プレミアムエイジ ジョインブログ

Random header image... Refresh for more!

為朝激白 保元の乱 <王城の秋>

416px-Minamoto_Tametomo

 ここ南国琉球首里の城からは大洋に昇る日が浪間に沈むまで朗々袖々と翳した手内に見える。伊豆大島からは船を操ってきた。いまは舜天と名のっている。琉球の王となった。よってここで語る保元の闘いは琉球王の話と応ぜよ。
 
 保元の乱は予の乱である。左様予は保延5年に父為義と江口の遊女との間に生まれた為義の八男坊為朝である。幼少から遊女の子だと一族の者どもに揶揄されたが
 「今にみておれ」と唇をかんで耐えた。
 現今、宮も公卿も武家も藤原も僧籍や郎党、家来、から百姓、白拍子まで欲と権化に絡めとられてみんな生きている時代。大義だの正義だのは口からでるでまかせで誰も信ずるものでないことくらい糞まみれのわっぱまで知っている。
  「だから源氏だ平氏だ、などどっちでもよい。ましてや、父為義が仕える摂関家争い欲ぼけじじい藤原頼長など、夜長か昼長か知らないが知ったことか」
 予がもって旨としたのは、闘いとは血みどろになって人と人が組み合うことだ。言葉なんぞでは決して現せない人間生存の本能だということ以外にない。
 「まあそんなことより 保元の戦についてだが」、
850年後の京都がどうなっているか知らないから著者に聞く。著者よしゃべれ。
 著者かしこまって琉球の王 舜天に告げる。

はい 保元戦場の跡は現在の京大医学部病院の南、春日通りを境として、丸太町東詰めから、平安神宮あたりまでが、白河南殿と北殿のあった地点かと考えられます。また夷川橋から三条大橋のあいだ辺りが両軍の最初の交戦地とみてよいとおもいます。手元に平安時代の地図がありますが、現在の京都文化センターあたりが白河北殿で川端警察署あたりに南殿があっただと思われます。

 予為朝は13歳のとき父為義に勘当され九州に追放されたが、その原因は予が乱暴者で長幼の序もわきまえず義朝、義賢、義憲、などの兄者人でも機嫌が悪くなるとこっぴどくやっつけてしまう、マムシのように狂うので<たけまむしの為朝>とも言われていたから父も菊地一族や原田一族などの腕っ節の強い蛮族の支配する九州の地で少しでもやわらかになればとの思惑もあったのだと後で誰からか聴いたがな。
「 は は は、予はそんなことに構わず菊地、原田を制圧して九州を三年で平らげ九州総追捕使と自称したものだ。」
 
 皆は予のことを、九州の相撲(すまい)とりのようで、まあ 背丈は七尺(2メートル10センチ)、眼が切れ上がって,容貌魁偉のばけもののようにいうが、
 妻平忠国の娘は 「為朝様ほど年寄りやわっぱに優しい御人はありませぬ」と言ってはばからぬ。
 予が京都の父為義から突然書状で呼ばれたのは保元元年の5月、なにか鳥羽法皇が病にたおれたころであった。
 「父が特別になんじゃ、いつも為朝など源氏の厄介者のように言っておったに、なにか急な事変でもおきたものか」
 「なにやら久寿2年に鳥羽上皇と美福門院との子近衛天皇が眼病で急逝されたときいたが、後継の帝に重仁親王、守仁親王、彰子内親王が候補に上がっていてそれぞれを、権謀術数の連中、摂関藤原忠道と対抗する藤原頼長、忠実、親子が、美福門院と待賢門院が、追随する源氏と平氏が担ぎ上げて凧に糸を操つように醜く争っていたのじゃ。父為義もこの連中の中にいるという。よくまあこの為朝のことをく勘当できたものよの。あははは」
「じゃが、書状によれば父為義がこの為朝の九州での狼藉を訴えでたものがいてその疑いで解官されたとある。この為朝もついに堪忍袋の緒が切れた。つわもの二十八騎つれて上洛を覚悟したのじゃ。」

 予が上洛した保元元年6月には鳥羽法皇が崩御、治天の座をめぐって践訴された新帝後白河様と崇徳上皇の対立は決定的な情勢となっておった。双方が名だたる武士ををそれぞれの陣営に招くことに躍起だった。父為義は
「わしはもう耄碌もの、だれの手にも助太刀などとてもとても」などといっておったそうだが、
 洛中のすべてのものが、禽獣から犬猫の類までがどちらにつくかでその命脈が争われるとき悠長なことなど言っておられぬはずなどない。
 父為義は観念したそうだ。そのとき長男義朝が後白河の新帝側についていることを知りながら、こうわれわれに言った。
「どうなろうと源氏はその命脈を保たねばならぬ。どちらが勝ってもどちらにも源氏がいるのだ。、同族親族にいたるとも相手として相戦わねばならぬ。わしはこれまでの寵臣として頼長様、すなわち上皇側に立つ。皆はみなの勝手にせよ」とな。
 

 

 

2012 年 2 月 12 日   No Comments

叔父子 崇徳の悲劇  <王城の秋 一部>

  ここでしばらく白河の君から崇徳様までの時代のながれをお話し申し上げておかねばなりません。その前に平安京という都の東西南北をみていただきたいのです。平安京のうち右京は低湿地帯でございます。洛北北野あたりはもう公卿の館でいっぱいのありさまですし、洛南は右京以上に沼地でございます。いっぽう鴨川の東白河の地は藤原家累代の別業の地でございました。この地をひらいていったのが白河天皇でございました。
 白河天皇は第72代にあられます。天賦の才をもって平安の時代に院政をしかれた策に弄された君でした。でもすぐにが当時8歳の善仁(たるひと)親王(第73代堀河天皇)へご譲位なされて、太上天皇(上皇)となって幼帝を後見するため白川院と御譲位なされてからは、大炊殿、六条殿,閑院、高松殿、鳥羽殿、白河殿とその御座所をうつしてございます。称して引き続き政務に当たられました。
 嘉承2年(1107)に堀河天皇がお亡くなりになられます。、その皇子で白河上皇の孫にあたる宗仁(むねひと)親王が4歳で第74代鳥羽天皇として即位なされます。しかし、政治の実権は祖父の白河上皇が握り続けられます。その後、朝廷には「治天の君(ちてんのきみ)」と呼ばれた「院」(出家後は「法皇」といいます。)と天皇の二つの権力が競合併存し、それにともなって権力争いが複雑かつ熾烈化していくことになってまいりました。
 保安4年(1123)、白河法皇はまだ20歳の鳥羽天皇をむりやり退位させ、その皇子で法皇の曾孫にあたる顕仁(あきひと)親王を第75代崇徳天皇となされました。顕仁親王はわずか5歳でござましておかわいいさかりでございました。白河法皇は曾孫のこの顕仁親王を非常にかわいがられて、それはそれはまわりのものもはらはらするほどでございました。顕仁親王は鳥羽天皇と中宮待賢円院璋子(たまこ、権大納言藤原公実の娘)の間に生まれた第一皇子でございます。でもみなはその本当の父は曾祖父の白河天皇なのだとおもわれていたのです。でなければあんなにもかわいがられる筈がない。顕仁親王は白河法皇と中宮璋子の密通によりできた子であるという噂が囁かれていたのです。譲位した鳥羽天皇は上皇となりますが、政治の実権は祖父の白河法皇が握ったままでした。このようなこともあり、鳥羽上皇は、崇徳天皇のことを、本当は自分の叔父にあたる人(鳥羽の父である堀河の弟)だということから、「叔父である自分の子」という意味で「叔父子」と呼んで忌み嫌っておられました。 わたしは鳥羽上皇が待賢門院に、「自分の種ではない、先の院(白河法皇)の子であるみかど(崇徳天皇)をわが子のように慈しめとでも申すか」と言ったのに対して、待賢門院は、「叔父子(おじこ)とでもお思いになればいかがです。」と開き直ってお答えになる姿がみえるようでございました。
 
 わたしも最近まで崇徳天皇は白河法皇と待賢門院との不倫の子であると思っていましたし、これは本当のことであるかのように世間に広まってしまっています。
   
  大治4年(1129)、76歳という長寿を全うした白河法皇様が崩御し、42年間に及ぶ白河院政がようやく終わります。これを機に鳥羽上皇が院政を執り、政治の実権を握り御祖父白河様と同じように院政をしくことになります。崇徳天皇には本当にひどいあたりかたをされることになりました。
 保延5年(1139)に鳥羽上皇と後に美福門院(びふくもんいん)と呼ばれる権中納言藤原長実の娘得子との間に躰仁(なりひと)親王が生まれると、鳥羽上皇は躰仁親王を次代の天皇とするためにむりやりそのとき世継ぎのいなかった崇徳天皇の養子となされます。ところがその翌年、崇徳天皇は兵衛佐局(ひょうえのすけのつぼね)との間に重仁(しげひと)親王をもうけます。
 
 永治元年(1142)、鳥羽上皇は躰仁親王が3歳になると、そのとき23歳だった崇徳天皇を退位させて躰仁親王を第76代近衛天皇として即位させるのです。崇徳上皇は「新院」と呼ばれ、受戒して法皇となった鳥羽上皇は「一院」と呼ばれました。
 しかし、近衛天皇は生まれつきご病弱で、久寿2年(1155)、眼病を患ったことにより17歳で崩御なされます。そのとき、次の帝位の候補者としては、崇徳上皇の皇子である重仁親王(当時16歳)と、鳥羽法皇の第4皇子である雅仁(まさひと)親王(当時29歳)がおられました。雅仁親王は、崇徳上皇の同母弟であり、近衛天皇の異母兄に当たります。皇統の順からすれば次は重仁親王が皇位に就くはずでした。また、重仁親王は英明の誉れが高かったのに対して、雅仁親王は若い時から今様などの芸能ばかりに熱中し、「遊芸の皇子」、「文にも非ず武にも非ず」などと評され、天皇としての資質に欠ける人物と見なされていました。このようなことから、重仁親王が第一候補とみられ、崇徳もそのように考えておられたようでございます。
 ところが、鳥羽法皇は、崇徳上皇の血統を徹底的に排除し、雅仁親王を第77代後白河天皇として即位させ、しかも、その皇子である守仁親王(のちの二条天皇)を皇太子とします。重仁親王は、天皇の第一皇子として生まれたにもかかわらず、完全にその存在を無視されたわけです。自分の皇子を帝位に就け、院政を布くこと絶たれた崇徳上皇の怒りは心頭に達したのもむりございませんでした。

 保元元年(1156)7月2日、鳥羽法皇が53歳で崩御します。これを機にそれまでの27年間に及ぶ鳥羽院政に対する不満が公家衆、藤原一族の中から噴出し、鳥羽法皇の後継者である後白河天皇に対抗する勢力は、崇徳上皇を旗頭とし、両者の政治的緊張が一挙に高まります。こうして、鳥羽法皇が崩御した後、崇徳上皇と後白河天皇の兄弟対立に端を発した保元の乱が勃発したのです。
 この戦いは後白河天皇一派の勝利に終わり、崇徳上皇は讃岐へ配流となります。しかし、その皇子である重仁親王は、寛暁の弟子として出家することを条件に許されます。
 崇徳様の御悲劇が白河様とたま子様とあいだの子で叔父子として鳥羽様からお嫌いになられてとお考えのかたがほとんどのことのようにおもわれるのですが、本当は摂関家内の覇権争い荘園と受領とに武家社会が深く絡むことがおおきな要因でございましょう。それは実は、藤原頼長様と少納言入道信西様との戦いでございました。鳥羽ほ上皇のもとで院の勧責により籠居していた源為義様、平家広様、などの武士を頼長様がお集めになられ、合戦のご準備になられたのでございます。
 この恐ろしい保元の乱については次またおはなしもうしあげることにいたしましょう。

すこし話が歴史に嵌ってしまったのでございましょうか。紙燭に映るみなさまのお瞼がなにか重たく感じられます。もう夜遅くなりました。次はもう少し面白おかしく保元をお話し申し上げましょう。

2012 年 2 月 8 日   No Comments

今様 <王城の秋 一部>

 このころやんごとなき公家や武家の方々がご元服なされますと添臥という御儀式がございました。ご成人した暁にと選ばれた女御や
更衣、ご関心のあるご家族の息女が夜のお伽をなさるのです。ご子息様のご将来にとって他家とのご関係を忌避なされることも多く、そのときは
乳母がその任を賜れました。貞仁御親王の乳母でございましたわたし(親子)はどうだったのかとのお尋ねでございますか。
 まあ御直裁なお尋ねでございますこと。畏れ多いことでございます。
 後深草御上のご添臥は久我雅忠の女御でございます乳母が賜りましたとだけお答え申し上げます。
左様でございます。ご存知の神楽歌こそ即興でおもしろいものですが、当世それが枠をはずれてより風流で楽しい催馬楽というものが公卿、宮方
でお流行でございます。式部さまの源氏のお物語にもその催馬楽のお歌がよまれておられます。その催馬楽よりもっと新しいのが今様でございます。
今様は七五調四句でございます。神埼の遊女や祇園白拍子 くぐつ女達に市井でよまれているものでございます。これまでの常識や価値を打ち破ったと
申しますか、硬質(ハード)なリズムでございます。

 なんと申しましょうか。殿御さまには南都の東大寺や叡山のご僧門が和して声明のとどろきをお耳にしたことがおありだとおもいます。和賛と仏教ではお言いなされますが、サンスクリットとか申す釈迦如来のお国のことばも混じっているそうでございます。あの荘厳でエネルギッシュ(筋骨隆々)たる力は
もう女の身には恍惚とさせるものでございます。

 武士というものが多く現れてこれまでの宮廷文化や従来のしきたりや慣例からもっと直接なものやおもしろいもの、仏教の教説からもすこし離れて、当世風というのでもなく、不安なものから直裁に入信するような響きがございます。ですから宮廷には近江の鏡山や美濃の青墓 ・墨俣、からのクグツ女、神のお告げのまま諸国を遊歴する歩きの巫女、琵琶法師、猿楽のやからが宮廷の娯楽となっていたのでございます。

 ご宮廷の中にも祇園の白拍子が妾となっておりました。白河の君もご例外ではございませんでした。今様とは宗教性とは未分離のまま生でだらだらと享楽を授ける天竺の密教のようなものでございましょう。密には交合の極悦を信仰するものまで現れたのでございます。

 このころの枕のことばなるものがございます。どのようにおよみになられるでしょうか。

 寛和の頃滝口平致光とて聞ある美男ならびなき好色あり見人恋にしつみ聞者思をかけぬはなかりけり斎宮野宮におわしましける口役に参たるを御簾の中より御覧しければみめ有さま所のしなしなすきてはれやかなる姿世の人に勝りてみえけるを男のかけさす事もまれなるにたまたま御覧しける御心にうちいかゝ覚食けむ

 月傾夜ふくるほとにこしはのもとにふしたる所へいかなる神のいさめをか遁出給けんかうらむのはつれより御足をさしおろしてにくからす御覧しつゝ顔を踏ませ給ひたるにあきれて見あけたれはなへてならすうつくしき女房の御くしはいと心くるしくこほれかゝりて御小袖の引合しとけなけにしろくうつくしき所又くろくにくさけなる所月のかけにほのかに見ゆる心まとひいはんかたなし

 御足にとりつくまゝにおしはたけたてまつりてしたをさし入れてねふりまわすに玉門はものゝ心なかりけれはかしらもきらはす水はしきなとのやうにはせいたさせ給ひける

 ひもとく程のてまとひ猶おそしともよをす大物いつしかはら立いかりまうけたるにねふりそゝのかしたるしゝむらは御はたよりもたかく利き出たるにさしあてゝかみさまにあらゝかにやりわたすに玉門のうるおひも玉茎のかねもいよいよつよくまさるさまはいはむかたなし

 ふとくゆかしき御こしをやすくもてあはせはねあけさせ給ふに玉茎もいよいよのふる心地してのひあかりてせめたてまつるにこし方行すゑ神代のことも忘られ給ふにやいやしき口にすひ付給ひてしのひかねたる御けしきはことはりも過たりし。

2012 年 2 月 5 日   No Comments

鷲の棲む深山 <王城の秋 一部>

         鷲の棲む深山には、概ての鳥は棲むものか
         同じき源氏と申せども 八幡太郎は恐ろしや

 白河御上の院政期に流行した今様でございます。
八幡太郎義家の姿はまさにこのように映っていたのでございます。武士は肉食の猛禽類のようで平然と
人を殺傷する悪業人というのが正直なわたしたちの印象でございました。
 義家の子孫義親が崇徳上皇に無断でちかづき謀反の疑いで追討される事件がおきたことがございました。その折
「中外記」を遺した藤原宗忠さまは「故義家朝臣、年来武士長者として、多く無罪の人を殺す云々、積悪の余、ついに子孫
に及ぶか」と武士の恐ろしを詰っているさまでございます。

  わたしは乳母の身ですから、武士のお歴々ともお話したこともございませんし、お会いしたこともございません。ただ白河殿
に近頃昇殿をゆるされた平正盛様は北面の武士として隠岐守を賜られ、若狭、因幡,丹後と山陰地方の受領を歴任され武士の
六条方にも巷間の見聞とはすこしことを異にするのもあるものと不思議な感がしたものでございます。
 
 御三条天皇さまのころ、伏見に住んでいたわたしは父に連れられて鳥羽殿の馬場で狩装束、馬上綾蘭傘、弓袋差、的持、などの流鏑馬の行列
を遠くからですが見たと事がございます。このような武技の見物は公家は公卿さまたちがとても好きなもののようでございました。
鳥羽の帝にはとくに相撲(すまい)がお好きで八坂の境内に俵をひいて武を競わせ勝者には過分な受領まで賜ったそうでございます。

 京に棲む武士には平氏と源氏がございます。源氏は左女牛小路南、西とう院大路西,六条坊門北あたりの屋敷に居を構え、平氏には
鴨川五条西 六波羅に拠を構えておられました。いずれもその生きる究極はいかに主上のご機嫌とご趣向めざましいかの一点でのたたかいのようでございましたが、平正盛が賊臣となった源義親を討ち取り生涯に努力して得た伊賀の受領地を白河院皇女郁芳門院堤子ごゆかりの六条院御堂にご寄進なされ平氏が一歩源氏を追い抜いた格好でございます。

 で、平氏と源氏のなかでどのようなかたが巷のはなしとして人気がおありかとのお尋ねでございますか。
 そうでございます。まずお若くこれからのかたと申し上げれば平忠盛の嫡男清盛さま、そして源氏為義さまのご嫡男義朝さまでございましょうか。
清盛さまが紺の水干小袴に紫革の冑、義朝さまが赤字錦の水干小袴のお格好で馬上におられますともう天の騎士のように輝いておられます。

2012 年 2 月 3 日   1 Comment

やすらい花  <王城の秋 一部>

 ひとはとても脆く弱いものでございます。この親子も貞仁親王の乳母として身分はいやしいものなれど、いささかご昇殿もゆるされ禁殿に侍する御方々にお触れするにつけても、いかに明るくろうろうとされておられてもあるとき必死に眸をぼうとされているときなどをめにすると、おもわずひとの心の揺れ動きにはっとして涙するときもございます。 そんな時形影あい添うことのできる存在があればと思うのでしょう。
 
 この京には数々の結縁できる社がございます。北野、祇園,八坂,貴船、岩清水、稲荷、加茂,日吉が東西南北から京を守護なされて、ひとは自分で評判の赴くままに参詣されております。白河御上は御院政の間に岩清水に二十五度、熊野に九度、加茂に七度、日吉に五度、高野山に三度、そして吉野金峰山に一度の御幸遊ばされました。熊野に御幸されるときは還御のおり必ず護法童子という小精霊を稲荷におかえしになりました。それぞれの神社にはきまった伝来の信仰がございます。
 稲荷社には杉野の葉、吉野はあすはひのき、熊野は竹、高野山は槇 伊勢は黄楊というわけでみな常緑の小枝を心霊のよりどころとなされたわけでございます。とくに今宮神社にございますやすらいのお祭りは京中でみなになじみになってございますが、やすらいとは春の花 さくらよいつまでもその枝にとどまっておくれ、あらぶる魂を鎮めておくれ、よわきこころをなぐさめておくれという<やすらい>からきているそうでございます。
休題 <現在日本につたわる花笠まつりのほとんどが平安のこのやすらいまつりに起因する>著者

 

 

2012 年 2 月 2 日   No Comments

この世の春 <王城の秋 一部>

 わたしはよく覚えております。目を挙げるとわたしの乳房にもみじのような手をそえて乳首を咥えて離さない後三条の御子貞仁親王さま。乳首に咥えつくともういっぱいに乳をまさぐりたらふくその乳を体内にとりいれて、飽きたのか乳首をお噛みになられて。
 「いたい」と乳母の親子(ちかこ)はくちびるをかんだものでございます。わたしは藤原親子、御子の乳母でございます。
この子が本当にあの白河天皇となり平安の世の魂となる子だなんぞ親子(ちかこ)はおもいぞもしませんでした。
でもそのとき「かまれた乳首の痛みはなんともいえぬ感覚」でこの君がのちのちひとの心をご操作なされたことになにかつうづるものだったもしれません。

 乳母は藤原親子という。父は藤原親国 母は大中臣藤原親女。
わたしの父・親国は河内、大和等の国守を歴任し、大舎人頭・従四位上を極官とした人でございました。魚名流は、流祖魚名以来、摂関の座とは程遠い家系ではごじましたが、藤原山陰、在衡など、後世に名を遺す公卿も少なからず輩出したとききおよびます。
 この流派には藤原道長の母である時姫がその名を連ねているそうでございまして、親子の曽祖父にあたる安親(時姫の異母兄)が正三位まで昇ることができたのも、これらの姻戚関係が大きく影響したそうでございます。
 しかし、道長は母方の縁者である安親の家系を、世人の目に余るほど引き立てることはお控えなされました。わたしのように安親の子孫が、特に才能の無い凡庸なものであったからかもしれません。受領層の縁者のお引き立ては、権力者の専横として分かり易すぎるものでございますし、控えるべきものでございます。

 この時代ふつうのようにまかり通った、摂関家との濃厚な姻戚関係を有効に活用することができませず、安親の子供たちはいずれも公卿に列することはできませんでした。安親の子である為盛は、国守として蓄財に励んだようでございますが、官位的には従四位下までで、さらにその子供である親国が、取り上げる程の事跡も無く、従四位上の身分のまま歴史の中に埋没していったのでございます。
 これがわたくしの家の背景でございます。
 
 しかし親子はわかっていた。乳をまさぐるこの子の未来を。この乳首をかんだ痛みにこの子の将来ばかりか自分の身の将来を感じていた。
 
 白河天皇は藤原摂関家と外戚関係の薄い後三条天皇の第一皇子としてお生まれになりました。、お母上は藤原氏閑院流出身で中納言藤原公成の御娘、春宮大夫藤原能信の養女である女御藤原茂子様。同母妹に篤子内親王(堀河天皇中宮)がございます。

 乳母にすぎないわたしがその後絶対的権限をにぎり平安といわれる時代を昇竜のように昇華し上皇から法王にまで登り詰めた白河の君についてお話するのはとても畏れ多いことではござりますが、乳母でないと決してわからない肌の実感みたいなものをお述べできればと。
 左様でございます。これはお断りしておかなくてはなりません。こんな下賎な乳母をご愛寵なされた白河の御上とそのちかくにいらして君に御奉仕なされている公達から女御更衣の方々までに差し障りがないようにとせめて直裁なものいいだけはお許しいただきたいのでございます。

 貞仁(さださと)親王が位を御三条天皇より譲られたのが延久四年(1072年)十二月八日のことでございました。御年19歳の若き獅子のようなお姿でございました。細面でいらせられ、多少眉のあたりに気難しさがあらわれていますが、総体はこうごうしくあられてお笑いになると万人も引き込まれてしまうほどの神通力をもっておられているようでございました。
 先代の御三条の君は天皇家から藤原氏を外戚とする天皇をもうだしてはならないという強いご意思がございました。ですから白河の君のお母上は基子さまで、村上源氏のご出身でございました。

 御三条のあとをうけた白河天皇がまず最初になされたのは洛東白河の地に御願寺(法勝寺)の御造営でございました。院政時代には六勝寺という御願寺があいついで建立されました。後の天台座主の慈円様は「愚管抄」のなかで、六勝寺について
白河ニ法勝寺タテラレテ国王ノ氏寺ニ是ヲモテナサレケルヨリ、代々皆此御願をツクラレテ、六勝寺トイウ白河ノ御堂大伽藍ウチツヅキアリケリ。堀川ノ院ハ尊勝寺、鳥羽院ハ最勝寺、崇徳院ハ成勝寺,近衛院ハ延勝寺、侍賢門院ハ円勝寺、コレヲ六勝寺トイウ。
 これらが国王の氏寺というものでございます。奈良の仏法や、比叡の天台でもなく、高野山の真言でもない自らの成願寺をつくるその心こそなにごとにも自立せんとする国主のご意思を感じたものでございます。
 

2012 年 2 月 1 日   No Comments

平安王城の秋

御所紫宸殿に立つとみえてくる。平安の時代の魂ともいえるものがである。
 紫宸殿の前庭に植され冬にも青々と枝を天にもたげる右近の橘と春この世の美しさを謳歌しながら、まさにその絶頂に散る左近の桜,平安は全くそのような時代であった。
 西暦794年、時の天皇、桓武は新王朝の創始を強く意識し、自らの主導による諸改革を進め平安京への遷都(794年)を断行した。それから天皇33代、時代は公家から社会の末端にようやく生きることが許されている白拍子から傀儡子まで堂々と時代を彩った。
 「 歌は世につれ、世は歌につれ」、とは江戸時代のことばだが、歌は際限ない時代を映してきた。
大内裏の正面を横切り二条大路を東に京極を越え鴨川をわたり、まっすぐ東山にいきつくところに水石風流の地とうたわれた白河殿が営まれていた。院の御所と定められたところである。そこから鳥羽つくり道を南下すると鳥羽殿がある。そこが平安の魂というべき院政が敷かれたところとなる。
 平安をうかがうには後白河天皇がのこした梁塵秘抄がある。今様といわれる五七調四句歌である。
此の頃京に流行るもの 肩当、腰当、烏帽子止め、襟の立つ型、錆び烏帽子、布打ちの下の袴、四幅の指貫
また京に流行るもの、柳黛髪似非鬘、しほゆき、近江女、女冠者 長刀もたぬ尼ぞなき
 後世南北朝後醍醐天皇の時代二条川原の落書は平安の梁塵秘抄今様歌を変えて
 「此頃都ニハヤル物 夜討 強盗 謀綸旨 召人 早馬 虚騒動 生頸 還俗 自由出家 俄大名 迷 者 安堵 恩賞 虚軍 本領ハナル、訴訟人 文書入タル細葛、追従 讒人 禅律僧 下克上 スル成出者・・・・. このごろ都にはやるもの。夜討ち、強盗、にせの天皇の命令書。」と諂っている。
 平安の世は400年、この時代ほど人が天国と地獄の図を描いて見せた時代はない。
京中が鄭都いらい初めて市街が戦場となって保元,平治の乱が戦われ、一瞬にして京は灰燼にまみれた。治承・承久の乱、白河、鳥羽の葛藤、後白河と平氏、源氏との対立、は一貫して鎌倉につながるまで雅の貴族文化は凋落の一途をたどってゆく。まさに王城の秋であった。
 奈良の時代に荘厳と建立された仏法と東大寺、興福寺などの南都の威厳がくずれ、京洛北比叡と三井寺も長刀大刀を携えた僧徒であふれた。
清盛が叔父を斬首し、義朝は実父為義を斬った。白河法皇が鳥羽の中宮に子供をつくらせ、崇徳天皇にまでした。
そして義仲が兵をあげ、義経が平家を討ち、頼朝が鎌倉幕府をひらく。まさに幕府が開かれたまさに1192年、平安の魂を具現していた後白河法皇が崩御した。
日本の中世の明暗を眼前に彷彿させる王城の秋をシリーズで描いてゆきたい。
余の春ーー 白河天皇、上皇、法王
保元 平治の乱
余の秋ーー 後白河天皇、上皇、法王
木曽義仲
源義経
源頼朝
後鳥羽天皇

2012 年 1 月 31 日   2 Comments

平安の魂

794年平安時代となった。その平安が鎌倉になるまで。時代の魂は白河が握る。
白河天皇(1053~1129) 後白河(1127~1192)
平安の後期は白河の世だった。
白河の次が鳥羽、其の後が崇徳、崇徳はおじこと呼ばれて白河上皇の子だったという。その白河が崩御して
保元,平治の乱。清盛の時代となるが、其のときは後白河の時代だった。
後白河ほど日の本をしらめすに策をめぐらせた人はなかった。
源氏、平氏、を弄して時代を演出した。
だから平氏も源氏も白河によって出現したにすぎない。
描くべきは白河であった。

2012 年 1 月 28 日   1 Comment

徳川はもともとは新田の庄

徳川が駿河に封じたのは室町時代。もともとは新田の庄内を有する小領主でした。
ということは新田は義国の嫡男で次男が足利であるから、いずれも源氏。徳川も従って源氏の血脈。
織田は平氏といわれるから、秀吉を除いて、平家、源氏、北条は平氏、足利源氏、徳川源氏、明治薩摩,長州が平氏、そして今は
官僚の多くが東国、東北出身が多いから源氏か?

2012 年 1 月 25 日   No Comments

平清盛

 2012年NHK大河「平清盛」の視聴率が良くないという。松山ケンイチが演ずる清盛像は極めて新しい解釈であるからか、それとも時代的に清盛でもないだろうということか。
 仲代が演じた「平家物語」の清盛は高視聴率だったからタイトルの清盛が人気がないわけではないだろう。
 信長、秀吉、赤穂浪士、幕末、新撰組はいわゆる独参湯といわれるおはこで困ったときはこれをやれば間違いないといわれる。
 今回なぜ平家でなく清盛にしたのか。清盛は日本人にはアンチヒーローで、祇園精舎云々歴史的独裁者のイメージがつよい。
 天皇家と平家、源氏という武士社会を描くのならやはり「義経」でなくては対立にならないし、平氏は貴族社会に近い。
 王家だとか天皇家だとかの問題などどうでもよい。
 

2012 年 1 月 17 日   5 Comments