プレミアムエイジ ジョインブログ

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朝4時の活字

 65歳を超えて気がつくのは早朝の目覚めである。それも夢をみていたのか、ある悔悛の思いと一緒に眼が開く。ああしたらこうしていたらなどの夢が多い。粘っこいしつこいほどのこの種の夢はどこから来ているのだろうかとまた考え始めるから寝るのが難しくなる。そこで活字を拾い読むことにした。
 難しい哲学がよいかと「ヘーゲル」「キルケゴール」などの昔読んだ本を取り出して詠んでみたが効果はない。それじゃと雑誌はどうかと文春やゴルフ雑誌などを試したがこれはもっと眼がさめる。
 そこで試したのがお経である。般若心経がよい。すぐに効果がでる。
 最近はもう効果はないが、時代小説を読み始めた。その中でも吉川英冶の「黒田如水」司馬遼「空海の風景」「関が原」一志昌綱「異聞本能寺」が面白い。以前にも読んだものだが、忘れていて初めて読んでるようである。誠に人間とは忘れる動物だ。だから生きてゆける。これらの本だが面白いのはそこに出てくる人物の姓である。最近もあったが民主党の代表選の海江田の姓が鹿児島にある姓で歴史上の人物の末裔であるとかのことだ

 それでこのかた自分の周りにあった姓を思い起こすと歴史とつながっていることに気がつく。子供時代のとなりの家が「土岐」
その近くが「一柳」、はじめの会社の上司が「西郷」、そのとなりの部に「鍋島」、やった仕事でお会いしたのが「徳川」、同僚に「松平」かれは松平は松にアクセントを置くといっていた。「平」さんもいたし「源」さんもいた。歴史小説に現れる姓のなんと身近にあることかとびっくりしてしまうのである。

 朝4時、歴史上の事跡や人物がなんと身近にあり、あったのかを感じて活字を拾うのは楽しい。

2011 年 9 月 6 日   No Comments

空騒ぎ World must be peopled

 1966年だからもう45年前になる。三鷹にあるICU なる大学で学んだが、その二年生。当時英国から招聘されたThomas Mc’kensie Hardie というオックスフォード大学出身の先生がいて、その先生の指導のもとシェクスピアの「空騒ぎ」Much ado about nothing を公演するということになり、学内中から募集してオーディションまでやって、劇団「Misfits」が構成された。劇団メンバーはほぼ40から50名に達したと思う。中には中国(香港)からの留学生や実際に劇団四季の研修生までがいた。公演はいまは閉鎖された新宿の厚生年金ホール。後援には英国大使館、British Council,でJapan Times が協力してくれたように思う。
勿論有料で切符売りも劇団でやった。
 声が大きいからか、小生はBenedickという主役を張ることになって、学内の講堂で毎日毎日六ヶ月練習した。芝居は青春にぴったりだった。皆と役を通じてだが、分かり合える。声と体で感情を表現するのは楽しいことだった。
 公演は大成功で当時ジャパンタイムスに絶賛の記事が掲載されている。
そして、2011年「Misfits」 のメンバーが集まろうということになった。発起人に手を挙げた友人が名簿を同窓会事務から作り直した。不幸にも鬼籍に入られてしまった懐かしい友人もいる。
 今週金曜日発起人の準備会が渋谷の麗郷で行われる。小生はもうシェクスピアは無理だが、芥川の羅生門「たけやぶのなか」か小品イプセンなどの公演が還暦をとうに過ぎているが往年の「Misfits」復興でできればと考えている。

空騒ぎ  あらすじ
 「シチリア島メッシーナの知事レオナートの屋敷にアラゴン大公ドン・ペドロ一行が到着する。クローディオ伯爵はレオナートの一人娘ヒーローに一目惚れ。独身主義者ベネディックはレオナートの姪ベアトリスと丁々発止の口喧嘩。ボラチオはヒーローの小間使いに色目を使う。ペドロの異母弟ドン・ジョンだけが不機嫌だ。純真なクローディオが恋を打ち明けられずにいるのを知ったペドロは一計を案じ、仮面舞踏会でクローディオになりすまし、ヒーローに求婚するという。それを立ち聞きしたボラチオがドン・ジョンに報告すると、兄を憎むジョンはその企てをぶち壊そうとするが、誤解は簡単に解け、クローディオとヒーローは一週間後に結婚することになる。ドン・ペドロはさらにベネディックとベアトリスもくっつけようと画策、ベネディックが立ち聞きしているのを知りながら、ベアトリスはベネディックに恋焦がれるゆえに悪態をつくのだ、と芝居をする。ベネディックは罠にはまり、ベアトリスを愛してしまう。そしてベアトリスも同様に嘘を信じ込み、ベネディックに恋心を抱くようになる。

一方、最初の計画が失敗したドン・ジョンに、ボラチオが新たな作戦をもちかける。小間使いマーガレットを使ってあたかもヒーローが式の前日に浮気をしているように見せかけて、クローディオに目撃させようというのだ。今度は計画が成功した。クローディオとドン・ペドロは怒りと悲しみに打ちひしがれる。ところが芝居が成功して上機嫌のボラチオが仲間にうっかり計略の詳細を話しているところを夜警に聞かれて逮捕されてしまう。ドグベリー治安官たちが拷問すると、ボラチオの背後にはドン・ジョンがいるという。

翌日、結婚式の前にドグベリーが知事のレオナートに報告をするが、力みすぎて間違いだらけの言葉使いで真意が伝わらない。そして迎えた結婚式でクローディオは何も知らないヒーローを面罵する。レオナートやベアトリスがとりなそうとしても聞き入れるはずもなく、ヒーローは失神、クローディオは立ち去るが、ベネディックや司祭はこの経緯を不審に思う。そこで司祭がある提案をする。それは、ヒーローが失意の余り死んだことにすれば、クローディオの中から恨みや怒りが消え、後悔と憐憫からかつての愛情が戻るはずだ、というものだった。

ボラチオ逮捕で恐れをなしたドン・ジョンは町から逃亡する。すべてジョンの陰謀だったことを知ったクローディオ。レオナートから娘を殺したのはクローディオだと責められ、自身の罪を悟ったクローディオは、レオナートから突きつけられた要求を承諾する。それはヒーローの無実を世間に知らせて墓前に哀悼の歌を捧げることと、ヒーローに瓜二つの姪と結婚して跡継ぎになることだった。偽りの葬儀の翌朝、結婚に臨んだクローディオの面前に現れたのは、死んだはずのヒーローだった。再会と真実の結婚に喜び沸き立つ二人に加え、ベネディックもまたベアトリスに求婚する。二重の喜びに溢れる一同のもとに、捕らえられたドン・ジョンが引き出されて幕。」Wikipedia

2011 年 8 月 4 日   No Comments

子規の庭

002 四畳半か六畳かしらないが、眼前の小宇宙は庭だった。そこから、「鶏頭の十四五本もありぬべし」と描写した。ありぬべしとはあったにちがいないという確実な推量である。推量とは推し量ることで確実ではないから、あり得ない事でもあるはずだ。だからこの句は鶏頭論争を生じた。
 小生の小宇宙は都の西方のマンションの最上階のベランダだ。このベランダどういう建築設計か120平方もある。いまどきこんな無駄な設計をするマンションなどないだろう。何度かの引越しを経てここに落ち着いた。昔購入していたところに戻ったというほうが正しい。
 このベランダに木化してしまったドッグイアや名前も忘れてしまった、南仏から持ち帰ったハーブ類、が十数年のときを経て生きつづけてきた。1995年にはフランス政府観光局と協力して南仏プロバンスの番組を製作、ビデオや書籍にもしたっけ。ハーブブームもつくってみたっけ。年に4回春夏秋冬のプロバンスを撮影しに行ったけな。メッセゲ氏にもインタビューしたな。
 そして65歳の今夏はもう遠い海外などもう眼中になくなった。そう50年前の修学旅行以来いってない四国高松や金比羅さんに興味が湧く。8月一ヶ月大文字焼き、と倉敷、高松、讃岐、鳴門をめぐるたびに出る予定。
 そこでだ。吾が小宇宙のベランダの歴史ある植物たちの水遣りだ。どうするか悩んで高木の自動散水器を設けた。
 鶏頭の庭ならずプロバンスの種を育てた庭だ。

2011 年 7 月 26 日   No Comments

遥かなる追憶のシルクロード 最終章ご紹介

IMG_0986昔と言っても経った43年前1967年、逼塞した状況から500ドルを握り締めて日本を離れた青年がいた。青年は現在65歳。青春はこわれもの。自らの記録を自己出版社、団塊文庫から「遥かなる追憶のシルクロード」を出した。またヤフーブログに思い出しては追記したり修正したりしている。その最終ページをご紹介したい。

曼陀羅 カルカッタ             
これまでのあらすじ
<今から43年も前、青春と500ドルを握り締めて横浜を片道切符でユーラシアに放浪の旅にでた。二年の欧州滞在を経てパリからカルカッタまでの3万キロをボロVWで踏破。「荒野を目ざせ」や「深夜特急」より数年も前の記録。>

 幸い白黒だが写真が残っていた。前年92歳で亡くなった母親がパスポートと一緒に箪笥にしまって置いてくれた。母が保管してくれていなければこの紀行はとても書き残すことは出来なかったろう。写真を見ると当時のことが眼前に現れてくる。母の想いは深い。

                            

生と死がいつも隣り合わせで、死が終わりでなく、来世の始まりとなる輪廻転生の曼陀羅都市ベナレシを早朝発ち、インド最大の都市カルカッタにむかった。カルカッタまでは680キロほどの道のりである。

三万キロ近くを走って未だに快調なエンジン音を出して愛車VWがインドの埃のたつ街道を走っている。街道には車だけでなく、人間がゆっくりと横断し、聖なる牛がそれ以上にゆっくりと横切ってゆく。側道では、犬が車をみて吠えているが、全く気をかけずに静かに長い白い髭をはやした老人たちが屋台の縁台で、チャイを飲んでいる姿が車窓を跳んでゆく。。
 
外の気温は30度近くねっとりと湿気が強い。これが冬だ。夏はどういうことになるのだろうか。今は一月末である。カーラジオから楽器シターのメロディーが流れている。時々小さな集落を通る。白装束のタバーンを巻いた男たちが腰をかがめて何かしている。よく見るとみな小用を足している。インドでは立ち小便の習慣はない。皆座って用を足す。ロータリーのような広場では中央に蛇口のついたバルブから水が出ている。そこで洗濯し、洗顔している群集がいる。ほとんど舗装した道はないから、埃で前が見えないが、そんなにスピードが出せないので危険なことはない。
 
それでもカルカッタに近づき始めると舗装された国道になって次第にスピードをあげてインド最大の都市に向っていった。
 褐色の濁流ガンジスに鉄橋が架かっている.それがハウラー橋である。これほどの鉄橋が突然現れると実際これまで走ってきた農村インドのイメージが壊れるほどだ。大英帝国がインドに架けた橋だが、なにを結ぼうとした橋なのか。搾取した黄金を運ぶ橋が現在はインドの貴重な橋として残っていた。夕日がガンジスの水面に映えていた。
 
早朝のベナレシをでて日が暮れかけていた。街が近くなると道にでこぼこができているのか車が揺れだした。次第に郊外から市中にはいってきているらしいが、暗いままで街の灯で明るくならない。街灯など全くない。通過する家の中からはローソクのひかりがもれている。インド最大の都市に電気がきてない筈はないから、考えた。そうか停電だ。電力事情が悪く停電でその需要に対応しているのだと解釈した。
 
それでも街の中心らしき辺りにくると明るくなったが、道路標識が読めなかった。読めたところで何処が何処だかわからないのだから同じだと諦めて、横に止まったタクシーの浅黒い運転手にこの辺で泊まれるホテルの場所を尋ねた。
「ヒヤリス・チャーリンギストリート。ゴートゥ・サドルストリート。」
サドル通りへ行けといっってるぞ。
「プリーズ ガイドアス」と言うと 
「フォロウミー」と言い残すとさっさと前を走り出した。
何度か道を右や左に折れると真っ暗なところでタクシーが止まった。そこがカルカッタ有数の安宿街のサドル通りだった。あまりにも真っ暗で危険そうな宿屋街にこの我々も怖気づいた。
「YMCA プリーズ」とヒリキが言った。
「オーケー、フォローミー」タクシーがまた走り出した。そして大通りに面した建物の前に止まった。
「ヒヤー、テンルピー ユーハフツゥペイ」運転手が言った。何か到着早々ぼられたが我慢してそれでも案内料と割り切って、ねぎって払った。
 建物はロンドンでよく見た古い建築物に良く似ていた。中に入ると髭を生やした親父風の管理人が受付にいた。本日空きがあるかどうか聞くと
「ユウハブ・ラック。バットオンリー・ドーミトリーベッド。」
個屋でなく大部屋でベッドがおいてあるところだけが空いているという。疲れていて個室でゆっくりして寝たかったがないのでは仕方がない。一泊十ルピー(350円)そこそこだ。大部屋に通されるとベッドに腰を落として寝そべった。天井に大きな十字のファンが廻っていた。

隣のベッドにはフランス語の新聞を読んでいるヒッピー風の西洋人がいた。
「ボンスワール」というとにっこり笑顔をつくった。西洋人の見知らぬ人に対する態度には見習う点が多い。自分が決して敵ではないという笑顔を必ずつくる。何処でもだ。
「今ついたのかい。どこから?」と尋ねた。
「車でベナレシから。十二時間かかったよ。」というと
「ボン・デュー」と答えた。懐かしいフランス語の驚きの表現だった。
「君はここは長いのかい」と尋ねると
「もう二ヶ月になる」という。
「カルカッタはそんなに面白いのかい?」と聞くと
「ノー・ウェイ」と初めて英語で答えた。他に方法があるかいというような調子に聞こえた。
 疲れていたが、まだ寝るには早いし腹が空いていた。外にレストランかないか聞くと、「レストラン?」と驚いたような声を出したが、ニタニタして
「シー・フアット」とわからないような答をした。あることはあるのだろう。シャワーを浴びる前に外に出た。夕方8時になるとさすがに涼しくなっていたが、湿気は強い。

「インド料理がないかな」捜すとそれらしき料理屋があった。店に入ると意外に客がいた。強い香辛料と揚げ物と牛乳の匂いが混じって異様な空気だった。とてもレストランとおいう雰囲気ではない。座るとでぶっと太った店の主人が寄ってきた。
「カリー?」と聞くので
「イエス」と返すと色々な料理を紹介したが、わからないので、
「ノット・ソーマッチ」と言うと
「オーケー」と言うと、メニューをもって引き下がった。
待っている間にビールを注文すると、インドビールらしい瓶を持ってきた。ビールの蓋が既に開いてていた。
「おいあいてるぞ」ヒリキが注意したが、喉がひりひりで、もう胃まで入っていた。これがくせものだった。その後二~三日とんでもない下痢に悩まされたのだから。
料理が運ばれてきた。チキンのタンドーリ、ダールというカレースープ、チャパティというパンとこめの飯だ。いつも食べていたものだ。これは安心して食べた。右の指三本で食べた。指に蠅がたかってくる。はらってもはらっても蠅は次から次へとよってくる。蠅を追い払うのと口に持ってくる回数は同じ程度である。不衛生だから追い払うのでなく、蠅を間違って口にいれないように追い払っているのだ。ドーミトリーのフランスのヒッピーがニタニタしていたのがよくわかった。勘定をみると驚くほど安かった。
 
宿屋まで歩いた。暗い夜道に目が慣れてくる。来る時は気がつかなかった。暗い道の両側に人が蹲っている。無数の人たちが或る者は横たわり、或る者はこちらを見ている。老婆が物乞いの手をこちらに向けている。暗い路上に人があふれているではないか。目の前を白い装束の男が立った。暗い夜道に赤い目だけが異様に光っていた。
 
カルカッタは百鬼夜行の世界であった。あらゆる人間の姿がそこにある。路上は人間の生活の場所であり壁のない野外の家である。

雨がふれば雨にぬれ、風がふけば風に逢い、寒ければ互いの体で暖をとる。カーストのくびきに縛られ身動きできない最下層の民は路上をついの棲家とする。不思議に肌の色が黒くなればなるほどカーストが低くなると人は言う。本当かどうかわからないが、確かに路上の人たちの肌は黒い。闇の暗さと肌の色が交じると暗闇に人間が溶けだして一体となる。路上に人が一杯という表現は正しくない。路上の闇に人が溶けて漆黒の世界となっているのだ。旅人はこの漆黒の世界に紛れ込むと容易に抜け出すことが出来なくなるという。ヒッピーのフランスの青年もその犠牲者かもしれない。

そういえば半世紀前の我々の少年時代の日本も暗かった。ぼんやりと灯のともる野原で暗くなるまで遊んだ。道路は舗装されていなかったし時たま自動車が通ると砂ぼこりで目が痛かった。家の前の溝には生活排水が垂れ流しで黒いペンキが塗られた木のゴミ箱に生ゴミが腐っていた。冬は寒く、練炭のコタツで一家が暖をとった。夏は暑くアイスキャンディー売り声をあげて町内を自転車で走っていた。皆が少しでも豊かな生活をめざして働いた。戦争ですべてを失った人たちは平等に貧乏であった。
 
眼前のカルカッタには階級が人々を縛っていた。いかに努力しても報われないとしたら人間はなにを目指せばいいのだろう。ここまで不幸せで、ここまでして人間は生きてゆかねばならないのか。
 
ヤギの首を切断しその首をカーリー神に捧げて経と祈りの儀式をおこなうカーリー寺院がある。斧で首を切られたヤギの胴体はしばらくはぴくぴくと動いている。解体された胴体と肉は路上の民がもってゆく。せめてもの神の恵みがある。まだ人間を犠牲にして神に捧げないだけましなのであろうか。
 
その夜、強烈な下痢で何度も何度も便所とベッドを往復してカルカッタの最初の夜が白々とあけていった。
 我々には一日一ルピーで下男ともいうのだろうか長身のインド人がついていた。泊まると自動的に世話をやいてくれる。ひどい下痢状態を見て薬を買ってきてくれた。地元の薬で丸薬のようだったが、飲むと効いた。

少し楽になって翌朝から近くのツーリスト。インフォメーション事務所にカルカッタ以降の道路事情を尋ねにでかけた。
事務所に入ると、インド人特有の彫りの深い美人が対応してくれた。名前をマンジュラといった。見事なブリティッシュ英語を話す上流階級出身のようだった。
「フロム・カルカッタ ノウ・ロード ポッシブル」ダッカまでは可能だがビルマも中国も国境を閉ざしていた。カルカッタで袋小路に入ってしまったのだ。
「ゼン・ハウキャン・ウイデゥ?」
「ユウハフ・テゥフライ」日本へはビルマを越えて、飛行機で飛ぶしかない。では愛車VWをどうするか?捨ててゆくわけにもいかない。相談するとマンジュラが言った。
「ユウ・トラストミー?」三人は美人のマンジュラに頷いた。

その日の午後からマンジュラがカルカッタを案内するといって我々を連れまわした。なんといって事務所から外出の許可をとったのかわからないが、楽しそうに案内をした。カーリー寺院、ウィリアム砦、ビクトリアメモリアル、ビルラ寺院、なんとかいうジャイナ教の寺院、それに動物園まで、もういいよとも言えずまわった。正直言ってカルカッタには英国の影響のある建物が目立って余り興味を引くところはなかった。

こうして物憂げだがなにも特別でなくルーティーンで安楽でベッドに横たわっているといつまでもねむくなるカルカッタの生活がだらだらと過ぎていった。側には下男のジャディムがついていて食べたいものをすぐ買ってきてくれたし、タバコは一パイサ(15銭)で一本づつでも買えた。ジャディムはカルカッタから10キロも先の農村にすんでいたようだが、毎日歩いて通ってきていた。我々のほかにも担当する客がいるようだった五人いたとしたって一日五ルピー(75円)にしかならない。浅黒いが長身で気がよかった。カルカッタに逗留してもう十日が過ぎようとしていた。そのうえ、意識のない内に1989年が明けていた。毎年行く年と来る年を祝えるのは安定の象徴以外のなにものでもない。

朝ジャディムが我々を揺り動かした。                     
「受付にマンジュラという娘が待っている。急用だそうだ」
「わかった。すぐ下に下りると伝えてくれないか。」そういって身支度して降りてゆくと、
「インド政庁が貴方達を至急よんでいるの。わるい話じゃない。早くして」マンジュラが言った。
「そう。車の件でね」マンジュラに任せた愛車VWの話のようだ。インド政庁は車で十数分のところにあった。マンジュラは怖ろしそうな衛兵の立つゲートをなれた雰囲気ですいすいとはいってゆく。朝のチャイを嗜んでいる官僚のオフィスの廊下を右に左にかきわけ挨拶しながら進んでゆく。するとどん詰まりの高級オフィスのドアをコンコンと叩いた。中から
「カムイン」と男の声がした。
「アイケイム・ウィズ・マイ・ジャパニーズ・フレンズ」とマンジュラがいうとドアが開いた。40代の恰幅のよいインド紳士が立っていた。
「サンキュウ・フォ・カミング。アイアム・インスぺクション・オフィサー。」と自己紹介した。カルカッタ市の警視にあたるオフィサーで名前はマハンソンという。
「ヒー・イズ・マイ・アンクル」とマンジュラが紹介した。オフィスのなかに招じ入れられた我々にマハンソン氏がソフトにゆっくりと英国英語で話しかけてくる。

「お願いがあるんですよ皆さん。皆さんの愛車をどうなさるんですか。マンジュラがもうご説明したと思いますが、カルカッタからはもうバングラデッシュまでしか車ではいけません。当カルカッタの街路に乗り捨てられても三日か四日で廃車寸前まで略奪されます。売ろうにも闇では罰せられます。そこでです。皆さんの車を救急車としてインド政府に寄贈ねがいたいのです。ご存知のように現在カシミール紛争が続いています。赤十字の車が足りません。如何でしょうか。」丁寧に話が終わった。
「勿論、そのお礼として皆様にキャセイパシフィックの航空券をつぎの目的地まで差し上げます。日本までお帰りであれば日本までです。」と顔の表情を緩めた。

三人は顔を見合わせてみたが答はもう決まっていた。もうそろそろこのカルカッタを出よう。ここにいると人間がだんだんと横着でも怠惰でもどんなことでも許されてしまうカルカッタ奈落に落ち込んでしまうような気がした。
 
百鬼夜行の世界。カルカッタの路上は足の踏み場もない。路上にはありとあらゆるものが売られている。通りは物乞いであふれている。片腕の男、片足の男、盲目の老女、いたいげな体をうる少女、蹲る黒い無数の人影。ある人は「カルカッタは人間のジャングル」と言った。路上の民は輪廻転生を信じる。彼らに迫りくる死は終わりを意味しない。死は転生するのだ。現世が苦しければ苦しいほど新しい生が待っている。日常の死は悲しいことではない。『よどみに浮かぶうたかたはかつきえかつむすびて久しくとどまることなし』。
 
徒然なる空蝉の現世はやがてあの曼陀羅の来世を約束する。

 カルカッタ・デゥムデゥム国際空港に三人がいた。ヒリキは日本に、ゴジーはバンコクからカンボヂアに、私はもう少しマカオに寄ってみることにした。

 

あとがき
     青春と芸術
 もし 昔日をとりもどせるなら
 あの街角に一緒に棲んだあのときを
 君は家先の雀のように、
 私は孤独な羽毛を羽織っていた
 誰も君をデゥンスと呼ばず、私はおとなしくしていた
 一度きりの昔日は失われて
 永遠にもどってこない
             ロバート・ブラウニング 〔著者訳〕

一心にアルバイトで金をため、シベリアを横断し、欧州を一年有余放浪し、シルクロードを車で横断した。今から四十年前のことだ。海外へ出るのは、学生ではフルブライト留学か各国政府の選抜する国費留学生、よっぽどの家庭でないと私費で留学するなど考えも及ばない時代だった。「なんでも見てやろう」の小田実氏でさえ国費留学生だった。私達は禁を破って国外にでた。江戸時代とそんなに変わっていない。芝浦桟橋から日本を離れる時はなんか複雑な気がした。もう日本には帰らない移民みたいな気がした。500ドルもって片道切符だった。無鉄砲な自立だった。
 
現在ひきこもりやニートとよばれる若者達がいる。当時の我々とどう違うのか。逼塞感も時代への反抗心も、そんなに変わっていないと思う。我々は外に向かって逼塞感を解決しようとした。引きこもりの若者は内に向かったのではなかろうか。最近逮捕されたライブドアの堀江君は大学時代ひきこもっていたという。しかし一旦自身を見つけた時無鉄砲に外にむかっていった。エネルギーがどんなベクトルの方向に向うかだけの違いである。
 
世代という違いもある。子は親をみて育つ。親がひどければ子はそうならないようしっかりするという。親があまりに独立心が強いと子は依存心が強くなるという。あまり神経質になる必要はないのかもしれない。時が解決してゆくのかも知れないとも思う。

         

カルカッタ(ホーラー駅)に子供達が住んでいる。
子供達は新聞を集め、空き瓶を集めて売り生活している。
現在フランス人が中心になりLes Galopins deCalcutta)協会が子供達を救う活動を展開している。
団塊文庫もそのお役に立ちたいと願っている。

2011 年 7 月 18 日   No Comments

バラード

 この歳になると曲はバラードがいい。
それも洋楽1970年、80年台。
ジョー・コッカー(Joe cocker),心の友、バイバイ・ブラックバード,悲しき願い、ミッドナイト・ライダー。
てなことになると涙がチョチョ切り出る。
 それとなんといってもリチャード・マークス。
Angels’ Lulubyで決まり。
 この歳になるともうバラードに尽きる。

2011 年 7 月 17 日   No Comments

青春はこわれもの Fragile is reminiscence

青春はこわれもの三木たかし。岩崎宏美が歌った。思秋期。曲もすばらしい、が歌詞がもっと素晴らしい。

 作詞家は誰か?

 <青春はこわれもの、青春は忘れ物、すぎてから気がつく>

 <誰もかれも通り過ぎて二度とここへこない>

 わたしの放浪のたびもーーー二度とここへ戻ってこない。

 だから書く。苦くもほろ苦く、舌にさす思い出す味と、

 甘くはないがどこかほろ甘いあの記憶とともに。

 詩を思い出す。

  足音もなく行き過ぎた
  季節をひとり見送って
  

  無口だけれどあたたかい
  心を持ったあのひとの
  別れの言葉抱きしめ 

  心ゆれる秋になって 涙もろい私
  青春はこわれもの 愛しても傷つき
  青春は忘れもの 過ぎてから気がつく

  誰も彼も通り過ぎて 二度とここへ来ない
  青春はこわれもの 愛しても傷つき
  青春は忘れもの 過ぎてから気がつく

  阿久悠に決まってる。

2011 年 7 月 15 日   No Comments

メドロールの力

 しつこいのど風邪がどうもはやっているらしい。7年前に100本近くのタバコ常習をパサットやめてから、のどの痛みなど全くなくなったのに6月山荘でやられた。
 どんどん悪くなって咳き込んで不眠状態に陥った。そして女房がお世話になっている日本一の名医に診てもらった。この名医にめぐり合うために女房は3年を要している。大体私ごときの病の状態など軽くて診てもらうのも申し訳なく思ったが、意を決して診療してもらった。
 自分で考えていた状態より重かった。すぐに点滴を受けて、ステロイド薬の投与とあいなった。メドロールという薬で4ミリを朝晩。ネットで調べてみたら、重症の場合とある・・・・・唖然
 お陰で2日後には劇的に症状改善。友人の奥さんに電話したら、「そんな風にしてほっといて死んだ人が多いのよ!!」といわれてギャフン。

2011 年 7 月 3 日   1 Comment

裏に真あり 孫菅亀の電力自由化路線を支持せよ

 大体日本の現代史みるにジャーナリズムのメジャー意見や、巷の評論家や、政治家の大方が言っていることを信じてよかったことなど一切なかった。「民に知らしむるな、大衆は操作するべきもの、ましてや真実など知らしてよいことなどない。」というのが為政者のドグマだった。ドグマとはみんなで得をしよう、金を分けようということで電力の送配電独占による、地盤と票の確保を担保に政治家はドグマを死守しようとするし、マスコミは電力会社の一説何千億の広報予算に縛られて世論を形成してくる。
 学者や専門家はその日の糧が電力会社から給料される。
 今菅は孫氏の援護をもって、敢然と日本の政治を牛耳ってきた電力権益をむさぼる「電力モンスター」との闘いに出ようとしている。死に物狂いの電力モンスターはいかなる手段でも壟断し画策を弄してしてでも、対決してくる。いわば幕末の電力族葵族と高杉晋作の騎兵隊との闘いである。
 市民運動とは市民という寄る辺なきものの運動だから、ぶれなくては維持できない。市民とはぶれるから新しい道をみつけられる。保守と因習という伝統からはぶれないが、進歩はない。
 菅は確かに大久保利通 山形有朋 吉田茂 田中角栄のような人物ではない。が100万の大群に攻められるも「だから戦うエネルギー」あるようにみえる。すくなくとも、僕もういやだといってやめていった、福田、安倍、麻生などには比べようもない。
たしかに双方の政治家の思惑はみえみえだが、将来日本をみちびくであろう「電力の闘い」大きな争点である。
がんばれ孫菅亀!!!

 

2011 年 6 月 27 日   2 Comments

隠されて見えないが確実な真理

 すべて世界に存在するものが本当に存在するのか。目に見えているものが存在しているだけなのか。それとも存在がかくされているだけで、その究極にあるものは別の存在であることか。病気の症状で原因があらわにならないもの。顔の湿疹が熱によるものか、それともミクロのウイールスが原因であるのか。そのなかで決して姿をさらさない存在、それこそを認識しない限り存在の方向性など掴めない。
 人間は有限で必ず死ぬ。滅ぶのである。普通皆は今すぐじゃないとして確実なものをしりぞけている。斥けているがこれほどの真実はない。無限の空間と時間のあいだでは、人間の死は時間の単位にも記録されないほどの極小なものだ。
 自然の現象も必ず生起される。地震などはなんの珍しいものでなく、旧約の時代から確実なものだ。いわば人間にとっての死の生起に等しい。事実何千年に一度の規模の地震が東日本を襲った。
 東海沖、南海,東南海の地震は確実に生起される。死が人間を待っているように確実である。生起される確率などを論議するものではない。生起されれば、確実に莫大な負のエネルギーが人間を襲う。人間の浅はかな知恵など微塵の役に立たない。

 必ず生起されるのにいますぐじゃないと言って真理から逃げる。それが人間だが、誰かが、言わなくてはならない。
隠されてみえないが確実な真実に気づけと!!!
 浜岡の原発をとにかく止めたのは菅の英断で歴史に残るだろう。隠されていて見えないで今すぐじゃないといって死からめをそむける人間の多い中でとにかく確実に生起しうる惨状をさけるだけの決断をしたのだから。
 これだけぼろくそにされるとその裏の真実がみえてくるかもしれない。

 

2011 年 6 月 26 日   No Comments

コーラは覚せい剤か?

 コーラは時代の匂い、と色合いを覚醒させる。1960年台、学生が跋扈するところにコーラがあった。タバコはショートホープがコーラに似合った。当時では珍しい内村鑑三派の無教会派教会の横に,寄贈者の名前がつけられたディッフェンドルファー記念講堂があり、小さなバーがあって、もちろん酒類はないが、談論風発する学生達にサンドイッチとかに飲み物だのを売っていた。
 寮が大学内にあって、全寮制に近く、埼玉から遠いので寮にいた私は、学生食堂で飢えを凌いでいた。即席ラーメンが夜食でまたキャンパス内にあった農場で飼っていた乳牛からとれたミルクが朝食だった。
 昼間講義の合間は、このD講堂で皆が集まった。一学年で180名しかいなかったから、顔と名前はすぐ一致した。
 そしてコーラを飲んだ。
 コーラはアメリカだ。
 日本はもう出たかった。どうにかしてこの窒息しそうな日本から脱出したかった。

 そして1967年片道切符で横浜からナホトカにそしてシベリアから青春放浪のたびがはじまった。22歳のときだ。
今65歳それから43年がすぎた。過ぎ去った年月を満たした様々なことはまた話すことがあるだろう。
 65歳の今、目の前は渋谷、あれからコーラは飲む機会がなくてこんなことを考えもしなかったが、ちょんと腰を下ろして、マックでコーラを飲んでいる。二階からみると若者達が道路をふさいでいる。ふさがれた道路のほうが窒息しそうだ。
 逃げられるところもなく、連帯する仲間もなく、希望などちゃんちゃらおかしい現実にリアルに衝突している若者がみえる。
 どうしてこんなことになったのか?してしまったのか?コーラを飲みながら憮然として考えていた。
 

2011 年 6 月 25 日   No Comments