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Posts from — 7月 2012

禿髪(かぶろ) 小説<王城の秋>

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by dankaita
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信西には放免という情報密偵がいた。清盛には禿髪(かぶろ)という存在があった。齢五十一になった清盛にはもうこの世に怖いものがないように思えた。
「この世の春とはこういうものか。のう重盛よ」という言葉にも余裕が感ぜられる。
 先日の永万元年八月には清水寺に比叡の山門大衆が下洛し、一院山門の大衆に遂せて平家追討などの噂がながれたが、叡山の東福寺との争いに流れて東福寺の末寺である清水寺を炎上させて終わったばかりであった。
「父上、平家に春などございませぬ。争いはこの世の常。ゆめゆめこころゆるめてはなりませぬぞ。なおご用心のこと愚息、重盛父上にもうしあげまする」
「重盛よう申した。重盛ある限り平家は安泰じゃ。うれしいぞ」 清盛はようやく杯を干した。
 
 いまや信西なく、源氏義朝も知多の地にて斬首され、源氏嫡男頼朝には命を助けたが、伊豆に配流し、牛若には鞍馬に封じた。唯一の敵対者といえるものは後白河上皇であったが、藤原信頼を斬首したあとでは、上皇ひとりでなにも出来るものではない。清盛には平家の繁栄だけがみえていた。

 仁安三年この年、突然やまいが清盛を襲う。陰陽師光悦がよばれた。
「殿、お命をなごうするには、出家するのが一番、これまでの死者の怨霊を祓うことが大事とでておりまするぞ」
 清盛は忽ち出家入道した。法名は浄海と名乗った。そのしるしに、宿病たちどころに癒えてその後十三年天命を全うすることになる。ひとの従い、吹く風の草木をたなびかせ、世のあまねく仰げることは、降る雨国土を潤し、花族も栄耀栄華も面を向かえ,肩をならべるものこそない。
 平大納言時忠は、「この一門にあらざれば、みな人非人なるべし」と一天四海に伝わっている。
 その上に清盛は念を押した。京の巷にある不測の情報を集めたのである。十四五六の頭のよいすばしこい童参百人揃えて髪を禿にきりまわして、赤い直垂を着せ、京中を歩きまわさせた。平家について不満やあしざまに言うものがあればひっとらえて六波羅で裁いたのである。京の馬、車さえ禿髪を見ると道をよけたと歴史にある。

 平家物語弟一巻にある。
諸行無常、是生滅法、生滅滅已、寂滅為楽。とは仏典四句渇である。簡単にいえば、「すべては無常だが、これは必然、すべてが滅してはじめて、これを楽とする」ということだろう。祇園図経という経典には重病の僧が亡くなると堂の鐘が自然に鳴り出すという。病僧はこの音を聞くと忽ち苦悩を散じ嬉々として極楽浄土に旅たつというのである。清盛平氏が伝えしものは、因果応報などというものではなく、積み重なって重々しい存在となりうる人間理解であり、仏法でいう戒めなどではなく、想像の世界での救済であった。
 

 

7月 21, 2012   No Comments

清盛帰京 小説<王城の秋>

rokuhara

 信西の首が京、賀茂の河原に晒された。新荘園制度を創設し九州大宰府を統括し、財を宮廷に収攬させて、内裏を改修し、宋貿易を拡充して清盛とともに大海に打って出ようとした信西入道も人間の怨嗟と欲望の前には夢も野望も消え去って首を晒すのみであった。
 伊勢平氏伊藤武者景綱の手勢援軍を得て、熊野から急遽京に戻った清盛がみたものは、灯ひとつない京であった。もう正月も近いのに街には歳暮の人影もない。後白河も二条の帝も幽閉され、ただ源氏の武者と東国からの坂東武者が大路を固めているのみで、飢えた野良犬が通りかかる武者馬に吠え掛かるけんけんと犬の声が響くのみであった。
 その死者の街のような京にたどりついた清盛は賀茂の五条六波羅に帰った。どこに潜んでいたのか大小の邸宅の平氏からわっと声が起こった。
一族の老幼、男女、郎党、女童までが何かをさけんで手を振り体をもんで清盛を囲んでくる。
 「殿のお帰りじゃ。熊野から戻られたのじゃ。もう義朝のいいようにはさせん」
 既に公卿詮議は終わっていた。信頼は近衛大将に、義朝は播磨守、その子頼朝は従五位に任ぜられていた。惟方、経宗、成親、師仲などの源氏がたの諸将が枢要な顕職につき平氏はことごとく除目からはずされていた。
 何故このとき信頼ごときの公卿に義朝も藤原の主だった公卿までが加担して信西を討つにいたったのか。歴史は後世にその真実をつたえてはいない。が、信西入道がその志を貫くためにはなんの躊躇もなく諸々の改革に邁進していったかが推測されるのである。死刑を復活させ、崇徳上皇を讃岐に配流し、忠正、為義を斬首し、その子から幼女までを三条の河原で民衆の前で刺し殺した。改革を邪魔するものはことごとく職と冠を剥奪し、それでも背くものは切り捨てた。これほどの非情さをもって政をなしたのは歴史上でもこの信西と後世の信長以外に存在しない。いずれも目を島国日本から遠い海の外に置いていた。信西は大陸の国 宋を信長はその向こうユーラシアの国々であった。
 もうひとつこの事変で日本の歴史を大きく変えたことがある。
 それが信頼に幽閉された上皇と二条天皇の黒戸御所からの脱出である。だれが図ってこの奇跡ともいえる脱出行を成功させるにいたったのかこれも歴史上あまり語られれていない。ひとり監禁中の主上を奪取するだけでなく同時に上皇後白河をも仁和寺へを落とし申さなければならないのであるから、むずかしさはなおさらであったろう。もし事様が信頼一味に覚られていたら時局は一変し平氏が錦旗の御旗をかつげることなく、したがって平氏なく、後源氏の世となっていったのかどうかさえ、疑わしい。歴史とは結果である。
 黒戸からの脱出がなされている夜一体信頼はなにをやっていたのであろうか。信西の首をとり、自ら近衛大将となり、上皇と帝を幽閉して武門源氏義朝に警護を固めて、宮中の一室で沈酔していたとあるが、その生来の幼稚さと、脆弱な精神性から漆黒の闇に耐えかねて、燭をかざして、女御更衣の衣擦れに身をやつしていたに違いない。平安時代の女御たちが身に着けていたのは十二単衣という重ね着で着るのは時間がかかったが脱ぐのには至極簡単であったという。信頼の酔眼にうつるのは、まさによりとりどりの見取りの閨の花たちであったろう。脱がせた十二単衣に裸でしとどに待つ女御に体を重ね、明日の不安から逃げるようにして夜の明けるのをまっていたにちがいないのだ。信頼とはそんな男で平安の世を動かしうるようなものではない。そんな信頼と源氏義朝は組んでしまったのだ。
 
 

7月 2, 2012   No Comments