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Posts from — 5月 2012

オンマニ ハラバリタヤ 云 小説<王城の秋>

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 保元の乱後の世界をつくりあげていったのは拙僧である。
世に信西こそが頼長を窮しさせ、崇徳に入れあげさせてみずから後白河をたて、武士平家と
源氏の武力を後ろ盾に信西の世をつくったというが、そんなことはあとで皆が言うだけで
当人の拙僧が 生きながらえるにはそれしかなかっただけだ。
 保元から治承 寿永の争乱、平家一門の興隆、滅亡、頼朝による天下の草創にいたる平安時代中期から末期
世は薄気味悪い呪術に塗り固められて闇にぬっと浮かんではさっときえゆく鵺のようなものだった。
 そのなかで拙僧が合間見えたのは多くの希代の士たちであった。とりわけて人の世の「武者」のいのちなはかなさは
拙僧がいたくかんじたものだった。
 拙僧は信西となって出家したのだが、その出自を書いておこう。
 通憲(信西)の家系は曽祖父・藤原実範以来、代々学者(儒官)の家系として知られ、祖父の藤原季綱は大学頭であった。ところが、天永3年(1112年)に父・実兼が蔵人所で急死したため、7歳の通憲は縁戚であった高階経敏の養子となった。

高階氏は院近臣・摂関家の家司として活動し、諸国の受領を歴任するなど経済的にも裕福だった。通憲は高階氏の庇護の下で学業に励み、父祖譲りの才幹を磨き上げていった。保安2年(1121年)頃には、高階重仲の女を妻としている。 通憲は鳥羽上皇第一の寵臣である藤原家成と同年代で親しい関係にあり、家成を介して平忠盛・清盛父子とも交流があったとされる。

通憲の官位の初見は天治元年(1124年)の中宮少進(中宮・藤原璋子)であり(『永昌記』天治元年4月23日(1124年6月7日)条)、同年11月の璋子の院号宣下に伴い待賢門院蔵人に補された。璋子の子である崇徳天皇の六位蔵人も務めたが、大治2年(1127年)に叙爵して、蔵人の任を解かれた。この年、2人目の妻である藤原朝子が、第4皇子・雅仁親王(後の後白河天皇)の乳母に選ばれていることは前にも書いた。

散位となった通憲は、長承2年(1133年)頃から鳥羽上皇の北面に伺候するようになり、当世無双の宏才博覧と称された博識を武器に院殿上人、院判官代とその地位を上昇させていった。その後日向守に任命されるとともに、『法曹類林』の編纂も行っている。

通憲の願いは曽祖父・祖父の後を継いで大学寮の役職(大学頭・文章博士・式部大輔)に就いて、学問の家系としての家名の再興にあった。ところが、世襲化が進んだ当時の公家社会の仕組みでは、高階氏の戸籍に入ってしまった通憲は、その時点で実範・季綱の後を継ぐ資格を剥奪されており、大学寮の官職には就けなくなってしまっていた。また、実務官僚としてその才智を生かそうにも、院の政務の補佐は勧修寺流藤原氏が独占していた。

 これに失望した通憲は、無力感から出家を考えるようになった。通憲の遁世の噂を耳にした藤原頼長は通憲に「その才を以って顕官に居らず、すでに以って遁世せんとす。才、世に余り、世、之を尊ばず。これ、天の我国を亡すなり」と書状を送った(『台記』康治2年8月5日(1143年9月15日)条)。数日後、通憲と頼長は対面して世の不条理を嘆き、通憲は「臣、運の拙きを以って一職を帯せず、すでに以って遁世せんとす。人、定めておもへらく、才の高きを以って、天、之を亡す。いよいよ学を廃す。願わくば殿下、廃することなかれ」と告げ、頼長は「ただ敢えて命を忘れず」と涙を流した。

鳥羽上皇は出家を思い止まらせようと康治2年(1143年)に正五位下、翌天養元年(1144年)には藤原姓への復姓を許して少納言に任命し、更に息子・俊憲に文章博士・大学頭に就任するために必要な資格を得る試験である対策の受験を認める宣旨を与えたが、通憲の意思は固く、同年7月22日(8月22日)に出家して信西と名乗った。

出家をしても信西は俗界から離れる気はなく、「ぬぎかふる 衣の色は 名のみして 心をそめぬ ことをしぞ思ふ(出家して墨染めの衣に着替えても、それは名ばかりのことで心まで染めるつもりはない)」(『月詣和歌集』)とその心境を歌に詠んでいる。鳥羽法皇の政治顧問だった藤原顕頼が久安4年(1148年)に死去すると、顕頼の子が若年だったことからその地位を奪取することに成功し、『本朝世紀』編纂の下命を受けるなど、その信任を確固なものとしていった。
 要するに拙僧など身分の低いものが平安の世を牛耳るとは時代が間違っておったかそれともはきだめに咲いたえんどうの花みたいなものだ。
 合間見えたものには西行がいる。西行は衛府につとめていた左衛門尉佐藤康清の子で名を義清といった。鳥羽院北面の武士となり平清盛などと仙洞に仕えたものだ。
 その彼が
 そらになる心は春のかすみにて 
  よにあらじともおもいたつ哉
 世を厭う名をだにもさは留めおきて
  数ならぬ身のおもいでにせん
 と詠んで「遁世」した。
 その西行に小倉山の庵で逢うたとき、
 「西行とは西国異土への旅たちか」と問うてみたことがある。
 西行はそっと唇をほそめながら、
 「よのなかを捨てて捨てえぬここちして
 都離れぬわが身なりけり」と歌で返したきたことがあった。
 その後の西行は高野山、伊勢をすみかとし旅にあけくれて数おおくのうたをのこしたが、西行に花はつきない。
 拙僧はそのなかで 
 「ねがわくははなのしたにて春しなん
  そのきさらぎの望月のころ」なるうたには魂を奪われる。
もうひとりといってはなんだが 拙僧と親子ほどの年の差だが
下賀茂神社の禰宜の子長明がおる。
 小さい頃から琵琶をひいいては拙僧の無聊を慰めてくれたものだ。
 長明はやがて「遁世」して日野の下山に庵をむすび「方丈記」をのこしたそうだ。
 さて拙僧はというと小さき頃より父実兼より真言のまじないをおそわっておった。

           となえたてまつる光明真言は大日普門の
           万徳を二十三字に摂(あつ)めたり
           おのれを空しゅうして一心にとなえ奉れば
           みほとけの光明に照らされて 三妄(ま
           よい)の霧おのずからはれ 浄心の
           玉明らかにして真如の月まどかならん

           おん あぼきゃ べいろしゃのう 
           まかぼだら まに はんどま じんばら 
           はらばりたや うん
                 

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5月 31, 2012   No Comments

花のいろ

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  花のいろはうつりにけるないたずらにわが身よにふる眺めせしまに 新古今 小野小町
 
 この季節、うつぎの重たいがしっかりとした白色の鮮烈さにびっくりする。花の色が遺伝子により
決まるのは分かっているが、その色自体の物質をどのようにしてみずからの細胞にとりこむのか。富士の裾野の焼き物工房で考えた。

 もう20年以上やきものを修行してきたが、青磁の鉄、辰砂赤の銅、黄色のクローム、青の酸化コバルト、
さらに酸化、還元、の技術、1200度から1300度までの温度差と時間、さらに土の成分が作用する。 際限もない組み合わせでやっと色が発色する。
輝かしい一色を手にすればもう天にも登れるほどのことだ。
 
 それを花は自然に手に入れて、やまうつぎが眼前にシンプルに見事な発色をして存在している。
 ものの本によれば遺伝子に書き込まれた色素だという。では花の色を決める色素にはどんなものがあるのか?
 カロチン類・・オレンジ、黄色、赤などの色素群。濃い黄色や橙色の花に多く含まれる。水に溶けず、油に溶ける。
 フラボン類・・薄い黄色から濃い黄色の色素群。アントシアン色素と類似した構造を持つ。野菜の煮汁が黄色になるのはこの色素が溶けたことによる。溶液の酸性度で色が変わり、酸性では薄く、アルカリ性では濃い発色を示す。
 アントシアン類・・赤、青、紫、ピンク、オレンジまで幅の広い色素群。溶液の酸性度で色が変化し、酸性では赤、中性で紫、アルカリ性では青を示す。ただし、この色素は酸性溶液では安定しているが、アルカリ性溶液では不安定で極めて短時間に分解する。
 色素は花びらの表裏の表皮部分に含まれており、中心には含まれていない。紙を千切るように花びらを引き裂くと、薄くはがれた表皮に色があるのが分かる。

  うつぎの白い色素は存在しない。花弁の細胞内の気泡だという。
はなの色変わりは色素の量が変化するからだという。色素の量に土壌中の酸性、中世、アルカリ度と、助色素、金属、糖類などが複雑に組み合わされて安定した色素複合体(超分子構造)により色が移るのだというが、
 まだまだ解明が済んではいない。
 小町が詠んだ眺めとは長雨と掛詞だが、うつぎの白色は長雨のやんだ朝が一番うつくしい。

5月 25, 2012   No Comments

born this way

 もういい加減にしたらいい。
仮面の告白などいい加減やめたらと思う。
 もっと挑戦的なもの。隠してるけど何時かは白日の下に晒されるもの。
 それを告白すべきだ。
じゃなきゃプレミアムエージの革新性が消えて「ぼけ」ま近の老人クラブウェッブサイトにしかならない。
あえて皆様の反論を期待したい。
 もう表面の裏側にあるもの。言ってみればじっと真実なもの。子規が「痰一斗へちまの水も間に合わず」と言わせたもの
の真実を語れるようなプレミアムエージを期待すのは思いすぎかね。
博弥さんよ「なんとか言いたまえよ」
 要するに『孫がどうしたの」「swedennの歌手がどうしたの」『御苑の花がきれいだの」、素晴らしいことで、ゆたかな事象だが、
私の書くものも日和見だが反省してる。
ほら ガガだって歌ってる。「、もう生まれたら、それで、レズでもホモでもバイでも、白人でもアラブでも東洋でも黒でも貧乏でも金があっても
だからなんなの。こういう風にして真実なんだから。」(born this way)
 赤裸々に人生を語ろうじゃないの。
 みなはまだだと思うかも知れないが「前をみれば先がない後ろをみればもう後がないんだら」ネ
ne—-
 博弥さんよ。 
 

5月 10, 2012   5 Comments