大和路逍遥 西の京と唐招提寺金堂
西の京―唐招提寺金堂ー千手観音ー講堂 逍遥
五十年ぶりの古都奈良は春爛漫、今年の不順な天気の間をぬって、天気絶好調。桜は満開。秋篠川の土手を自転車でぼちぼちとゆっくり走ってゆく。秋篠の川のながれはゆっくりでこちらの自転車のはしりに合わせてくれているようだ。ゆっくり20分も走ると肩越しに唐招提寺らしい森が見えてくる。秋篠川にかかる橋をわたると唐招提寺の南大門が見えてくる。半世紀も前に修学旅行で見たもので記憶も薄いが、門の正面まで辿り着くとあの金堂が網膜一杯に映ってくる。もう心は浮き立って日本人のDNAが騒ぐ。なんという美しさであろう。

唐招提寺といえば盧舎那仏、千手観音、薬師如来の三尊が金堂にあって、南大門から近づくと阿弥陀越しに三尊が浮き上がって見えるのが美しいとされる。天平末期の作とされる盧舎那仏(世界を体系化した華厳世界の教主)に和辻はいかにも印象の鈍い平凡な作だと書いたが、その後金堂の美しさに圧倒されて目立たなくなっているが、この殿堂を際立たせている一つの要素となっているだけでも素晴らしいと認めている。右の脇士が千手観音である。千手とは千の手にそれぞれの眼がありさまざまな持物をもっているという意味である。通常は一本が25手をもつとして40本。しかし唐招提寺の千手観音は事実千本ある。
観音とはあらゆる願いをかなえる慈悲の仏である。仏陀如来の脇侍であるが独尊として信仰されている。唐招提寺に感動するのは金堂三尊に薬師如来が控えることである。薬師とは要するに病気を治す仏である。教主たる盧舎那仏が堂々と中央を占め、右手に千本の手をもちいかなる願いにも叶え、その上どんな病気も治す。世界のいかなる衆生をも救うのである。これだけ完璧にいけとし生きるものに対応する宗教は世界に存在していないかのようである。
唐招提寺金堂について、和辻は絶賛する。
「大海を思わせるような大きい軒端の線のうねりかた、特にそれを斜め横から見上げた時の力強い感じ、そこにはこの堂をはじめて見るのでない私にとっても全然新しい差が感じられるのである。」
「軒端の線が両端に至ってかすかに上へ湾曲しているあの曲がり具合ひとつにも屋根の重さと柱の力との間の安定した釣り合いを表現する有力な契機がひそんでいる。」
「天平のどの時代にもこれだけ微妙な曲線はつくれなかった。そこに働いているのはすぐれて芸術家の直感であって手軽に模倣をゆるすような型にはまった工匠の技術ではない。」
なんといっても印象的なのは屋根の両端にある鴟尾の現代性である。太陽に輝く胸元と金属で輝き引き締まった腿はとても1300年の時代の経過を感じさせずに燦然と輝いている。言い表しがたいほどのデザインの現代性に息をのむ。屋根はゆるやかに傾斜し屋根瓦は先端までの鬼瓦につながって末端まで伸び、巻きかえってとがりながら完成されている。至る所まで完全で無駄がない。
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和辻は「さらにこの屋根とそれを下からうける柱や軒周りの組み物との関係には数え切れないほどの多くの繊細な注意がされている。柱の太さともこしの大きさとの釣り合い、軒の長さと柱の力との調和それらは、もうこれ以上寸分を動かせない」と和辻はいう。
柱は8本でエンタシスというにはそれほど顕著ではないが、明らかに真ん中が太くなって上から流れるように重さを増す屋根を支えている。まるでアテネのパルテノン神殿に残る大理石の柱のように構造物の中心と存在を主張しているが決して中柱でなく支えているのは神格されている抽象物であるかのようである。下から軒端を見上げると、斗供と伽藍が組み合わさって1300年の時間を支えてきた木造建築とこれを作り上げた渡来僧と職人達の息吹きが噴出している。
唐招提寺を建立したのは唐の名僧鑑真である。鑑真は既に中国唐の時代名僧とうたわれていたが、この名僧が一体なぜ命を賭してまで東国日本にまで渡ろうとしたのか。唐からみれば未開で野蛮で文化果つる国になぜという謎が浮かぶ。事実鑑真は日本に渡るために何回も海難に遭遇し命まで落としかねた。鑑真が持したものは多くの経典ばかりではない。その真髄は一緒に渡来した弟子達である。
随行の弟子には揚州白塔寺僧法力、泉州超功寺僧曇静などなどほかの8人の僧と職人合わせて24人にのぼる。そのうち胡国人如宝は唐招提寺金堂の建築家と伝えられている。僧如宝の直感が金堂の屋根の傾斜を決めたのだ。
渡来の頃二十歳に満たない青年如宝がいかにして金堂の建築を可能にしたのだろうか。その謎に後世の学者は東大寺の大仏開眼をあげている。鑑真が九州に辿り着いたのが大仏開眼の年だったという。年老いて生前に大仏開眼を見ようとした聖武天皇は大仏開眼を急いだ。ためにこの年には東大寺伽藍はいまだ完成せず建設途上であった。当然青年如宝がその建設に携わったことは自然であったろう。青年はこの東大寺伽藍建築のなかでその才を育まれ唐招提寺金堂の建築にかかっていったことが想定できるのだ。でなければこれほどの金堂ができる筈もない。
唐招提寺回廊の横に正倉院に似た倉庫が二つ卒然とある。鑑真がもたらした文物の数は多い。
四書五経、インドからの華厳経などなどである。いわゆる経典といわれるものであるが、一体経典とはなにか。
誰かが経典とは仏様のことについてかいてあるものだといった。あるものは仏陀の伝記だといい、あるものは浄土に入るための修行の書だといった。しかるに古寺を逍遥し数々の仏像に対面すると経とは仏像について書いたものではないかという気がしてくる。
観音は一切の苦難、病から人を救うという。三十三の面を有し、千本の手を有し、八面、十一面の顔を持って人のあらゆる苦難と病苦を救うのである。南無阿弥陀仏と唱えると成仏する。仏像に頭をたれてひたすら唱え祈る。経はそのときに唱えるもので仏様にすがる念仏の言葉である。人は仏像の前で平等に祈るのである。
大和路は祈りの道である。
4 月 17, 2010 No Comments
フランスとフランス語の話し
