だった。いまから44年前。大卒の初任給が八千円から一万円だった。バブルの時代を除いて初任給の約十分の一が日経平均の相場だった。
そして今日2008年10月27日ついに7100円台と相成った。巷の経済評論家や銀行、証券会社の経済だけの専門家と称する連中は日経平均6500円、円為替は80円を予想している。
企業の純資産倍率が0.86となり会社としての存在基盤自体が問われてきた。やめて資産を山分けしたほうがいいという状況では日本の資本主義自体が危ぶまれる。
歴史を紐解くとフランスの絶対王政もロシアの革命も第一次、第二次世界大戦も逼迫して絶望的経済下で民衆のたまり溜まった不満と悲鳴から始まっている。
誰かを何かをスケープゴートにしなければこの絶望からの脱却はなくなることを教えている。現在世界の覇権を握っているアメリカが絶望から脱却する際に生贄にするものそれは誰か、何なのか?
未曾有の円高となっている。新聞では資本が比較的傷の浅い円へ逃避しているからだとなまな評論しかしていない。要するに真実を掴まずに評論しているだけで全くわかっていないことに唖然とする。
考えてみればわかるのにだ。私の周りだけでもほとんどの人が外貨建て投資信託を解約している、外貨預金も皆円に戻している。個人でさえそうなのだ。ましてや銀行、年金、金融機関、ヘッジファンドが運用ドル、ユーロを円に換える即ち現金化する波は尋常じゃない。日本の1800兆円が円の現金に換わっているのだから、円が85円になるのは至極当然な話なのだ。生活や企業の保守のためのたんす預金化が円高の主要因であることは明白なのだから。
欧米がこの円高を狙ってくる。すでに三菱UFJが9000億、野村がリーマンと投資をはじめさせられている。気がつけば松下のユニバーサルやソニーのコロンビアのような換骨奪胎に嵌ることになるだろう。アメリカの欧州のババを日本がひく、ジャパン・アズ・スケープゴ
ートとならないとも限らない。
絶対的な景気解決策は国民挙げての公共事業だ。それは戦争である。米国が敵国として怨嗟を抱いているイラン、イラク、北朝鮮につづくのはどこか。戦火の火種がすでに発生している地域グルジア、カンボジア、スーダン、パキスタン、インドそして極東アジアである。切羽つまる極東の国はどこか、中国か日本かそれとも韓国か。米国と欧州は切羽詰るアジアの国に標的を絞ってくる。過去の歴史がそれを教えている。
10 月 27, 2008 No Comments
<老いの品格> W124と連れ添う
Werke124に連れ添ってもう15年にもなる。山あり谷ありの人生で何回も命を守ってくれた。一緒に走った距離はもう10万キロにもなる。
W124は金食い虫でこの15年でとんでもない金額を掛けさせられた。常に苦情を言ったり、栄養を要求したり、すねてみたりして何回もドックにいれてメークアップさせられた。
余りにも経済的でないので連れ添うのを止めて他を考えたが、こちらを向いてウインクされるとすぐその気が失せてしまう。
W124はとてもコケティシュに迫ってくる。一緒に走ると弾力的で足にすいついてくる感覚と一方ギチッとした自信と確信に溢れている。
W124とは一体なんだ。そう124とはコードネームで実は私の乗る旧々型のEクラスのメルセデスである。最も新しいEクラスはW211と呼ばれ、その前が丸目を採用したW210でその前即ち1984年から1995年までの10年間に生産され販売されたのがW124と呼ばれる。
コードネームW124は最後のメルセデスの思想である堅牢でシンプルを体現した車である。このことは現在では輸入車に興味ある人なら誰でも知っている事実だが、保持するとなると大変手間と費用がかかるのでも有名である。
なんの因果かW124に次第に入れ込んでしまったのは手間と金を入れ込んだ旦那のような気がしてしまっているからかもしれない。旦那になれるほどの金力も精力もないのにだ。
この一年だけみてもリアウィンドウの交換、サイドミラーの交換、ベンチレーター、ファンの交換、ブレーキパッドの交換、ブレーキオイル、エンジンオイル、などなど枚挙がない。
しかし交換したりするととんでもなく良くなる。寿命どうりに悪くなる部品を交換する。修理するにもマニュアル(人間の手仕事)に、決してどこかの国の車のようにパックになっていて入れ替えるだけの修理ではない。下にもぐりこむとこのなにが悪くどこを修理しどの部品を換えるのかよくわかる。
部品は高価だが工賃はもっと高い。我慢我慢である。
だんだんこの車と一緒にいると自分と同じような気がしてくる。ここで見放したりしたら自分を見放すようなものだ。命がもつか、金がもつか、それとも車がもつか、三つ巴の我慢比べが始まった。
10 月 16, 2008 No Comments
<老いの品格> 人生を癒す歌を歌う
10月7日 4時間の昭和の歌の長い番組に張り付いた。
番組には歌詞のインポーズがあって歌おうとすればカラオケになる。
声を出して歌ってみた。御殿場の山荘で一人だったから歌おうと踊ろうと自由。
歌ってみるとなんと歌詞の意味が伝わってくることに驚かされる。
木綿のハンカチなど歌っていると涙がでてくる。
都会に出て情を他の女に移した若人がふるさとに待つ恋人にうたう。
<恋人よ ふるさとに帰れない。>
女が歌う
<恋人よ、せめて涙ふくハンカチーフを送ってください>
1970年代から歌は時代を動かしてきた。時代の鏡じゃなく時代をむしろひっぱってきたんじゃなかろうか。
刹那的な笑いを誘う今のお笑いものとは違う。なぜなら歌っていると思い出されて涙がでるほどだから。
今の柳原や小島よしおや江戸はるみの芸で後ほど涙する人がいるだろうか。
千の風は友人の新井満がつくったがなにかピンとこない。
宮崎駿の作品のうち何作品かに関わったがこんなに日本人を捉えるとは思ってもみなかった。
何か私のエンタテイメントの感覚が狂っているのか日本人の感覚がおかしくなったのか,敢えて自問自答する。
言いたいのは本当に素晴らしい作品に脚光が当たらず時代に埋もれてしまいどうでもいい作品(宮崎駿には失礼だが)が謳歌する風潮が嫌いなのだ。
私がプロデューサーで関わった黒澤監督の最後の作品は「まあだだよ}という。映画が楽しさだけでなく時代を映し、後世に何かを訴える何かが重要だとすれば、黒澤が晩年なにを言いたかったのかがこの作品に充満している。
結果論でどのくらいのひとが見たかの数字を競うだけなら、人間の欲望を直接みせるのが良い。ほんのりともうやめるもうやめるといいながらアニメをつくりつづける偽りの宮崎を賛美すればいい。そうじゃないだろう。
日本人は昔から個人に意見が希薄だ。もっと自身をもっていやなものやそうじゃないだろうという言葉をおおぴっらにしていかないといけないと思うが皆様はどうだろう?と思う。
10 月 8, 2008 No Comments
<老いの品格> アンキエチュード(inquietude)の時代
時代を映す言葉はボルテールの時代から仏語であった。革命とはフランス革命であり、自由(リベルテ)、平等(エガリテ)、博愛(フラテルニテ)がアメリカの独立につながる。19世紀には資本主義思想から共産主義(コミュニズム)がパリに逃げていたレーニンとマルクスに思想化されてロシア革命につながる。20世紀戦乱のなかで、存在と構造が叫ばれて、サルトルがカミュがでた。
ちょうどその頃団塊より一寸前の世代がその思想に洗われていた。チョムスキーやソシュールが潮流にありその新しさにかぶれてもいた。
60年代、70年代、80年代、90年代と時代のシンボルが数々のカレイドスコプのようにめぐるましく変転してゆくが経験すると<あーそうだったな>程度の感慨しかない。なぜなら若いエネルギーがその激しい変転をむしろ迎えにいったか、或るいは変転する激動を喜んでいた節さえあったからだ。
そして我々の世代が60才を超えてきた今急速に帷をおろすようにたちこめてきている暗雲はなにか。いいしれぬ不安、正体の見えぬ不安だ。
フランスの世論紙ルモンドは現実の暗雲をアンキエチュードと喩えている。
世界は今アンキエチュード(いいしれぬ不安)の真っ只中に居る。飢餓に対する不安、死に対する不安、裏切りに対する不安、財産を失う不安などはっきりした不安はその根源がわかるからまだいい。しかし<いいしれぬ不安>アンキエチュードは不安の最上級にあって解決への出口がない。
これからどうなるのかどうなってゆくのか?まったく見えない。
最近なった日本の首相は三世の坊ちゃまだが、「今最大の問題は我々をとりまく不安だ」と記者会見で言ったそうだ。この坊ちゃまはこの点だけだが直観力がある。しかしどの程度この直観力をいかした政治ができるか御名御璽などと言っていることからすると買いかぶりにすぎないのだろう。
保守とはコンサーバティヴのことで本当の意味は失うものをなくすことを言う。保守とはキープとプロテクトのことでなにもしないで失うものを極力排除することだ。だから保守は動こうとはしない。動く気配だけですます。
現役を離れ、あるだけの金銭で暮らす世代となると動けば金がなくなる。だから動かないようになる。即ち自らのなかに保守の種をまき始める。頭と体の不一致が見えてくる。歳をとるとは自らの保守性を実感することなのか?
保守性といいしれぬ不安。
それが現在我々にのしかかる。
10 月 5, 2008 No Comments
フランスとフランス語の話し
