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Posts from — 4月 2010

大和路逍遥  法隆寺金堂ー五重塔ー百済観音

  大和路逍遥  法隆寺―百済観音―夢殿

 奈良市内から法隆寺には国道24号で途中までゆき郡山城跡を抜けて斑鳩に向かう。郡山城址跡は桜で満開だった。幅の狭い道をだらだらとゆき三叉路を右に折れると法隆寺五重塔が見えてくる。
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南大門に向かうと道の左右にみやげ物屋や簡便な食堂などがある。みやげ物屋の駐車場前にきりもるするおかみさんが車を誘導してくれる。駐車料金はなにか土産を買えばよい。そうさせていただいた。
 
 少し日常的なことから書いたが旅にはこのような瑣末だが大切なことが多くある。特に古都奈良や仏像について書き出すとなにか人生の懊悩や深みなどの形而上的なことになって旅につきものの昼食の弁当や、用を足す場所や朝飯の時間や食べるものの量など普段と違うことに気をつかうことのほうが実際多い。
 
 仏像に対面するとどう対応してよいか迷う。なにしろ仏像はみな寡黙で荘厳でとてもこちらから話しかけるような感じではない。亀井勝一郎は法隆寺百済観音について「おおらかな微笑を湛えて地上を闊歩しそうな姿態である。神韻渺茫たる一つの精神が人間像に近接しながらしかも離れて何処へとふらふらとあるいてゆくような姿だ」と言っている。浄土の荘厳を現出する像を前になにを語れるのか迷うのである。

  自らのうつせみでもイタリアルネッサンスのダビデの像やモナリザの微笑みとは対峙することも出来た。
パリノートルダムの寺院、古くはローマのコロッセオや地中海のロードスやミコノスで発見されたニケア勝利の女神像やミロのヴィーナスでさえじっと像を見据えることができるのに、百済観音、十一面観音と向かうとただただ頭がたれてしまうのは何故なのだろう。
 
 空を半眼でみつめているのかそれとももっと遠くをみるような眼と半円の眉、ふくれてたれている耳たぶ、水平な目線、ふくよかな顔面、存在感のある鼻立ち、厚ぼったいがしっかり結ばれた唇、首筋は三本ほどの首筋線ができていて、第三の眼がこちらを照らしている。坐像と立像や半跏の像があるが、坐像となるともう動きようもない。いや動けないのは向かい合う人間のほうである。
 
 私は15歳でキリスト教徒となった。南部バプテスト教会で洗礼を受けている。当時聖書をむさぼり読んだ。新約聖書、旧約聖書を暗記するほど読んだ。
 キリスト教のお祈りする言葉はマタイ伝6「天にましますわれらの父よ、願わくは、み名をあがめさせたまえ、み国をきたらせたまえ、み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ、われらの日用のかてをきょうも与えたまえ、われらに罪をおかす者を、われらがゆるすごとく、われらの罪をもゆるしたまえ、われらを試みにあわせず、悪より救いい出したまえ、国と力と栄えとは限りなくなんじのものなればなり」
と磔のキリスト像に祈る。
 ファウストのなかのグレートヘンは「マリヤ様、わたしはどんなにひとの罪を責めることの厳しかったことでしょう」などとマリアの石像のまえにひざまずいて悔い祈る。キリスト教の神は絶対な愛であり、人間の悪を救うためにその身をささげる。人はために懺悔する。教会に入るものは神の前に懺悔しひざまずいて祈る。
 
 私にとって仏像よりキリストの像のほうが身近であった。しかし今奈良の仏像の前に佇んでいる。歳は64歳となった。半眼の仏像が自分を呼ぶ声がする。いうにいわれぬ不思議な感覚だった。
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 法隆寺南大門を入ると、存在感のある中門が見える。中門の向こうに五重塔と金堂が見える。修学旅行のときだからもう半世紀ぶりの法隆寺である。半世紀経ったがしっかりとした五重塔の記憶がある。固い粘土質の土に立って五重塔を見上げていた記憶である。今伽藍は石畳と小さい砂利で覆われている。歩くとジャリという音がする。どうしても記憶が違うので夢殿の老僧にお聞きした。半世紀前の法隆寺の伽藍の庭は粘土質の土だったような記憶があるのだがと聴くと、「その通りです。よく記憶なされてますね」「もうそんな修学旅行の学生はいませんよ。ざわざわガムをかんで帰っていきます。」とのこと。すこしわが意を強めた。

 法隆寺金堂に近づく。堂内は薄暗くよく見えないが釈迦如来、薬師如来が座している。正三角形で坐像である。釈迦如来の作者は鞍作鳥なることは光背銘文によってあきらかである。その右方に薬師如来があるが鞍の作といわれる飛鳥の像である。仏像は天平が素晴らしいとよくいう。確かに天平の洗練された像と比べてみるとこの釈迦如来も薬師如来も美しいと惚れ惚れする像ではないのは一見すればわかる。組んだ脚と台座の睡蓮の彫刻も基本に従って刻んだという感じがする。しかし時間が経つにつれてなんというか安心感がふわーと醸し出される。飛鳥という時代が仏像に求めたものそれは時代の安心であった。金堂の釈迦如来は1300年のときを超えて時代の安心性を伝えてくる。

 人間はすこぶる弱い。不安だらけの物体にすぎない。だからなんにでもすがりたい。超常なるものは勿論、鰯の頭さえ信心の対象となる。ためしに神社仏閣の絵馬に書かれた民衆の願いを見れば一見理解できる。家内安全、健康から商売繁盛、金満まで煩悩の渦である。信心とは煩悩そのものであることが判る。宗教とは人間の欲望から出る。現世現報、ご利益から出発する。だからお賽銭がよく貯まる。寺でつぶれたなんてのはもう聴いたことがない。世界はどこでも財政危機の現代、宗教法人には多額の税金をかけるべきである。だがどの政治政党もこのことを考えもしない。なぜなら宗教は弾圧を嫌って政権政党ににじり寄って存在しているからだ。

 閑話休題
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法隆寺五重塔については、和辻の感性にまかせよう。「しかるにわたしが、一歩動き始めるとこの権衡や塔勢を形づくっている無数の形象が一斉に位置を換え、わたしの眼との距離を更新しはじめるのである。しかもその更新の度が一つとして同一でない。眼との距離の近いものは動きが多く、距離の遠い上層のものはきわめてかすかにしか動かない。だから私が連続して歩く時は非常に早く動く軒と緩慢に動く軒とがある。中略、塔の運動の趣も変幻自在である。絶えず変転し流動する諧調は、崩れてゆく危険の微塵もない。」いやむしろ和辻は変転し流動する現世を法隆寺五重塔に羯谛视していたのかもしれない。半世紀前15歳の私に決して忘れることのない強烈な印象を残したのは実はこの変転と流動の拘欄と斗供にあったのだ。
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 法隆寺を世界の寺にしたのはもういまや宝蔵館に収められている百済観音であることは論をまたない。このうす白く燃え立つ光背をもつ朝鮮半島の古代国家の名前を冠する仏像は深入浅出、静悄悄としてみるものを圧倒してくる。
あくまで薄く胴体を削りだし、これまたあでやかだが流れるような衣の模様に神住する。神情は馥郁として悠々、泰然自若、周りの風が嗖嗖と聞こえてくる。薄手の唇からは古代サンスクリット羯谛羯谛波羅羯谛jiedijiediporajiedijiedi(生けとし生けるものよ)と念じる言葉が聞こえてくるようだ。CIMG2506

4月 22, 2010   No Comments

大和路逍遥 西の京と唐招提寺金堂

 西の京―唐招提寺金堂ー千手観音ー講堂 逍遥

 五十年ぶりの古都奈良は春爛漫、今年の不順な天気の間をぬって、天気絶好調。桜は満開。秋篠川の土手を自転車でぼちぼちとゆっくり走ってゆく。秋篠の川のながれはゆっくりでこちらの自転車のはしりに合わせてくれているようだ。ゆっくり20分も走ると肩越しに唐招提寺らしい森が見えてくる。秋篠川にかかる橋をわたると唐招提寺の南大門が見えてくる。半世紀も前に修学旅行で見たもので記憶も薄いが、門の正面まで辿り着くとあの金堂が網膜一杯に映ってくる。もう心は浮き立って日本人のDNAが騒ぐ。なんという美しさであろう。
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 唐招提寺といえば盧舎那仏、千手観音、薬師如来の三尊が金堂にあって、南大門から近づくと阿弥陀越しに三尊が浮き上がって見えるのが美しいとされる。天平末期の作とされる盧舎那仏(世界を体系化した華厳世界の教主)に和辻はいかにも印象の鈍い平凡な作だと書いたが、その後金堂の美しさに圧倒されて目立たなくなっているが、この殿堂を際立たせている一つの要素となっているだけでも素晴らしいと認めている。右の脇士が千手観音である。千手とは千の手にそれぞれの眼がありさまざまな持物をもっているという意味である。通常は一本が25手をもつとして40本。しかし唐招提寺の千手観音は事実千本ある。
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 観音とはあらゆる願いをかなえる慈悲の仏である。仏陀如来の脇侍であるが独尊として信仰されている。唐招提寺に感動するのは金堂三尊に薬師如来が控えることである。薬師とは要するに病気を治す仏である。教主たる盧舎那仏が堂々と中央を占め、右手に千本の手をもちいかなる願いにも叶え、その上どんな病気も治す。世界のいかなる衆生をも救うのである。これだけ完璧にいけとし生きるものに対応する宗教は世界に存在していないかのようである。

 唐招提寺金堂について、和辻は絶賛する。
 
 「大海を思わせるような大きい軒端の線のうねりかた、特にそれを斜め横から見上げた時の力強い感じ、そこにはこの堂をはじめて見るのでない私にとっても全然新しい差が感じられるのである。」

 「軒端の線が両端に至ってかすかに上へ湾曲しているあの曲がり具合ひとつにも屋根の重さと柱の力との間の安定した釣り合いを表現する有力な契機がひそんでいる。」

 「天平のどの時代にもこれだけ微妙な曲線はつくれなかった。そこに働いているのはすぐれて芸術家の直感であって手軽に模倣をゆるすような型にはまった工匠の技術ではない。」

 なんといっても印象的なのは屋根の両端にある鴟尾の現代性である。太陽に輝く胸元と金属で輝き引き締まった腿はとても1300年の時代の経過を感じさせずに燦然と輝いている。言い表しがたいほどのデザインの現代性に息をのむ。屋根はゆるやかに傾斜し屋根瓦は先端までの鬼瓦につながって末端まで伸び、巻きかえってとがりながら完成されている。至る所まで完全で無駄がない。
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 和辻は「さらにこの屋根とそれを下からうける柱や軒周りの組み物との関係には数え切れないほどの多くの繊細な注意がされている。柱の太さともこしの大きさとの釣り合い、軒の長さと柱の力との調和それらは、もうこれ以上寸分を動かせない」と和辻はいう。

 柱は8本でエンタシスというにはそれほど顕著ではないが、明らかに真ん中が太くなって上から流れるように重さを増す屋根を支えている。まるでアテネのパルテノン神殿に残る大理石の柱のように構造物の中心と存在を主張しているが決して中柱でなく支えているのは神格されている抽象物であるかのようである。下から軒端を見上げると、斗供と伽藍が組み合わさって1300年の時間を支えてきた木造建築とこれを作り上げた渡来僧と職人達の息吹きが噴出している。
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 唐招提寺を建立したのは唐の名僧鑑真である。鑑真は既に中国唐の時代名僧とうたわれていたが、この名僧が一体なぜ命を賭してまで東国日本にまで渡ろうとしたのか。唐からみれば未開で野蛮で文化果つる国になぜという謎が浮かぶ。事実鑑真は日本に渡るために何回も海難に遭遇し命まで落としかねた。鑑真が持したものは多くの経典ばかりではない。その真髄は一緒に渡来した弟子達である。
 随行の弟子には揚州白塔寺僧法力、泉州超功寺僧曇静などなどほかの8人の僧と職人合わせて24人にのぼる。そのうち胡国人如宝は唐招提寺金堂の建築家と伝えられている。僧如宝の直感が金堂の屋根の傾斜を決めたのだ。

 渡来の頃二十歳に満たない青年如宝がいかにして金堂の建築を可能にしたのだろうか。その謎に後世の学者は東大寺の大仏開眼をあげている。鑑真が九州に辿り着いたのが大仏開眼の年だったという。年老いて生前に大仏開眼を見ようとした聖武天皇は大仏開眼を急いだ。ためにこの年には東大寺伽藍はいまだ完成せず建設途上であった。当然青年如宝がその建設に携わったことは自然であったろう。青年はこの東大寺伽藍建築のなかでその才を育まれ唐招提寺金堂の建築にかかっていったことが想定できるのだ。でなければこれほどの金堂ができる筈もない。

 唐招提寺回廊の横に正倉院に似た倉庫が二つ卒然とある。鑑真がもたらした文物の数は多い。
四書五経、インドからの華厳経などなどである。いわゆる経典といわれるものであるが、一体経典とはなにか。

 誰かが経典とは仏様のことについてかいてあるものだといった。あるものは仏陀の伝記だといい、あるものは浄土に入るための修行の書だといった。しかるに古寺を逍遥し数々の仏像に対面すると経とは仏像について書いたものではないかという気がしてくる。

 観音は一切の苦難、病から人を救うという。三十三の面を有し、千本の手を有し、八面、十一面の顔を持って人のあらゆる苦難と病苦を救うのである。南無阿弥陀仏と唱えると成仏する。仏像に頭をたれてひたすら唱え祈る。経はそのときに唱えるもので仏様にすがる念仏の言葉である。人は仏像の前で平等に祈るのである。

 大和路は祈りの道である。

4月 17, 2010   No Comments

大和路逍遥 法華寺・平城京跡から佐保路へ

 法華寺から平城京逍遥
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今年奈良平城京遷都1300年、奈良新大宮にある平城京の跡にも朱雀門などが映画のセットのようであるが出来上がり、大仏開眼などの番組が製作されて放送されている。沸々とわきおこる仏像に対する憧憬と邂逅への想いを抱いて京都から近鉄特急に乗り奈良に降り立った。4月4日奈良のあらゆるところ桜が満開である。
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 <あおによしならの都はさくはなのにおうがごとく今盛りなり>そのままの世界が現出している。
ホテルでサイクルを借りて近くの法華寺をめざす。法華寺はあの十一面観音が安置される光明皇后の寺である。
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 東大寺転害門を背にして真っ直ぐに佐保路と呼ばれる旧一条南大路を西へ平城宮跡を目指すと突き当たりに「光明寺―法華寺」がある。

 この寺には仏像の祖国ガンダーラ(現在のパキスタン)と佐保路の寺、そして光明皇后とを結ぶ不思議なえにしと1300年前のミステリーが隠されている。
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法華寺には光明皇后にまとわりつく神秘的物語がある。

 ―昔北天竺乾陀羅国の見生王という王様が、生き身の観音を拝もうと發願して入定三十七日に及んだ。すると「大日本国聖武王の正皇后光明女の形」を拝めというお告げがあった。王は問答師というものを遣わして皇后の姿を彫らせたという。3体を彫らせたが内一体をこの法華寺に残したという。それがこの十一面観音だという。

 和辻哲郎は「香の煙で黒くすすけた像の中からまずその光った眼と朱の唇がわれわれに飛びついてくる。胴にもりあがった女らしい乳房、胴体の豊満な肉づけ、そのやわらかさとしなやかさ」と言っている。
古今東西の論評には仏像を後ろからみたものは少ない。法華寺十一面観音の後ろにへばりついた。たおやかな背とくびれた胴体、でん部をすこし傾げ腰をくいとひねっている。和辻のいう「隠微な蟲惑力」という意味に深みがある。

 あおによしとは青と丹の色彩をいうという説もある。欄干の青と格子の朱が飾る伽藍寺院。奈良の往時が偲ばれるのである。法華寺十一面観音のちょっとめくれあがった派手なまでの朱のくちびるが語るものは何か。「美貌の皇后」光明皇后の姿が浮かび上がる。

 もうひとつ光明皇后の美談がある。東大寺大仏殿も完成し安堵された皇后はある日の夕方虚空から届いた天の声に従い、自ら發願して千人の病人の垢を洗うことを誓う。九百九十九人の垢を流し終えた皇后を待っていたのは最後の一人。全身が瘡蓋に覆われていた。皇后はひるむことなくその膿を吸って吐いた。その病人の五体は一時に光明を放ち馥郁として忽然と姿を消したという。
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 本国を統しめた天皇と皇后の国民とのつながりはまさにこの話しに尽きている。伝説は脚色だけれどなにか活力を感じる物語に仕上がっている。

 法華寺をでて道なりに西にゆくと平城京の跡地にでる。江戸末期、棚田平八郎による平城京の整備がなされて田や畑となりあれはてていた跡地がいまや公園となり、朱雀門などが建設されて8世紀初頭の都のよすがをしのぶことが出来る。跡地に立つとこの地で1300年前に大宮人が、その優雅さを競い合うと同時に欲望と権謀術数を弄して君が藤原氏が行基や玄肪が、朱とあおのにおいたつ極彩色の都を彩ったのかと少し感傷的になるのは自然なことに思われてくる。
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 秋篠川までくるとその土手が自転車の遊歩道になっていて、西の京、斑鳩の方向まで行くことができる。
50年ぶりの古都奈良は春爛漫、何十年に一度のような絶好の天気の上、4月初旬で開花からもう2週間だというのに、桜が満開、秋篠川の土手を自転車でゆくと突然、唐招提寺にでる。50年前の記憶も薄いが寺の正面に来ると金堂が眼にはいってくる。金堂に近づくともう心が浮き立つ。日本人のDNAが騒ぐのか。南大門をくぐる。網膜に金堂が映る。

 

奈良を語るにはあおによし奈良の都を彩る数々の歴史上の人物と時代の考証が必須である。
538年(宣化3年)に百済の聖明王が釈迦仏像や経論などを朝廷に贈り仏教が公伝されると、587年(用明2年)天皇の仏教帰依について物部守屋と蘇我馬子が対立。後の聖徳太子は蘇我氏側につき、物部氏を滅ぼした。物部氏を滅ぼして以降約半世紀の間、蘇我氏が大臣として権力を握った。588年(崇峻元年)には蘇我馬子が飛鳥に法興寺(飛鳥寺)の建立を始める。592年、蘇我馬子は東漢駒を遣い崇峻天皇を暗殺すると、女帝推古天皇を立てた。厩戸皇子(聖徳太子)が皇太子に立てられ摂政となった。604年(推古12年)には、冠位十二階を制定し、聖徳太子が憲法十七条をつくり、仏教の興隆に力を注ぐなど、天皇中心の理想の国家建設に邁進する。

607年、小野妹子らを隋に遣隋使として遣わして、隋の皇帝に「日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや。云々。」(「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」)の上表文(国書)を送る。留学生・留学僧を隋に留学させて隋の文化を大いに取り入れて、国家の政治・文化の向上に努めた。620年(推古28年)には、聖徳太子は蘇我馬子と「天皇記・国記、臣連伴造国造百八十部併公民等本記」を記した。
推古29年(621年)に摂政であった厩戸皇子が、同34年(626年)には蘇我馬子が、さらに、推古天皇は36年(628年)に没し、36年間の長期に渡った日本歴史上初めての女帝の時代が終わる。

聖徳太子と推古天皇が没した後は、蘇我蝦夷と子の蘇我入鹿(いるか)の専横ぶりが目立ったと日本書紀には記されている。推古天皇没後、皇位継承候補となったのは舒明天皇(田村皇子)と山背大兄王(聖徳太子の子)であった。645年(皇極4年)の乙巳の変で、中大兄皇子・中臣鎌子(藤原鎌足)らが宮中(飛鳥板蓋宮)で蘇我入鹿を暗殺し、蘇我蝦夷を自殺に追いやり、半世紀も続いた蘇我氏の体制を滅ぼした。
新たに即位した孝徳天皇は次々と改革を進めていった(大化の改新)。日本書紀の記述によると、翌年(646年)正月には改新の詔を宣して、政治体制の改革を始めた。その後も、今までは蘇我氏の大臣1人だけの中央官制を左大臣・右大臣・内大臣の3人に改めた。

孝徳天皇没後は、中大兄皇子が政治の実権を握った。中大兄皇子は何らかの理由により皇位にはつかず、母である皇極上皇を、再度即位(重祚)させた(斉明天皇)。
663年、百済復興に助力するため朝鮮半島へ出兵したが、白村江(はくすきのえ)の戦いで新羅・唐連合軍に大敗した。664年(天智2年)筑紫に大宰府を守る水城を造り、対馬・隠岐・筑紫に防人や烽を置いた。667年(天智6年)都城も防衛しやすい近江大津宮に移された。668年(天智7年)に皇太子中大兄皇子が即位して、天智天皇となる。
天智天皇が没すると、天智の弟である大海人皇子(後の天武天皇)と、息子である大友皇子との間で、争いが起こった。672年(弘文元年)壬申の乱である。この戦いは、地方豪族の力も得て、最終的には大海人が勝利、即位し、天武天皇となった。天武天皇は、中央集権的な国家体制の整備に努めた。
672年の末に宮を飛鳥浄御原宮に移した。官人登用の法、甲子の宣の廃止、貴族・社寺の山・島・浦・林・池などの返還、畿外の豪族と才能のある百姓の任官への道を開き、官人の位階昇進の制度などを新設したりといった諸政を行った。681年。5年後の686年(朱鳥元年)に天武は没する。8年後の689年(持統3年)には諸氏に令1部全22巻で構成される飛鳥浄御原令が制定され、頒布される。律は編纂されず、唐律をそのまま用いたのではないかと考えられている。
694年(持統8年)には日本初の本格的都城となる藤原京に都を遷した。
持統天皇は子の草壁皇子に位を譲るつもりであったが、早世したため、孫である文武天皇を即位させる。中央行政組織は太政官と神祇官による二官八省制がとられ、文武の死後、母の元明天皇が即位。710年(和銅3年)に平城京へ遷都した。
「平城遷都の詔」によれば、新都は「方今、平城之地、四禽叶図…」とあり、「四神相応の地」が選ばれた。藤原京は、南から北にかけて傾斜する地形の上に立地し、藤原宮のある地点が群臣の居住する地より低く、臣下に見下ろされる場所にあったのが忌避されたとみなされることもあり、また現実問題として排水が悪いなどの難点ともなった。しかしそれだけではなく、藤原京は唐との交流が途絶えた時期に造られたため、古い書物(『周礼』)に基づいた設計を行ったと考えられ、当時の中国の都城と比しても類例のないものとなっていた。実際には、30数年ぶりに帰国した遣唐使の粟田真人が朝政にくわわってこれらの問題が明らかになり、また唐の文化や国力、首都長安の偉容や繁栄などを報告したことが、藤原京と長安との差がかけ離れていることを自覚することとなって、遷都を決めた要因となったと考えられる[21]。その根底には、壮麗な都を建設することが、外国使節や蝦夷・隼人などの辺境民、そして地方豪族や民衆に対して天皇の徳を示すことに他ならず、国内的には中央集権的な支配を確立するとともに、東夷の小「中華帝国」を目指したものに他ならなかった[22]。9月、元明天皇はみずから平城の地を視察し、造平城京司の長官ら17名を任命、10月には伊勢神宮に勅使を派遣して新都造営を告げ、11月、平城宮予定地のため移転させられる民家に穀物、布を支給、12月には地鎮祭を行い、造営工事を開始した。
この年(和銅元年)、遷都を主導した藤原不比等は正二位、右大臣に進み、不比等の後妻、県犬養三千代は女帝の大嘗祭において杯に浮かぶタチバナとともに「橘宿禰」の姓を賜った。地名や職掌にかかわる名が一般的ななかで植物の名を氏名とするのは稀有なことであり、彼女の生んだ皇子たちは橘を名のって、橘氏の実質上の祖となった。なお、これにより橘諸兄と改名した葛城王と、のちに皇后となる光明子(光明皇后)とは、三千代を母とする異父同母の兄妹にあたる。
この時代の初め、中臣鎌足の息子藤原不比等があらわれて政権をにぎり、律令制度の確立に力を尽くすとともに、皇室に接近して藤原氏発展の基礎をかためた。不比等死後に政権を担当したのは、高市皇子の子で天武天皇の孫にあたる長屋王であった。彼は右大臣に昇って権勢を誇ったが、その前後から負担に苦しむ農民の浮浪や逃亡がふえ、社会不安が表面化したため、政府は財源確保のため723年(養老7年)には、三世一身法を施行して開墾を奨励した。不比等の娘藤原宮子を母とする聖武天皇が724年(神亀元年)ころから、不比等の子武智麻呂、房前、宇合、麻呂の藤原四兄弟が政界に進出した。729年(神亀6年)、左大臣にのぼった長屋王に対し藤原四兄弟は「左道によって国政を傾ける」と讒訴して、自殺に追いこみ(長屋王の変)、政権を手にした。変の直後、藤原氏は不比等の娘光明子を、臣下で最初の皇后(光明皇后)に立てることに成功した。
その藤原四兄弟が737年(天平9年)に天然痘の流行で相次いで死亡すると、皇族出身の橘諸兄が下道真備(のちの吉備真備)や僧玄昉を参画させて政権を担った。これを不満とした宇合の長男藤原広嗣は、740年(天平12年)、真備らを除くことを名目に、九州で挙兵したが、敗死した(藤原広嗣の乱)。この反乱による中央の動揺ははなはだしく、聖武天皇は、山背の恭仁、摂津の難波、近江の紫香楽と転々と都をうつした。相次ぐ遷都による造営工事もあって人心はさらに動揺し、そのうえ疫病や天災もつづいたので社会不安はいっそう高まった。かねてより厚く仏教を信仰していた聖武天皇は鎮護国家の思想により、社会の動揺をしずめようと考え、741年(天平13年)に国分寺建立の詔、743年(天平15年)には盧舎那大仏造立の詔を発した。これにより東大寺大仏がつくられ、752年(天平勝宝4年)に完成、女帝孝謙天皇・聖武太上天皇臨席のもと、盛大な開眼供養がおこなわれた。
この間に光明皇后の信任を得た藤原南家の藤原仲麻呂(武智麻呂の子)が台頭、紫微中台を組織して755年(天平勝宝7年)には橘諸兄から実権を奪い、757年(天平宝字元年)には諸兄の子橘奈良麻呂も排除した(橘奈良麻呂の変)。仲麻呂は独裁的な権力を手中にし、傀儡(かいらい)として淳仁天皇を擁立し、みずからを唐風に恵美押勝と改名し、儒教を基本とする中国風の政治を推進したが、今度は孝謙上皇の寵愛を得た僧道鏡が頭角を現し、押勝はこれを除くために764年(天平宝字8年)に反乱を起こして敗死した(藤原仲麻呂の乱)。これにより、淳仁天皇は廃され、淡路に流された。
道鏡は、やがて765年(天平神護元年)には太政大臣禅師、翌766年(天平神護2年)には法王となり、一族や腹心の僧を高官に登用して権勢をふるい、西大寺の造立や百万塔の造立など、仏教による政権安定をはかろうとした。光仁天皇を擁立した藤原北家の藤原永手や藤原式家の藤原良継・百川らが躍進した。

784年(延暦3年)強まってきた寺社勢力からの脱却のため、桓武天皇が山背国長岡の地に新たな都(長岡京)を造成したが、工事責任者の藤原種継が暗殺され、桓武天皇の弟早良親王が捕まる事態となって、794年(延暦13年)新しい都城を造成し、山背国を山城国と改め、新京を平安京と名づけて遷都した。この遷都をもって、奈良時代と呼称される時代は完全に終焉を遂げ、平安時代がはじまる。

4月 11, 2010   コメントは受け付けていません。

大和路逍遥 

 大和路逍遥

「あをによし寧楽(なら)の京師(みやこ)は咲く花の薫(にほ)ふがごとく今盛りなり」

「ひとはいさ心もしらずふるさとは花ぞ昔の香ににおいけり」

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今から43年も前、青春と500ドルを握り締めて横浜を片道切符でユーラシアに放浪の旅にでた。二年の欧州滞在を経てパリからカルカッタまでの2万キロをボロVWで踏破。「荒野を目ざせ」や「深夜特急」より数年も前の自分の行路をひもといて「わが追憶のシルクロード」を自主出版した。出版は自分で起こした団塊文庫からのものだ。出版会社に任せるなんてなんの意味もないからだ。
 
 幸い白黒だが写真が残っていた。前年92歳で亡くなった母親がパスポートと一緒に箪笥にしまって置いてくれた。母が保管してくれていなければこの紀行はとても書き残すことは出来なかったろう。写真を見ると当時のことが眼前に現れてくる。母の想いは深い。

 シルクロードの一方の先がフランス・リオンそしてもう一方は奈良平城京である。距離約2万キロ。私は1978年当時中国を走ることが物理的に不可能だったので敦煌や西域のシルクロードを経験してはいないが、現在では危険で不可能なアフガニスタン、イラン、パキスタン、トルコ北部を経由してシルクロードの一方の都リヨンからカルカッタまでを陸路旅した。

 1969年帰国して翌年、大手広告代理店に入社。海外駐在も含めるとユーラシアのみならず地球上のほとんどの国を訪れ仕事をし、テレビ番組や映画をつくった。

 そして2010年3月12日齢64歳を迎えている。そして今 私を動かすものがある。その衝動は20年前の突然の衝動に似ている。それは土への衝動であった。富士のふもとの陶芸工房の門を叩いて、大きな壺をただただ、ひもづくりに没頭した。できたものはこの世のものとはいえないようなグロテスクなものだったが工房の主人で加藤陶九郎登り窯の承継者は面白いと言った。それから20年陶芸は自分を表現する大切な手段となって富士のふもとに窯をもうけてせっせと続けている。今年7月には第6回の個展を深大寺で開く。

 今私を急がせているもうひとつのものがある。それは大和路奈良の古寺と仏像との邂逅である。奈良は高校の修学旅行から一回も行くチャンスがなかった。シルクロードの一方のフランス・リオンには数十回と足を運びフルヴィエールの丘のノートルダム大聖堂のマリア像を拝顔しているのにだ。なんという精神的偏在であったことか。

 大和古寺については、和辻哲郎「古寺巡礼」、亀井勝一郎「大和古寺風物誌」白州正子「私の古寺巡礼」が大和路の心の遍歴を著している。

また最近の日経では「かんのんの道」を特集している。やまと平城京遷都から今年が1300年にあたる。

 しかしどうもいずれもしっくりこない。和辻哲郎「古寺巡礼」はあまりに教科書的で優等生すぎるし、亀井勝一郎「大和古寺風物詩」は戦前に大部分を書いたからか精神的にナショナリスティックに流れると思うと戦後の記述では価値観がとぶ箇所に迷ってしまう。白州正子「私の古寺巡礼」は平明でよいが、いいところの出の子女が文化的に耽溺したようなブルジョア好みにしらけてしまう。
そこで自らの眼と感覚を信じることにして、大和へのたびにでた。
旅に従い古寺逍遥の道を辿った。

 プロムナード 
一  平城京と法華寺「十一面観音」逍遥
二  唐招提寺「金堂三尊」逍遥
三  法隆寺 五重塔、「百済観音」 逍遥
四  聖林寺 「十一面観音」逍遥
五  吉野の桜 逍遥
六  長谷寺逍遥
七  興福寺「阿修羅像」
八  東大寺 大仏 法華堂 「不空けんさく観音」日光、月光菩薩 逍遥

次回から順繰りに書いてゆく。

4月 9, 2010   No Comments