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我 舜天 保元の雄なり  <王城の秋>

弓張月

弓張月

 「予為朝は流地伊豆大島から九州菊地党から助援に参った宋船で琉球に渡った。皆は予が既に頼朝の命を受けて斬首されたと信じておるかもしれん
がな」
 「鎮西為朝は無駄死にはせぬ。」
琉球史には確かに70年あまり続いた舜天と名乗る琉球王朝の祖の名が残り3代続いたとある。
舜天は琉球南部の領主、大里按司の妹を妻として2人の子供をもうけた。その子が為敦(ためのり)である。
 為敦は号を尊敦と改め22歳のとき、一旦天孫氏の利勇が首里城を占拠したのを、尊敦は兵を起こして首里城を攻め、利勇を滅ぼします。その後、各地の按司たちは為敦を王に推戴しました。尊敦はこれを辞退しますが3度推されてついに王位についた。
史実によれば、
 舜天の王統は、その実在を実証しうる最初の王統で、3代73年続いて絶えたとある。その後、英祖・察度の各王統が交代してあらわれ、察度王統を滅ぼした尚巴志が、尚氏王朝を開く。また、尚氏も、もとは源為朝の血をひいており、名前の頭に「朝」という字をつけるのは、為朝から一字をもらったからだという。
「まあ 琉球のことはあとでゆっくりはなすこともあろう」
そうでしたな。保元の乱を語らねば。

「予が白河南殿に軍兵を預けたのが保元元年7月の十一日。藤原頼長様からのご下問あり、殿上に伺い奉ると、言下に、
「為朝、合戦の策について腹蔵をのべよ」とのこと。
「為朝遺憾ながらこの戦いお味方に兵数足らず、ここは火攻めをもって内裏に夜討ちをかけるが最上の策。寡兵の弱みを補強するのが唯一の策と存知まする。」と奏上もうしあげた。
「もしそちの兄義朝が打ってでたらどうするか」
「兄の兜の真ん中を一矢射たら、兄も逃げ出すにちがいありませぬ。」
「安芸守清盛も一手をかためておるぞ」
「あはは アハハ清盛などがヘロヘロ矢は踏み払ってとおるだけのこと。炎の下をかいくぐり主上に近づき参らせて後白河のご新帝をこちらへお迎えももうしあげれば、義朝、清盛は逆賊。」
「機は今、今をもって勝機はござらぬ。この機を逃すは千軍万軍の兵ありともかなわぬこと」
うりざね顔をさらに延ばすようなまなざしで聞いていた頼長はやはり胆力より策謀に長けていたのだろう。勝利より勝利した後の風聞のほうが先にあったのか、胸中に父忠実が南都興福寺からの僧兵二千を待ってとあてにならないものがあったのかもしれない。
「勇ましいことだ。」と苦笑した。
予は知っている。戦いというものをだ。これまで13歳で九州に放逐され無残な生き方を強いられてきた。菊地の郎党を懐柔し、残忍にも多くの豪族を滅ぼして九州を平定下。何千何万の人間の血を流し、血が血にのって濃くなるほどべっとりと塗布されたような大太刀をふってきたのだ。武士は陣前にあればもう死は眼前。ただただ廉恥を重んじて戦うのみ。
 されどこの戦いは敵味方にあまりにも父と子が兄弟が入り乱れての戦いであることだ。言ってみればこの戦いほど自分と自分の血みどろの戦いを予は知らぬ。
内裏方 (後白河)                             新院方(崇徳)
後白河               ご兄弟                 崇徳
関白忠通              兄弟                  左大臣頼長
同                   父子                  宇治入道忠実
源義朝                父子                  源為義
源義朝                兄弟                  頼賢 為朝など6人
平清盛                叔甥                  平忠正
正に骨肉の争いであったものよ。
合戦の模様を話す前にどうしても保元の乱を導いた真の対立はなんだったかを話しておこう。
 実のところ、保元の乱1156年7月十日に勃発したこの乱は荘園体制自体の対立と、このころその政治力と軍事力を増強してきた大社(伊勢、岩清水,賀茂、春日、住吉、祇園、などの神社と興福寺、延暦寺、園城寺、熊野山、金峰山などの一大勢力との戦いであった。頼長に代表される荘園旧領の担い手と藤原通憲(信西入道)が代表する荘園体制改革派(受領派)との必然の対立であった。
 その対立は 平氏源氏では源為義 平忠正が旧荘園派に義朝、清盛等の嫡男改革派が新帝についたのは当然の帰結といえるものだ。
「予にとって大切なのはそのような政治体制のことではなかった」
「荘園経済力を維持するための軍事力でしかなかった武士の世をどうつくれるのか?であった。わしは荒くれた乱暴為朝とよう言われたものだが、本当のところは、公家も坊主もだめだ。この世を救うのは武士だと思っていたのだ」
 保元の乱にはこのような背景があったのだ。
7月11日鶏鳴とともに内裏の門がひらく。清盛、義朝、義康ら軍平六百余騎が動き出す。

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