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Healing book 心の時代 (yoshikawa eiji)

時代の心を描いて希代の国民作家といわれる吉川英治があたらしい。
 朝5時の読書術。どうしても目が覚める朝5時。枕元にうずたかく積まれた吉川英治の時代小説。
一冊ずつ読み始めて納得。
吉川英治はすばらしい。
 まず読み始めたのが新書太閤記 全十一巻
次に新平家物語 全十六巻
 たまに黒田如水
 そして大岡越前
 胸をうつ親鸞 全三巻
 それから 鳴門秘帖 全三巻
現在宮本武蔵 全八巻を読書中
吉川英治氏についてはネットからの抜粋だが、ご容赦あれ

吉川 英治(よしかわ えいじ、1892年(明治25年)8月11日 – 1962年(昭和37年)9月7日)は、日本の小説家。本名、英次(ひでつぐ)。神奈川県生まれ。

様々な職についたのち作家活動に入り、『鳴門秘帖』などで人気作家となる。1935年(昭和10年)より連載が始まった『宮本武蔵』は広範囲な読者を獲得し、大衆小説の代表的な作品となった。戦後は『新・平家物語』、『私本太平記』などの大作を執筆。幅広い読者層を獲得し、「国民文学作家」といわれる。

経歴 [編集] 生い立ち [編集]1892年(明治25年)8月11日(戸籍面は13日)、神奈川県久良岐郡中村根岸(現在の横浜市)に、旧小田原藩士・吉川直広、イクの次男として生れた。自筆年譜によると出生地は中村根岸となっているが、地名としては中村根岸はなく旧地名で中村町で現在の横浜市中区山元町に当たる。父・直広は県庁勤務の後小田原に戻り箱根山麓で牧畜業を営みさらに横浜へ移って牧場を拓く。イクとは再婚で、先妻との間に兄正広がいた。英治が生まれた当時、直広は牧場経営に失敗し、寺子屋のような塾を開いていた。その後貿易の仲買人のようなことを始め、高瀬理三郎に見出されて横浜桟橋合資会社を設立。一時期安定するが、直広が高瀬と対立し、裁判を起こし敗訴すると、刑務所に入れられ出所後は生活が荒れ、家運が急激に衰えていく。

山内尋常高等小学校に入学。当時騎手の馬屋に近く、将来は騎手になることを考えていた。また10歳のころから雑誌に投稿をするようになり、時事新報社の少年誌に作文が入選した。家運が衰えたのはこのころで、異母兄と父との確執もあり、小学校を中退。いくつもの職業を転々としつつ、独学した。18歳のとき、年齢を偽って横浜ドックの船具工になったが、ドックで作業中船底に墜落、重傷を負う。

人気作家への道 [編集]1910年(明治43年)に上京、象眼職人の下で働く。浅草に住み、このときの町並みが江戸の町を書くにあたって非常に印象に残ったという。またこのころから川柳をつくり始め、井上剣花坊の紹介で「大正川柳」に参加する。1914年(大正3年)、「江の島物語」が『講談倶楽部』誌に3等当選(吉川雉子郎の筆名)するが、生活は向上しなかった。のちに結婚する赤沢やすを頼って大連へ行き、貧困からの脱出を目指したが変わらず、この間に書いた小説3編が講談社の懸賞小説に入選。1921年(大正10年)に母が没すると、翌年より東京毎夕新聞社に入り、次第に文才を認められ『親鸞記』などを執筆する。

関東大震災により東京毎夕新聞社が解散すると、作品を講談社に送り様々な筆名で発表し、「剣魔侠菩薩』を『面白倶楽部』誌に連載、作家として一本立ちする。1925年(大正14年)より創刊された『キング』誌に連載し、初めて吉川英治の筆名を使った「剣難女難」で人気を得た。このとき本名の「吉川英次」で書くように求められたが、作品が掲載される際に出版社が名を「英治」と誤植してしまったのを本人が気に入り、以後これをペンネームとするようになった。キング誌は講談社が社運をかけた雑誌だが、新鋭作家吉川英治はまさに期待の星であり、「坂東侠客陣」「神洲天馬侠」の2長編を発表し、多大な読者を獲得した。執筆の依頼は増え、毎日新聞からも要請を受け、阿波の蜂須賀重喜の蟄居を背景とした傑作「鳴門秘帖」を完成させた。これを収録した『現代大衆文学全集』もよく売れ、また作品も多く映画化された。

『宮本武蔵』の誕生 [編集]こうして巨額な印税が入ったが、貧しいときから寄り添っていた妻やすは、この急激な変化についていけず、次第にヒステリーになっていく。これを危惧し、印税を新居に投じ、さらに養女をもらい家庭の安定を図った。こののち、『万花地獄』『花ぐるま』といった伝奇性あふれる小説や、『檜山兄弟』『松のや露八』などの維新ものを書く。しかし妻のヒステリーに耐えかね、1930年(昭和5年)の春に半年ほど家出し、この間『かんかん虫は唄ふ』などが生まれた。このころから服部之総と交友を結ぶ。1933年(昭和8年)、全集の好評を受け、大衆文学の研究誌・衆文を創刊、1年続き純文学に対抗する。松本学の唱える文芸懇談会の設立にも関わり、また青年運動を開始し、白鳥省吾・倉田百三らと東北の農村を回り講演を開いた。1935年(昭和10年)『親鸞』を発表。同年の8月23日から「宮本武蔵」の連載を始め、これが新聞小説史上かつてない人気を得、4年後の1939年(昭和14年)7月21日まで続いた。剣禅一如を目指す求道者宮本武蔵を描いたこの作品は、太平洋戦争下の人心に呼応し、大衆小説の代表作となる。

1937年(昭和12年)、やすと離婚、池戸文子と再婚する。1939年2月より「新書太閤記」を連載。7月の「宮本武蔵」完結後、8月より「三国志」を連載。個人を追究したものから、2作品は人間全体を動かす力を描こうとしているのがうかがえる。『宮本武蔵』終了後も、朝日新聞からは連載の依頼が続き、「源頼朝」「梅里先生行状記」など歴史に名を残す人物を描いた作品を発表した。

1942年 (昭和17年)、海軍軍令部の勅任待遇の嘱託となり、海軍の戦史編纂に携わっていた。山口多聞、加来止男の戦死を受けて、「提督とその部下」を朝日新聞に執筆し、安田義達の戦死後は「安田陸戦隊司令」を毎日新聞夕刊に連載している。[1]

終戦後の活動 [編集]終戦後は、その衝撃から筆を執ることができなくなってしまった。親友の菊池寛の求めでようやく書き始め、『高山右近』『大岡越前』で本格的に復活する。ただしこのころ、『宮本武蔵』の版権をめぐって講談社と六興出版(英治の弟晋が勤めていた)との間で騒動が起きた。1950年(昭和25年)より、敗れた平家と日本を重ねた「新・平家物語」の連載を開始する。連載7年におよぶ大作で、この作品で第1回菊池寛賞を受賞。また『文藝春秋』からの強い要望で、1955年(昭和30年)より自叙伝「忘れ残りの記」を連載。なおこのころ身を隠していた辻政信に会い、逃亡資金を渡している。『新・平家物語』終了後は、「私本太平記」「新・水滸伝」を連載する。『私本太平記』は、従来逆賊といわれてきた足利尊氏の見方を改めて描く。1960年(昭和35年)、文化勲章受章。

「私本太平記」の連載終了間際に肺がんにかかり、翌年夏にがんが転移し悪化。1962年(昭和37年)9月7日、肺がんのため築地国立がんセンターで死去。70歳。法名は、崇文院殿釈仁英大居士。従三位勲一等に叙せられ、瑞宝章を贈られた。疎開先だった東京都青梅市に、吉川英治記念館がある。なお東京都港区赤坂にあった旧吉川邸は講談社の所有となり、(同社での企画出版のための)泊まり込みでの執筆や、座談・打ち合わせに使用された。

 2012年初頭からはNHK大河ドラマが平家物語。松山ケンイチが平清盛を演ずる。一方源氏物語が映画化され瑠視、小生の友人が「Emperor」を世に問う。
 時代は時代のこころに惹かれるところとなった。

2011 年 12 月 15 日   No Comments

臨済宗建長寺

kamakura_074a 紅葉長谷寺から八幡宮を超えると鎌倉5山の筆頭建長寺に至る。栄西臨済宗本山。北条時頼建立。1253年。
三門の楼上には五百羅漢があるとされるが公開してない。こんなところが建長寺の駄目なところか。伝教たるものの
本質が分かってない。情けない。五百羅漢が意味する本質は正法護持、在住仏身にあるので大衆を向かなくてどうする。
 建長寺国宝「法語規則」には『鞭影を見て後にゆくはすなわち良馬にあらず、訓示を待って志を発するは実に高僧にあらず」とあるではないか。秘仏になんの意味があるか。
 しかし三門は立派で法堂には千手観音とガンダーラの修行する仏が座している。1255年鋳造の梵鐘。仏殿前庭に7本の柏槙。樹齢760年。
 唐門、庭園とあるが三門と法堂ほどじゃない。
紅葉は山の陰で見事とはいえない。

2011 年 12 月 10 日   No Comments

晩秋の長谷寺

長谷寺

長谷寺

008015 ブログで現状の日本を語っても詮がない。なんの進歩にもならないし、見てるほうもやになるに違いないことにどうして気づかなかったのだろう。
 大体がまだ時代の異なることに歯向かった抗議の筵旗を掲げるなんて誰も興味もないし、エネルギーも餓えていない。
 もう無益なことを言うのはやめよう。
 北面の武士斉藤義清が厭世して西行になったのも出家して親鸞の弟子となった海野道広覚明も比べちゃいけないがこんな心情だったに違いない。
 前書きはともかく先日晩秋これが今年最後の紅葉を拝みに鎌倉にとハンドルをとってみた。起きたら珍しく天気がいい。それじゃ行ってみるかと長谷寺にナビをあわせて第三京浜にのった。
 朝比奈インターを降りるとみんな長野だの山梨だの習志野ナンバーで紅葉渋滞。
 久木地域を経由して長谷寺に向かう。駐車場を探すのに手間取ったが無事に一時間600円で駐車キープ。
長谷寺の山門に向かう。紅葉は今日で最後という風情で出迎えてくれた。
 大和の長谷寺ほどの規模ではないが紅葉の程度も地味だが東国鎌倉だからよく作ったものだ。
 本堂の横にダンボールで作った仏像がある。現代の鬼才本堀雄二が作。これは見事。
 そばを食ってから久しぶりに大仏さまにお目にかかった。
与謝野晶子の歌「 鎌倉や御仏なれど釈迦無二は美男におはす夏木立かな」 があったが、晶子の源氏物語の訳はよくない。瀬戸内寂聴が数段まし。
 

2011 年 12 月 9 日   No Comments

いまそこにある危機 <嘉手納のパールハーバー化>

 ついにスペインの国債の暴落、続くであろうユーロ危機、米国ドルへの不信、そして米国のパシフィック化。20世紀後半の国際状況が眼前に浮かんでくる。違うのは中国が当時の中国でないことだ。いまや中国マネーはユーロを支え、米国国債のナンバーワンホルダーである。20世紀の上海租界で列国がたむろして威を振るった時代とは100パーセント違う。
 米国CIAが必死に中国民主化路線内乱の動きを裏から煽動してもたいした効き目もない。一方日本は日米同盟とかで普天間への基地移転などいっているが、状況はもうその先に進んでいる。米国にはもうどうでもいい。そうしたなか、沖縄嘉手納にF22 Raptor,とSR71が配備された。いずれも中国をにらんだ配備だ。民主党のオバマは昨日オーストラリアに中国のミサイルがとどかない軍事的配備を発表した。
 だから中国には嘉手納をたたくのが早い。米国は嘉手納沖縄を最前線に決めた。いわゆるパールハーバーの嘉手納化である。
太平洋諸国世界経済の中核となる。
太平洋を握ったものしか21世紀を生きられなくなった。
ジャズや、アートや、その日の幸せなどの平和な文化はもうそこにある危機の前の風前の灯になっている。
 2020年中国のミニ原爆が宇宙衛星から沖縄嘉手納に発射される。今から9年後だ。まだ生きているかそれともあの世からの観察になるのか。
 日本の原爆が上海に発射される。日本にも原爆が秘密裏に沖縄の普天間の移転不備の条件として米国から配備されていた。
沖縄が再び生贄となって太平洋時代が始まってゆく。
 どうもそうなるように仕込まれているようにしか見えないのだから。

2011 年 11 月 18 日   No Comments

二人からのリスポンスありがとう

山賊みたいな取締りと切符切り。
そんなに卑怯なやりかたしないでも、罰金で署内の経費がたりないのなら
足りないといってくれればどうにでもしますよ。
一般道40キロのところである一箇所で60キロで1万5000円と2点ならまだしも
慇懃無礼交通警察官に否認すると裁判ですよといわれて署名してしまった私に
嫌気が差してショックがきえない。
やはり埼玉の叔父のように政治家になるべきだった。地盤看板はあったのだから。

2011 年 11 月 2 日   No Comments

もう一度

 世田谷通りに続く津久井道。よみうりランド手前の陸橋の下合流地点に二台のバンが停まっていたので、その横を少し
アクセルをいれて抜けた。そして前の車について50メートルばかりいくと警官。なにかと聞くとスピード違反ですときた。
何キロかと聞くと62キロ出しているという。押し問答だがどこで測ったかを聞くと交通を阻害していたあのバンの車の中だという。前に二台あるから、スピードを一旦おとすが、抜くためにアクセルを踏む。そのアクセルを逆用した取り締まりにひっかかった。点数2点。罰金1万5000円。これじゃー詐欺にひっかかったよりひどい。なにを言っても無駄とは思ったが、否認して裁判までと一旦思ったが、止めて切符を切られた。
 2,008年の初頭次のようなことを書いた。重複するが掲載する。
 「2008年初頭からイヤ全く交通違反金を払わされました。最初が東名で月曜の空いている時間帯、御殿場の陶芸アトリエからの帰り、トンネルが何箇所あり私の前を白いクラウンが120キロ程度のスピードを出して追い抜き車線を走行していましたのでその後を付いていたところ、急にそのクルマがスピードを落として走行車線を変更、否応なくそのまま走行したところ突然ピーポピーポと覆面パトに変身して30キロオーバーのスピード違反。

 次が世田谷の大蔵病院の早朝7時から9時だけ右折禁止。よく見たら小さな標識が信号手前の多くの広告看板に隠れるようにあるだけ。

 次が東宝調布のゴルフ練習場のそばで走行中友人から電話。携帯が鳴ったので出たらそこに白バイ。

 そして極めつけは慈恵第三病院そばのスーパーマーケットで10分ばかりの買い物中におきたレッカー車移動。駐車違反。10分の間でよくも移動できるものと反対に感心するほど。

 弱いものいじめの警察国家ですから今更どうのこうの言うつもりはありません。ですがこの一年一寸で支払った罰金6万5000円はどのように社会のために使われているのか全く不明な点です。ガソリン税の一般財源化論もありますが、一点一点と取ってゆく罰金は一体どこにいっているのでしょうか。

 
 皆さんのご意見をお聞かせください。

2011 年 11 月 2 日   No Comments

この不条理になにかを況や

 世田谷通りに続く津久井道。よみうりランド手前の陸橋の下合流地点に二台のバンが停まっていたので、その横を少し
アクセルをいれて抜けた。そして前の車について50メートルばかりいくと警官。なにかと聞くとスピード違反ですときた。
何キロかと聞くと62キロ出しているという。押し問答だがどこで測ったかを聞くと交通を阻害していたあのバンの車の中だという。前に二台あるから、スピードを一旦おとすが、抜くためにアクセルを踏む。そのアクセルを逆用した取り締まりにひっかかった。点数2点。罰金1万5000円。これじゃー詐欺にひっかかったよりひどい。なにを言っても無駄とは思ったが、否認して裁判までと一旦思ったが、止めて切符を切られた。
 2,008年の初頭次のようなことを書いた。重複するが掲載する。
 「2008年初頭からイヤ全く交通違反金を払わされました。最初が東名で月曜の空いている時間帯、御殿場の陶芸アトリエからの帰り、トンネルが何箇所あり私の前を白いクラウンが120キロ程度のスピードを出して追い抜き車線を走行していましたのでその後を付いていたところ、急にそのクルマがスピードを落として走行車線を変更、否応なくそのまま走行したところ突然ピーポピーポと覆面パトに変身して30キロオーバーのスピード違反。

 次が世田谷の大蔵病院の早朝7時から9時だけ右折禁止。よく見たら小さな標識が信号手前の多くの広告看板に隠れるようにあるだけ。

 次が東宝調布のゴルフ練習場のそばで走行中友人から電話。携帯が鳴ったので出たらそこに白バイ。

 そして極めつけは慈恵第三病院そばのスーパーマーケットで10分ばかりの買い物中におきたレッカー車移動。駐車違反。10分の間でよくも移動できるものと反対に感心するほど。

 弱いものいじめの警察国家ですから今更どうのこうの言うつもりはありません。ですがこの一年一寸で支払った罰金6万5000円はどのように社会のために使われているのか全く不明な点です。ガソリン税の一般財源化論もありますが、一点一点と取ってゆく罰金は一体どこにいっているのでしょうか。

 まさか、社保庁のようなことはありえないとおもいますが、公表すべきだとおもいませんか?」

 皆さんのご意見をお聞かせください。

2011 年 11 月 1 日   2 Comments

「だったり・・・だったり」言葉

 本日のドラフト会議のニュース。原巨人監督の甥っ子が東海大学でドラフトは他の球団でそのことをインタビュー。さすればそのやさ男曰く「高校の監督だったり、両親だったりに相談して決めたいと思う」ときた。日本語ではだったりとは例えば、だったり・・・だったり・・・の後には「全く糞の役にもたたない」のような使い方になるのが普通の表現。現実に向かい合うともうどうにもならないのがもう当たり前に陥っている子供たちには、並列する例や理由や言い訳と其の後に来るものは[Shit]しかないのだろう。先生も先輩も両親もそのうちにやー天皇陛下さえ・・・ だったり・・・言語の犠牲になるに違いない。
 若者の<だったり文化>は恐ろしくも民放のキャスターでさえ使い始めた。もう言語の魑魅魍魎化だ。
そういう我々も全共闘時代には{われわれはーー米帝国主義のーー欺瞞にーー}などという言い方をしていたのだから目くそ鼻くそか?
 しかし民放のキャスターまでがこういう言い方はしなかった。
私だけなのか、本当に気になるのだが、だれも指摘した人を知らない。

 

2011 年 10 月 27 日   No Comments

「こちら」 「あちら」

 もう止めてくれ!こちら あちらのNHKをはじめとする報道。
最近は以前よりひどい。説明するのも面倒だと画面を移してはい「こちら」とくる。
説明するのがアナウンスというものだろう。
それが説明もなくハイこちら、あちらとくる。
いつからこんなことが始まったのだろうと思ったら、はたときた。l
 NHKの磯村がやるニュースがあったが、そのとき名前も忘れたが、女性のアナウンサーがいて
こちら、あちらとやってた。
要するに省く意識が先に立つ。見りゃわかるだろう的なイージーテレビ文化を作った張本人だ。
 民放はすぐ金魚の糞ととびついて今がある。
 だからといって誰からもあちら、こちらについての批評もない。
 日本人の不気味なほどの鈍感さ。

だからもうやりきれないのだ。

2011 年 9 月 16 日   No Comments

朝4時の活字

 65歳を超えて気がつくのは早朝の目覚めである。それも夢をみていたのか、ある悔悛の思いと一緒に眼が開く。ああしたらこうしていたらなどの夢が多い。粘っこいしつこいほどのこの種の夢はどこから来ているのだろうかとまた考え始めるから寝るのが難しくなる。そこで活字を拾い読むことにした。
 難しい哲学がよいかと「ヘーゲル」「キルケゴール」などの昔読んだ本を取り出して詠んでみたが効果はない。それじゃと雑誌はどうかと文春やゴルフ雑誌などを試したがこれはもっと眼がさめる。
 そこで試したのがお経である。般若心経がよい。すぐに効果がでる。
 最近はもう効果はないが、時代小説を読み始めた。その中でも吉川英冶の「黒田如水」司馬遼「空海の風景」「関が原」一志昌綱「異聞本能寺」が面白い。以前にも読んだものだが、忘れていて初めて読んでるようである。誠に人間とは忘れる動物だ。だから生きてゆける。これらの本だが面白いのはそこに出てくる人物の姓である。最近もあったが民主党の代表選の海江田の姓が鹿児島にある姓で歴史上の人物の末裔であるとかのことだ

 それでこのかた自分の周りにあった姓を思い起こすと歴史とつながっていることに気がつく。子供時代のとなりの家が「土岐」
その近くが「一柳」、はじめの会社の上司が「西郷」、そのとなりの部に「鍋島」、やった仕事でお会いしたのが「徳川」、同僚に「松平」かれは松平は松にアクセントを置くといっていた。「平」さんもいたし「源」さんもいた。歴史小説に現れる姓のなんと身近にあることかとびっくりしてしまうのである。

 朝4時、歴史上の事跡や人物がなんと身近にあり、あったのかを感じて活字を拾うのは楽しい。

2011 年 9 月 6 日   No Comments