在ることと在りつづけること
「存在と時間」というハイデカーの名著がある。読んだのはもう40年前になる。当時は何が何だかさっぱり判らなかった。だが最近少しづつだが輪郭がわかるようになってきた。
存在を理解するには時間がかかるし、時間を知るとは存在の有限性を把握することにほかならない。有限とは無限が存在しないことでなく、無限とは有限でないことではない。
宇宙を考えてみればよい。
太陽系があり、銀河系があるそうだが、驚くべきはその宇宙が今でも膨張しているという事実である。膨張するとは際限ない空間があるからである。空間はどれほどの無限性なのか。
眼をミクロに転じればもっと理解しやすい。ミクロンやそのもっと極小な世界にいたっても際限はない。いわば極小な世界も無限である。即ちリミットがない。
人間の世界は有限と無限という言葉をつくった。この言葉と概念は人間の世界だけである。ほかのいかなる地球上の生物は有限、無限などというこじんまりした概念からは遠い永遠性のなかで存在してきた。
存在とは時間の永遠性のなかの一点での形象で、形象(phenomene)はそう見えるだけに過ぎない。
すべてのことが単におぼろげに見えているだけで確実(certain)ではない。不確実なのだ。
不確実な構成の上に我々人類の歴史がある。不確実であるがゆえに確実なものを争った。それが戦争である。
すなわち不確実性が高まれば高まるほど争う危険性が高まることになる。20世紀だけで2度の世界戦争を惹起した。19世紀には無限の戦いの歴史を経験した。そして21世紀の初頭の2009年が終わろうとしている。
100年に一度などという危機にある。北半球の開発国にさえ失業者が巷にあふれ、覇権国家の米国が炎のなかにある。南半球のアフリカの民や未開發国の民はその存在すら忘却されている。
第二次世界大戦以来これほど不確実で不安が蓄積されている時代はない。
今アイルランド、グルジア、スーダン、エチオピア、イスラエル、パレスチナ、イラン、イラク、パキスタン、アフガニスタン、ロシア、北朝鮮、ミャンマー、バングラデッシュ、インド、中国、キューバ、エクアドール、ブラジル、チリー、ペルー のどこに火の手が上がろうが不思議ではない。宗教的、民族的、歴史的、経済的な諸問題がよこたわるが、契機は常に憎悪である。憎悪とは不安と不確実なものの構成物である。
人類が21世紀にあけようとしているパンドラの箱、戦争しか現代の不安を鎮める方法はないのだろうか。人類が存在することは存在しつづけてきたからでは決してない。

フランスとフランス語の話し


ひろや
on 12 月 18th, 2009
@ 12:10 pm:
団塊太さま
検索エンジン=団塊エンジニアmy-X:「大機小機」
を開いて、
そこへのブロくの投稿を薦めます。
文中に「日経」の文字が入っているので、日経のHPにも拾われ、もしかして関係者が読むかも?
でなくても広く団塊世代の読者に訴えることが可能です。
以上