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「父と子」「兄と弟」の闘い  <王城の秋>

 何も摂関家に限って血族間の争いがあったわけではなく、源氏内も例外ではない いやむしろ一足先に血みどろの抗争にまで発展した為義一族の方がより悲惨だったかもしれん。
 「わしは頼長様の寵臣。上皇様がたに加勢申し上げる。皆はみなできめよ」父為義が厳命した。
 「父為義には多くの男子がいた。29人の男子がいたが白河殿に詰めていたのは叔父の為国、為義の四朗頼賢、五郎頼仲、六郎為宗、七郎為成,九朗為仲 そして予為朝じゃ」。
 予は八男だが、長子の 義朝 から予まで頼賢、、為宗以外は皆母が違う。 育ったところも違う、父の血が同じだが信ずるものも生き方も女の好みも違うからほとんど源姓以外他人みたいなものだ。
 「父上、自分で決めよとは父上のお言葉とも思えませぬ。この四朗頼賢、頼長様より御受領をいただく身、なにはともあれ白河殿を守り抜いてみせましょうぞ。」ともう紺の水干に鎧をまとって聳え立っている。
 「八郎為朝、そちのこころは」と為義が聞く。
 予はさまざまなことを考えていた。
新帝側には嫡男義朝がいる。この闘いは崇徳上皇陣営は頼長の私兵集団に限定されていて、みるからに劣勢なのはもう予にはわかっていた。が新帝について勝利したところで手柄は嫡男義朝にいくだけなのも明白だった。
 「八郎為朝は義侠のもののふでござる。父上のそばにいざるしてどこにおれと思し召すか。この三尺五寸の太刀と五人張りの弓をもって義朝など蹴散らして見せましょうぞ」
 予の加勢でもう為義の兄弟の立場は決まった。嫡男義朝を除いて。

 源氏嫡男義朝がなぜ新帝側についたかはまた別に語ることとするが、嫡男には嫡男なりの苦労があったのだろう。

  『尊卑分脉』などによると義朝の母は淡路守藤原忠清女とあるが、遠くさかのぼれば摂関家の血筋ながら所詮は庶流で、その当時 平氏の家臣になっていた者の娘、源家の棟梁の嫡妻にはいささか似つかわしくない相手。
 源氏と平氏が両者相競う立場にあって、平氏の娘ならいざ知らずその家臣の娘を妻に迎えなくてはならなかった)為義の心中やいかばかりか……。
 立身のためなら意気盛んな平氏にも擦り寄る……、そんな形振り構わぬ行動に出たのかもしれんく……。

 義朝は、一般に幼少の頃より東国で生い育った。 為義は次郎義賢を後継にしたかったのかもしれない。義賢の妻は周防守藤原宗季の娘 母は六条大夫重俊の娘である。義朝のような平氏のお流れではない。
 確かに自分の跡を継がせるつもりであれば、まずは京にあって公家社会の遊泳術を身に付けさせることに重きを置くのが自然。実際、次弟の 義賢 は早くから宮仕えして、東宮坊の授刀舎人の長(帯刀先生)に任じられており、さらに父為義が藤原頼長に初参した康治2年(1143)頃には、頼長の能登国の荘園の管理も委ねられていた。、これは世間的にも、義賢が為義の後継者として認知されていたことを意味するものと受け取ることもできる。

 しかし、為義の真意はともかく、義朝を東国に配したことは後の世から見れば適材適所、源氏の家勢挽回には願ってもない良策であったと言えなくもない。
 京での凋落に比例するように、この当時の東国における源氏の威光もまた曽祖父義家の代を頂点として衰退の一途をたどっていた、かつては義家流の傘下にあった諸将も次々と離れて行き、ある者は自立を図り、ある者は新羅三郎義光流の 佐竹党 や義家の三男義国流の 新田氏・足利氏 などの源氏庶流の傘下に入ったり……と戦国時代ばりの群雄割拠の様相を呈していた。
 そんな風雲急を告げる東国にあって、義朝は相模・上総と江戸湾を挟んだ領域を握る 三浦党 の庇護の許で養育されく、成長して後は以前のような源氏の勢威を回復するべくその地盤固めに乗り出し、持ち前の武勇と知略をもって 千葉氏(下総国)、大庭氏(相模国)など有力武将を次々と麾下に収め、瞬く間に、南関東をほぼ手中にした。

 こうした義朝の力は京のため為義にも刻々と伝わってきており、自分にとっての脅威にも感じてきていた。上洛を促すと意気揚々と上洛してきた。
上洛した義朝には父為義の意地のなさ。異腹の弟たちの覇気のなさに唖然とした。
 
 「なんとなさけないこtじゃ。白河の院にも疎んぜられ、平氏に北面の武士の地位も奪われ、武士の誇りもない。」 こんな源氏にしたのは父為義の力がないからだ。
 と父為義と義朝の間は不仲となっていったのは不思議でもない。

 義朝は鳥羽の上皇に取り込んでゆく。鳥羽は白河が憎かった。その隙間に入り込んだ。人間の機微をどこで学習したのであろう。長い東国での生活からか、嫡男ながら父から疎んぜられたからか、権力にとりついてゆく天賦の才に恵まれたからか。
 そして、その目論見通り、義朝は順調な昇進を重ねて行くことになる。
面白くないのは義賢。
 「東国の武力と荘園の富がそんなにありがたいか。無骨で味もわからぬ義朝など源氏の棟梁の資格もない」とひとかたならぬ憤懣を抱き、やがて、無骨な異母兄の重用される理由が東国に擁する武力にあると察すると、自らも義朝に匹敵する武力を蓄えるべく関東へ下る。
 これには三弟 義広 も同調する。
義賢は東進して下野国も押さえ、常陸国に本拠を置く義広との連携で短期間の内に北関東を掌中におさめる。その勢いを駆って今度は南に向かい武蔵国へ進出。義朝の麾下にある武蔵秩父党の 畠山重忠 や 長井斉藤別当実盛 らをも味方に引き入れると、やがて武蔵国大蔵に館を構えここに拠点を移す。
 
 
 

 

 

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