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叔父子 崇徳の悲劇  <王城の秋 一部>

  ここでしばらく白河の君から崇徳様までの時代のながれをお話し申し上げておかねばなりません。その前に平安京という都の東西南北をみていただきたいのです。平安京のうち右京は低湿地帯でございます。洛北北野あたりはもう公卿の館でいっぱいのありさまですし、洛南は右京以上に沼地でございます。いっぽう鴨川の東白河の地は藤原家累代の別業の地でございました。この地をひらいていったのが白河天皇でございました。
 白河天皇は第72代にあられます。天賦の才をもって平安の時代に院政をしかれた策に弄された君でした。でもすぐにが当時8歳の善仁(たるひと)親王(第73代堀河天皇)へご譲位なされて、太上天皇(上皇)となって幼帝を後見するため白川院と御譲位なされてからは、大炊殿、六条殿,閑院、高松殿、鳥羽殿、白河殿とその御座所をうつしてございます。称して引き続き政務に当たられました。
 嘉承2年(1107)に堀河天皇がお亡くなりになられます。、その皇子で白河上皇の孫にあたる宗仁(むねひと)親王が4歳で第74代鳥羽天皇として即位なされます。しかし、政治の実権は祖父の白河上皇が握り続けられます。その後、朝廷には「治天の君(ちてんのきみ)」と呼ばれた「院」(出家後は「法皇」といいます。)と天皇の二つの権力が競合併存し、それにともなって権力争いが複雑かつ熾烈化していくことになってまいりました。
 保安4年(1123)、白河法皇はまだ20歳の鳥羽天皇をむりやり退位させ、その皇子で法皇の曾孫にあたる顕仁(あきひと)親王を第75代崇徳天皇となされました。顕仁親王はわずか5歳でござましておかわいいさかりでございました。白河法皇は曾孫のこの顕仁親王を非常にかわいがられて、それはそれはまわりのものもはらはらするほどでございました。顕仁親王は鳥羽天皇と中宮待賢円院璋子(たまこ、権大納言藤原公実の娘)の間に生まれた第一皇子でございます。でもみなはその本当の父は曾祖父の白河天皇なのだとおもわれていたのです。でなければあんなにもかわいがられる筈がない。顕仁親王は白河法皇と中宮璋子の密通によりできた子であるという噂が囁かれていたのです。譲位した鳥羽天皇は上皇となりますが、政治の実権は祖父の白河法皇が握ったままでした。このようなこともあり、鳥羽上皇は、崇徳天皇のことを、本当は自分の叔父にあたる人(鳥羽の父である堀河の弟)だということから、「叔父である自分の子」という意味で「叔父子」と呼んで忌み嫌っておられました。 わたしは鳥羽上皇が待賢門院に、「自分の種ではない、先の院(白河法皇)の子であるみかど(崇徳天皇)をわが子のように慈しめとでも申すか」と言ったのに対して、待賢門院は、「叔父子(おじこ)とでもお思いになればいかがです。」と開き直ってお答えになる姿がみえるようでございました。
 
 わたしも最近まで崇徳天皇は白河法皇と待賢門院との不倫の子であると思っていましたし、これは本当のことであるかのように世間に広まってしまっています。
   
  大治4年(1129)、76歳という長寿を全うした白河法皇様が崩御し、42年間に及ぶ白河院政がようやく終わります。これを機に鳥羽上皇が院政を執り、政治の実権を握り御祖父白河様と同じように院政をしくことになります。崇徳天皇には本当にひどいあたりかたをされることになりました。
 保延5年(1139)に鳥羽上皇と後に美福門院(びふくもんいん)と呼ばれる権中納言藤原長実の娘得子との間に躰仁(なりひと)親王が生まれると、鳥羽上皇は躰仁親王を次代の天皇とするためにむりやりそのとき世継ぎのいなかった崇徳天皇の養子となされます。ところがその翌年、崇徳天皇は兵衛佐局(ひょうえのすけのつぼね)との間に重仁(しげひと)親王をもうけます。
 
 永治元年(1142)、鳥羽上皇は躰仁親王が3歳になると、そのとき23歳だった崇徳天皇を退位させて躰仁親王を第76代近衛天皇として即位させるのです。崇徳上皇は「新院」と呼ばれ、受戒して法皇となった鳥羽上皇は「一院」と呼ばれました。
 しかし、近衛天皇は生まれつきご病弱で、久寿2年(1155)、眼病を患ったことにより17歳で崩御なされます。そのとき、次の帝位の候補者としては、崇徳上皇の皇子である重仁親王(当時16歳)と、鳥羽法皇の第4皇子である雅仁(まさひと)親王(当時29歳)がおられました。雅仁親王は、崇徳上皇の同母弟であり、近衛天皇の異母兄に当たります。皇統の順からすれば次は重仁親王が皇位に就くはずでした。また、重仁親王は英明の誉れが高かったのに対して、雅仁親王は若い時から今様などの芸能ばかりに熱中し、「遊芸の皇子」、「文にも非ず武にも非ず」などと評され、天皇としての資質に欠ける人物と見なされていました。このようなことから、重仁親王が第一候補とみられ、崇徳もそのように考えておられたようでございます。
 ところが、鳥羽法皇は、崇徳上皇の血統を徹底的に排除し、雅仁親王を第77代後白河天皇として即位させ、しかも、その皇子である守仁親王(のちの二条天皇)を皇太子とします。重仁親王は、天皇の第一皇子として生まれたにもかかわらず、完全にその存在を無視されたわけです。自分の皇子を帝位に就け、院政を布くこと絶たれた崇徳上皇の怒りは心頭に達したのもむりございませんでした。

 保元元年(1156)7月2日、鳥羽法皇が53歳で崩御します。これを機にそれまでの27年間に及ぶ鳥羽院政に対する不満が公家衆、藤原一族の中から噴出し、鳥羽法皇の後継者である後白河天皇に対抗する勢力は、崇徳上皇を旗頭とし、両者の政治的緊張が一挙に高まります。こうして、鳥羽法皇が崩御した後、崇徳上皇と後白河天皇の兄弟対立に端を発した保元の乱が勃発したのです。
 この戦いは後白河天皇一派の勝利に終わり、崇徳上皇は讃岐へ配流となります。しかし、その皇子である重仁親王は、寛暁の弟子として出家することを条件に許されます。
 崇徳様の御悲劇が白河様とたま子様とあいだの子で叔父子として鳥羽様からお嫌いになられてとお考えのかたがほとんどのことのようにおもわれるのですが、本当は摂関家内の覇権争い荘園と受領とに武家社会が深く絡むことがおおきな要因でございましょう。それは実は、藤原頼長様と少納言入道信西様との戦いでございました。鳥羽ほ上皇のもとで院の勧責により籠居していた源為義様、平家広様、などの武士を頼長様がお集めになられ、合戦のご準備になられたのでございます。
 この恐ろしい保元の乱については次またおはなしもうしあげることにいたしましょう。

すこし話が歴史に嵌ってしまったのでございましょうか。紙燭に映るみなさまのお瞼がなにか重たく感じられます。もう夜遅くなりました。次はもう少し面白おかしく保元をお話し申し上げましょう。

2 月 8, 2012   No Comments