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Posts from — 3月 2012

夜桜

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わがバルコニーのプチ桜が満開。夜桜と相成った。近くの砧農園で購入した桜です。
まだまだ桜などさむくてさむくてどこも咲いてないのに、心をいやしてくれる。万歳三唱

3月 30, 2012   No Comments

宿命 小説<平安王城の秋>

離宮白川 

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 保元元年七月十二日、真夏の太陽が賀茂川東岸に流れる真っ赤な血をギラギラと染めて、血糊の被った武士の兜が主の首を失って啼いていた。戦の態勢はもう既に決していた。義朝の千五百騎と清盛の八百余騎が賀茂川の西と南から白河南殿と北殿を囲んでいた。
 白河北殿を下流にみて序々に距離をつめてきた安芸守清盛の八百余騎が迫る。清盛の武将の五十騎余りが功を遂げんと躍り出た。為朝に対して真っ向から射掛けたのである。 
 為朝にはもう闘いの趨勢など眼中ににはない。
「為朝をどう心得おる。そんなへなちょこ鏃が当るものか。地獄の閻魔が為朝の命の後見人。如来や観音などなまぬるいわ。」
為朝が矢をつがえる。途端に為朝の矢がものすごい唸りをひいて飛んでゆく。それは射る技になれているはずの武者の耳にも何が飛んできたかと疑われれうような矢響きだった。
 当時矢は飛び道具であった。どこから飛んでくるかもしれない戦場の花形だった。為朝の弓はライフルをもった歴戦スナイパーのようなものだ。
数の上では八百余騎の優勢を有する清盛の兵だったが鎮西八郎の弓はその的確さにおいて一時だが数を圧倒してみせた。
 が戦場は現実を映す。ひと時の為朝のスナイパー矢などがつくる渦など乱れくだりながら激流となる大潮の流れを止められるものではない。
 為朝はしっかりとした目で敵将の赤ら顔でふくらんだ頬で秀でた額をもち、飛び出すような大きなまるい眼をひっきりなしに動かす男、清盛の姿を見ていた。
 「この男清盛と兄義朝がいつか闘うことになろう。二将並びたたずとは古来からの習い事。この闘いで源氏は父為義と郎党を失うことになろう。その時立つのはこの男、清盛になる」
 源氏の命脈を保つにはこの男清盛を殺しておかねばならぬ。眼前に迫る清盛のみに焦点を定めて弓をつがえる。だがこの為朝の心を誰が知る。
 迫ってきた兄義朝の郎党の一人深巣三郎が長刀を抜いて為朝に近づく。為朝の馬の脚を長刀でなぎ払おうとする。
「ばか者、義朝の将来の敵清盛を射おとそうとしておるのに。邪魔だ。のけのけといっておるのに」
ぐさっと音がしてかれのいどころから血が噴いた。為朝の大刀が振りかえされて三郎がたおれた。
敵味方、相互の大将と大将が余りにも近くで対峙して、全軍の死闘が掛けられていた。為朝の顔が清盛の顔が義朝の顔が触れ合うような近さだった。血漿の坩堝となって血で血をあらう様相を呈していた。
 為朝が兄弟のように胸襟をひらきあった九州の郎党、高間兄弟、松浦の次郎、ほとんどの幕僚が眼前で矢に射抜かれ敵の前に討ち死にしていた。
 狙っても狙っても清盛に弓を向ける瞬間は訪れなかった。人の運命とはこんなものだ。こんなに近くで接線しながその瞬間がないのだからだ。
その時白河北殿から黒煙があがりはじめた。藤中納言の館に義朝の手により火がつけられた。折からの西風にのって乾ききった賀茂川東が忽ち火につつまれてゆく。
「やったなこの為朝が一番おそれていたのはこの火だ。あの火の手だ。新院崇徳と近侍する連中が恐れて逃げ出したら、もうひとたまりもない。」
「あはははアハハハ闘いはここまでか」 と哄笑した。
新院側は深刻な敗勢状態に陥っていた。
南門を固めていた六条為義と六人の兄弟、岡崎東門の右馬助忠正、春日東門の家弘が終日なんらの勝ち戦もなく防戦一方にあった。
 全軍についに退却の命が下った。新院崇徳の逃亡が先だ。
白河上皇が盛時に全財産を傾けて築き上げた白河離宮もいまや炎のなかにある。回遊式庭園として世にきこえた名園、春は梅、桜、秋には紅の紅葉の美しさで京中に愛された広大な離宮が吹き荒れる紅蓮と黒煙のなかで崩れてゆく。
 歴史は関わりゆく存在者の宿命と決して戻らない時間のなかで創生の新しい息吹を誕生させてゆく。

 

3月 26, 2012   No Comments

兄義朝と弟為朝   <王城の秋>

源義朝

源義朝


 
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「この困難な時代をどう生き抜き、勃興する平氏に対するには、富を重ねねばならぬ。どうしてもだ。さすればどうするかだ。」 源氏棟梁為義の胸中には常にそれがあった。
そのためには平氏の流れにある妻をもむかえてみせたのだ。 『尊卑分脉』などによると義朝の母は淡路守藤原忠清女とあるが、遠くさかのぼれば摂関家の血筋ながら所詮は庶流で、その当時 平氏の家臣になっていた者の娘、源家の棟梁の嫡妻にはいささか似つかわしくない相手であった。
 
 源氏と平氏が両者相競う立場にあって、平氏の娘ならいざ知らずその家臣の娘を妻に迎えなくてはならなかった為義の心中やいかばかりか……。
 立身のためなら意気盛んな平氏にも擦り寄る……、そんな形振り構わぬ行動に出たのかもしれん……。
 しかし、為義の真意はともかく、義朝を東国に配したことは後の世から見れば適材適所、源氏の家勢挽回には願ってもない良策であったと言えなくもない。
 京での凋落に比例するように、この当時の東国における源氏の威光もまた曽祖父義家の代を頂点として衰退の一途をたどっていた、かつては義家流の傘下にあった諸将も次々と離れて行き、ある者は自立を図り、ある者は新羅三郎義光流の 佐竹党 や義家の三男義国流の 新田氏・足利氏 などの源氏庶流の傘下に入ったり……と戦国時代ばりの群雄割拠の様相を呈していた。
 そんな風雲急を告げる東国にあって、義朝は相模・上総と江戸湾を挟んだ領域を握る 三浦党 の庇護の許で養育されく、成長して後は以前のような源氏の勢威を回復するべくその地盤固めに乗り出し、持ち前の武勇と知略をもって 千葉氏(下総国)、大庭氏(相模国)など有力武将を次々と麾下に収め、瞬く間に、南関東をほぼ手中にしたのだ。
 為朝は東国武将が群れ動く敵方の戦陣のなかに、自らと同じ源氏の白旗を掲げて馬上にある五尺六寸の背丈と二十五貫の目方をもつ大男を見つけている。紺の水干に源太産衣を着て銀色に真夏の黄金 色の太陽の日を浴びて輝いている。
 「同じ兄弟にありながら何故兄義朝は新帝後白河方についたのであろう」 為朝にはまだ考えがまとまっていなかった。
 「八幡太郎義家以来の武士源氏の血筋をたやしてはならぬ」と父為義の諮ったことなのだろうか。それとも義朝の妻常磐御女が新帝にお使えする藤原氏であるからか。
 「いやここは合戦の地、いらぬ心配りをするところではない」 と為朝はこころを決めた。
 当時の闘いは雑兵の戦いではなかった。雑兵が主兵となったのは信長の長篠の闘いからである。主将と主将が相対して名乗りあい尋常の勝負があってその後に白兵戦となった。雑兵は馬上にある主将のそばを守る兵であったから、主将が倒されると迷い兵となって有利な側の兵のようにみせかけて命を守った。
 「いっそひとおもいにこの弓でいとめてやるか」 為朝は大弓に箙の矢をつがえた。放たれればとかならず的をはずさなかった為朝の弓であった。
為朝には九州から連れてきたいはゆる為朝のつわもの二十九騎があった。鎮西とは九州の菊地の郎党、原田の豪士郎党を平定したことからなずけられた。平定には死をものともしない精鋭たちであった。
が、義朝にも、斉藤別当実盛、金子十郎、片桐小八郎、大庭平太景義、豊島四郎、秩父行成、などの坂東武者がいた。
 「悪七別当はどこだ、高間兄弟は」 左右の騎馬がすくないことに為朝は不安を抱いた。為朝が頼みとしていた二十九騎の猛兵がその時までにはことごとく討ち取られていた。
 まさに屍山血河であった。
 「ええい こうなったからは為朝の矢を放つのみ。」と 強弓から轟音をたてて矢が放たれた。。為朝の百発百中の矢であったが、さすが血を分けた兄弟に向けた矢であったのか、それともそれが為朝の唯一の弱点であったのか、矢は義朝の銀の兜をかすめて義朝がかねてから自慢する兜をかざっている北斗の星を削るように飛び背景にある白河南殿の宝蔵院の主柱をハッシと射抜いた。
 「なんと為朝の矢か。弟ならばこそと命だけはと思うていたが、もう容赦はせぬ。殺してもかまわぬ。火をかけろ、この世を焼き尽くしてしまうのだ」 半狂乱の義朝がいた。
 為朝が家族とも恃んでた手取りの与二、鬼田の予三、松浦の次郎などの九州の幕僚までがついにも首をとられていた。
 長い真夏の日が天井から午後の日になりつつあった。空は燃え立つようなぎらぎらする太陽が地上の殺戮の赤い血を毒々しく見せていた。それでも東山の山の端からはことの哀れと兄弟が流し合う骨肉の争いを静めるかのような風が吹き始めていた。鎮魂の風ともいえるものか、いくらか熱風の戦場がせばまってゆく。
 夕闇がせまるころにはもう闘いは決まっていた。ふと気がつくと嵐山と松尾の山並みの西の空が桃色に変わっていた。

 
 
 

3月 9, 2012   No Comments

護法童子   <王城の秋>

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戦乱が打ち続く京。この時代の民衆の不安は、時宗や法然とその弟子親鸞による念仏救済によって救われている。同時に社は中国道教にも似て大和の国津々浦々まで民衆の心となって浸透していた。この時代いはゆる式内社とよばれる中央大社などの官祭にあずかる社は全国を通じて三千百三十社の多きに達していたと記録に残る。
 それらのなかでも古来朝廷がもっとも尊敬してことあるごとに奉幣をおこなったのは、伊勢、岩清水、賀茂,松尾、平野、稲荷などの社だった。平野、吉田などの社は藤原氏や橘氏などの氏神であったのに対し、広く民衆の信仰を集めたのが稲荷、祇園、北野の三社だった。このうち稲荷社は和銅四年(七一一)の鎮祭で稲、と田の神として奉納されたものといわれる。稲と田がひとたび神となれば、それは人の子の一切の願いにこたえてくれる存在となるのがわが国日本の神の徳であった。
 「稲荷山 とほくのとしぞこえにけり 祈るしるしの杉をたのみて」と蜻蛉日記にある。
 後白河は天皇から院政の時代に熊野と稲荷に三十四回の御幸されている。この時代こんなにも熊野の参詣がおこなわれたのは勿論南都北嶺の教団を牽制するのがその目的とされているが、それよりなによりこの時代特有の困難と不安、勃興する新勢力たる武士との葛藤から霊験あらたな熊野の神に素直にいのり結縁を願うことにあったに違いない。
 熊野に参詣するにはその帰着に必ず稲荷参詣がついていた。なぜなら「護法送り」という儀式が必然だったからである。護法とは護法童子のことで神々に近侍してその命にしたがって働く精霊のことである。童の姿をした精霊は道中の守護に働くと信じられていた。だから熊野から帰ると必ず稲荷に童精霊をお返ししたのである。この精霊は後の時代今日まで稲荷明神の信仰となってわれわれの心に深く刻まれている。稲荷の童子は後にミサキとよばれるようになり、ミサキは狐のすがたをとる。狐は稲荷信仰の神の使者ともなるのである。信貴山縁起絵巻に髪の毛をさかだてながら宙を飛ぶ護法童子が描かれて今日に伝わっている。
 すこし寄り道してしまった。
 保元の戦あとについて為朝に語らせよう。なぜなら保元の乱こそ鎮西為朝の一世一代の戦いだったのだからだ。
 
 鎮西八郎為朝が安芸守清盛の兵八百余騎に対して為朝が九州から従えて入京したつわもの二十六騎が蹴散らしたのも戦の奇跡とも言えるものだった。為義の嫡男義朝との闘いほど熾烈をきわめたものはなかったろう。長男と八男との闘いだった。
 義朝は三条河原から白河南殿に迫っていた。数は千余騎。放つ矢は束のようになって轟音をたてて南殿の向欄を火の海に変えていた。
 為朝は源氏の嫡男義朝を探していた。
「源氏の棟梁為義を裏切り、父に刃向かううつけもの義朝はどこに。この為朝の弓をうけてみよ。」為朝が叫んでいた。
七月の太陽がもうあがっていた。ぎらぎらと白河の合戦を照らしていた。夏木立に馬のいななきと鎧がガシャガシャと鳴って、それでも負けじと油蝉がここを最後にとジージーと鳴いていた。
 闘いの趨勢はもう見えていた。北からは義朝の数千騎が南からは清盛の兵八百余騎が一旦は退いたがその勢いを回復して迫っていた。 

3月 7, 2012   No Comments

強弓為朝の鏑矢の音を聞け <王城の秋>

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 京の上賀茂神社は白河南殿から北に位置する。この神社に烏相撲という儀式がある。相撲土俵の中に烏の格好をした男が舞う。舞う烏を弓矢を持った武士が追う儀式である。相撲に金星、銀星がある。弓の的にも金、銀がある。白と黒斑の中心を的を星という。平安の時代から相撲は神事だった。
 保元の乱からだという。蟇目鏑矢が合戦に用いられたのがである。
 (ひきめかぶらや)とは蟇目矢に雁又、平根などの鏃を挿した形のもの。上差矢として通常の矢と共に箙に盛って携行し、合戦の始めや味方への合図を出す際にこれを放ち、音を出して遠くに伝えたという。強弓を引くものが轟音を出して相手を威嚇した。
 予為朝が保元元年七月十二日鶏鳴白河南殿に詰めたのは十八歳のときであった。背は六尺。紺地に獅子の丸直垂、白い唐織おどしの大荒目鎧、熊の革の尻鞘にいれた大太刀を横たえ冑は白銀の源氏冑颯爽たる姿。
 この時代の戦いは遠矢と遠矢の射戦から始まる。やがて近接して白兵戦になる。遠矢は強弓による矢風と弓鳴が効を奏するのは当然である。
 為朝の矢は弓張り月ともいう強弓だった。
 白河北殿を下流にみて序々に距離をつめてきた安芸守清盛の八百余騎が迫る。清盛の武将の五十騎余りが功を遂げんと躍り出た。為朝に対して真っ向から射掛けたのである。
 「やあやあ 遠からんものには音にもきけ近くば寄って目にも見よ、我こそは平清盛が郎党伊勢の住人古市の伊籐景綱」
 「同じく伊藤五」
 「同じく伊藤六」 と兄弟武士が為朝に迫る。
 「清盛には敵のなんたるかを知っておるのか。為朝をなんと心得おる。清盛が相手ならともかく貴様らなぞわが弓矢の無駄」
 「何のなんの、貴様が筑紫の鎮西為朝なるか。先陣景綱にとって相手に不足なし。いざ尋常に勝負勝負」とつがえた矢を切って放した。矢が空中でからめとられるように交錯した。為朝の引いた矢がものすごい音を発して武者に飛んできた。為朝が引いた分厚い鋼鉄の鏃鏑矢がギュヒューと音をたてた。
 鏃鏑矢が景綱の頸を射抜いた。射抜いた矢は跳ね返るように五郎、六郎の鎧を貫く。一瞬に清盛の郎党武者が倒れた。
「何が起こった、何だ」と清盛が叫んだ。
「為朝の弓にございます」
「なんと 為朝の弓とはそんなに強いのか」 味方が動揺している。
「退け,退け」清盛は叫んだ。
左右の武将は清盛に言う。
「なんの為朝がごとき、ひるんではなりませぬ」
「いや退くのだ。命令に従うのだ」と厳命した。そもそも清盛にはこの戦い自体に余り興がのってなかったのだ。崇徳上皇の恩寵にも預かりながら今は新帝後白河側にいる自分を意識していたからだ。
「こんな戦いで命を落としてなるものか」清盛は思っていた。
当時矢は飛び道具であった。どこから飛んでくるかもしれない戦場の花形だった。為朝の弓はライフルをもった歴戦スナイパーのようなものだ。
数の上では八百余騎の優勢を有する清盛の兵だったが鎮西八郎の弓はその的確さにおいて数を圧倒してみせた。

 

3月 5, 2012   No Comments