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大和路逍遥  法隆寺金堂ー五重塔ー百済観音

  大和路逍遥  法隆寺―百済観音―夢殿

 奈良市内から法隆寺には国道24号で途中までゆき郡山城跡を抜けて斑鳩に向かう。郡山城址跡は桜で満開だった。幅の狭い道をだらだらとゆき三叉路を右に折れると法隆寺五重塔が見えてくる。
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南大門に向かうと道の左右にみやげ物屋や簡便な食堂などがある。みやげ物屋の駐車場前にきりもるするおかみさんが車を誘導してくれる。駐車料金はなにか土産を買えばよい。そうさせていただいた。
 
 少し日常的なことから書いたが旅にはこのような瑣末だが大切なことが多くある。特に古都奈良や仏像について書き出すとなにか人生の懊悩や深みなどの形而上的なことになって旅につきものの昼食の弁当や、用を足す場所や朝飯の時間や食べるものの量など普段と違うことに気をつかうことのほうが実際多い。
 
 仏像に対面するとどう対応してよいか迷う。なにしろ仏像はみな寡黙で荘厳でとてもこちらから話しかけるような感じではない。亀井勝一郎は法隆寺百済観音について「おおらかな微笑を湛えて地上を闊歩しそうな姿態である。神韻渺茫たる一つの精神が人間像に近接しながらしかも離れて何処へとふらふらとあるいてゆくような姿だ」と言っている。浄土の荘厳を現出する像を前になにを語れるのか迷うのである。

  自らのうつせみでもイタリアルネッサンスのダビデの像やモナリザの微笑みとは対峙することも出来た。
パリノートルダムの寺院、古くはローマのコロッセオや地中海のロードスやミコノスで発見されたニケア勝利の女神像やミロのヴィーナスでさえじっと像を見据えることができるのに、百済観音、十一面観音と向かうとただただ頭がたれてしまうのは何故なのだろう。
 
 空を半眼でみつめているのかそれとももっと遠くをみるような眼と半円の眉、ふくれてたれている耳たぶ、水平な目線、ふくよかな顔面、存在感のある鼻立ち、厚ぼったいがしっかり結ばれた唇、首筋は三本ほどの首筋線ができていて、第三の眼がこちらを照らしている。坐像と立像や半跏の像があるが、坐像となるともう動きようもない。いや動けないのは向かい合う人間のほうである。
 
 私は15歳でキリスト教徒となった。南部バプテスト教会で洗礼を受けている。当時聖書をむさぼり読んだ。新約聖書、旧約聖書を暗記するほど読んだ。
 キリスト教のお祈りする言葉はマタイ伝6「天にましますわれらの父よ、願わくは、み名をあがめさせたまえ、み国をきたらせたまえ、み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ、われらの日用のかてをきょうも与えたまえ、われらに罪をおかす者を、われらがゆるすごとく、われらの罪をもゆるしたまえ、われらを試みにあわせず、悪より救いい出したまえ、国と力と栄えとは限りなくなんじのものなればなり」
と磔のキリスト像に祈る。
 ファウストのなかのグレートヘンは「マリヤ様、わたしはどんなにひとの罪を責めることの厳しかったことでしょう」などとマリアの石像のまえにひざまずいて悔い祈る。キリスト教の神は絶対な愛であり、人間の悪を救うためにその身をささげる。人はために懺悔する。教会に入るものは神の前に懺悔しひざまずいて祈る。
 
 私にとって仏像よりキリストの像のほうが身近であった。しかし今奈良の仏像の前に佇んでいる。歳は64歳となった。半眼の仏像が自分を呼ぶ声がする。いうにいわれぬ不思議な感覚だった。
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 法隆寺南大門を入ると、存在感のある中門が見える。中門の向こうに五重塔と金堂が見える。修学旅行のときだからもう半世紀ぶりの法隆寺である。半世紀経ったがしっかりとした五重塔の記憶がある。固い粘土質の土に立って五重塔を見上げていた記憶である。今伽藍は石畳と小さい砂利で覆われている。歩くとジャリという音がする。どうしても記憶が違うので夢殿の老僧にお聞きした。半世紀前の法隆寺の伽藍の庭は粘土質の土だったような記憶があるのだがと聴くと、「その通りです。よく記憶なされてますね」「もうそんな修学旅行の学生はいませんよ。ざわざわガムをかんで帰っていきます。」とのこと。すこしわが意を強めた。

 法隆寺金堂に近づく。堂内は薄暗くよく見えないが釈迦如来、薬師如来が座している。正三角形で坐像である。釈迦如来の作者は鞍作鳥なることは光背銘文によってあきらかである。その右方に薬師如来があるが鞍の作といわれる飛鳥の像である。仏像は天平が素晴らしいとよくいう。確かに天平の洗練された像と比べてみるとこの釈迦如来も薬師如来も美しいと惚れ惚れする像ではないのは一見すればわかる。組んだ脚と台座の睡蓮の彫刻も基本に従って刻んだという感じがする。しかし時間が経つにつれてなんというか安心感がふわーと醸し出される。飛鳥という時代が仏像に求めたものそれは時代の安心であった。金堂の釈迦如来は1300年のときを超えて時代の安心性を伝えてくる。

 人間はすこぶる弱い。不安だらけの物体にすぎない。だからなんにでもすがりたい。超常なるものは勿論、鰯の頭さえ信心の対象となる。ためしに神社仏閣の絵馬に書かれた民衆の願いを見れば一見理解できる。家内安全、健康から商売繁盛、金満まで煩悩の渦である。信心とは煩悩そのものであることが判る。宗教とは人間の欲望から出る。現世現報、ご利益から出発する。だからお賽銭がよく貯まる。寺でつぶれたなんてのはもう聴いたことがない。世界はどこでも財政危機の現代、宗教法人には多額の税金をかけるべきである。だがどの政治政党もこのことを考えもしない。なぜなら宗教は弾圧を嫌って政権政党ににじり寄って存在しているからだ。

 閑話休題
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法隆寺五重塔については、和辻の感性にまかせよう。「しかるにわたしが、一歩動き始めるとこの権衡や塔勢を形づくっている無数の形象が一斉に位置を換え、わたしの眼との距離を更新しはじめるのである。しかもその更新の度が一つとして同一でない。眼との距離の近いものは動きが多く、距離の遠い上層のものはきわめてかすかにしか動かない。だから私が連続して歩く時は非常に早く動く軒と緩慢に動く軒とがある。中略、塔の運動の趣も変幻自在である。絶えず変転し流動する諧調は、崩れてゆく危険の微塵もない。」いやむしろ和辻は変転し流動する現世を法隆寺五重塔に羯谛视していたのかもしれない。半世紀前15歳の私に決して忘れることのない強烈な印象を残したのは実はこの変転と流動の拘欄と斗供にあったのだ。
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 法隆寺を世界の寺にしたのはもういまや宝蔵館に収められている百済観音であることは論をまたない。このうす白く燃え立つ光背をもつ朝鮮半島の古代国家の名前を冠する仏像は深入浅出、静悄悄としてみるものを圧倒してくる。
あくまで薄く胴体を削りだし、これまたあでやかだが流れるような衣の模様に神住する。神情は馥郁として悠々、泰然自若、周りの風が嗖嗖と聞こえてくる。薄手の唇からは古代サンスクリット羯谛羯谛波羅羯谛jiedijiediporajiedijiedi(生けとし生けるものよ)と念じる言葉が聞こえてくるようだ。CIMG2506

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