為朝激白 保元の乱 <王城の秋>

ここ南国琉球首里の城からは大洋に昇る日が浪間に沈むまで朗々袖々と翳した手内に見える。伊豆大島からは船を操ってきた。いまは舜天と名のっている。琉球の王となった。よってここで語る保元の闘いは琉球王の話と応ぜよ。
保元の乱は予の乱である。左様予は保延5年に父為義と江口の遊女との間に生まれた為義の八男坊為朝である。幼少から遊女の子だと一族の者どもに揶揄されたが
「今にみておれ」と唇をかんで耐えた。
現今、宮も公卿も武家も藤原も僧籍や郎党、家来、から百姓、白拍子まで欲と権化に絡めとられてみんな生きている時代。大義だの正義だのは口からでるでまかせで誰も信ずるものでないことくらい糞まみれのわっぱまで知っている。
「だから源氏だ平氏だ、などどっちでもよい。ましてや、父為義が仕える摂関家争い欲ぼけじじい藤原頼長など、夜長か昼長か知らないが知ったことか」
予がもって旨としたのは、闘いとは血みどろになって人と人が組み合うことだ。言葉なんぞでは決して現せない人間生存の本能だということ以外にない。
「まあそんなことより 保元の戦についてだが」、
850年後の京都がどうなっているか知らないから著者に聞く。著者よしゃべれ。
著者かしこまって琉球の王 舜天に告げる。
はい 保元戦場の跡は現在の京大医学部病院の南、春日通りを境として、丸太町東詰めから、平安神宮あたりまでが、白河南殿と北殿のあった地点かと考えられます。また夷川橋から三条大橋のあいだ辺りが両軍の最初の交戦地とみてよいとおもいます。手元に平安時代の地図がありますが、現在の京都文化センターあたりが白河北殿で川端警察署あたりに南殿があっただと思われます。
予為朝は13歳のとき父為義に勘当され九州に追放されたが、その原因は予が乱暴者で長幼の序もわきまえず義朝、義賢、義憲、などの兄者人でも機嫌が悪くなるとこっぴどくやっつけてしまう、マムシのように狂うので<たけまむしの為朝>とも言われていたから父も菊地一族や原田一族などの腕っ節の強い蛮族の支配する九州の地で少しでもやわらかになればとの思惑もあったのだと後で誰からか聴いたがな。
「 は は は、予はそんなことに構わず菊地、原田を制圧して九州を三年で平らげ九州総追捕使と自称したものだ。」
皆は予のことを、九州の相撲(すまい)とりのようで、まあ 背丈は七尺(2メートル10センチ)、眼が切れ上がって,容貌魁偉のばけもののようにいうが、
妻平忠国の娘は 「為朝様ほど年寄りやわっぱに優しい御人はありませぬ」と言ってはばからぬ。
予が京都の父為義から突然書状で呼ばれたのは保元元年の5月、なにか鳥羽法皇が病にたおれたころであった。
「父が特別になんじゃ、いつも為朝など源氏の厄介者のように言っておったに、なにか急な事変でもおきたものか」
「なにやら久寿2年に鳥羽上皇と美福門院との子近衛天皇が眼病で急逝されたときいたが、後継の帝に重仁親王、守仁親王、彰子内親王が候補に上がっていてそれぞれを、権謀術数の連中、摂関藤原忠道と対抗する藤原頼長、忠実、親子が、美福門院と待賢門院が、追随する源氏と平氏が担ぎ上げて凧に糸を操つように醜く争っていたのじゃ。父為義もこの連中の中にいるという。よくまあこの為朝のことをく勘当できたものよの。あははは」
「じゃが、書状によれば父為義がこの為朝の九州での狼藉を訴えでたものがいてその疑いで解官されたとある。この為朝もついに堪忍袋の緒が切れた。つわもの二十八騎つれて上洛を覚悟したのじゃ。」
予が上洛した保元元年6月には鳥羽法皇が崩御、治天の座をめぐって践訴された新帝後白河様と崇徳上皇の対立は決定的な情勢となっておった。双方が名だたる武士ををそれぞれの陣営に招くことに躍起だった。父為義は
「わしはもう耄碌もの、だれの手にも助太刀などとてもとても」などといっておったそうだが、
洛中のすべてのものが、禽獣から犬猫の類までがどちらにつくかでその命脈が争われるとき悠長なことなど言っておられぬはずなどない。
父為義は観念したそうだ。そのとき長男義朝が後白河の新帝側についていることを知りながら、こうわれわれに言った。
「どうなろうと源氏はその命脈を保たねばならぬ。どちらが勝ってもどちらにも源氏がいるのだ。、同族親族にいたるとも相手として相戦わねばならぬ。わしはこれまでの寵臣として頼長様、すなわち上皇側に立つ。皆はみなの勝手にせよ」とな。
フランスとフランス語の話し

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