プレミアムエイジ ジョインブログ
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Posts from — 12月 2011

海援隊 橋本に政権を

 情けない。とはこのことか。ギリシャと同じく日本も官吏と公務員が跋扈する。ギリシャでは四人に一人が公務員。
議員一人が当選すると後援者に四人の公務員が生まれて、公民館の掃除婦に一人公務員が増える。
もう民主党はだめ。行政改革の象徴 7.8%の給与削減法案も先送り。小生の民主党ビイキにも限界がきた。
 一方自民党など言語道断でなんの未来もない。
 現在橋本大阪市長には常時7名から8名のボディガードがつく。
アメリカのオバマ以上だ。
 行政改革をやったのは橋本だけだ。
 坂本竜馬は海援隊をつくった。あたらしい日本の礎に突き進んだ。
 もう橋本に求めることだけが日本を救う。
衆院解散を早めよ。民主党ではもう日本は救えない。

 橋本新党は海援隊と名づけよ。

12月 15, 2011   No Comments

Healing book 心の時代 (yoshikawa eiji)

時代の心を描いて希代の国民作家といわれる吉川英治があたらしい。
 朝5時の読書術。どうしても目が覚める朝5時。枕元にうずたかく積まれた吉川英治の時代小説。
一冊ずつ読み始めて納得。
吉川英治はすばらしい。
 まず読み始めたのが新書太閤記 全十一巻
次に新平家物語 全十六巻
 たまに黒田如水
 そして大岡越前
 胸をうつ親鸞 全三巻
 それから 鳴門秘帖 全三巻
現在宮本武蔵 全八巻を読書中
吉川英治氏についてはネットからの抜粋だが、ご容赦あれ

吉川 英治(よしかわ えいじ、1892年(明治25年)8月11日 – 1962年(昭和37年)9月7日)は、日本の小説家。本名、英次(ひでつぐ)。神奈川県生まれ。

様々な職についたのち作家活動に入り、『鳴門秘帖』などで人気作家となる。1935年(昭和10年)より連載が始まった『宮本武蔵』は広範囲な読者を獲得し、大衆小説の代表的な作品となった。戦後は『新・平家物語』、『私本太平記』などの大作を執筆。幅広い読者層を獲得し、「国民文学作家」といわれる。

経歴 [編集] 生い立ち [編集]1892年(明治25年)8月11日(戸籍面は13日)、神奈川県久良岐郡中村根岸(現在の横浜市)に、旧小田原藩士・吉川直広、イクの次男として生れた。自筆年譜によると出生地は中村根岸となっているが、地名としては中村根岸はなく旧地名で中村町で現在の横浜市中区山元町に当たる。父・直広は県庁勤務の後小田原に戻り箱根山麓で牧畜業を営みさらに横浜へ移って牧場を拓く。イクとは再婚で、先妻との間に兄正広がいた。英治が生まれた当時、直広は牧場経営に失敗し、寺子屋のような塾を開いていた。その後貿易の仲買人のようなことを始め、高瀬理三郎に見出されて横浜桟橋合資会社を設立。一時期安定するが、直広が高瀬と対立し、裁判を起こし敗訴すると、刑務所に入れられ出所後は生活が荒れ、家運が急激に衰えていく。

山内尋常高等小学校に入学。当時騎手の馬屋に近く、将来は騎手になることを考えていた。また10歳のころから雑誌に投稿をするようになり、時事新報社の少年誌に作文が入選した。家運が衰えたのはこのころで、異母兄と父との確執もあり、小学校を中退。いくつもの職業を転々としつつ、独学した。18歳のとき、年齢を偽って横浜ドックの船具工になったが、ドックで作業中船底に墜落、重傷を負う。

人気作家への道 [編集]1910年(明治43年)に上京、象眼職人の下で働く。浅草に住み、このときの町並みが江戸の町を書くにあたって非常に印象に残ったという。またこのころから川柳をつくり始め、井上剣花坊の紹介で「大正川柳」に参加する。1914年(大正3年)、「江の島物語」が『講談倶楽部』誌に3等当選(吉川雉子郎の筆名)するが、生活は向上しなかった。のちに結婚する赤沢やすを頼って大連へ行き、貧困からの脱出を目指したが変わらず、この間に書いた小説3編が講談社の懸賞小説に入選。1921年(大正10年)に母が没すると、翌年より東京毎夕新聞社に入り、次第に文才を認められ『親鸞記』などを執筆する。

関東大震災により東京毎夕新聞社が解散すると、作品を講談社に送り様々な筆名で発表し、「剣魔侠菩薩』を『面白倶楽部』誌に連載、作家として一本立ちする。1925年(大正14年)より創刊された『キング』誌に連載し、初めて吉川英治の筆名を使った「剣難女難」で人気を得た。このとき本名の「吉川英次」で書くように求められたが、作品が掲載される際に出版社が名を「英治」と誤植してしまったのを本人が気に入り、以後これをペンネームとするようになった。キング誌は講談社が社運をかけた雑誌だが、新鋭作家吉川英治はまさに期待の星であり、「坂東侠客陣」「神洲天馬侠」の2長編を発表し、多大な読者を獲得した。執筆の依頼は増え、毎日新聞からも要請を受け、阿波の蜂須賀重喜の蟄居を背景とした傑作「鳴門秘帖」を完成させた。これを収録した『現代大衆文学全集』もよく売れ、また作品も多く映画化された。

『宮本武蔵』の誕生 [編集]こうして巨額な印税が入ったが、貧しいときから寄り添っていた妻やすは、この急激な変化についていけず、次第にヒステリーになっていく。これを危惧し、印税を新居に投じ、さらに養女をもらい家庭の安定を図った。こののち、『万花地獄』『花ぐるま』といった伝奇性あふれる小説や、『檜山兄弟』『松のや露八』などの維新ものを書く。しかし妻のヒステリーに耐えかね、1930年(昭和5年)の春に半年ほど家出し、この間『かんかん虫は唄ふ』などが生まれた。このころから服部之総と交友を結ぶ。1933年(昭和8年)、全集の好評を受け、大衆文学の研究誌・衆文を創刊、1年続き純文学に対抗する。松本学の唱える文芸懇談会の設立にも関わり、また青年運動を開始し、白鳥省吾・倉田百三らと東北の農村を回り講演を開いた。1935年(昭和10年)『親鸞』を発表。同年の8月23日から「宮本武蔵」の連載を始め、これが新聞小説史上かつてない人気を得、4年後の1939年(昭和14年)7月21日まで続いた。剣禅一如を目指す求道者宮本武蔵を描いたこの作品は、太平洋戦争下の人心に呼応し、大衆小説の代表作となる。

1937年(昭和12年)、やすと離婚、池戸文子と再婚する。1939年2月より「新書太閤記」を連載。7月の「宮本武蔵」完結後、8月より「三国志」を連載。個人を追究したものから、2作品は人間全体を動かす力を描こうとしているのがうかがえる。『宮本武蔵』終了後も、朝日新聞からは連載の依頼が続き、「源頼朝」「梅里先生行状記」など歴史に名を残す人物を描いた作品を発表した。

1942年 (昭和17年)、海軍軍令部の勅任待遇の嘱託となり、海軍の戦史編纂に携わっていた。山口多聞、加来止男の戦死を受けて、「提督とその部下」を朝日新聞に執筆し、安田義達の戦死後は「安田陸戦隊司令」を毎日新聞夕刊に連載している。[1]

終戦後の活動 [編集]終戦後は、その衝撃から筆を執ることができなくなってしまった。親友の菊池寛の求めでようやく書き始め、『高山右近』『大岡越前』で本格的に復活する。ただしこのころ、『宮本武蔵』の版権をめぐって講談社と六興出版(英治の弟晋が勤めていた)との間で騒動が起きた。1950年(昭和25年)より、敗れた平家と日本を重ねた「新・平家物語」の連載を開始する。連載7年におよぶ大作で、この作品で第1回菊池寛賞を受賞。また『文藝春秋』からの強い要望で、1955年(昭和30年)より自叙伝「忘れ残りの記」を連載。なおこのころ身を隠していた辻政信に会い、逃亡資金を渡している。『新・平家物語』終了後は、「私本太平記」「新・水滸伝」を連載する。『私本太平記』は、従来逆賊といわれてきた足利尊氏の見方を改めて描く。1960年(昭和35年)、文化勲章受章。

「私本太平記」の連載終了間際に肺がんにかかり、翌年夏にがんが転移し悪化。1962年(昭和37年)9月7日、肺がんのため築地国立がんセンターで死去。70歳。法名は、崇文院殿釈仁英大居士。従三位勲一等に叙せられ、瑞宝章を贈られた。疎開先だった東京都青梅市に、吉川英治記念館がある。なお東京都港区赤坂にあった旧吉川邸は講談社の所有となり、(同社での企画出版のための)泊まり込みでの執筆や、座談・打ち合わせに使用された。

 2012年初頭からはNHK大河ドラマが平家物語。松山ケンイチが平清盛を演ずる。一方源氏物語が映画化され瑠視、小生の友人が「Emperor」を世に問う。
 時代は時代のこころに惹かれるところとなった。

12月 15, 2011   No Comments

臨済宗建長寺

kamakura_074a 紅葉長谷寺から八幡宮を超えると鎌倉5山の筆頭建長寺に至る。栄西臨済宗本山。北条時頼建立。1253年。
三門の楼上には五百羅漢があるとされるが公開してない。こんなところが建長寺の駄目なところか。伝教たるものの
本質が分かってない。情けない。五百羅漢が意味する本質は正法護持、在住仏身にあるので大衆を向かなくてどうする。
 建長寺国宝「法語規則」には『鞭影を見て後にゆくはすなわち良馬にあらず、訓示を待って志を発するは実に高僧にあらず」とあるではないか。秘仏になんの意味があるか。
 しかし三門は立派で法堂には千手観音とガンダーラの修行する仏が座している。1255年鋳造の梵鐘。仏殿前庭に7本の柏槙。樹齢760年。
 唐門、庭園とあるが三門と法堂ほどじゃない。
紅葉は山の陰で見事とはいえない。

12月 10, 2011   No Comments

晩秋の長谷寺

長谷寺

長谷寺

008015 ブログで現状の日本を語っても詮がない。なんの進歩にもならないし、見てるほうもやになるに違いないことにどうして気づかなかったのだろう。
 大体がまだ時代の異なることに歯向かった抗議の筵旗を掲げるなんて誰も興味もないし、エネルギーも餓えていない。
 もう無益なことを言うのはやめよう。
 北面の武士斉藤義清が厭世して西行になったのも出家して親鸞の弟子となった海野道広覚明も比べちゃいけないがこんな心情だったに違いない。
 前書きはともかく先日晩秋これが今年最後の紅葉を拝みに鎌倉にとハンドルをとってみた。起きたら珍しく天気がいい。それじゃ行ってみるかと長谷寺にナビをあわせて第三京浜にのった。
 朝比奈インターを降りるとみんな長野だの山梨だの習志野ナンバーで紅葉渋滞。
 久木地域を経由して長谷寺に向かう。駐車場を探すのに手間取ったが無事に一時間600円で駐車キープ。
長谷寺の山門に向かう。紅葉は今日で最後という風情で出迎えてくれた。
 大和の長谷寺ほどの規模ではないが紅葉の程度も地味だが東国鎌倉だからよく作ったものだ。
 本堂の横にダンボールで作った仏像がある。現代の鬼才本堀雄二が作。これは見事。
 そばを食ってから久しぶりに大仏さまにお目にかかった。
与謝野晶子の歌「 鎌倉や御仏なれど釈迦無二は美男におはす夏木立かな」 があったが、晶子の源氏物語の訳はよくない。瀬戸内寂聴が数段まし。
 

12月 9, 2011   No Comments