大和路逍遥 法華寺・平城京跡から佐保路へ
法華寺から平城京逍遥

今年奈良平城京遷都1300年、奈良新大宮にある平城京の跡にも朱雀門などが映画のセットのようであるが出来上がり、大仏開眼などの番組が製作されて放送されている。沸々とわきおこる仏像に対する憧憬と邂逅への想いを抱いて京都から近鉄特急に乗り奈良に降り立った。4月4日奈良のあらゆるところ桜が満開である。
<あおによしならの都はさくはなのにおうがごとく今盛りなり>そのままの世界が現出している。
ホテルでサイクルを借りて近くの法華寺をめざす。法華寺はあの十一面観音が安置される光明皇后の寺である。
東大寺転害門を背にして真っ直ぐに佐保路と呼ばれる旧一条南大路を西へ平城宮跡を目指すと突き当たりに「光明寺―法華寺」がある。
この寺には仏像の祖国ガンダーラ(現在のパキスタン)と佐保路の寺、そして光明皇后とを結ぶ不思議なえにしと1300年前のミステリーが隠されている。

法華寺には光明皇后にまとわりつく神秘的物語がある。
―昔北天竺乾陀羅国の見生王という王様が、生き身の観音を拝もうと發願して入定三十七日に及んだ。すると「大日本国聖武王の正皇后光明女の形」を拝めというお告げがあった。王は問答師というものを遣わして皇后の姿を彫らせたという。3体を彫らせたが内一体をこの法華寺に残したという。それがこの十一面観音だという。
和辻哲郎は「香の煙で黒くすすけた像の中からまずその光った眼と朱の唇がわれわれに飛びついてくる。胴にもりあがった女らしい乳房、胴体の豊満な肉づけ、そのやわらかさとしなやかさ」と言っている。
古今東西の論評には仏像を後ろからみたものは少ない。法華寺十一面観音の後ろにへばりついた。たおやかな背とくびれた胴体、でん部をすこし傾げ腰をくいとひねっている。和辻のいう「隠微な蟲惑力」という意味に深みがある。
あおによしとは青と丹の色彩をいうという説もある。欄干の青と格子の朱が飾る伽藍寺院。奈良の往時が偲ばれるのである。法華寺十一面観音のちょっとめくれあがった派手なまでの朱のくちびるが語るものは何か。「美貌の皇后」光明皇后の姿が浮かび上がる。
もうひとつ光明皇后の美談がある。東大寺大仏殿も完成し安堵された皇后はある日の夕方虚空から届いた天の声に従い、自ら發願して千人の病人の垢を洗うことを誓う。九百九十九人の垢を流し終えた皇后を待っていたのは最後の一人。全身が瘡蓋に覆われていた。皇后はひるむことなくその膿を吸って吐いた。その病人の五体は一時に光明を放ち馥郁として忽然と姿を消したという。

本国を統しめた天皇と皇后の国民とのつながりはまさにこの話しに尽きている。伝説は脚色だけれどなにか活力を感じる物語に仕上がっている。
法華寺をでて道なりに西にゆくと平城京の跡地にでる。江戸末期、棚田平八郎による平城京の整備がなされて田や畑となりあれはてていた跡地がいまや公園となり、朱雀門などが建設されて8世紀初頭の都のよすがをしのぶことが出来る。跡地に立つとこの地で1300年前に大宮人が、その優雅さを競い合うと同時に欲望と権謀術数を弄して君が藤原氏が行基や玄肪が、朱とあおのにおいたつ極彩色の都を彩ったのかと少し感傷的になるのは自然なことに思われてくる。
秋篠川までくるとその土手が自転車の遊歩道になっていて、西の京、斑鳩の方向まで行くことができる。
50年ぶりの古都奈良は春爛漫、何十年に一度のような絶好の天気の上、4月初旬で開花からもう2週間だというのに、桜が満開、秋篠川の土手を自転車でゆくと突然、唐招提寺にでる。50年前の記憶も薄いが寺の正面に来ると金堂が眼にはいってくる。金堂に近づくともう心が浮き立つ。日本人のDNAが騒ぐのか。南大門をくぐる。網膜に金堂が映る。
奈良を語るにはあおによし奈良の都を彩る数々の歴史上の人物と時代の考証が必須である。
538年(宣化3年)に百済の聖明王が釈迦仏像や経論などを朝廷に贈り仏教が公伝されると、587年(用明2年)天皇の仏教帰依について物部守屋と蘇我馬子が対立。後の聖徳太子は蘇我氏側につき、物部氏を滅ぼした。物部氏を滅ぼして以降約半世紀の間、蘇我氏が大臣として権力を握った。588年(崇峻元年)には蘇我馬子が飛鳥に法興寺(飛鳥寺)の建立を始める。592年、蘇我馬子は東漢駒を遣い崇峻天皇を暗殺すると、女帝推古天皇を立てた。厩戸皇子(聖徳太子)が皇太子に立てられ摂政となった。604年(推古12年)には、冠位十二階を制定し、聖徳太子が憲法十七条をつくり、仏教の興隆に力を注ぐなど、天皇中心の理想の国家建設に邁進する。
607年、小野妹子らを隋に遣隋使として遣わして、隋の皇帝に「日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや。云々。」(「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」)の上表文(国書)を送る。留学生・留学僧を隋に留学させて隋の文化を大いに取り入れて、国家の政治・文化の向上に努めた。620年(推古28年)には、聖徳太子は蘇我馬子と「天皇記・国記、臣連伴造国造百八十部併公民等本記」を記した。
推古29年(621年)に摂政であった厩戸皇子が、同34年(626年)には蘇我馬子が、さらに、推古天皇は36年(628年)に没し、36年間の長期に渡った日本歴史上初めての女帝の時代が終わる。
聖徳太子と推古天皇が没した後は、蘇我蝦夷と子の蘇我入鹿(いるか)の専横ぶりが目立ったと日本書紀には記されている。推古天皇没後、皇位継承候補となったのは舒明天皇(田村皇子)と山背大兄王(聖徳太子の子)であった。645年(皇極4年)の乙巳の変で、中大兄皇子・中臣鎌子(藤原鎌足)らが宮中(飛鳥板蓋宮)で蘇我入鹿を暗殺し、蘇我蝦夷を自殺に追いやり、半世紀も続いた蘇我氏の体制を滅ぼした。
新たに即位した孝徳天皇は次々と改革を進めていった(大化の改新)。日本書紀の記述によると、翌年(646年)正月には改新の詔を宣して、政治体制の改革を始めた。その後も、今までは蘇我氏の大臣1人だけの中央官制を左大臣・右大臣・内大臣の3人に改めた。
孝徳天皇没後は、中大兄皇子が政治の実権を握った。中大兄皇子は何らかの理由により皇位にはつかず、母である皇極上皇を、再度即位(重祚)させた(斉明天皇)。
663年、百済復興に助力するため朝鮮半島へ出兵したが、白村江(はくすきのえ)の戦いで新羅・唐連合軍に大敗した。664年(天智2年)筑紫に大宰府を守る水城を造り、対馬・隠岐・筑紫に防人や烽を置いた。667年(天智6年)都城も防衛しやすい近江大津宮に移された。668年(天智7年)に皇太子中大兄皇子が即位して、天智天皇となる。
天智天皇が没すると、天智の弟である大海人皇子(後の天武天皇)と、息子である大友皇子との間で、争いが起こった。672年(弘文元年)壬申の乱である。この戦いは、地方豪族の力も得て、最終的には大海人が勝利、即位し、天武天皇となった。天武天皇は、中央集権的な国家体制の整備に努めた。
672年の末に宮を飛鳥浄御原宮に移した。官人登用の法、甲子の宣の廃止、貴族・社寺の山・島・浦・林・池などの返還、畿外の豪族と才能のある百姓の任官への道を開き、官人の位階昇進の制度などを新設したりといった諸政を行った。681年。5年後の686年(朱鳥元年)に天武は没する。8年後の689年(持統3年)には諸氏に令1部全22巻で構成される飛鳥浄御原令が制定され、頒布される。律は編纂されず、唐律をそのまま用いたのではないかと考えられている。
694年(持統8年)には日本初の本格的都城となる藤原京に都を遷した。
持統天皇は子の草壁皇子に位を譲るつもりであったが、早世したため、孫である文武天皇を即位させる。中央行政組織は太政官と神祇官による二官八省制がとられ、文武の死後、母の元明天皇が即位。710年(和銅3年)に平城京へ遷都した。
「平城遷都の詔」によれば、新都は「方今、平城之地、四禽叶図…」とあり、「四神相応の地」が選ばれた。藤原京は、南から北にかけて傾斜する地形の上に立地し、藤原宮のある地点が群臣の居住する地より低く、臣下に見下ろされる場所にあったのが忌避されたとみなされることもあり、また現実問題として排水が悪いなどの難点ともなった。しかしそれだけではなく、藤原京は唐との交流が途絶えた時期に造られたため、古い書物(『周礼』)に基づいた設計を行ったと考えられ、当時の中国の都城と比しても類例のないものとなっていた。実際には、30数年ぶりに帰国した遣唐使の粟田真人が朝政にくわわってこれらの問題が明らかになり、また唐の文化や国力、首都長安の偉容や繁栄などを報告したことが、藤原京と長安との差がかけ離れていることを自覚することとなって、遷都を決めた要因となったと考えられる[21]。その根底には、壮麗な都を建設することが、外国使節や蝦夷・隼人などの辺境民、そして地方豪族や民衆に対して天皇の徳を示すことに他ならず、国内的には中央集権的な支配を確立するとともに、東夷の小「中華帝国」を目指したものに他ならなかった[22]。9月、元明天皇はみずから平城の地を視察し、造平城京司の長官ら17名を任命、10月には伊勢神宮に勅使を派遣して新都造営を告げ、11月、平城宮予定地のため移転させられる民家に穀物、布を支給、12月には地鎮祭を行い、造営工事を開始した。
この年(和銅元年)、遷都を主導した藤原不比等は正二位、右大臣に進み、不比等の後妻、県犬養三千代は女帝の大嘗祭において杯に浮かぶタチバナとともに「橘宿禰」の姓を賜った。地名や職掌にかかわる名が一般的ななかで植物の名を氏名とするのは稀有なことであり、彼女の生んだ皇子たちは橘を名のって、橘氏の実質上の祖となった。なお、これにより橘諸兄と改名した葛城王と、のちに皇后となる光明子(光明皇后)とは、三千代を母とする異父同母の兄妹にあたる。
この時代の初め、中臣鎌足の息子藤原不比等があらわれて政権をにぎり、律令制度の確立に力を尽くすとともに、皇室に接近して藤原氏発展の基礎をかためた。不比等死後に政権を担当したのは、高市皇子の子で天武天皇の孫にあたる長屋王であった。彼は右大臣に昇って権勢を誇ったが、その前後から負担に苦しむ農民の浮浪や逃亡がふえ、社会不安が表面化したため、政府は財源確保のため723年(養老7年)には、三世一身法を施行して開墾を奨励した。不比等の娘藤原宮子を母とする聖武天皇が724年(神亀元年)ころから、不比等の子武智麻呂、房前、宇合、麻呂の藤原四兄弟が政界に進出した。729年(神亀6年)、左大臣にのぼった長屋王に対し藤原四兄弟は「左道によって国政を傾ける」と讒訴して、自殺に追いこみ(長屋王の変)、政権を手にした。変の直後、藤原氏は不比等の娘光明子を、臣下で最初の皇后(光明皇后)に立てることに成功した。
その藤原四兄弟が737年(天平9年)に天然痘の流行で相次いで死亡すると、皇族出身の橘諸兄が下道真備(のちの吉備真備)や僧玄昉を参画させて政権を担った。これを不満とした宇合の長男藤原広嗣は、740年(天平12年)、真備らを除くことを名目に、九州で挙兵したが、敗死した(藤原広嗣の乱)。この反乱による中央の動揺ははなはだしく、聖武天皇は、山背の恭仁、摂津の難波、近江の紫香楽と転々と都をうつした。相次ぐ遷都による造営工事もあって人心はさらに動揺し、そのうえ疫病や天災もつづいたので社会不安はいっそう高まった。かねてより厚く仏教を信仰していた聖武天皇は鎮護国家の思想により、社会の動揺をしずめようと考え、741年(天平13年)に国分寺建立の詔、743年(天平15年)には盧舎那大仏造立の詔を発した。これにより東大寺大仏がつくられ、752年(天平勝宝4年)に完成、女帝孝謙天皇・聖武太上天皇臨席のもと、盛大な開眼供養がおこなわれた。
この間に光明皇后の信任を得た藤原南家の藤原仲麻呂(武智麻呂の子)が台頭、紫微中台を組織して755年(天平勝宝7年)には橘諸兄から実権を奪い、757年(天平宝字元年)には諸兄の子橘奈良麻呂も排除した(橘奈良麻呂の変)。仲麻呂は独裁的な権力を手中にし、傀儡(かいらい)として淳仁天皇を擁立し、みずからを唐風に恵美押勝と改名し、儒教を基本とする中国風の政治を推進したが、今度は孝謙上皇の寵愛を得た僧道鏡が頭角を現し、押勝はこれを除くために764年(天平宝字8年)に反乱を起こして敗死した(藤原仲麻呂の乱)。これにより、淳仁天皇は廃され、淡路に流された。
道鏡は、やがて765年(天平神護元年)には太政大臣禅師、翌766年(天平神護2年)には法王となり、一族や腹心の僧を高官に登用して権勢をふるい、西大寺の造立や百万塔の造立など、仏教による政権安定をはかろうとした。光仁天皇を擁立した藤原北家の藤原永手や藤原式家の藤原良継・百川らが躍進した。
784年(延暦3年)強まってきた寺社勢力からの脱却のため、桓武天皇が山背国長岡の地に新たな都(長岡京)を造成したが、工事責任者の藤原種継が暗殺され、桓武天皇の弟早良親王が捕まる事態となって、794年(延暦13年)新しい都城を造成し、山背国を山城国と改め、新京を平安京と名づけて遷都した。この遷都をもって、奈良時代と呼称される時代は完全に終焉を遂げ、平安時代がはじまる。
フランスとフランス語の話し
