プレミアムエイジ ジョインブログ
Random header image... Refresh for more!

Posts from — 6月 2012

誰も分かっちゃいない真実 (小沢輿石会談)

 政治記者ほど分かってない存在はない。
小沢が撤回を求め、輿石が党を割らない。表面はそうだが。裏は違う。
撤回はそうだろう。それ以外に言う言葉はないし、参院を預かりどうにか法案を通すには
参院第一党はゆずれないのが興石。でないと委員会審議が出来ない。委員長を変えるとなると大事だ。
小沢党立ち上げには金がいる。来年一月なら新党でも金がでるが、今ない。
そこで参院で会派はでるものの、離党しないということで、銀行担保のための信用保証を求める。
これで新党が出来る。法案成立後新党成立。
このあと誰を党首とするか、誰を担ぐかだが、原口一博あたりではだめで、河野太郎なら目処あり、もしかしたら
渡辺喜美あたりか。なにしろ親父を担いで首相にとの過去の恩義がある。
これが現実だというやつが誰もいない。たくもう!!

6月 28, 2012   No Comments

信西自ら生き埋めを命ず 小説<王城の秋>

b12051201

by dankaita
にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ
にほんブログ村
ブログランキングのためクリック願います。

 放免の源蔵が息せき切って姉小路の我が屋敷に飛び込んできた。口から泡をふいてことの重大さを告げていた。
「お館殿」
 源蔵は普段から拙僧を昔の日向守の名前で呼んでいた。信西はもともと鳥羽院治世の進士蔵人実兼の子であった。のち
 長門守高階経俊の養子となり日向守通憲と名乗ってめぐまれずに階前の御用奉仕に明け暮れていた時代があった。源蔵は清水の社寺で法主妙信と結託して没落公卿や武士に金貸しを生業に生きていた。
 その時代信西は妻朝子が雅仁親王(のち後白河天皇)の乳母となり、その人脈でのし上がってゆく。のし上がる信西に金を融通したのが源蔵だった。
源蔵はその後清水の法主妙信の賄賂事件で連座して牢につながれるが、信西がその罪をゆるして今では京の放免として名をなしていた。
 「重大事でござる。藤原信頼が大軍でここ姉小路に押し寄せ火をかけようとしております。お逃げなされませ。」 頼みの清盛はもう七日も前の十二月四日に熊野参詣に向けて出立してしまっていた。
 「そうか、女、童に先に逃げよと申せ。わしは秘蔵の月毛の馬と舎人成澤をつれてひそかに南都方向に逃げる。妻朝子二位の局は後白河の君に従え。信頼も上皇の乳母にまで手をだすまい」
 右衛門督信頼と信西とは後白河の寵愛を同時に受けていたが、信頼が大将の位を院にねだったことから、信西との仲がこじれていった。いまや信頼は信西一門を滅ぼそうと左馬頭義朝と陰謀を語らっていた。
 信西は月毛の馬にまたがり密かに夜の闇にかくれて姉小路の屋敷をでた。遠く東山連峰に上弦の月がでていたが、三日月では漆黒の闇を照らすほどではない。
 「宇治をめざせ」舎人成澤に信西はそう告げた。
 東山をよじのぼり、山科から奈良街道を南に下って行く。醍醐の地を経て宇治路にかかり田原の奥大道寺に至るのだ。
 その時であった。東の空を彗星が赤く尾をひいて流れてゆく。木星が亥の方向にあった。天変の相であった。信西は天文を推察するにたけていた。
 「忠臣が君にかわる相とでた。この信西君に代わるなどおもうべくもない。とすれば忠臣とは誰のことか」 と黙々と歩みを進めていた。振り返ると鴨川の東、三条殿と姉小路あたりが火につつまれているのか明るくなっていた。
 「信頼め、御所の上皇にまでせまったのか」信西がうなった。
 三条殿の様子はそのときいいようもないくらいだった。各門を武士たちが固めていたが、各所に火をつけられて猛火が虚空に満ち暴風が煙雲をあげる。御所の階前を公卿があたふたと黒い歯をみせて逃げ惑う、女御たちは尻をはしょって庭の池泉に飛び込んでしまう、それを信西の一門と見間違えたが信頼の軍勢が切り捨てる。地獄の様相を呈していた。人間はかくまでも陰惨なものか。火にやけまいと外に出れば矢にあたり、矢にあたるまいと帰れば火に焼け、矢をおそれ、火を避けようとするものは御所の井戸に飛び込んだ。最初に飛び込んだものが溺死し、その上に飛び込んだものは、さらに上に重なって落ちてくるものの下で圧死した。
 上皇は御所のなかで信西の息子の俊憲と貞憲と一緒にいた。立ち煙る業火が世上にも迫ってきていた。
「御出座あそばしませ」
「紙燭をもて 紙燭だ」
「なにごとぞ、なに信頼だと。公卿の分際で朕になにをするぞ」
その君の影にむかってゆく姿があった。
「--年来、君のおいとしみをこうむりましたが、我慢できぬのが入道信西の讒言。ついに清盛とはかって我藤原信頼を責め滅ぼす
との報が届きましてござる。ここはその前に東国に下ることに決めもうした。ついては上皇の君を入道から保護奉り、入道の血筋を殲滅するのみにござりまする。」
「なに、誰がそのような讒言をしたというのか。朕にむかってその言葉は許せぬぞ信頼」
「世上の君、もう遅すぎまする。賽の目は振られたのでございまする。皆のもの上皇を牛車に御相乗もうせ」
「あ なにを命ずるのだ 信頼」
そこへどやどやと下足の武者輩が飛び出してきた。東国の武者輩にとっては上皇もなにもない。むんずと上皇の体を担ぎ上げると、すでにまちかまえていた
御車に押し込んでしまった。
源氏の領袖が集まっていた。左馬頭 義朝、、源中納言師仲,をはじめ勿論、軍の中心に中納言信頼、検非違使別当惟方、三位経宗もいる。
「上皇ほんのしばらくでござる。決してご憂慮には及びませぬ。」
「御車をすすめよ」と信頼の声がひびいた。
十二月の凍てついた道を御車を何十騎の武者が取り巻いて、その速度を増してゆく。瞬く間に朱雀大路を越えて、御所の南建礼門院につきあたる。
「北だ。 北にまわれ」 一本御書所に進むのだ」
こうして信頼と義朝は上皇の身をクーデター宜しく寂しく立つ御書所に幽閉してしまった。
「信西はいかかがした。信西につたえよ」 上皇の声がむなしくひびいた。
 そのころ信西は石室山のうしろ、信楽峰をすぎてはるばるとわけいっていた。そこに京の情勢を探らせていた成影が帰ってきてことの趨勢を伝えてきた。
「院の御所はすべて焼き払われ、姉小路の館も焼き払われてございます。敵は右衛門督藤原信頼、と左馬頭源義朝。上皇様はどこかに幽閉されました」
「そうか 忠臣が君に成り代わるというは 信頼のことよ。拙僧ではない。だがここは信西むざむざとこの首をさしあげるわけにはいかぬ。われのいうとおりにせよ。
この信西が忠臣がどのようなものかを後世にまで見せてしんぜよう」
「皆のもの、そこの祠のうらに穴をうがて。四方に板を立て並べ わしが入る。そのあとで大きな竹の節をとおして口にあてて、堀り埋めるのだ。」
「なぜ竹の櫛をとおすかのか、それは生きている間の寸刻に仏のみ名を唱え申すのが所存。埋め終わったら即刻皆はこの地を去れ。さすればこの首は誰の手にもわたさぬ。よいか」と厳命した。
 追随していた四名の武士はそのようにして今や墓ともなった土盛を平らにして草をかぶせて泣く泣く都へ戻っていったのである。
人間の妬み、恨みとはなんとおそろしいものだろうか。
 その後この墓は泣く泣く京に帰った武士の舎人成澤が捉えられて拷問にかけられてついにはあばかれて首を切られて鴨の河原にさらされた。五十四歳の生涯であった。
平安の時代に新荘園制度を創設し、内裏を改修し、宋貿易の基礎をつくり、遣宋使と大船の製造までの夢を清盛と果たさんとした男の最期であった。

6月 26, 2012   No Comments

歴史と夜  小説<王城の秋>

heike75

にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ
にほんブログ村
ブログランキングのためクリック願います。

 歴史は夜作られる(れきしはよるつくられる)とは、世に語り継がれている歴史の多くが、夜、すなわち大衆の多くが気づかない間に、創造されていることを要約した言葉である。
 時代の変遷は実は合戦の趨勢や、権謀術数の結果で表向き決定されているように記述されそれが歴史として認識されているが、それは一面の真実でしかない。

  「平氏にあらざれば人にあらず」とまでの権勢をほこる平氏も、五代の帝を従えた妖怪後白河法皇も<夜のとばりが幔幕のように世をつつみこみ一寸先も見えぬ漆黒の闇>の夜いたたまれない不安、失望、裏切り,生への飢えにさいなまされて悶々と朝のくるのを待ったに違いない。
 漆黒の闇の中で人は傍に人をおき肌ち肌を接しながら身の処しかたを問わず語らず確認したのだ。人は自分の大切なものを保持しようとする生き物だから、特に武力も力もない平安の女御たちは言葉と身を弄して自分の愛するもの保持に権力を誘導していった。
 だから実は歴史は一面闇と閨房の女が酒樽の酒が発酵するように醸成させてものとも言えるのだ。
 後白河が寵愛した平滋子という女がいた。父は兵部権大輔・平時信(贈左大臣)、母は中納言・藤原顕頼の娘、祐子(すけこ)。兄弟に時忠・親宗、姉妹に二位尼時子(平清盛継室)・、息子が高倉天皇となったことから建春門院と号された。滋子は美貌の持ち主でしっかりとした信念のある女性であったらしい。

 「女はただ心から、ともかくもなるべき物なり。親の思ひ掟て、人のもてなすにもよらじ。我心をつつしみて、身を思ひくたさねば、おのづから身に過ぐる幸ひもある物ぞ(女は心がけしだいでどうにでもなるもの。親や周囲のせいではない。自分の心をしっかりもって我が身を粗末にしなければ、自然と身に余る幸運もある)」 と書に遺している。

 拙僧少納言信西もその例外ではない。
忠正と為義を斬首し皆の怨嗟をこの一身に受けているが、元はといえば吾が妻朝子が後白河の乳母でその愛する子を慈しむ女の性に誘導された結果とも言えなくもない。
義朝や清盛らが
 「信西殿、あまり民衆を敵につけると、その火の粉は自分の身にかえりますぞ」とおどされても、
 「きのうはきのう、きょうはきょう、政治の大事は今日をみることだ。義朝も清盛もその冷厳な真実を分かっていない」と薄笑いをたたえて諭したものだ。

 あるときなど文覚という坊主が我が姉小路の館に怒鳴り込んだことがあった。文覚とは遠藤三郎盛遠という武者で若き頃人妻に恋慕し誤ってその人妻の寝首を切り、発心して五情を絶ち六欲を観じ、南都、比叡の苦行に励み、大蔵経の経倉にいっすいの灯をともして思考三昧、自己のなかに仏性を来迎して仏果をみがいてきた僧であった。
 「--尚聞く、朝議日々、貴僧が口を開くたび、かならず人が惨殺される。義朝の父為義の首、清盛の叔父忠正の首を六条の河原にさらし、その上幼子を道にならべてこれを刺殺するは冷徹非情,人にあらず」仏に道を求める僧でありながらなんという諸行地獄に落ちろ。
「貴僧が文覚か。人妻に横恋慕し、その挙句誤って寝首を切るなど言語同断。発心して僧となろうが、その咎が消えようか。その上天下の政道に難をつけるか。そもそも拙僧は極楽などに縁はない。この世がすでに地獄。この世を正すにわし以外にだれが居るというのだ」
「痴れ者とは文覚お前のことだ。」
 とたんに拙僧の家の武者が
「糞坊主、我が主信西様をそしるか、主をそしるは勅をそしること」と薙刀の柄で坊主の腰むけて突いて出た。
元は北面の武者文覚ひらっと身をかわすと持っていた杓で相手の頭をうちのめした。
「信西、貴僧ももう何年かの命としれ、大衆の怨嗟をあなどってはならぬ。」と比叡にこだまして修行した大声をたてながら表の平門をでていったものだ。

 一方新院崇徳は讃岐に流され配所の鼓ケ丘に移されたのが平治元年ここに恒久的な牢舎がきずかれたのである。山を背に柵をめぐらし出入りはひとつ木戸であった。
「せをはやみいわをせかるるたきがわの
 われてもすえにあわむとぞおもう」
 と父の臨終の席も拒否され藤原悪左府頼長に弄されて今や 配流の身となっていった。
 「はまちどり
 跡は都にかよえども
 みは松山に
 おとのみぞきく」
 と御詠までを書き残した。
 そして「やおれ思い知れよ、われ魔性となれば王をとって下民となし下民をとって王となし、この国に世世乱をなさん」と舌をかみきりその血で呪いの誓詞を書いてわしに送ってよこした。
 それほどの怨嗟をわが身一身に受けて拙僧は後白河の世をつくって行ったのだ。
 

 

6月 20, 2012   No Comments

法住寺殿にすむ妖怪 小説 <王城の秋>

322a
後白河が手植え新熊野神社(いまくまの)楠大木

にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ
にほんブログ村
ブログランキングのためクリック願います。

 
 拙僧信西は京の街を放免を道案内にしてよく歩いたものだ。牛車に乗ってもよいがそれでは民衆の心や
時代に潜む地中のうごめきが感ぜられない。放免者というのは使庁放免ともよばれているもので,囚獄された
身となっておるものを拙僧が放免するかわりに逆に「蛇の道は蛇」と今度は犯罪や謀反の動きを探索させることにしたものだ。
 放免者のなかに、放免の源蔵というものがおった。源蔵は清水の音羽寺の法主妙信の貯める金銭を商家に融通する金融を業としていた。
409a
いはば法主と結託して社寺の権威をかりる狐のような存在だったが、借財を取り立てるのに汲汲としてついには借金のかたに娘や女房を
東国に売りさばいたり傾城にしたりがばれて投獄されたものだ。
 源蔵よ 「わしに放免されてこのように逆に探索の身になったことをどう思う」ときいてみたが、
 源蔵は無言だった。
 多分武士がひとを殺すのが仕事であるように、殺しても勝ち側にいれば勲章、負ければ首を刎ねられる。盗賊や悪事も当人にしてみれば
盗むのが仕事、食うための仕事で、見つかり捕らえられれば囚獄されて罪人になるだけだと言おうとしているに違いない。
 この時代民や武士にとって正直な時代だった。
 「人は身を賭して食うものを得、子や妻を養った」のだ。ただ公卿や坊主や神官らの特権階級だけがのうのうと身を賭さずに生きていたのだ。
 「さすれば放免者と言われて指さされる源蔵こそにこそ生きる人間の厳しさを知るべきだ。」と拙僧は思うのだ。
 この時代に現れてきたものには猿楽や田楽の法師たち、琵琶をひく法師たち、白拍子や傾城(遊女)たちや、素破(すっぱ)とよばれるペテン師や
賀茂の河原に生活する河原者などが遊興の芝居をはるようなことまでが京の街を彩っていた。

 平安京とよばれる京の街はいうまでもなく左京(東京)と右京(西京)とからなりたっていた。この「左」と「右」という構成の仕方は単に方向を示すものではなく
古代律令制の根本に関わる重みをもっていることを読者はご存知だろうか。
 右と左とはものの均衡を保つ根本で律とは均衡を保つことで繁栄には衰亡が待ち、富には貧が横ににともない、生には死があるのだ。古代東洋の考え方の根本が
均衡というものだ。
 だがこの均衡が平安の都で崩れてゆく。
 清涼殿にたつと右近の橘と左近の桜が均衡を保ち国を治める形をとる。右大臣と左大臣が具に形となった。
039a
 「右京」の荒廃であった。朱雀大路の西方は多くの沼地があり京の生活に資する農地があった。この西京から多くの農民が生活の窮乏に耐えられずに離散していったのだ。
反対に右京には日ごとに数増す人家群を抱えてゆく。この不均衡が生み出すものこそ平安の末路を決定ずけたのではないかと拙僧は思う。
 放免の源蔵をともなって拙僧は後白河の法住寺殿の周りをよく歩いたものだ。
 東山三十六峰南端に後白河法皇の法住寺殿がある。
法皇の仙祠法住寺殿は新熊野神社を南端とした。後白河の君は熊野と日吉の神体を新造の社壇に勧請してその殿中に建立した。それが新熊野神社である。殿は東山七条あたりまで、南北四町、東西2町ある。

 新熊野神社を出て七条通りを左折すると後に蓮華王院(三十三間堂)と呼ばれる得長寿院がある。この得長寿院は備前守忠盛の造営するものでその内部中央の間に丈六の聖観音像を安置して周りに等身の聖観音五百体を安置してある。元暦二年の大震災で崩壊したが、後同所に蓮華王院が建立された。

 著者はこの地をおとずれたが、後白河稜は法住寺の手前の小道をゆくとつきあたる。養源院と隣り合うようにして後白河が満開の桜のもと1000年眠っている。花びらがはらはらと散っていた。。
大和大路をゆく。六波羅蜜裏通りをゆき左折すると六波羅蜜寺がある。清盛の邸宅があり、六波羅探題がある。平家を偲ばせるものはこの六条にはのこっていない、ただこの六波羅密寺だけが1000年の昔を偲ばせてくれる。蜜寺には清盛の坐像と同時代の空也商人の坐像がある。清盛の像と数分間だが、睨みあった。分厚い唇で頬が膨らんだ独特の風貌に半眼のまなざしが厳しい。その目が睨むのは果たして何なのか。しばらく考えたが浮かばないので止めた。

清盛坐像

清盛坐像[/caption

 六波羅をすぎると建仁寺の勅使門が目に入る。京都でもっとも古い禅刹で一直線の伽藍形式をとる。勅使門には矢傷がのこり、何気なくそこにあるが、かっての平重盛の邸宅跡である。

6月 9, 2012   1 Comment