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Posts from — 2月 2012

小説 二条、三条加茂河原  <王城の秋>

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七月十二日子の刻、為朝には加茂の河原に鳴く虫の音色が止んだのが何故であるか知っていた。鶏鳴四更河原にはまだあけぬ夜の闇にまぎれてはいるが、ひしひしと寄せてくる具足と兵馬のいななきが二条、三条の加茂川を濁水に変えていた。
 「敵の夜襲ぞ」
 「新帝の軍勢が卑怯にも夜討ちをかけてきよったぞ」
篝火を炊いてむらがりあっていた新院側軍勢には、明日の合戦に備えて寝入ったばかりのものあり、寝酒をまだと宴をはるものあり、白河の南殿の寝殿に寄り添う頼長と公卿たちには家鳴りのなかの喧騒館となりはてた。
 「信西め諮ったな、夜討ちとはこの頼長がそんなにこわいか。新帝後白河も背に腹はかえられぬというわけか」
 「為義をよべ、忠正はどこにおる」
 火矢がうなりをあげてごうごうと天から降ってくる、わわわと腹からの叫びをあつめて黄泉の国からの誘い歌のように聞こえてくる。火矢は白河の館に突き刺さってくる。寝殿の勾欄に出た頼長が早口に諸将の名を呼んでいる。
 「敵の構えは、如何、 うろたえるな」
 そのときには三条から下野守義朝が兵千騎を従えて加茂川を今まさに渉ろうとしていた。
東山連山の向こうから夏のぎらぎらする日が昇ろうとしている。日をあびて義朝の白銀の兜が光っている。
 親の為義、六人の兄弟が敵陣にいる。闘い勝つことは父、兄弟の屍をのりこえることであった。
 二条には安芸守清盛の軍勢八百余騎が二条河原をやや上流まで進み、白河北殿を下流に見て、序々に距離を縮めつつあった。
 「義朝なぞに負けてなるものか。先駆けはこの清盛なるぞ」
清盛は水干袴に紫革の冑、義朝は赤地錦の水干袴のいでたち。
 
 

 

2月 29, 2012   No Comments

東山三十六峰   <王城の秋>

東山三十六峰 草木も眠る丑三つ時 突如おこる剣戟の音とは江戸時代の講談にある

「東山三十六峰 草木も眠る丑三つ時 突如おこる剣戟の音」とは江戸時代の講談にある


崇徳新院が陣とする白河南殿北殿を囲む三門、東門は栗田山から岡崎に通ずる、ここを右馬助忠正三百騎、加茂川原に面する西の門を為義父子が三百騎、北春日門は左衛門大夫家弘が武者数二百騎、そして予 為朝は吾が郎党百騎で西河原門を扼していた。
 十二日鶏鳴のとき、ときならぬざわめきを予は聞こえていた。東を仰ぐと黒々と東山三十六峰が布団をきて寝たような姿で雲間と接するように連なってみえる。
 比叡山 瓜生山 吉田山  大文字山  如意ヶ岳  粟田山  華頂山(知恩院山)  円山 霊山 鳥辺山  清水山  阿弥陀ヶ峰  今熊野山  恵日山  稲荷山を総称して東山三十六峰という。鍋の底のような地にある京からは東に向かうには、この東山のふもとから峠を越えてゆかなければならない。洛東からは粟田口から山科にぬけるみち、永観堂から山道を切り開きながら大文字山を行く道、鹿ケ谷からけわしい尾根道をこえたり、法然院、浄土寺の道、白河六願寺を袖にして一条下がり松から雲母坂を越えて行く中山越えと越えてはじめて東国の世界があった。
 この白河の地は崇徳新院の曽祖父にあたる白河法皇の旧離宮である。ひさしく住むものもなく法勝寺,尊勝寺などの六勝寺がもつ幽邃な寺領にも接して、その広大な領地には池がめぐらされてはいるが手入れするものもなく、自然の力にまかされて荒涼として夜となれば鵺などの怪鳥が奇怪な声を上げて真っ黒な闇をさらに深くする有様であった。
 が今は剣呑な東山の尾根道をようやく越えて集まった東国の武士と戦乱こそ出世と欲を遂げんと声をあげた地方の豪族や郎党、が我武者羅に馬上に長刀、弓をひっさげて烏合の衆となって白河の殿を埋めていた。

少し疲れた.休憩 創作はしんどい

2月 23, 2012   1 Comment

我 舜天 保元の雄なり  <王城の秋>

弓張月

弓張月

 「予為朝は流地伊豆大島から九州菊地党から助援に参った宋船で琉球に渡った。皆は予が既に頼朝の命を受けて斬首されたと信じておるかもしれん
がな」
 「鎮西為朝は無駄死にはせぬ。」
琉球史には確かに70年あまり続いた舜天と名乗る琉球王朝の祖の名が残り3代続いたとある。
舜天は琉球南部の領主、大里按司の妹を妻として2人の子供をもうけた。その子が為敦(ためのり)である。
 為敦は号を尊敦と改め22歳のとき、一旦天孫氏の利勇が首里城を占拠したのを、尊敦は兵を起こして首里城を攻め、利勇を滅ぼします。その後、各地の按司たちは為敦を王に推戴しました。尊敦はこれを辞退しますが3度推されてついに王位についた。
史実によれば、
 舜天の王統は、その実在を実証しうる最初の王統で、3代73年続いて絶えたとある。その後、英祖・察度の各王統が交代してあらわれ、察度王統を滅ぼした尚巴志が、尚氏王朝を開く。また、尚氏も、もとは源為朝の血をひいており、名前の頭に「朝」という字をつけるのは、為朝から一字をもらったからだという。
「まあ 琉球のことはあとでゆっくりはなすこともあろう」
そうでしたな。保元の乱を語らねば。

「予が白河南殿に軍兵を預けたのが保元元年7月の十一日。藤原頼長様からのご下問あり、殿上に伺い奉ると、言下に、
「為朝、合戦の策について腹蔵をのべよ」とのこと。
「為朝遺憾ながらこの戦いお味方に兵数足らず、ここは火攻めをもって内裏に夜討ちをかけるが最上の策。寡兵の弱みを補強するのが唯一の策と存知まする。」と奏上もうしあげた。
「もしそちの兄義朝が打ってでたらどうするか」
「兄の兜の真ん中を一矢射たら、兄も逃げ出すにちがいありませぬ。」
「安芸守清盛も一手をかためておるぞ」
「あはは アハハ清盛などがヘロヘロ矢は踏み払ってとおるだけのこと。炎の下をかいくぐり主上に近づき参らせて後白河のご新帝をこちらへお迎えももうしあげれば、義朝、清盛は逆賊。」
「機は今、今をもって勝機はござらぬ。この機を逃すは千軍万軍の兵ありともかなわぬこと」
うりざね顔をさらに延ばすようなまなざしで聞いていた頼長はやはり胆力より策謀に長けていたのだろう。勝利より勝利した後の風聞のほうが先にあったのか、胸中に父忠実が南都興福寺からの僧兵二千を待ってとあてにならないものがあったのかもしれない。
「勇ましいことだ。」と苦笑した。
予は知っている。戦いというものをだ。これまで13歳で九州に放逐され無残な生き方を強いられてきた。菊地の郎党を懐柔し、残忍にも多くの豪族を滅ぼして九州を平定下。何千何万の人間の血を流し、血が血にのって濃くなるほどべっとりと塗布されたような大太刀をふってきたのだ。武士は陣前にあればもう死は眼前。ただただ廉恥を重んじて戦うのみ。
 されどこの戦いは敵味方にあまりにも父と子が兄弟が入り乱れての戦いであることだ。言ってみればこの戦いほど自分と自分の血みどろの戦いを予は知らぬ。
内裏方 (後白河)                             新院方(崇徳)
後白河               ご兄弟                 崇徳
関白忠通              兄弟                  左大臣頼長
同                   父子                  宇治入道忠実
源義朝                父子                  源為義
源義朝                兄弟                  頼賢 為朝など6人
平清盛                叔甥                  平忠正
正に骨肉の争いであったものよ。
合戦の模様を話す前にどうしても保元の乱を導いた真の対立はなんだったかを話しておこう。
 実のところ、保元の乱1156年7月十日に勃発したこの乱は荘園体制自体の対立と、このころその政治力と軍事力を増強してきた大社(伊勢、岩清水,賀茂、春日、住吉、祇園、などの神社と興福寺、延暦寺、園城寺、熊野山、金峰山などの一大勢力との戦いであった。頼長に代表される荘園旧領の担い手と藤原通憲(信西入道)が代表する荘園体制改革派(受領派)との必然の対立であった。
 その対立は 平氏源氏では源為義 平忠正が旧荘園派に義朝、清盛等の嫡男改革派が新帝についたのは当然の帰結といえるものだ。
「予にとって大切なのはそのような政治体制のことではなかった」
「荘園経済力を維持するための軍事力でしかなかった武士の世をどうつくれるのか?であった。わしは荒くれた乱暴為朝とよう言われたものだが、本当のところは、公家も坊主もだめだ。この世を救うのは武士だと思っていたのだ」
 保元の乱にはこのような背景があったのだ。
7月11日鶏鳴とともに内裏の門がひらく。清盛、義朝、義康ら軍平六百余騎が動き出す。

2月 22, 2012   No Comments

えいじさんへ

新保険の投稿に何度もコメントしたのですが反映されませんので、投稿にします。
2008年11月横浜の事務所で新しい小額保険についてお話しもうしあげましたね。
いまから4年前です。当時すでにペット保険が騒がれ始めました。
そして4年後もういまや小額短期の葬儀保険やお葬式ハウツー保険まで勢ぞろいです。
ですからいまからその後塵を拝してももう遅いと申し上げます。
いまやるのであれば次のアイデアの実現です。

      ベルセー保険(散骨保険)の導入 
 2035年には2700万人の人たちが70歳を超える。実に全人口の25%が高齢者と言う社会となる。
一方都会の墓地の不足と墓地の高騰、供養費や墓地の維持費用は多額なコストとなってきている。
このような時代背景にありながら、死者に対する配慮や亡くなったものの意志が反映されずに葬祭ビジネスと旧態寺社会のなかでセレモニービジネスが完結されてきたのが実態であろう。

 しかし、最近になって新しい墓埋法の解釈により管轄の厚生省は「墓埋法は遺灰を海や山に撒く葬法は想定しておらず法の対象外」という旨の見解を発表し法務省も刑法190条について「葬送のための祭巳として節度をもって行われるかぎり遺骨遺棄罪に該当しない」いう旨を示しました。
 これをもって「節度をもった散骨」が行われるにはどのようにしたらよいのかが判断のわかれるところとなっています。方法、場所、形式、配慮、宗教等の問題解決と亡くなった人の意思の確認の方法です。

 自分の死後自分の骨を瀬戸内海やふるさとの海やなかには地中海に撒いて欲しいと願っている人たちは実際ますます増えていますし、その意志にどう答えてゆくかは今後の新しい考え方を必要としています。

 ベルセーとはフランス語で静かに撒くという意味です。ゆりかごという意味もあります。
 最近では島根県の隠岐諸島に浮かぶ面積1000平米のちいさな無人島が国内で初めて丸ごと散骨所に姿をかえました。都会にすみ「最後はふるさとに帰りたい」という人らの願いをうけて、戸田葬祭サービスが地元出身の有志と共同で島を買い取り、料金は地元出身者で11万2000円、地元以外で20万円前後で受け付けている。年間100人以上を見込んでいるといいます。散骨所は管理運営会社が「国立公園内なので人の立ち入りも制限し」散骨後は島全体を見渡せる対岸の慰霊所から供養するという。

 また海外ではフランスの景勝地でありカトリックの聖地であるブルターニュのモン・サンミシェルが納骨所を解放している。宗教の制限はあるが無宗教の日本人には問題ない。地中海での散骨もある。故人の意志により様々なやり方が存在する一方、その仕方と保険を含めた対応が遅れている。

 故人の意志は保険にかけた時点で確定するはずです。明確な意志があってはじめて確固たる葬送の方法が決まるのです。小額ながら決定的なベルセー保険が提案される理由です。
そこで具体的にはこうです。(ベルセーとはフランス語で鎮魂を意味する。)
1. 葬儀や葬式の商標でなく散骨保険の商標を今すぐ申請して取る。 すぐに。
2. 永代供養碑は南北朝時代からの歴史のある箱根 足柄竹之下宮に設ける。(ネットで参照のこと)
3. 散骨保険 ベルセーは保険料一定タイプ。加入時にFACEBOOK Pageに設けられたBERSER@COM.に登録し、その暗号コードにて
   本人の意思を記録すること。勿論健康状態も告知することが条件。
4.本部ではFACEBOOK活用により本人との連絡と相互補完をおこなう。
5.保険金額は散骨の場所にもよるが、一ヶ月3000円。遺体の高温火葬、国内指定の散骨場所のご指定、実施(ご遺族5名までの交通費、宿泊1泊含 む〕散骨場所については早急に候補選定が必要だが国内では伊豆、真鶴の沖(実際に行われている) 隠岐の沖、ほか実際に散骨が実施されている ところを選定。ぜひ猪瀬氏に八丈沖などの選定に協力を仰ぎたい。なぜなら首都圏にすむ団塊以上の世代の望むところだからです。
6.年齢的には保険金額的には散骨保険    50~69     150万円
                              70~72     120万円
                              73~74      100万円
を想定したらどうか。solvency margin ratio上問題なし。
こんなところを素人ながらこれ以外なしと考えたがどうでしょうか。
それでは
                               
 

2月 20, 2012   No Comments

一筆申し上げ候

 維新ハッサクか船中ハッサクか知らないがそんな語呂合わせか竜馬のつめの垢をせんじて飲むみたいなアヤカリ危機感欠乏策などで、だらけきった日本が変革出来る筈もない。
 まだまだ道を若いどこの馬の骨がカイエンヌだのポルシェだのベントレーだのを乗り回しているし、外車だらけ。
 団塊以上の世代が800兆円の預金を隠すように持ってるし、その中身は政治家、官僚、天下り連中、土地持ち百姓、利権の絡みついた水産業、林業、要するに日本全体だ。
 フランス ル・モンド紙は1992年1月のコラムで日本のバブル後の未来を「日本は貯めた金1400兆円を全部使い切るまでなにも変わらないだろう。」と喝破した。そのコラムはル・モンドの東京特派員が書いたものだ。
 皆が食えなくなってこれじゃなんでもいいから、なにかかえなくちゃとなってはじめて変革の端緒につける。自由だの、平等だの、博愛だのと思想をもって変革を成し遂げた民族と日本を比べたら大変なことになる。
 だからこのまま1400兆円がなくなってサー大変までだめだと覚悟したほうがいい。
 

2月 17, 2012   1 Comment

「父と子」「兄と弟」の闘い  <王城の秋>

 何も摂関家に限って血族間の争いがあったわけではなく、源氏内も例外ではない いやむしろ一足先に血みどろの抗争にまで発展した為義一族の方がより悲惨だったかもしれん。
 「わしは頼長様の寵臣。上皇様がたに加勢申し上げる。皆はみなできめよ」父為義が厳命した。
 「父為義には多くの男子がいた。29人の男子がいたが白河殿に詰めていたのは叔父の為国、為義の四朗頼賢、五郎頼仲、六郎為宗、七郎為成,九朗為仲 そして予為朝じゃ」。
 予は八男だが、長子の 義朝 から予まで頼賢、、為宗以外は皆母が違う。 育ったところも違う、父の血が同じだが信ずるものも生き方も女の好みも違うからほとんど源姓以外他人みたいなものだ。
 「父上、自分で決めよとは父上のお言葉とも思えませぬ。この四朗頼賢、頼長様より御受領をいただく身、なにはともあれ白河殿を守り抜いてみせましょうぞ。」ともう紺の水干に鎧をまとって聳え立っている。
 「八郎為朝、そちのこころは」と為義が聞く。
 予はさまざまなことを考えていた。
新帝側には嫡男義朝がいる。この闘いは崇徳上皇陣営は頼長の私兵集団に限定されていて、みるからに劣勢なのはもう予にはわかっていた。が新帝について勝利したところで手柄は嫡男義朝にいくだけなのも明白だった。
 「八郎為朝は義侠のもののふでござる。父上のそばにいざるしてどこにおれと思し召すか。この三尺五寸の太刀と五人張りの弓をもって義朝など蹴散らして見せましょうぞ」
 予の加勢でもう為義の兄弟の立場は決まった。嫡男義朝を除いて。

 源氏嫡男義朝がなぜ新帝側についたかはまた別に語ることとするが、嫡男には嫡男なりの苦労があったのだろう。

  『尊卑分脉』などによると義朝の母は淡路守藤原忠清女とあるが、遠くさかのぼれば摂関家の血筋ながら所詮は庶流で、その当時 平氏の家臣になっていた者の娘、源家の棟梁の嫡妻にはいささか似つかわしくない相手。
 源氏と平氏が両者相競う立場にあって、平氏の娘ならいざ知らずその家臣の娘を妻に迎えなくてはならなかった)為義の心中やいかばかりか……。
 立身のためなら意気盛んな平氏にも擦り寄る……、そんな形振り構わぬ行動に出たのかもしれんく……。

 義朝は、一般に幼少の頃より東国で生い育った。 為義は次郎義賢を後継にしたかったのかもしれない。義賢の妻は周防守藤原宗季の娘 母は六条大夫重俊の娘である。義朝のような平氏のお流れではない。
 確かに自分の跡を継がせるつもりであれば、まずは京にあって公家社会の遊泳術を身に付けさせることに重きを置くのが自然。実際、次弟の 義賢 は早くから宮仕えして、東宮坊の授刀舎人の長(帯刀先生)に任じられており、さらに父為義が藤原頼長に初参した康治2年(1143)頃には、頼長の能登国の荘園の管理も委ねられていた。、これは世間的にも、義賢が為義の後継者として認知されていたことを意味するものと受け取ることもできる。

 しかし、為義の真意はともかく、義朝を東国に配したことは後の世から見れば適材適所、源氏の家勢挽回には願ってもない良策であったと言えなくもない。
 京での凋落に比例するように、この当時の東国における源氏の威光もまた曽祖父義家の代を頂点として衰退の一途をたどっていた、かつては義家流の傘下にあった諸将も次々と離れて行き、ある者は自立を図り、ある者は新羅三郎義光流の 佐竹党 や義家の三男義国流の 新田氏・足利氏 などの源氏庶流の傘下に入ったり……と戦国時代ばりの群雄割拠の様相を呈していた。
 そんな風雲急を告げる東国にあって、義朝は相模・上総と江戸湾を挟んだ領域を握る 三浦党 の庇護の許で養育されく、成長して後は以前のような源氏の勢威を回復するべくその地盤固めに乗り出し、持ち前の武勇と知略をもって 千葉氏(下総国)、大庭氏(相模国)など有力武将を次々と麾下に収め、瞬く間に、南関東をほぼ手中にした。

 こうした義朝の力は京のため為義にも刻々と伝わってきており、自分にとっての脅威にも感じてきていた。上洛を促すと意気揚々と上洛してきた。
上洛した義朝には父為義の意地のなさ。異腹の弟たちの覇気のなさに唖然とした。
 
 「なんとなさけないこtじゃ。白河の院にも疎んぜられ、平氏に北面の武士の地位も奪われ、武士の誇りもない。」 こんな源氏にしたのは父為義の力がないからだ。
 と父為義と義朝の間は不仲となっていったのは不思議でもない。

 義朝は鳥羽の上皇に取り込んでゆく。鳥羽は白河が憎かった。その隙間に入り込んだ。人間の機微をどこで学習したのであろう。長い東国での生活からか、嫡男ながら父から疎んぜられたからか、権力にとりついてゆく天賦の才に恵まれたからか。
 そして、その目論見通り、義朝は順調な昇進を重ねて行くことになる。
面白くないのは義賢。
 「東国の武力と荘園の富がそんなにありがたいか。無骨で味もわからぬ義朝など源氏の棟梁の資格もない」とひとかたならぬ憤懣を抱き、やがて、無骨な異母兄の重用される理由が東国に擁する武力にあると察すると、自らも義朝に匹敵する武力を蓄えるべく関東へ下る。
 これには三弟 義広 も同調する。
義賢は東進して下野国も押さえ、常陸国に本拠を置く義広との連携で短期間の内に北関東を掌中におさめる。その勢いを駆って今度は南に向かい武蔵国へ進出。義朝の麾下にある武蔵秩父党の 畠山重忠 や 長井斉藤別当実盛 らをも味方に引き入れると、やがて武蔵国大蔵に館を構えここに拠点を移す。
 
 
 

 

 

2月 13, 2012   No Comments

為朝激白 保元の乱 <王城の秋>

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 ここ南国琉球首里の城からは大洋に昇る日が浪間に沈むまで朗々袖々と翳した手内に見える。伊豆大島からは船を操ってきた。いまは舜天と名のっている。琉球の王となった。よってここで語る保元の闘いは琉球王の話と応ぜよ。
 
 保元の乱は予の乱である。左様予は保延5年に父為義と江口の遊女との間に生まれた為義の八男坊為朝である。幼少から遊女の子だと一族の者どもに揶揄されたが
 「今にみておれ」と唇をかんで耐えた。
 現今、宮も公卿も武家も藤原も僧籍や郎党、家来、から百姓、白拍子まで欲と権化に絡めとられてみんな生きている時代。大義だの正義だのは口からでるでまかせで誰も信ずるものでないことくらい糞まみれのわっぱまで知っている。
  「だから源氏だ平氏だ、などどっちでもよい。ましてや、父為義が仕える摂関家争い欲ぼけじじい藤原頼長など、夜長か昼長か知らないが知ったことか」
 予がもって旨としたのは、闘いとは血みどろになって人と人が組み合うことだ。言葉なんぞでは決して現せない人間生存の本能だということ以外にない。
 「まあそんなことより 保元の戦についてだが」、
850年後の京都がどうなっているか知らないから著者に聞く。著者よしゃべれ。
 著者かしこまって琉球の王 舜天に告げる。

はい 保元戦場の跡は現在の京大医学部病院の南、春日通りを境として、丸太町東詰めから、平安神宮あたりまでが、白河南殿と北殿のあった地点かと考えられます。また夷川橋から三条大橋のあいだ辺りが両軍の最初の交戦地とみてよいとおもいます。手元に平安時代の地図がありますが、現在の京都文化センターあたりが白河北殿で川端警察署あたりに南殿があっただと思われます。

 予為朝は13歳のとき父為義に勘当され九州に追放されたが、その原因は予が乱暴者で長幼の序もわきまえず義朝、義賢、義憲、などの兄者人でも機嫌が悪くなるとこっぴどくやっつけてしまう、マムシのように狂うので<たけまむしの為朝>とも言われていたから父も菊地一族や原田一族などの腕っ節の強い蛮族の支配する九州の地で少しでもやわらかになればとの思惑もあったのだと後で誰からか聴いたがな。
「 は は は、予はそんなことに構わず菊地、原田を制圧して九州を三年で平らげ九州総追捕使と自称したものだ。」
 
 皆は予のことを、九州の相撲(すまい)とりのようで、まあ 背丈は七尺(2メートル10センチ)、眼が切れ上がって,容貌魁偉のばけもののようにいうが、
 妻平忠国の娘は 「為朝様ほど年寄りやわっぱに優しい御人はありませぬ」と言ってはばからぬ。
 予が京都の父為義から突然書状で呼ばれたのは保元元年の5月、なにか鳥羽法皇が病にたおれたころであった。
 「父が特別になんじゃ、いつも為朝など源氏の厄介者のように言っておったに、なにか急な事変でもおきたものか」
 「なにやら久寿2年に鳥羽上皇と美福門院との子近衛天皇が眼病で急逝されたときいたが、後継の帝に重仁親王、守仁親王、彰子内親王が候補に上がっていてそれぞれを、権謀術数の連中、摂関藤原忠道と対抗する藤原頼長、忠実、親子が、美福門院と待賢門院が、追随する源氏と平氏が担ぎ上げて凧に糸を操つように醜く争っていたのじゃ。父為義もこの連中の中にいるという。よくまあこの為朝のことをく勘当できたものよの。あははは」
「じゃが、書状によれば父為義がこの為朝の九州での狼藉を訴えでたものがいてその疑いで解官されたとある。この為朝もついに堪忍袋の緒が切れた。つわもの二十八騎つれて上洛を覚悟したのじゃ。」

 予が上洛した保元元年6月には鳥羽法皇が崩御、治天の座をめぐって践訴された新帝後白河様と崇徳上皇の対立は決定的な情勢となっておった。双方が名だたる武士ををそれぞれの陣営に招くことに躍起だった。父為義は
「わしはもう耄碌もの、だれの手にも助太刀などとてもとても」などといっておったそうだが、
 洛中のすべてのものが、禽獣から犬猫の類までがどちらにつくかでその命脈が争われるとき悠長なことなど言っておられぬはずなどない。
 父為義は観念したそうだ。そのとき長男義朝が後白河の新帝側についていることを知りながら、こうわれわれに言った。
「どうなろうと源氏はその命脈を保たねばならぬ。どちらが勝ってもどちらにも源氏がいるのだ。、同族親族にいたるとも相手として相戦わねばならぬ。わしはこれまでの寵臣として頼長様、すなわち上皇側に立つ。皆はみなの勝手にせよ」とな。
 

 

 

2月 12, 2012   No Comments

叔父子 崇徳の悲劇  <王城の秋 一部>

  ここでしばらく白河の君から崇徳様までの時代のながれをお話し申し上げておかねばなりません。その前に平安京という都の東西南北をみていただきたいのです。平安京のうち右京は低湿地帯でございます。洛北北野あたりはもう公卿の館でいっぱいのありさまですし、洛南は右京以上に沼地でございます。いっぽう鴨川の東白河の地は藤原家累代の別業の地でございました。この地をひらいていったのが白河天皇でございました。
 白河天皇は第72代にあられます。天賦の才をもって平安の時代に院政をしかれた策に弄された君でした。でもすぐにが当時8歳の善仁(たるひと)親王(第73代堀河天皇)へご譲位なされて、太上天皇(上皇)となって幼帝を後見するため白川院と御譲位なされてからは、大炊殿、六条殿,閑院、高松殿、鳥羽殿、白河殿とその御座所をうつしてございます。称して引き続き政務に当たられました。
 嘉承2年(1107)に堀河天皇がお亡くなりになられます。、その皇子で白河上皇の孫にあたる宗仁(むねひと)親王が4歳で第74代鳥羽天皇として即位なされます。しかし、政治の実権は祖父の白河上皇が握り続けられます。その後、朝廷には「治天の君(ちてんのきみ)」と呼ばれた「院」(出家後は「法皇」といいます。)と天皇の二つの権力が競合併存し、それにともなって権力争いが複雑かつ熾烈化していくことになってまいりました。
 保安4年(1123)、白河法皇はまだ20歳の鳥羽天皇をむりやり退位させ、その皇子で法皇の曾孫にあたる顕仁(あきひと)親王を第75代崇徳天皇となされました。顕仁親王はわずか5歳でござましておかわいいさかりでございました。白河法皇は曾孫のこの顕仁親王を非常にかわいがられて、それはそれはまわりのものもはらはらするほどでございました。顕仁親王は鳥羽天皇と中宮待賢円院璋子(たまこ、権大納言藤原公実の娘)の間に生まれた第一皇子でございます。でもみなはその本当の父は曾祖父の白河天皇なのだとおもわれていたのです。でなければあんなにもかわいがられる筈がない。顕仁親王は白河法皇と中宮璋子の密通によりできた子であるという噂が囁かれていたのです。譲位した鳥羽天皇は上皇となりますが、政治の実権は祖父の白河法皇が握ったままでした。このようなこともあり、鳥羽上皇は、崇徳天皇のことを、本当は自分の叔父にあたる人(鳥羽の父である堀河の弟)だということから、「叔父である自分の子」という意味で「叔父子」と呼んで忌み嫌っておられました。 わたしは鳥羽上皇が待賢門院に、「自分の種ではない、先の院(白河法皇)の子であるみかど(崇徳天皇)をわが子のように慈しめとでも申すか」と言ったのに対して、待賢門院は、「叔父子(おじこ)とでもお思いになればいかがです。」と開き直ってお答えになる姿がみえるようでございました。
 
 わたしも最近まで崇徳天皇は白河法皇と待賢門院との不倫の子であると思っていましたし、これは本当のことであるかのように世間に広まってしまっています。
   
  大治4年(1129)、76歳という長寿を全うした白河法皇様が崩御し、42年間に及ぶ白河院政がようやく終わります。これを機に鳥羽上皇が院政を執り、政治の実権を握り御祖父白河様と同じように院政をしくことになります。崇徳天皇には本当にひどいあたりかたをされることになりました。
 保延5年(1139)に鳥羽上皇と後に美福門院(びふくもんいん)と呼ばれる権中納言藤原長実の娘得子との間に躰仁(なりひと)親王が生まれると、鳥羽上皇は躰仁親王を次代の天皇とするためにむりやりそのとき世継ぎのいなかった崇徳天皇の養子となされます。ところがその翌年、崇徳天皇は兵衛佐局(ひょうえのすけのつぼね)との間に重仁(しげひと)親王をもうけます。
 
 永治元年(1142)、鳥羽上皇は躰仁親王が3歳になると、そのとき23歳だった崇徳天皇を退位させて躰仁親王を第76代近衛天皇として即位させるのです。崇徳上皇は「新院」と呼ばれ、受戒して法皇となった鳥羽上皇は「一院」と呼ばれました。
 しかし、近衛天皇は生まれつきご病弱で、久寿2年(1155)、眼病を患ったことにより17歳で崩御なされます。そのとき、次の帝位の候補者としては、崇徳上皇の皇子である重仁親王(当時16歳)と、鳥羽法皇の第4皇子である雅仁(まさひと)親王(当時29歳)がおられました。雅仁親王は、崇徳上皇の同母弟であり、近衛天皇の異母兄に当たります。皇統の順からすれば次は重仁親王が皇位に就くはずでした。また、重仁親王は英明の誉れが高かったのに対して、雅仁親王は若い時から今様などの芸能ばかりに熱中し、「遊芸の皇子」、「文にも非ず武にも非ず」などと評され、天皇としての資質に欠ける人物と見なされていました。このようなことから、重仁親王が第一候補とみられ、崇徳もそのように考えておられたようでございます。
 ところが、鳥羽法皇は、崇徳上皇の血統を徹底的に排除し、雅仁親王を第77代後白河天皇として即位させ、しかも、その皇子である守仁親王(のちの二条天皇)を皇太子とします。重仁親王は、天皇の第一皇子として生まれたにもかかわらず、完全にその存在を無視されたわけです。自分の皇子を帝位に就け、院政を布くこと絶たれた崇徳上皇の怒りは心頭に達したのもむりございませんでした。

 保元元年(1156)7月2日、鳥羽法皇が53歳で崩御します。これを機にそれまでの27年間に及ぶ鳥羽院政に対する不満が公家衆、藤原一族の中から噴出し、鳥羽法皇の後継者である後白河天皇に対抗する勢力は、崇徳上皇を旗頭とし、両者の政治的緊張が一挙に高まります。こうして、鳥羽法皇が崩御した後、崇徳上皇と後白河天皇の兄弟対立に端を発した保元の乱が勃発したのです。
 この戦いは後白河天皇一派の勝利に終わり、崇徳上皇は讃岐へ配流となります。しかし、その皇子である重仁親王は、寛暁の弟子として出家することを条件に許されます。
 崇徳様の御悲劇が白河様とたま子様とあいだの子で叔父子として鳥羽様からお嫌いになられてとお考えのかたがほとんどのことのようにおもわれるのですが、本当は摂関家内の覇権争い荘園と受領とに武家社会が深く絡むことがおおきな要因でございましょう。それは実は、藤原頼長様と少納言入道信西様との戦いでございました。鳥羽ほ上皇のもとで院の勧責により籠居していた源為義様、平家広様、などの武士を頼長様がお集めになられ、合戦のご準備になられたのでございます。
 この恐ろしい保元の乱については次またおはなしもうしあげることにいたしましょう。

すこし話が歴史に嵌ってしまったのでございましょうか。紙燭に映るみなさまのお瞼がなにか重たく感じられます。もう夜遅くなりました。次はもう少し面白おかしく保元をお話し申し上げましょう。

2月 8, 2012   No Comments

今様 <王城の秋 一部>

 このころやんごとなき公家や武家の方々がご元服なされますと添臥という御儀式がございました。ご成人した暁にと選ばれた女御や
更衣、ご関心のあるご家族の息女が夜のお伽をなさるのです。ご子息様のご将来にとって他家とのご関係を忌避なされることも多く、そのときは
乳母がその任を賜れました。貞仁御親王の乳母でございましたわたし(親子)はどうだったのかとのお尋ねでございますか。
 まあ御直裁なお尋ねでございますこと。畏れ多いことでございます。
 後深草御上のご添臥は久我雅忠の女御でございます乳母が賜りましたとだけお答え申し上げます。
左様でございます。ご存知の神楽歌こそ即興でおもしろいものですが、当世それが枠をはずれてより風流で楽しい催馬楽というものが公卿、宮方
でお流行でございます。式部さまの源氏のお物語にもその催馬楽のお歌がよまれておられます。その催馬楽よりもっと新しいのが今様でございます。
今様は七五調四句でございます。神埼の遊女や祇園白拍子 くぐつ女達に市井でよまれているものでございます。これまでの常識や価値を打ち破ったと
申しますか、硬質(ハード)なリズムでございます。

 なんと申しましょうか。殿御さまには南都の東大寺や叡山のご僧門が和して声明のとどろきをお耳にしたことがおありだとおもいます。和賛と仏教ではお言いなされますが、サンスクリットとか申す釈迦如来のお国のことばも混じっているそうでございます。あの荘厳でエネルギッシュ(筋骨隆々)たる力は
もう女の身には恍惚とさせるものでございます。

 武士というものが多く現れてこれまでの宮廷文化や従来のしきたりや慣例からもっと直接なものやおもしろいもの、仏教の教説からもすこし離れて、当世風というのでもなく、不安なものから直裁に入信するような響きがございます。ですから宮廷には近江の鏡山や美濃の青墓 ・墨俣、からのクグツ女、神のお告げのまま諸国を遊歴する歩きの巫女、琵琶法師、猿楽のやからが宮廷の娯楽となっていたのでございます。

 ご宮廷の中にも祇園の白拍子が妾となっておりました。白河の君もご例外ではございませんでした。今様とは宗教性とは未分離のまま生でだらだらと享楽を授ける天竺の密教のようなものでございましょう。密には交合の極悦を信仰するものまで現れたのでございます。

 このころの枕のことばなるものがございます。どのようにおよみになられるでしょうか。

 寛和の頃滝口平致光とて聞ある美男ならびなき好色あり見人恋にしつみ聞者思をかけぬはなかりけり斎宮野宮におわしましける口役に参たるを御簾の中より御覧しければみめ有さま所のしなしなすきてはれやかなる姿世の人に勝りてみえけるを男のかけさす事もまれなるにたまたま御覧しける御心にうちいかゝ覚食けむ

 月傾夜ふくるほとにこしはのもとにふしたる所へいかなる神のいさめをか遁出給けんかうらむのはつれより御足をさしおろしてにくからす御覧しつゝ顔を踏ませ給ひたるにあきれて見あけたれはなへてならすうつくしき女房の御くしはいと心くるしくこほれかゝりて御小袖の引合しとけなけにしろくうつくしき所又くろくにくさけなる所月のかけにほのかに見ゆる心まとひいはんかたなし

 御足にとりつくまゝにおしはたけたてまつりてしたをさし入れてねふりまわすに玉門はものゝ心なかりけれはかしらもきらはす水はしきなとのやうにはせいたさせ給ひける

 ひもとく程のてまとひ猶おそしともよをす大物いつしかはら立いかりまうけたるにねふりそゝのかしたるしゝむらは御はたよりもたかく利き出たるにさしあてゝかみさまにあらゝかにやりわたすに玉門のうるおひも玉茎のかねもいよいよつよくまさるさまはいはむかたなし

 ふとくゆかしき御こしをやすくもてあはせはねあけさせ給ふに玉茎もいよいよのふる心地してのひあかりてせめたてまつるにこし方行すゑ神代のことも忘られ給ふにやいやしき口にすひ付給ひてしのひかねたる御けしきはことはりも過たりし。

2月 5, 2012   No Comments

鷲の棲む深山 <王城の秋 一部>

         鷲の棲む深山には、概ての鳥は棲むものか
         同じき源氏と申せども 八幡太郎は恐ろしや

 白河御上の院政期に流行した今様でございます。
八幡太郎義家の姿はまさにこのように映っていたのでございます。武士は肉食の猛禽類のようで平然と
人を殺傷する悪業人というのが正直なわたしたちの印象でございました。
 義家の子孫義親が崇徳上皇に無断でちかづき謀反の疑いで追討される事件がおきたことがございました。その折
「中外記」を遺した藤原宗忠さまは「故義家朝臣、年来武士長者として、多く無罪の人を殺す云々、積悪の余、ついに子孫
に及ぶか」と武士の恐ろしを詰っているさまでございます。

  わたしは乳母の身ですから、武士のお歴々ともお話したこともございませんし、お会いしたこともございません。ただ白河殿
に近頃昇殿をゆるされた平正盛様は北面の武士として隠岐守を賜られ、若狭、因幡,丹後と山陰地方の受領を歴任され武士の
六条方にも巷間の見聞とはすこしことを異にするのもあるものと不思議な感がしたものでございます。
 
 御三条天皇さまのころ、伏見に住んでいたわたしは父に連れられて鳥羽殿の馬場で狩装束、馬上綾蘭傘、弓袋差、的持、などの流鏑馬の行列
を遠くからですが見たと事がございます。このような武技の見物は公家は公卿さまたちがとても好きなもののようでございました。
鳥羽の帝にはとくに相撲(すまい)がお好きで八坂の境内に俵をひいて武を競わせ勝者には過分な受領まで賜ったそうでございます。

 京に棲む武士には平氏と源氏がございます。源氏は左女牛小路南、西とう院大路西,六条坊門北あたりの屋敷に居を構え、平氏には
鴨川五条西 六波羅に拠を構えておられました。いずれもその生きる究極はいかに主上のご機嫌とご趣向めざましいかの一点でのたたかいのようでございましたが、平正盛が賊臣となった源義親を討ち取り生涯に努力して得た伊賀の受領地を白河院皇女郁芳門院堤子ごゆかりの六条院御堂にご寄進なされ平氏が一歩源氏を追い抜いた格好でございます。

 で、平氏と源氏のなかでどのようなかたが巷のはなしとして人気がおありかとのお尋ねでございますか。
 そうでございます。まずお若くこれからのかたと申し上げれば平忠盛の嫡男清盛さま、そして源氏為義さまのご嫡男義朝さまでございましょうか。
清盛さまが紺の水干小袴に紫革の冑、義朝さまが赤字錦の水干小袴のお格好で馬上におられますともう天の騎士のように輝いておられます。

2月 3, 2012   1 Comment