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宿命 小説<平安王城の秋>

離宮白川 

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 保元元年七月十二日、真夏の太陽が賀茂川東岸に流れる真っ赤な血をギラギラと染めて、血糊の被った武士の兜が主の首を失って啼いていた。戦の態勢はもう既に決していた。義朝の千五百騎と清盛の八百余騎が賀茂川の西と南から白河南殿と北殿を囲んでいた。
 白河北殿を下流にみて序々に距離をつめてきた安芸守清盛の八百余騎が迫る。清盛の武将の五十騎余りが功を遂げんと躍り出た。為朝に対して真っ向から射掛けたのである。 
 為朝にはもう闘いの趨勢など眼中ににはない。
「為朝をどう心得おる。そんなへなちょこ鏃が当るものか。地獄の閻魔が為朝の命の後見人。如来や観音などなまぬるいわ。」
為朝が矢をつがえる。途端に為朝の矢がものすごい唸りをひいて飛んでゆく。それは射る技になれているはずの武者の耳にも何が飛んできたかと疑われれうような矢響きだった。
 当時矢は飛び道具であった。どこから飛んでくるかもしれない戦場の花形だった。為朝の弓はライフルをもった歴戦スナイパーのようなものだ。
数の上では八百余騎の優勢を有する清盛の兵だったが鎮西八郎の弓はその的確さにおいて一時だが数を圧倒してみせた。
 が戦場は現実を映す。ひと時の為朝のスナイパー矢などがつくる渦など乱れくだりながら激流となる大潮の流れを止められるものではない。
 為朝はしっかりとした目で敵将の赤ら顔でふくらんだ頬で秀でた額をもち、飛び出すような大きなまるい眼をひっきりなしに動かす男、清盛の姿を見ていた。
 「この男清盛と兄義朝がいつか闘うことになろう。二将並びたたずとは古来からの習い事。この闘いで源氏は父為義と郎党を失うことになろう。その時立つのはこの男、清盛になる」
 源氏の命脈を保つにはこの男清盛を殺しておかねばならぬ。眼前に迫る清盛のみに焦点を定めて弓をつがえる。だがこの為朝の心を誰が知る。
 迫ってきた兄義朝の郎党の一人深巣三郎が長刀を抜いて為朝に近づく。為朝の馬の脚を長刀でなぎ払おうとする。
「ばか者、義朝の将来の敵清盛を射おとそうとしておるのに。邪魔だ。のけのけといっておるのに」
ぐさっと音がしてかれのいどころから血が噴いた。為朝の大刀が振りかえされて三郎がたおれた。
敵味方、相互の大将と大将が余りにも近くで対峙して、全軍の死闘が掛けられていた。為朝の顔が清盛の顔が義朝の顔が触れ合うような近さだった。血漿の坩堝となって血で血をあらう様相を呈していた。
 為朝が兄弟のように胸襟をひらきあった九州の郎党、高間兄弟、松浦の次郎、ほとんどの幕僚が眼前で矢に射抜かれ敵の前に討ち死にしていた。
 狙っても狙っても清盛に弓を向ける瞬間は訪れなかった。人の運命とはこんなものだ。こんなに近くで接線しながその瞬間がないのだからだ。
その時白河北殿から黒煙があがりはじめた。藤中納言の館に義朝の手により火がつけられた。折からの西風にのって乾ききった賀茂川東が忽ち火につつまれてゆく。
「やったなこの為朝が一番おそれていたのはこの火だ。あの火の手だ。新院崇徳と近侍する連中が恐れて逃げ出したら、もうひとたまりもない。」
「あはははアハハハ闘いはここまでか」 と哄笑した。
新院側は深刻な敗勢状態に陥っていた。
南門を固めていた六条為義と六人の兄弟、岡崎東門の右馬助忠正、春日東門の家弘が終日なんらの勝ち戦もなく防戦一方にあった。
 全軍についに退却の命が下った。新院崇徳の逃亡が先だ。
白河上皇が盛時に全財産を傾けて築き上げた白河離宮もいまや炎のなかにある。回遊式庭園として世にきこえた名園、春は梅、桜、秋には紅の紅葉の美しさで京中に愛された広大な離宮が吹き荒れる紅蓮と黒煙のなかで崩れてゆく。
 歴史は関わりゆく存在者の宿命と決して戻らない時間のなかで創生の新しい息吹を誕生させてゆく。

 

3 月 26, 2012   No Comments

兄義朝と弟為朝   <王城の秋>

源義朝

源義朝


 
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「この困難な時代をどう生き抜き、勃興する平氏に対するには、富を重ねねばならぬ。どうしてもだ。さすればどうするかだ。」 源氏棟梁為義の胸中には常にそれがあった。
そのためには平氏の流れにある妻をもむかえてみせたのだ。 『尊卑分脉』などによると義朝の母は淡路守藤原忠清女とあるが、遠くさかのぼれば摂関家の血筋ながら所詮は庶流で、その当時 平氏の家臣になっていた者の娘、源家の棟梁の嫡妻にはいささか似つかわしくない相手であった。
 
 源氏と平氏が両者相競う立場にあって、平氏の娘ならいざ知らずその家臣の娘を妻に迎えなくてはならなかった為義の心中やいかばかりか……。
 立身のためなら意気盛んな平氏にも擦り寄る……、そんな形振り構わぬ行動に出たのかもしれん……。
 しかし、為義の真意はともかく、義朝を東国に配したことは後の世から見れば適材適所、源氏の家勢挽回には願ってもない良策であったと言えなくもない。
 京での凋落に比例するように、この当時の東国における源氏の威光もまた曽祖父義家の代を頂点として衰退の一途をたどっていた、かつては義家流の傘下にあった諸将も次々と離れて行き、ある者は自立を図り、ある者は新羅三郎義光流の 佐竹党 や義家の三男義国流の 新田氏・足利氏 などの源氏庶流の傘下に入ったり……と戦国時代ばりの群雄割拠の様相を呈していた。
 そんな風雲急を告げる東国にあって、義朝は相模・上総と江戸湾を挟んだ領域を握る 三浦党 の庇護の許で養育されく、成長して後は以前のような源氏の勢威を回復するべくその地盤固めに乗り出し、持ち前の武勇と知略をもって 千葉氏(下総国)、大庭氏(相模国)など有力武将を次々と麾下に収め、瞬く間に、南関東をほぼ手中にしたのだ。
 為朝は東国武将が群れ動く敵方の戦陣のなかに、自らと同じ源氏の白旗を掲げて馬上にある五尺六寸の背丈と二十五貫の目方をもつ大男を見つけている。紺の水干に源太産衣を着て銀色に真夏の黄金 色の太陽の日を浴びて輝いている。
 「同じ兄弟にありながら何故兄義朝は新帝後白河方についたのであろう」 為朝にはまだ考えがまとまっていなかった。
 「八幡太郎義家以来の武士源氏の血筋をたやしてはならぬ」と父為義の諮ったことなのだろうか。それとも義朝の妻常磐御女が新帝にお使えする藤原氏であるからか。
 「いやここは合戦の地、いらぬ心配りをするところではない」 と為朝はこころを決めた。
 当時の闘いは雑兵の戦いではなかった。雑兵が主兵となったのは信長の長篠の闘いからである。主将と主将が相対して名乗りあい尋常の勝負があってその後に白兵戦となった。雑兵は馬上にある主将のそばを守る兵であったから、主将が倒されると迷い兵となって有利な側の兵のようにみせかけて命を守った。
 「いっそひとおもいにこの弓でいとめてやるか」 為朝は大弓に箙の矢をつがえた。放たれればとかならず的をはずさなかった為朝の弓であった。
為朝には九州から連れてきたいはゆる為朝のつわもの二十九騎があった。鎮西とは九州の菊地の郎党、原田の豪士郎党を平定したことからなずけられた。平定には死をものともしない精鋭たちであった。
が、義朝にも、斉藤別当実盛、金子十郎、片桐小八郎、大庭平太景義、豊島四郎、秩父行成、などの坂東武者がいた。
 「悪七別当はどこだ、高間兄弟は」 左右の騎馬がすくないことに為朝は不安を抱いた。為朝が頼みとしていた二十九騎の猛兵がその時までにはことごとく討ち取られていた。
 まさに屍山血河であった。
 「ええい こうなったからは為朝の矢を放つのみ。」と 強弓から轟音をたてて矢が放たれた。。為朝の百発百中の矢であったが、さすが血を分けた兄弟に向けた矢であったのか、それともそれが為朝の唯一の弱点であったのか、矢は義朝の銀の兜をかすめて義朝がかねてから自慢する兜をかざっている北斗の星を削るように飛び背景にある白河南殿の宝蔵院の主柱をハッシと射抜いた。
 「なんと為朝の矢か。弟ならばこそと命だけはと思うていたが、もう容赦はせぬ。殺してもかまわぬ。火をかけろ、この世を焼き尽くしてしまうのだ」 半狂乱の義朝がいた。
 為朝が家族とも恃んでた手取りの与二、鬼田の予三、松浦の次郎などの九州の幕僚までがついにも首をとられていた。
 長い真夏の日が天井から午後の日になりつつあった。空は燃え立つようなぎらぎらする太陽が地上の殺戮の赤い血を毒々しく見せていた。それでも東山の山の端からはことの哀れと兄弟が流し合う骨肉の争いを静めるかのような風が吹き始めていた。鎮魂の風ともいえるものか、いくらか熱風の戦場がせばまってゆく。
 夕闇がせまるころにはもう闘いは決まっていた。ふと気がつくと嵐山と松尾の山並みの西の空が桃色に変わっていた。

 
 
 

3 月 9, 2012   No Comments

護法童子   <王城の秋>

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戦乱が打ち続く京。この時代の民衆の不安は、時宗や法然とその弟子親鸞による念仏救済によって救われている。同時に社は中国道教にも似て大和の国津々浦々まで民衆の心となって浸透していた。この時代いはゆる式内社とよばれる中央大社などの官祭にあずかる社は全国を通じて三千百三十社の多きに達していたと記録に残る。
 それらのなかでも古来朝廷がもっとも尊敬してことあるごとに奉幣をおこなったのは、伊勢、岩清水、賀茂,松尾、平野、稲荷などの社だった。平野、吉田などの社は藤原氏や橘氏などの氏神であったのに対し、広く民衆の信仰を集めたのが稲荷、祇園、北野の三社だった。このうち稲荷社は和銅四年(七一一)の鎮祭で稲、と田の神として奉納されたものといわれる。稲と田がひとたび神となれば、それは人の子の一切の願いにこたえてくれる存在となるのがわが国日本の神の徳であった。
 「稲荷山 とほくのとしぞこえにけり 祈るしるしの杉をたのみて」と蜻蛉日記にある。
 後白河は天皇から院政の時代に熊野と稲荷に三十四回の御幸されている。この時代こんなにも熊野の参詣がおこなわれたのは勿論南都北嶺の教団を牽制するのがその目的とされているが、それよりなによりこの時代特有の困難と不安、勃興する新勢力たる武士との葛藤から霊験あらたな熊野の神に素直にいのり結縁を願うことにあったに違いない。
 熊野に参詣するにはその帰着に必ず稲荷参詣がついていた。なぜなら「護法送り」という儀式が必然だったからである。護法とは護法童子のことで神々に近侍してその命にしたがって働く精霊のことである。童の姿をした精霊は道中の守護に働くと信じられていた。だから熊野から帰ると必ず稲荷に童精霊をお返ししたのである。この精霊は後の時代今日まで稲荷明神の信仰となってわれわれの心に深く刻まれている。稲荷の童子は後にミサキとよばれるようになり、ミサキは狐のすがたをとる。狐は稲荷信仰の神の使者ともなるのである。信貴山縁起絵巻に髪の毛をさかだてながら宙を飛ぶ護法童子が描かれて今日に伝わっている。
 すこし寄り道してしまった。
 保元の戦あとについて為朝に語らせよう。なぜなら保元の乱こそ鎮西為朝の一世一代の戦いだったのだからだ。
 
 鎮西八郎為朝が安芸守清盛の兵八百余騎に対して為朝が九州から従えて入京したつわもの二十六騎が蹴散らしたのも戦の奇跡とも言えるものだった。為義の嫡男義朝との闘いほど熾烈をきわめたものはなかったろう。長男と八男との闘いだった。
 義朝は三条河原から白河南殿に迫っていた。数は千余騎。放つ矢は束のようになって轟音をたてて南殿の向欄を火の海に変えていた。
 為朝は源氏の嫡男義朝を探していた。
「源氏の棟梁為義を裏切り、父に刃向かううつけもの義朝はどこに。この為朝の弓をうけてみよ。」為朝が叫んでいた。
七月の太陽がもうあがっていた。ぎらぎらと白河の合戦を照らしていた。夏木立に馬のいななきと鎧がガシャガシャと鳴って、それでも負けじと油蝉がここを最後にとジージーと鳴いていた。
 闘いの趨勢はもう見えていた。北からは義朝の数千騎が南からは清盛の兵八百余騎が一旦は退いたがその勢いを回復して迫っていた。 

3 月 7, 2012   No Comments

強弓為朝の鏑矢の音を聞け <王城の秋>

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 京の上賀茂神社は白河南殿から北に位置する。この神社に烏相撲という儀式がある。相撲土俵の中に烏の格好をした男が舞う。舞う烏を弓矢を持った武士が追う儀式である。相撲に金星、銀星がある。弓の的にも金、銀がある。白と黒斑の中心を的を星という。平安の時代から相撲は神事だった。
 保元の乱からだという。蟇目鏑矢が合戦に用いられたのがである。
 (ひきめかぶらや)とは蟇目矢に雁又、平根などの鏃を挿した形のもの。上差矢として通常の矢と共に箙に盛って携行し、合戦の始めや味方への合図を出す際にこれを放ち、音を出して遠くに伝えたという。強弓を引くものが轟音を出して相手を威嚇した。
 予為朝が保元元年七月十二日鶏鳴白河南殿に詰めたのは十八歳のときであった。背は六尺。紺地に獅子の丸直垂、白い唐織おどしの大荒目鎧、熊の革の尻鞘にいれた大太刀を横たえ冑は白銀の源氏冑颯爽たる姿。
 この時代の戦いは遠矢と遠矢の射戦から始まる。やがて近接して白兵戦になる。遠矢は強弓による矢風と弓鳴が効を奏するのは当然である。
 為朝の矢は弓張り月ともいう強弓だった。
 白河北殿を下流にみて序々に距離をつめてきた安芸守清盛の八百余騎が迫る。清盛の武将の五十騎余りが功を遂げんと躍り出た。為朝に対して真っ向から射掛けたのである。
 「やあやあ 遠からんものには音にもきけ近くば寄って目にも見よ、我こそは平清盛が郎党伊勢の住人古市の伊籐景綱」
 「同じく伊藤五」
 「同じく伊藤六」 と兄弟武士が為朝に迫る。
 「清盛には敵のなんたるかを知っておるのか。為朝をなんと心得おる。清盛が相手ならともかく貴様らなぞわが弓矢の無駄」
 「何のなんの、貴様が筑紫の鎮西為朝なるか。先陣景綱にとって相手に不足なし。いざ尋常に勝負勝負」とつがえた矢を切って放した。矢が空中でからめとられるように交錯した。為朝の引いた矢がものすごい音を発して武者に飛んできた。為朝が引いた分厚い鋼鉄の鏃鏑矢がギュヒューと音をたてた。
 鏃鏑矢が景綱の頸を射抜いた。射抜いた矢は跳ね返るように五郎、六郎の鎧を貫く。一瞬に清盛の郎党武者が倒れた。
「何が起こった、何だ」と清盛が叫んだ。
「為朝の弓にございます」
「なんと 為朝の弓とはそんなに強いのか」 味方が動揺している。
「退け,退け」清盛は叫んだ。
左右の武将は清盛に言う。
「なんの為朝がごとき、ひるんではなりませぬ」
「いや退くのだ。命令に従うのだ」と厳命した。そもそも清盛にはこの戦い自体に余り興がのってなかったのだ。崇徳上皇の恩寵にも預かりながら今は新帝後白河側にいる自分を意識していたからだ。
「こんな戦いで命を落としてなるものか」清盛は思っていた。
当時矢は飛び道具であった。どこから飛んでくるかもしれない戦場の花形だった。為朝の弓はライフルをもった歴戦スナイパーのようなものだ。
数の上では八百余騎の優勢を有する清盛の兵だったが鎮西八郎の弓はその的確さにおいて数を圧倒してみせた。

 

3 月 5, 2012   No Comments

小説 二条、三条加茂河原  <王城の秋>

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jikokuzu
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七月十二日子の刻、為朝には加茂の河原に鳴く虫の音色が止んだのが何故であるか知っていた。鶏鳴四更河原にはまだあけぬ夜の闇にまぎれてはいるが、ひしひしと寄せてくる具足と兵馬のいななきが二条、三条の加茂川を濁水に変えていた。
 「敵の夜襲ぞ」
 「新帝の軍勢が卑怯にも夜討ちをかけてきよったぞ」
篝火を炊いてむらがりあっていた新院側軍勢には、明日の合戦に備えて寝入ったばかりのものあり、寝酒をまだと宴をはるものあり、白河の南殿の寝殿に寄り添う頼長と公卿たちには家鳴りのなかの喧騒館となりはてた。
 「信西め諮ったな、夜討ちとはこの頼長がそんなにこわいか。新帝後白河も背に腹はかえられぬというわけか」
 「為義をよべ、忠正はどこにおる」
 火矢がうなりをあげてごうごうと天から降ってくる、わわわと腹からの叫びをあつめて黄泉の国からの誘い歌のように聞こえてくる。火矢は白河の館に突き刺さってくる。寝殿の勾欄に出た頼長が早口に諸将の名を呼んでいる。
 「敵の構えは、如何、 うろたえるな」
 そのときには三条から下野守義朝が兵千騎を従えて加茂川を今まさに渉ろうとしていた。
東山連山の向こうから夏のぎらぎらする日が昇ろうとしている。日をあびて義朝の白銀の兜が光っている。
 親の為義、六人の兄弟が敵陣にいる。闘い勝つことは父、兄弟の屍をのりこえることであった。
 二条には安芸守清盛の軍勢八百余騎が二条河原をやや上流まで進み、白河北殿を下流に見て、序々に距離を縮めつつあった。
 「義朝なぞに負けてなるものか。先駆けはこの清盛なるぞ」
清盛は水干袴に紫革の冑、義朝は赤地錦の水干袴のいでたち。
 
 

 

2 月 29, 2012   No Comments

東山三十六峰   <王城の秋>

東山三十六峰 草木も眠る丑三つ時 突如おこる剣戟の音とは江戸時代の講談にある

「東山三十六峰 草木も眠る丑三つ時 突如おこる剣戟の音」とは江戸時代の講談にある


崇徳新院が陣とする白河南殿北殿を囲む三門、東門は栗田山から岡崎に通ずる、ここを右馬助忠正三百騎、加茂川原に面する西の門を為義父子が三百騎、北春日門は左衛門大夫家弘が武者数二百騎、そして予 為朝は吾が郎党百騎で西河原門を扼していた。
 十二日鶏鳴のとき、ときならぬざわめきを予は聞こえていた。東を仰ぐと黒々と東山三十六峰が布団をきて寝たような姿で雲間と接するように連なってみえる。
 比叡山 瓜生山 吉田山  大文字山  如意ヶ岳  粟田山  華頂山(知恩院山)  円山 霊山 鳥辺山  清水山  阿弥陀ヶ峰  今熊野山  恵日山  稲荷山を総称して東山三十六峰という。鍋の底のような地にある京からは東に向かうには、この東山のふもとから峠を越えてゆかなければならない。洛東からは粟田口から山科にぬけるみち、永観堂から山道を切り開きながら大文字山を行く道、鹿ケ谷からけわしい尾根道をこえたり、法然院、浄土寺の道、白河六願寺を袖にして一条下がり松から雲母坂を越えて行く中山越えと越えてはじめて東国の世界があった。
 この白河の地は崇徳新院の曽祖父にあたる白河法皇の旧離宮である。ひさしく住むものもなく法勝寺,尊勝寺などの六勝寺がもつ幽邃な寺領にも接して、その広大な領地には池がめぐらされてはいるが手入れするものもなく、自然の力にまかされて荒涼として夜となれば鵺などの怪鳥が奇怪な声を上げて真っ黒な闇をさらに深くする有様であった。
 が今は剣呑な東山の尾根道をようやく越えて集まった東国の武士と戦乱こそ出世と欲を遂げんと声をあげた地方の豪族や郎党、が我武者羅に馬上に長刀、弓をひっさげて烏合の衆となって白河の殿を埋めていた。

少し疲れた.休憩 創作はしんどい

2 月 23, 2012   1 Comment

我 舜天 保元の雄なり  <王城の秋>

弓張月

弓張月

 「予為朝は流地伊豆大島から九州菊地党から助援に参った宋船で琉球に渡った。皆は予が既に頼朝の命を受けて斬首されたと信じておるかもしれん
がな」
 「鎮西為朝は無駄死にはせぬ。」
琉球史には確かに70年あまり続いた舜天と名乗る琉球王朝の祖の名が残り3代続いたとある。
舜天は琉球南部の領主、大里按司の妹を妻として2人の子供をもうけた。その子が為敦(ためのり)である。
 為敦は号を尊敦と改め22歳のとき、一旦天孫氏の利勇が首里城を占拠したのを、尊敦は兵を起こして首里城を攻め、利勇を滅ぼします。その後、各地の按司たちは為敦を王に推戴しました。尊敦はこれを辞退しますが3度推されてついに王位についた。
史実によれば、
 舜天の王統は、その実在を実証しうる最初の王統で、3代73年続いて絶えたとある。その後、英祖・察度の各王統が交代してあらわれ、察度王統を滅ぼした尚巴志が、尚氏王朝を開く。また、尚氏も、もとは源為朝の血をひいており、名前の頭に「朝」という字をつけるのは、為朝から一字をもらったからだという。
「まあ 琉球のことはあとでゆっくりはなすこともあろう」
そうでしたな。保元の乱を語らねば。

「予が白河南殿に軍兵を預けたのが保元元年7月の十一日。藤原頼長様からのご下問あり、殿上に伺い奉ると、言下に、
「為朝、合戦の策について腹蔵をのべよ」とのこと。
「為朝遺憾ながらこの戦いお味方に兵数足らず、ここは火攻めをもって内裏に夜討ちをかけるが最上の策。寡兵の弱みを補強するのが唯一の策と存知まする。」と奏上もうしあげた。
「もしそちの兄義朝が打ってでたらどうするか」
「兄の兜の真ん中を一矢射たら、兄も逃げ出すにちがいありませぬ。」
「安芸守清盛も一手をかためておるぞ」
「あはは アハハ清盛などがヘロヘロ矢は踏み払ってとおるだけのこと。炎の下をかいくぐり主上に近づき参らせて後白河のご新帝をこちらへお迎えももうしあげれば、義朝、清盛は逆賊。」
「機は今、今をもって勝機はござらぬ。この機を逃すは千軍万軍の兵ありともかなわぬこと」
うりざね顔をさらに延ばすようなまなざしで聞いていた頼長はやはり胆力より策謀に長けていたのだろう。勝利より勝利した後の風聞のほうが先にあったのか、胸中に父忠実が南都興福寺からの僧兵二千を待ってとあてにならないものがあったのかもしれない。
「勇ましいことだ。」と苦笑した。
予は知っている。戦いというものをだ。これまで13歳で九州に放逐され無残な生き方を強いられてきた。菊地の郎党を懐柔し、残忍にも多くの豪族を滅ぼして九州を平定下。何千何万の人間の血を流し、血が血にのって濃くなるほどべっとりと塗布されたような大太刀をふってきたのだ。武士は陣前にあればもう死は眼前。ただただ廉恥を重んじて戦うのみ。
 されどこの戦いは敵味方にあまりにも父と子が兄弟が入り乱れての戦いであることだ。言ってみればこの戦いほど自分と自分の血みどろの戦いを予は知らぬ。
内裏方 (後白河)                             新院方(崇徳)
後白河               ご兄弟                 崇徳
関白忠通              兄弟                  左大臣頼長
同                   父子                  宇治入道忠実
源義朝                父子                  源為義
源義朝                兄弟                  頼賢 為朝など6人
平清盛                叔甥                  平忠正
正に骨肉の争いであったものよ。
合戦の模様を話す前にどうしても保元の乱を導いた真の対立はなんだったかを話しておこう。
 実のところ、保元の乱1156年7月十日に勃発したこの乱は荘園体制自体の対立と、このころその政治力と軍事力を増強してきた大社(伊勢、岩清水,賀茂、春日、住吉、祇園、などの神社と興福寺、延暦寺、園城寺、熊野山、金峰山などの一大勢力との戦いであった。頼長に代表される荘園旧領の担い手と藤原通憲(信西入道)が代表する荘園体制改革派(受領派)との必然の対立であった。
 その対立は 平氏源氏では源為義 平忠正が旧荘園派に義朝、清盛等の嫡男改革派が新帝についたのは当然の帰結といえるものだ。
「予にとって大切なのはそのような政治体制のことではなかった」
「荘園経済力を維持するための軍事力でしかなかった武士の世をどうつくれるのか?であった。わしは荒くれた乱暴為朝とよう言われたものだが、本当のところは、公家も坊主もだめだ。この世を救うのは武士だと思っていたのだ」
 保元の乱にはこのような背景があったのだ。
7月11日鶏鳴とともに内裏の門がひらく。清盛、義朝、義康ら軍平六百余騎が動き出す。

2 月 22, 2012   No Comments

えいじさんへ

新保険の投稿に何度もコメントしたのですが反映されませんので、投稿にします。
2008年11月横浜の事務所で新しい小額保険についてお話しもうしあげましたね。
いまから4年前です。当時すでにペット保険が騒がれ始めました。
そして4年後もういまや小額短期の葬儀保険やお葬式ハウツー保険まで勢ぞろいです。
ですからいまからその後塵を拝してももう遅いと申し上げます。
いまやるのであれば次のアイデアの実現です。

      ベルセー保険(散骨保険)の導入 
 2035年には2700万人の人たちが70歳を超える。実に全人口の25%が高齢者と言う社会となる。
一方都会の墓地の不足と墓地の高騰、供養費や墓地の維持費用は多額なコストとなってきている。
このような時代背景にありながら、死者に対する配慮や亡くなったものの意志が反映されずに葬祭ビジネスと旧態寺社会のなかでセレモニービジネスが完結されてきたのが実態であろう。

 しかし、最近になって新しい墓埋法の解釈により管轄の厚生省は「墓埋法は遺灰を海や山に撒く葬法は想定しておらず法の対象外」という旨の見解を発表し法務省も刑法190条について「葬送のための祭巳として節度をもって行われるかぎり遺骨遺棄罪に該当しない」いう旨を示しました。
 これをもって「節度をもった散骨」が行われるにはどのようにしたらよいのかが判断のわかれるところとなっています。方法、場所、形式、配慮、宗教等の問題解決と亡くなった人の意思の確認の方法です。

 自分の死後自分の骨を瀬戸内海やふるさとの海やなかには地中海に撒いて欲しいと願っている人たちは実際ますます増えていますし、その意志にどう答えてゆくかは今後の新しい考え方を必要としています。

 ベルセーとはフランス語で静かに撒くという意味です。ゆりかごという意味もあります。
 最近では島根県の隠岐諸島に浮かぶ面積1000平米のちいさな無人島が国内で初めて丸ごと散骨所に姿をかえました。都会にすみ「最後はふるさとに帰りたい」という人らの願いをうけて、戸田葬祭サービスが地元出身の有志と共同で島を買い取り、料金は地元出身者で11万2000円、地元以外で20万円前後で受け付けている。年間100人以上を見込んでいるといいます。散骨所は管理運営会社が「国立公園内なので人の立ち入りも制限し」散骨後は島全体を見渡せる対岸の慰霊所から供養するという。

 また海外ではフランスの景勝地でありカトリックの聖地であるブルターニュのモン・サンミシェルが納骨所を解放している。宗教の制限はあるが無宗教の日本人には問題ない。地中海での散骨もある。故人の意志により様々なやり方が存在する一方、その仕方と保険を含めた対応が遅れている。

 故人の意志は保険にかけた時点で確定するはずです。明確な意志があってはじめて確固たる葬送の方法が決まるのです。小額ながら決定的なベルセー保険が提案される理由です。
そこで具体的にはこうです。(ベルセーとはフランス語で鎮魂を意味する。)
1. 葬儀や葬式の商標でなく散骨保険の商標を今すぐ申請して取る。 すぐに。
2. 永代供養碑は南北朝時代からの歴史のある箱根 足柄竹之下宮に設ける。(ネットで参照のこと)
3. 散骨保険 ベルセーは保険料一定タイプ。加入時にFACEBOOK Pageに設けられたBERSER@COM.に登録し、その暗号コードにて
   本人の意思を記録すること。勿論健康状態も告知することが条件。
4.本部ではFACEBOOK活用により本人との連絡と相互補完をおこなう。
5.保険金額は散骨の場所にもよるが、一ヶ月3000円。遺体の高温火葬、国内指定の散骨場所のご指定、実施(ご遺族5名までの交通費、宿泊1泊含 む〕散骨場所については早急に候補選定が必要だが国内では伊豆、真鶴の沖(実際に行われている) 隠岐の沖、ほか実際に散骨が実施されている ところを選定。ぜひ猪瀬氏に八丈沖などの選定に協力を仰ぎたい。なぜなら首都圏にすむ団塊以上の世代の望むところだからです。
6.年齢的には保険金額的には散骨保険    50~69     150万円
                              70~72     120万円
                              73~74      100万円
を想定したらどうか。solvency margin ratio上問題なし。
こんなところを素人ながらこれ以外なしと考えたがどうでしょうか。
それでは
                               
 

2 月 20, 2012   No Comments

一筆申し上げ候

 維新ハッサクか船中ハッサクか知らないがそんな語呂合わせか竜馬のつめの垢をせんじて飲むみたいなアヤカリ危機感欠乏策などで、だらけきった日本が変革出来る筈もない。
 まだまだ道を若いどこの馬の骨がカイエンヌだのポルシェだのベントレーだのを乗り回しているし、外車だらけ。
 団塊以上の世代が800兆円の預金を隠すように持ってるし、その中身は政治家、官僚、天下り連中、土地持ち百姓、利権の絡みついた水産業、林業、要するに日本全体だ。
 フランス ル・モンド紙は1992年1月のコラムで日本のバブル後の未来を「日本は貯めた金1400兆円を全部使い切るまでなにも変わらないだろう。」と喝破した。そのコラムはル・モンドの東京特派員が書いたものだ。
 皆が食えなくなってこれじゃなんでもいいから、なにかかえなくちゃとなってはじめて変革の端緒につける。自由だの、平等だの、博愛だのと思想をもって変革を成し遂げた民族と日本を比べたら大変なことになる。
 だからこのまま1400兆円がなくなってサー大変までだめだと覚悟したほうがいい。
 

2 月 17, 2012   1 Comment

「父と子」「兄と弟」の闘い  <王城の秋>

 何も摂関家に限って血族間の争いがあったわけではなく、源氏内も例外ではない いやむしろ一足先に血みどろの抗争にまで発展した為義一族の方がより悲惨だったかもしれん。
 「わしは頼長様の寵臣。上皇様がたに加勢申し上げる。皆はみなできめよ」父為義が厳命した。
 「父為義には多くの男子がいた。29人の男子がいたが白河殿に詰めていたのは叔父の為国、為義の四朗頼賢、五郎頼仲、六郎為宗、七郎為成,九朗為仲 そして予為朝じゃ」。
 予は八男だが、長子の 義朝 から予まで頼賢、、為宗以外は皆母が違う。 育ったところも違う、父の血が同じだが信ずるものも生き方も女の好みも違うからほとんど源姓以外他人みたいなものだ。
 「父上、自分で決めよとは父上のお言葉とも思えませぬ。この四朗頼賢、頼長様より御受領をいただく身、なにはともあれ白河殿を守り抜いてみせましょうぞ。」ともう紺の水干に鎧をまとって聳え立っている。
 「八郎為朝、そちのこころは」と為義が聞く。
 予はさまざまなことを考えていた。
新帝側には嫡男義朝がいる。この闘いは崇徳上皇陣営は頼長の私兵集団に限定されていて、みるからに劣勢なのはもう予にはわかっていた。が新帝について勝利したところで手柄は嫡男義朝にいくだけなのも明白だった。
 「八郎為朝は義侠のもののふでござる。父上のそばにいざるしてどこにおれと思し召すか。この三尺五寸の太刀と五人張りの弓をもって義朝など蹴散らして見せましょうぞ」
 予の加勢でもう為義の兄弟の立場は決まった。嫡男義朝を除いて。

 源氏嫡男義朝がなぜ新帝側についたかはまた別に語ることとするが、嫡男には嫡男なりの苦労があったのだろう。

  『尊卑分脉』などによると義朝の母は淡路守藤原忠清女とあるが、遠くさかのぼれば摂関家の血筋ながら所詮は庶流で、その当時 平氏の家臣になっていた者の娘、源家の棟梁の嫡妻にはいささか似つかわしくない相手。
 源氏と平氏が両者相競う立場にあって、平氏の娘ならいざ知らずその家臣の娘を妻に迎えなくてはならなかった)為義の心中やいかばかりか……。
 立身のためなら意気盛んな平氏にも擦り寄る……、そんな形振り構わぬ行動に出たのかもしれんく……。

 義朝は、一般に幼少の頃より東国で生い育った。 為義は次郎義賢を後継にしたかったのかもしれない。義賢の妻は周防守藤原宗季の娘 母は六条大夫重俊の娘である。義朝のような平氏のお流れではない。
 確かに自分の跡を継がせるつもりであれば、まずは京にあって公家社会の遊泳術を身に付けさせることに重きを置くのが自然。実際、次弟の 義賢 は早くから宮仕えして、東宮坊の授刀舎人の長(帯刀先生)に任じられており、さらに父為義が藤原頼長に初参した康治2年(1143)頃には、頼長の能登国の荘園の管理も委ねられていた。、これは世間的にも、義賢が為義の後継者として認知されていたことを意味するものと受け取ることもできる。

 しかし、為義の真意はともかく、義朝を東国に配したことは後の世から見れば適材適所、源氏の家勢挽回には願ってもない良策であったと言えなくもない。
 京での凋落に比例するように、この当時の東国における源氏の威光もまた曽祖父義家の代を頂点として衰退の一途をたどっていた、かつては義家流の傘下にあった諸将も次々と離れて行き、ある者は自立を図り、ある者は新羅三郎義光流の 佐竹党 や義家の三男義国流の 新田氏・足利氏 などの源氏庶流の傘下に入ったり……と戦国時代ばりの群雄割拠の様相を呈していた。
 そんな風雲急を告げる東国にあって、義朝は相模・上総と江戸湾を挟んだ領域を握る 三浦党 の庇護の許で養育されく、成長して後は以前のような源氏の勢威を回復するべくその地盤固めに乗り出し、持ち前の武勇と知略をもって 千葉氏(下総国)、大庭氏(相模国)など有力武将を次々と麾下に収め、瞬く間に、南関東をほぼ手中にした。

 こうした義朝の力は京のため為義にも刻々と伝わってきており、自分にとっての脅威にも感じてきていた。上洛を促すと意気揚々と上洛してきた。
上洛した義朝には父為義の意地のなさ。異腹の弟たちの覇気のなさに唖然とした。
 
 「なんとなさけないこtじゃ。白河の院にも疎んぜられ、平氏に北面の武士の地位も奪われ、武士の誇りもない。」 こんな源氏にしたのは父為義の力がないからだ。
 と父為義と義朝の間は不仲となっていったのは不思議でもない。

 義朝は鳥羽の上皇に取り込んでゆく。鳥羽は白河が憎かった。その隙間に入り込んだ。人間の機微をどこで学習したのであろう。長い東国での生活からか、嫡男ながら父から疎んぜられたからか、権力にとりついてゆく天賦の才に恵まれたからか。
 そして、その目論見通り、義朝は順調な昇進を重ねて行くことになる。
面白くないのは義賢。
 「東国の武力と荘園の富がそんなにありがたいか。無骨で味もわからぬ義朝など源氏の棟梁の資格もない」とひとかたならぬ憤懣を抱き、やがて、無骨な異母兄の重用される理由が東国に擁する武力にあると察すると、自らも義朝に匹敵する武力を蓄えるべく関東へ下る。
 これには三弟 義広 も同調する。
義賢は東進して下野国も押さえ、常陸国に本拠を置く義広との連携で短期間の内に北関東を掌中におさめる。その勢いを駆って今度は南に向かい武蔵国へ進出。義朝の麾下にある武蔵秩父党の 畠山重忠 や 長井斉藤別当実盛 らをも味方に引き入れると、やがて武蔵国大蔵に館を構えここに拠点を移す。
 
 
 

 

 

2 月 13, 2012   No Comments