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Posts from — 4月 2012

みながすなる衆道   <王城の秋>

男根gigaz021

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 まろが後白河帝のもと破竹の勢いで冠位昇官し、帝の寵愛をもっぱらにしたのは、妻の朝子が幼少雅仁親王時代の乳母だったからだけでなく、性の手ほどきもなしたからだというものある。人間の嫉みというものは際限がない。まろと後白河の帝には衆道にあるというのである。
衆道とは男色のことだが、この時代には珍しいことではない。
 保元にて崇徳を担ぎ上げた張本人の藤原頼長などはみずからの衆道について<台記>にまで遺していると聞く。
つまり頼長は、乱脈な男色行為を、少しも恥とは思っていない、恥どころか、そこに政治的行為である側面を意識していればこそ、子孫のために書き残したのだ。
 このころの衆道は攻め手と受け手の両方を行為した。勿論若道という稚児相手の場合は別である。
台記に、相手の実名を記している、「権中納言」あり正妻の兄弟ありというわけだ。
 
 まろも稚児を抱いたこともある。(おびえてはいたがなにかを期待しているような若道の顔を思い出したりする。)
 平安の時代衆道がはやりだしたのは、72代白河帝のころからではなかろうか。
 女がだめでという陰間はこの時代ない。みなが流行りみたいに衆道をなしたのである。白河帝は、年をとってからは若娘の気もあり、孫ほども年のちがう女に手をつけたあげく、孫の鳥羽帝の正妃にし、「叔父子」を産ませた。この子が崇徳帝なのだ。つまり欲望に際限がない。
 
  まろの周りをみるに、帝をはじめとして、上皇、摂政関白、大臣、ほとんどすべての公卿が衆道し、しかもたっぷりと私情をまじえて、えこひいきの人事を行っている。
 (まろに嫉みを抱くのは筋ちがいなのだ)

 ここで男色とは一体どういうものかをみてみよう。、
この「習俗としての男色」というのは、なんなのかというこてである。
 実はこれには、なんと、縄文時代からの長い歴史があるそうだ。
 神話学者・吉田敦彦氏の「昔話の考古学」(中公新書)に「石棒とメラネシア原住民男性器および精液崇拝」という章がある、それによると、中期以降の縄文遺跡に、「石棒」と呼ばれる男性器を象った石製品や、注ぎ口が男性器の形をした土器が、出てくる。
 でー、これらの石器や土器には、通過儀礼(イニュシエーション)、つまり若者に大人の仲間入りをさせるための男性の成年式の儀礼の中で、使われたと推測されている。
 現実に、これらに酷似した用具を使った通過儀礼が、メラネシア原住民の間で見られようで、男児に男性としての成長を遂げさせるためには、精液の寄与が絶対に必要だと考えられていた。
 つまり、少年が大人になるためには、肛門、あるいは口腔性交により、精液をそそぎこまれる必要があった、ということだ。

 はやりの今様のように、後白河帝には衆道に恥もなにもない。白拍子も祇園女も、くぐつの女も,忍び寄る下級貴族も武士も相手を選ばずに対したのである。
頼朝は後の時代、後白河上皇を「化け物」と称したそうだが、政治を生き抜き、二条,三条、高倉、安徳、後鳥羽と五代の帝を院政したのは後白河の生きるエネルギー以外に根拠はないのだ。そのためにはいかなることにも躊躇なかった。後世頼朝でさえ後白河と交わったという説もある。

    

 

4月 26, 2012   No Comments

麿 信西の世  小説<王城の秋>

heike75 

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ここからはまろ 藤原通憲が保元の乱後の後白河の時代を語ってゆこう。まろは鳥羽上皇の時代から院政に組してこの平安の時代を生きてきた。
もう前にも書いたように、美福門の子近衛天皇が病弱で死去すると、継嗣問題は深刻なものとなって、皇室と摂関家、源氏・平氏の中でそれぞれ対立が深まり、鳥羽上皇が1156年に崩御すると朝廷の主導権を巡って『崇徳上皇派』と『後白河天皇派』が激しく衝突することになり、天皇家・摂関家の内紛「保元の乱」が鳥羽上皇の死後わずか9日後に発生した。その激戦の有様は京賀茂川の東に展開された市街戦で多くの寺院と貴重な経書だけでなく民衆も犠牲となった。勝利方は後白河の新帝派で藤原摂関家では、美福門院・得子と親しかった関白・藤原忠通(ただみち)であり、忠通に従った平清盛(たいらのきよもり)と源義朝(みなもとのよしとも)は後に源平の棟梁となる猛者であった。
 まろは勿論後白河の新帝側にいる。後白河の君はまろの乳母子だからだ。まろの妻は後白河の君 幼名雅仁親王の乳母で紀伊局であるからだ。この時代の乳母とは乳のために乳房を与えるだけではない。乳母は新君の人生全般の教育係りでもあった。命を保つ乳、乳が醸し出す母の匂い、天子たるものの尊厳と民をしろしめす威厳と寛容、それらの徳目の涵養だけでなくもっと長ずるにつれて現実的である性的なることどもについても関わることになる。
 ある朝妻の朝子がこうまろに問いかけた。
「雅仁親王さまが元服を迎えられますが、その添伏の役わらわに賜れ」と
元服と同時に娶る妻とは添伏(そえぶし)と言って、ほとんどは親が決めた形式上の妻である。ただし添伏によって親王への接近をはかろうとする摂関家が多くこのためまれに乳母がその役を引き受ける場合があった。雅仁親王は性的に極めて偏る性向を有していた。
「親王さまには姫よりもおのこに興味があるご様子。普通の姫ごをあてがうわけには参りませぬ。秘は隠さねばなりませぬ。そのためにはわらはが添伏をせねば」
妻 朝子が必死な様子でまろに訴えるのであった。
「やむをえん。そなたとは雅仁親王の乳母となったときからわが妻より親王の母と決めていた。いまさら妻よ妻よとの話は胡散臭い。そのようにせよ」
その言葉に妻はなにを思ったのだであろうか。
妻はその後雅仁親王が後白河の帝となり上皇となり法皇となるにつれて、重責となり従二位に序せられることとなる。
 妻を帝に捧げたまろもまた新帝の下で新政の中心におかれることとなる。
 まろの家系はながく学頭にあり祖先はみな博学強記の血がながれておった。まろも幼少の頃より学識を歩みたかったが、妻朝子を娶り新帝後白河の乳母となってからは、深くまつりごとのなかで蠢くこととなった。
 後白河天皇親政のもとまろがはじめて施政したのが、保元後の後白河新政であった。まず新政七か条を発令した。
新帝には白拍子や今様などの風変わりなことざまを愛する余り、経済感覚が無でありこの面では暗愚な帝であった。まつりごとには金がかかるのだ。金とはこの時代米か絹などの反物である。米や絹を担保するのは荘園である。
「全国の荘園で所有の記録のないものはすべて公領にもどす」と言い渡した。
「新帝に反したものはこれを断罪する。平氏だろうと源氏だろうとである。」
「平忠正、源為義はこれを断罪に処する」 嵯峨天皇時代以来なかった処刑を行ったのだ。
みな世人はおおきな衝撃をうけて、
「信西入道と得々したのはこのためか」と噂しておった。
 つぎにまろは保元二年大内裏を造営することを決定した。
愚管抄には「信西ガハタハタト折ヲエテ、メデタクメデタク、サタシテ、諸国七道スクナシ云々」とまろの決断と陣頭指揮を伝えている。

保元の乱では、崇徳上皇派が軍を動員している途中で平清盛・源義朝の軍勢が夜討ちを仕掛けたため、実際の戦闘はわずか4時間ほどで終わり、後白河天皇が崇徳上皇に勝利することになる。崇徳上皇は讃岐(香川県)に配流されることになり、崇徳上皇に味方した左大臣・藤原頼長(悪左府)は討死し、平忠正と源為義は斬首された。崇徳上皇は歌道の道にも通じた人で、『詞花和歌集(しかわかしゅう)』という勅撰和歌集を作らせたことでも知られているが、遂に京都(平安京)に帰ることは許されず、四国の讃岐の地で46歳の生涯を閉じることになる。源義朝と源為朝は源為義の子ですが、兄の源義朝は後白河天皇に味方して勝者となり、弟の源為朝は崇徳上皇に味方して伊豆大島に流罪となりました。後白河派の関白・藤原忠通と崇徳派の左大臣・藤原頼長も兄弟であり、平氏の後白河派である平清盛と崇徳派の平忠正も甥と叔父の関係であった。

4月 24, 2012   No Comments

博弥さん 京都読んで酒でも飲みますか

4月 12, 2012   No Comments

歴史を歩く 後白河を訪ねる

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建仁寺境内
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勅使門建仁寺 平重盛邸宅跡
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清盛坐像
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方広寺 大鐘内部  淀の亡霊が浮かび出る
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大鐘 「国家安康 君臣豊楽」
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法住寺
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新熊野神社 楠木の大木
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 東山三十六峰南端は後白河法皇と秀吉の遺跡が重なり合う。一方が時代の化け物白河院の血をつぐ天上人、一方は日吉の貧農の子である。500年のへだたりはあるが、国を睥睨するに至った二人の史跡が重なり合うのは歴史の皮肉というものか。歩くには京阪を利用して東福寺駅で降りて東大路を北上するのがよい。
 すぐに東福寺の境内が始まるが、この寺は紅葉の時期にとして、歩くと泉湧寺通りにあたるが、依然北上、左側に樟の木の大木が目にはいる。熊野信仰の篤かった後白河法皇はここに新熊野(いまくまの)神社を創建した。この樟の木は後白河法皇が手植えしたとある。確かに幹のまわりは10メートルをこえる大木である。
 神が光臨する木だという。
法皇の仙祠法住寺殿はこの社を南端とした。北は東山七条あたりまで、南北一キロ、東西五百メートルの地を占めていた。現在の神社は御所の建物を移したという社殿がのこる。

 観阿弥、世阿弥が足利義満によって見出された地だという。
 新熊野神社を出てJR琵琶湖線の陸橋をわたると右側に智積院がある。秀吉の長男鶴松の菩提を弔う寺として建立された。すこし行くと秀吉のねむる豊国廟がある。
この智積院を右にみて七条通りを左折する。三十三間堂が左に右が国立博物館である。三十三間堂を右にして左折すると養源院と法住寺殿がある。後白河稜は法住寺の手前の小道をゆくとつきあたる。養源院と隣り合うようにして後白河が満開の桜のもと1000年眠っている。花びらがはらはらと散る。

 大和大路にはいると右側に豊国神社がある。秀吉の廟所のある阿弥陀峰の中腹に秀吉を祭神としてたてられた。徳川政権に取り壊されたが、明治になり方広寺境内に再建された。現在の方広寺は狭い。ただ、かの有名な鐘楼が残っている。因縁の鐘とは秀頼が大仏建立と同時に大鐘をつくらせたたが、その銘文 「国家安康 君臣豊楽」に家康が因縁をつけて大阪冬の陣、夏の陣となり豊臣滅亡に至った鐘がある。

 中にはいると確かに淀の君の亡霊のようなものが浮き出て見える。
 方広寺をでて国道一号をわたり大和大路をゆく。六波羅蜜裏通りをゆき左折すると六波羅蜜寺がある。平家物語の舞台で清盛の邸宅があり、六波羅探題があった。平家を偲ばせるものはこの六条にはのこっていない、ただこの六波羅密寺だけが1000年の昔を偲ばせてくれる。蜜寺には清盛の坐像と同時代の空也商人の坐像がある。清盛の像と数分間だが、睨みあった。分厚い唇で頬が膨らんだ独特の風貌に半眼のまなざしが厳しい。その目が睨むのは果たして何なのか。しばらく考えたが浮かばないので止めた。
 六波羅をすぎると建仁寺の勅使門が目に入る。京都でもっとも古い禅刹で一直線の伽藍形式をとる。勅使門には矢傷がのこり、何気なくそこにあるが、かっての平重盛の邸宅跡なのにぎょっとする。
ここで再度後白河法皇をみてみよう。1127年から1192年 鎌倉幕府創立の年まで生きた。鳥羽天皇の第四皇子。幼名雅仁。変人で今様と白拍子を愛した。清盛、義仲、頼朝、らとの駆け引きを繰り返しながらながく院政をしいた。頼朝は法皇を日本一の大天狗と称した。34回もの熊野詣を行っている。梁塵秘抄をあらわした歌人でもあった。

 

4月 12, 2012   No Comments

歴史を歩く  醍醐寺

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 三宝院枝垂桜

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 五重の塔

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 霊宝院の桜

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 五重の塔

仁王門
 仁王門

  四月の桜とくればもう醍醐寺を訪れるしかない。醍醐は桜である。それも大木の枝垂桜である。それも何本もある。吉野が山桜で世界一なら醍醐は枝垂桜だ。世界遺産の醍醐時は広大である。
三宝院、仁王門、五重の塔、金堂と山上、山下まで80余の伽藍が建つ。山上までの450メートルまでには女人堂を経て開山堂までの上醍醐にまで登ることができる。
 小生は下醍醐で十分とまたの機会などないだろうがここでやめた。
 三宝院には醍醐寺の座主であるが、境内にはみごとな枝垂桜がここを極楽と咲き乱れ、寺内には狩野等伯の襖絵国宝の表書院がある。なかの坊主がこの先は行き止まりですと言ったのでわしの人生と同じかと言ったら、笑っていた。総門の前には欲張った不動産屋が新築の一軒屋を売っていたが、雨月茶屋でなにげにあった男と話をしていたら、ここは鬼門でこの辺で幽霊がよくでると話していた。
 とにかく怖い話でそういえば平治の乱や承及の乱では東山を越え宇治に逃げる途中で多くの源氏平氏が死んだ。醍醐寺の辺りは武士の怨霊が聞こえてくるはずだ。
 三宝院の庭園は秀吉みずからが設計したという。まず庭の中心に三尊石の阿弥陀仏に当たるところに藤戸石が運び込まれた。秀吉は伏見城で醍醐寺花見のあと数ヶ月でなくなったが、その後も義演が庭園工事を続行した。この石こそ室町幕府の細川氏綱のもとにあり、その後信長が二条城に運び、秀吉が聚楽第、さらにここ醍醐寺に運んだ運命の石である。背後の築山には秀吉を祀る大明神がある。
 なくなる直前の秀吉の花見。人は散る桜と咲く桜のどちらに人生を重ねるのであろうか。

抜粋

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4月 11, 2012   No Comments

歴史を歩く 銀閣から哲学の道

銀閣入園券
銀閣入園券おまもり

松井酒造 金閣、銀閣
松井酒造 金閣(黄金閣) 銀閣(白銀閣)  銀閣は銀閣寺のみ販売

銀閣垣
銀閣垣

黒谷へのみち
黒谷へのみち

銀閣
銀閣

三嶋亭
三嶋亭

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銀閣寺から哲学の道を歩く。
 御所今出川門を出るとすぐに同志社大学がある。その横の道を直進すれば相国寺である。この寺ほど歴史にかかわる寺もないほどの古刹である。京五山のひとつであり、相国入道といわれた清盛の名前もここからである。相国とは左大臣の別称である。足利三代将軍義満により創建された臨済宗相国寺派の本山である。金閣と銀閣もこの相国寺の塔頭に属することは余り知られていない。立派な門をくぐると桃山時代の法堂がある。浴室の傍の小道をゆくと墓のつななりがみえてくる。ここには維新時の長州志士の墓とともに伊藤若冲の墓がある筈だがいくら探してもみつからなかった。代わりといっては何だが松井家の墓が目立つ。どうしてだかが、銀閣寺の土産屋で酒を売っていた青年と話しているうちに判明した。
 濁り酒だが、松井酒造とある。わしも松井だが京都の松井酒造が銀閣寺とどう関係があるのかきいてみたら、この酒造会社は相国寺御用酒造だそうで相国寺の塔頭に属する銀閣寺と金閣寺は勿論ここから酒を調達しているという。だから相国寺に墓があるのだということが判明した。金閣と銀閣という酒を販売している。京都だけで買える。
 
 銀閣寺に向かう。京大農学部と百万遍をすぎると銀閣寺への道が東大路から分かれる。哲学の道の疎水が銀閣寺を導入している。
 銀閣寺垣とよばれる独特な竹を段々に重ねる垣根を椿の木が覆うようにつながって美しい。このような美しさはもうここにしかないし、もう作れと言ったってだれが作れよう。伝統は人間にしか後世に伝えようなない。庭師も育てずに伝統の庭といっても無理な相談だ。日本文化継承とは畢竟現代を生きる我々の問題だ。

 銀閣寺は砂を盛り模様を描き出した抽象の宇宙が見事である。屋根を葺く杮葺が気の遠くなるような作業から生み出される。慈照寺銀閣の観音殿が二層で一層が心空殿、二層が潮音閣、板壁は創建時は真っ黒であった。庇ともいえる部分には白く塗り分けられた柱が壁の黒と全く美しい対照を生み出していたに相違ない。中国やインドの僧院が黄金や目立つ色合いで極楽を浮き出させ人心を照覧させようとしたのに対して何と言う侘びの感覚なのだろう。日本人とはこういう考え方を人生に映していたのかと自らを反省させたりする。銀閣寺も金閣寺も受け付けの観覧券がお守りとなっているのに感心する。

 銀閣は少し庭を上って上方から見下げると美しい。見下げるとは傲慢だが美しいものはしょうがない。

 銀閣寺に後ろ髪をひかれながらも坂道の参道をくだり、哲学の道とよばれるようになった疎水を歩く。西田幾太郎が散歩した道として哲学の名がつけられている。吾は吾の道を行くのみとは小生と全く同じ。この道はわれの道か。春爛漫 冠雪桜が満開。疎水に花びらが散る。目に入るものが美しいのでなく、こころに染み入るのが桜である。
 
 桜橋を曲がって、真如堂、金戎光明寺への急坂なさかを登ると五重の塔と法堂、光明寺の総門がある。

 そこから予約してあった寺町の三嶋亭にすき焼きを食いにゆく。ここの肉はうまい。京都の中年の女将がすき焼きを焼いてくれる。肉もうまいが、しらたきとねぎがわけても旨いのだ。小さな部屋だが、塗りのテーブルに八角の電熱線が敷かれて昭和や大正の味がした。川端康成の書が掛けてあった。「美味迎年」とあるからには正月に食いにきたのだろう。

 午後からいっぱいひっかけた勢いで南禅寺にむかう。南禅寺三門を登る。急で怖い階段を縄にすがって登る。年なのか高いところに登ると足がすくむようだ。無理もない。もう66歳だから。若くはない。登るとそれでもビルのむこうに京の町並みと左に黒谷の総門と真如堂の森が見え、後ろには永観堂の塔がみえる。南禅寺には方丈の庭園があるが今回は工事中にて拝観できず。水路閣をみた。

 京都は1000年都だった。壊され、焼かれ、戦乱の巷になり平氏源氏、天皇家が諮り、坊主がはびこり、戦国にはその覇権の舞台となりながら、徳川の時代となり維新の志士が暗闘した。日本の歴史がここにある。よそものを嫌う気風がいまものこる。京都人にいわせるとわれらは関西人じゃないという。京都人だという。この1000年を生き延びて歴史を現代につないできた誇りなのであろうか。表面は軟弱にみえるが芯はつよくしぶとい。いけずともいう。

4月 11, 2012   No Comments

歴史を歩く 御所公開

宣秋門
宣秋門

鶴沢探鯨 龍の図
鶴沢探鯨  龍の図

虎の間
虎の間

紫宸殿
紫宸殿

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御所枝垂桜

御所枝垂桜

醍醐時五重塔枝垂桜

醍醐時五重塔枝垂桜

 4月5日から一週間 京都 桜の寺院、旧跡を歩いた。
一日目.重層した歴史 御所洛中散歩
  御所、相国寺、西陣、平野神社
二日目.哲学の道、黒谷、南禅寺、銀閣散策
三日目.醍醐時 勧修寺
四日目.東山中心部 六波羅、建仁時、清水、八坂、円山比叡
五日目.比叡 西ノ京
 京を足で回るとみえてくる。日本を形づくる精神の世界と流された多くの人達の血が。吉田山を中心とする東山で戦われた保元の乱。ここを義朝がせめ、清盛が現在の平安神宮のあたりから鎮西八郎為朝と弓たがえを交わしたことなどが偲ばれる。比叡に上る中山越えと雲母坂と地蔵坂の急坂な道を比叡の僧衆が神輿を抱えて強訴に及んだこと、根本中堂の蜜修業の荒業を開祖最澄、そして法然、親鸞、空也、と日本5仏教の流れ 律,台、蜜、禅,浄の中心にあることを。
 京の町並みといまだに残るあだし名には室町通りに足利が、天子突き抜け通りに天皇のあわただしく逃げる様を、上御霊や下御霊、鳥辺野の民衆の墓地を、平安となづけた時代がいかに未平安であったのかが見えてくるのである。
 わたしが今書いている小説<王城の秋>の舞台をこの足で歩いた。もう誰も気もつけない町の往来にひっそりと残る碑をめぐり、足の下のアスファルトの下に瞑想とイマジネーションをめぐらしてかえらない歴史を体で感じ、平安のばけもの後白河、権力の権化清盛、東国の山賊源氏、足利、新田、後醍醐、戦国の信長、秀吉、淀、家康の声を聞く。京都ではそれができる。人は京都では1000年の歴史の重みでつぶされてしまうのではないかとおもったが、どっこい京の人達はなにもしらないかのように流れた血の跡に家を建て、鳥辺野の人骨の眠る地に平静と暮らしていた。

 御所

 今年春の一般公開には干支辰に因んで江戸中期の絵師鶴沢探鯨による屏風の龍の図が公家が御所に入る玄関 「御車寄」に展示されている。小御所には皇族の女性が板輿にのって御所から出かける姿が人形により再現された。7日には雅楽、8日には蹴鞠が催された。この御所は南北朝から明治まで500年にわたり歴代の天皇がすまわれた。御所は天皇家の所領で宮内庁が管理している。
 御所には宣秋門からはいる。御車寄ー諸大夫の間ー新車寄-建礼門ー回廊ー承明門ー春興殿ー日華門ー紫宸殿ー清涼殿ー小御所ー御学問所ー御池庭ー御常御殿-御内庭-聴雪ー御三門ー清所御門から出る。

 写真を御覧のほど
次回銀閣から南禅寺まで 

4月 11, 2012   No Comments

京都 桜を歩く

4月5日から一週間 京都 桜の寺院、旧跡を歩く。
1.重層した歴史 御所洛中散歩
  御所、相国寺、西陣、平野神社
2.哲学の道、黒谷、南禅寺、銀閣散策
3.東山中心部 六波羅、建仁時、清水、八坂、円山
4.比叡
5.奈良吉野さくら
ブログにて掲載

4月 1, 2012   No Comments