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Posts from — 3月 2009

森田健作千葉県知事

 予想通り、「森田健作」が政党推薦なし?で当選した。

明らかにかつて流行した自民系タレント候補である。
政治の流れは、無党派(無知)層の投票行動に大きく左右される時代に戻った。
宮崎、大阪、千葉、続いて名古屋にも民主タレント候補が出るようだ。

小沢秘書事件で、政治が大きくまた後退していく!
これが日本的民主主義であり、官僚制が壊せない日本の実態でもある。

小沢氏は党首を辞任して、総選挙となるだろう。
そして、そのことで民主が勝利する構造は変わらないことも予想はできる。

しかし何かが違う!
政治的未成熟が、変わらず放置され、日本は明らかに取り残されてい着つつある。
アメリカの政治的財政出動に引っ張られて、日本の株価も年度末上昇で年越しできそうだ。

国内の中小企業倒産は、年度末から4月にピークを迎えるほど相変わらず厳しい。
何も変わらず、日本は空白の20年目を迎える事になりそうだ。

日本だけが取り残されて、過去の「団隗貯金」を喰いちらかしながら、将来に付回しする政治状況を象徴するかの様な象徴的千葉県知事選挙の結果である。

3月 29, 2009   No Comments

上海出張

連休を利用して、「上海経済」の視察に出かけた。3年ぶりの「上海」は、やはり様変わりであった。

「昨日の上海を見て、今日の上海を語るな!」と言われた当時から3年、万博を来年に控え、北京オリンピックを終えた中国経済の「傷み方」はどれほdのものか?8%経済は可能か?

上海は、車の洪水に加えて、開発、再開発ラッシュで大賑わい。
金融危機の影響など、微塵も感じられないほど活況を呈していた。

まず訪問した場所は、「上海再開発100年計画の第三セクター」本部?
応対してくれた、副主任(副社長級)が壮大な計画の模型図とPRビデオで「上海の将来性」を熱く語ってくれた。(かれの年齢は40前後であろうか・・・・?)

(出張の目的では無かった。)
軽く、1時間程度の説明の後、ランチの接待を受け、酒盛りと相成った。
狙いが全く見えず、「日本の技術か資金は必要か?」との我が大胆なる問いにたいして、答えは「NO!」
「もし興味があれば、一緒にやりましょう!」とのこと

紹介者がよほどこちらをオーバーに売り込んでくれたからだろうか?。

今回の出張の狙いは、そこでふるまわれた高級上海老酒「石カ門」の日本での販売計画についてであったが酒は「ウィスキーボンボン」でもだめな小生に判断などできるはずもなし。

乾杯でその酒を口にしただけで、多少めまいを覚えたのだったが、同伴者曰く「これはいける!」とのこと。
それからそのビジネスモデルを改めて考えてみると言うような無責任な出張ではあった。

その籍で振舞われた「老酒」の製造元が,中国でも最大手の「光明食品集団」
 傘下に4000店もの小売店も持っている。そのグループ会社の一つに日系企業向け「コールセンター」を所有する事から、訳のわからぬ出張計画が始まったのだった。

果たして、上海に関しては「万博景気」を梃子に不況の波はどこ吹く風であることに間違いなし!
北京についてもオリンピック景気の余波で、世界不況の外にあるとか・・・。

8%どころか2桁の経済発展を可能にしてしまう中国的「資本主義」を確信せざるを得なかった。
そしてこの近隣「中国」無くして日本経済の維持発展は無いと結論させられた忙しい連休出張は終わった。

忙しさに拍車がかかること間違いなしだが、この出張を生かすべき我が多くの「隣人達」を頭に描きつつ、自らの御節介にも呆れてしまうのだが・・・・。

3月 22, 2009   No Comments

始まりの始まり(3)

資本主義崩壊を唱え、ところ狭しと本屋に並んだ10冊の本を読破したが、その後の経済・政治世界「始まりの始まり」は一考に見えてこなかった。

共感した3冊は、いずれも実務家又は元実務家の云う「市場原理主義の崩壊」である。
一冊はジョージ・ソロス、「錬金術」を実務で立証したユダヤファンド・オーナーであり、悪名高いハゲタカの主張は哲学者としての市場原理主義へのアンチテーゼ!

中谷巌の「資本主義崩はなぜ自戒したのか」は、小渕内閣時の経済戦略会義の議長代理としての一連の構造改革路線関与の反省から来る「社会民主主義」への回帰論!(ソニーの取締役会議長から多摩大学学長、今も三菱UFJ/RC理事長の現役)

もう一冊は、鈴木恒夫「巨大銀行の崩壊」あの長銀を閉じた時の頭取の嘆き節である。

リアルに書き上げるこれらの経済論は十分に小説として面白かった。

その他7冊は、実に「にたり、よったり」、未読が2冊、あの船井幸雄と水野和夫、二人の主張はすでに知っている。

一応に市場原理主義への過程と間違いを指摘するが、資本主義の流れの果ての結果主義を認めず、修正資本主義への安易な回帰にその答えを求めるのみで説得力は皆無。
と残念ながら、「始まりの始まり」へのヒントとはならなかっただが・・・・。

とは云え、一応になぜか言語不明瞭ながら、かつての「社会民主主義」への回帰で一致しているようにも思う。
あの諸悪の根源とされた「55年体制」への回帰であり、戦後10年で出来上がった「自・社6;4体制」がその30年後(85年プラザ合意後)に崩壊して、「40年前に戻ろうよ」という主張に統一されるように読めたものだ。

55年体制、
地方では「蜷川京都府知事」、横浜では「長洲・飛鳥田体制」、東京に「美濃部都知事」が成立した諸悪の根源といわれた革新知事時代だ。
勿論「自民単独政権」に総評「社会党」が万年野党の時代。
保守・革新上げて、「箱物行政」が全ての時代に現代の政治構造が出来上がってしまった。

その頃、横浜で出来上がった「生活者」という新言語の主張は、その後「消費者」と代わり、ゴマかされ、消費しない弱者は切り捨てられて、アメリカ市場原理主義(見せ掛け高度成長主義)に追随したのではなかったか。

当時、横浜の地で市民生協を立ち上げた「Yさん」はその後も変わらず、一貫して「市民資本主義」を主張し続けてきた。

3つの資本の「セクターバランス」の時代が来る。
3つの資本とは、「税金資本」と「産業資本」と「市民資本」であり、そのバランスの中で、過去成立した事の無い市民資本と市民金融制度及び市民主義政党が「始まりの始まり」になる(べきだ)との主張である。

そばにいて、極めて残念に思うのが、市民資本のもっとも身近なところに居ながらも、それが「力」足り得ないのは「なぜか」とじれったく思うのだ。
「生協」、「農協」、「労金・全労災」みんな市民資本であるはずだ。
しかし、そこには残念ながら天敵であり忌み嫌う「金融のプロ」が存在しない。
そして共済・保険のプロも居ないことで、これらの基盤も崩れつつある事に、彼「Y氏」だけはきずいているのだが・・・・

今、淡々と話す「半藤一利」の「幕末史」にはまっている。
あの、明治維新にも英雄は居なかった!!??

3月 11, 2009   No Comments

WBCの視点

元甲子園球児?として今日の日韓戦を見れなかったことを悔やむ!

一昨日の大勝で今日の惜敗は予感できた。
今年の日本代表は「一郎」が全てのチーム!
その一郎が明らかに本調子では無い。
第一戦では全ての打席で彼の技術からして打ち損じであった。

ダイジェストで観た今日の「一郎」の最初の2打席もそう!。
今年の「松坂」では韓国戦は持たない。(スライダーを捨てさえすれば、確実に巧打される)

「村田」の三遊間のファインプレーは良かったが、得点されたサード線の打球も好捕できた.「城島」が「岩熊」のシュート要求時に「自分がサード線を固めるよう指示をしていれば・・・」との美談的コメントを残したが、皮肉かも・・・・。

甲子園で「サード」を固めた(但し予選)経験から言うと「絶対に身長以下のキャンバス側の打球は抜かれるな」と教えられたのを思い出す。
「三遊間は短打で済むが、ベース側は後ろがいないので必ず長打になる!」あと5センチ左を意識していれば、1点は取られなかった。

しかしそれでも日本は負けていた??。
「一郎」が打てなかったから・・・。
そして一昨日は偶然一郎にヒットが生まれて大勝したが、日韓の勝敗の分は明らかに悪いと観た。

やっぱ、本物が揃う野球は断然面白い。
日本の野球も韓国の野球もメジャーに並んだ事だけは間違いなさそうだ。
100年が経過して・・・。
中国はきっと20年もせず、追いつくだろう???

3月 10, 2009   No Comments

「終わりの始まり」と「始まりの始まり」

問題意識は、ローマ帝国の「終わりの始まり」(塩野七生)からであった。

金融資本主義の崩壊は世界恐慌となり、「終わりの始まり」と表現したら、神童さんが「始まりの始まり」はどうなるの?と妙に絡んできて話が難しくなってきた。
そして、已む無く?10冊程度のそれらしき解説本も読破した。その中での仮説・・・・。

近代日本の「始まりの始まり」は1865年(慶応元年)からスタートする。
政治、経済「40年周期説」をそこからスタートさせるなら、40年後の1905年(明治38年)、この年日本は「日露戦争」に勝利して、列国にデビュー戦を飾るスタートを切った。

その40年後は1945年(昭和20年)、あの大戦の終結と米国進駐による復興のスタートである。

そして1985年(昭和60年)、あの「プラザ合意」によって、日本が再度、経済的敗戦を決定付ける条約が発効した年となっていた。

プラザ合意による、アメリカ市場経済主義の新興は、政治的には「レーガン、サッチャー体制」の構築となり、日本ではいわゆる「55年体性」が政治的に崩壊、日本的民主主義経済と護送船団資本主義がアメリカ一国市場資本主義に取り込まれていく、いわば「始まりの始まり」であったのだ。

その後の日本型バブル形成とその崩壊、「失われた10年」は全てこの体性内でシナリオどおりに進んでいったといっても過言では無い。明らかに1985年から始まった市場原理主義体制によるミニバブルとその富のアメリカへの移行によるバブル崩壊でしかなったと断言したい。

それでは、その40年後、「2025年」と現在の関係をどう見ればいいのだろうか?

「終わりの始まり」と「始まりの始まり」は20年程度の周期で折り返すとするならば、今まさに政治、経済的な折り返し点として、「終わりの始まり」がスタートし、どういった政治選択と経済体制を構築するべきか選択する極めて大事なターニングポイントが、今年という年となるはずだ。

1985年頃の経済の主役は、紛れも無く「団隗世代」という恵まれた労働力がその中心的役割を演じていた。
その団塊世代の「第一リタイアー」が折り返し点となり、2025年頃には彼らが、全て70歳を越え、完全リタイアーの「年金・医療」世代となっている。超高齢化日本社会は現状をそのまま放置すると壊滅的、経済的敗戦が確定的に見えてくのである。

こんなことを考えながら、今、明治維新の頃の世代と政治体制の主役達を読み直しながら、5年後の日本の政治体制に大統領制の導入を仮説して空想にふけっている。
だが、実際には「体制変換」が完全に終了するのは、2025年頃となるのではないかと感じている。

経済「40年循環説」は、常に時代の主役の世代交代と相まって、当然ながら政治システムの交代ともなる。
果たして団隗ジュニア達が選ぶ次の政治体制がどういうものになるのか?
その体制構築に「団隗世代の山」は「姥捨て山」と化すのか、はたまた今一度大事な役割を果たして、静かに交代していくことになるのか・・・・。

歴史はやはり機知に富んだ「生き物」であり、数々のノンフィクションドラマを演出し、未来を予測させてくれる示唆に富んだ「教科書」でもある。

3月 8, 2009   No Comments

メール文化の弊害

 2週間ほど投稿をご無沙汰してしまった。
たいした事情があったわけでもなく、一人でも読者(訪問者)がいれば、失礼な話であり、気にはなっていた。書きたいことも山ほどあった?。

最近メールの受信が平均して10-15本程度になる。(原則℡メールは使わない)
毎日、同程度のメールを発している計算にもなる。
単なる情報メール、連絡メール、伝言メール、などだが、幸い、迷惑メールといわれるものは、なぜか発生していない。

残念ながら、最近このメールによる新たなストレスを自らの中に生じている現実に気付いてしまった。過去には無かったストレスが確かに発生している。
(無機質で痛みの伴わない閃光が脳を刺激しているようだ)

・・・・という事は、こちらから発するメールにも当然予期せぬストレスを発生させているはずだ。それは今書くこのブログにも起っている可能性が存在するという事でもある。

ブログは読み手の意志だと割り切り、無責任にでも書きつづけることが可能だし、それでいいのだと割り切りはしたつもりであった。

しかし、メールによる意志伝達の中に自然に発生する可能性のあるストレスは、無菌状態(未経験ゾーン)であるだけに、免疫性が無く結構重い「細菌」を保持しているのかもしれない。

電話、手紙、口頭など過去の意志伝達と比べて、間違いなく無機質であり、ストレートであり、一言多く、反芻せず出状してしまうという意味では、無責任となりがちでもあろう。

口頭の場合は、無意識にも反芻していたし、今もその癖は変わらないし、手紙文化では肉筆であり、口頭と同じく表情(行間)や感情を意識できた。

この現象はメール文化になじまないシニアだけに起るストレスなのか・・・・(はたまた個人的感傷に過ぎないか。)
メール世代には、それなりの表現の仕方や感情の表現方法があると聞く。
果たして失われつつあるものは無いのか?

きっと、大事なものが失われつつあるのだ。
無機質性にな慣れ、行間を意識せず、いいたいことを一方的表現し、受け手の解釈に任せる結果、失われるものと得るものの誤差は、やがて「文化」や「感性」を根底から変えていく事に繋がっていくのでは・・・・

新しい細菌が生まれ、免疫ができ、やがて無視されて常態化する事もあれば、免疫が無い中で新たな病を引き起こす原因になっていはしまいか???

これまでにもブログの中の悲喜劇について書いた記憶があるが、その影響を考えると反省するべき注意事項や、盲目的メール推進は危ないのかもしれない。

得に、ごく近い関係でのメールが、大きな弊害を招いてしまっていないか?

面倒をむしろメールで代替してごまかしたりしていないか?

気付かぬところで、自然に傷ついたりしていないか?

だとすれば、誰かを知らぬ間に傷つけたりしていないか?

少なくともコミュニケーションを無機質にしている点に配慮して、メール文化を見直す必要が、ごく身近に、それも気付かぬうちに発生していると考えるのは、果たして考えすぎなのであろうか?

これらの感覚は、すでに世代間ギャップとしてたとえ「親子」間でも、超えられるものではなくなっているのでは・・・・。
(親子の会話はメールが主流というが、このような指摘に共感して修整することなど、もはや不可能では???)

何とか我が「ブログ」への正常なる復帰に向けて、ご意見、ご指導を請いたい!!!???

3月 4, 2009   No Comments