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Posts from — 6月 2009

アラ還とピタ還

 明日から8日間、日本を留守にする。

かみさんの憧れの国「フランス」を旅する羽目?になったのは、「ピタ還祝い」を子供達がプレゼントする計画から始まった。
すなわちこちらも当月で「アラ還」記念ということになる次第!

30年ほども前、仕事上の計画が失敗して4泊5日の強行軍で、「パリ」を走り回った旅が有った。仲間5人で「思いつき」のみで駆け回ったあの時の旅行が、これまでの人生で最高の感動の旅であった。

果たして今回は、それを越える感動を呼ぶものとなるかどうか???。

ということで、ブログはしばらく「お休み」!
(パソコンはもって行きはしますが、使わないでしょう。)

そうそう、遂に昨日、娘が家を出ました。
神童家で、ご長男が婚約の挨拶に彼女をお連れになった頃、我が家には娘の彼氏が「同居」了承の挨拶に来たのですが、「そのうちに結婚も予定しています。」とのことでした・・・・。

新たな二人の住まいにて、先方のご両親にご挨拶、互いに「始めまして・・・。いずれ改めまして・・・・。」それ以上の会話もできず、早々に引き上げてきました。
不思議な時代になったものだとは、両家の親の正直な感想ではなかったかと思います。

かみさんと「良さそうな御両親でよかったね!」と不思議な納得。

今回のプレゼントのお礼に、娘に贈ったメールが 「祝、同棲!、祈、結婚!」
娘も娘なら、親も親かな???娘はこの秋で、確か「三十路」だったっけ?

とにかく行ってきます。
(帰ったら「ラスト・ラン」で現役復帰です!)

6月 29, 2009   No Comments

政経「がセネタ」2題

ラスト・ランを無理やり書き終えて、久々政経ネタをと思ってていたら、神童さんから大胆な予測が・・・・。

でも、そんな展開(IOI+日生同和+日本興亜)があれば、三井住友は無いでしょう?。

神童さん!
前2社+MSの大合併の大変さ、計算すれば15通りの思惑が交錯します。
それよりはご提案?の合併はずっと楽では無いでしょうか?
体験者としての本音をもう少し教えて!)

現場で苦悩する後輩達には不謹慎すぎますが・・・・。

今日の「ガセネタ」は政治面では、地方分権の薩長連合が動き出したことの是非!
石原都知事は、このタイミングで「猪瀬さんは後継者足りうる人物」と発言、何かきな臭くありません???
薩長連合の鍵は、東京都知事が握るというシナリオは、どこかで聞いたような気もしますが!

次は経済、
アメリカの復活と日本株の好調は続く????。

100年に一度の大不況は実はヨーロッパ情報から、早めにつかめました。
そのヨーロッパで「Dバンク」と「Sバンク」の状況が怪しい」との怪情報あり・・・・。
「現在の上昇市場(相場)に、決して悪乗りするな」との貴重なアドバイスが入りました。

100年に一度の金融大不況、大合併も解消もなんでもありの時代。
いずれにせよ、「政・経」共に本当の大波乱は秋以降。
この夏の衆院選は、前哨戦(前触れ)でしかないとしておきましょう。

地方分権だけが政治テーマの選挙にならない事を祈りますが、問題はその後ですヨ!!!

6月 26, 2009   No Comments

ラスト・ラン(14・終章) 教訓

 想えば、エセ「社会活動家」をサラリーマン時代に自らの免罪符的に志し、NPO法人から生協陣営への人的パイプが出来上がったのだった。

現役時代の大きな収穫に繋がった。
当時生協陣営では、自動車保険の取り扱いが無く、「K社」を中心に管財物件である火災保険のみの取り扱いしか、民間損保との接点も無かった。

「組合員の悩みはむしろ自動車保険の選択の難しさにあります。概して保険会社の加入時の説明は、極めて雑なんですよ」といって生協陣特約」を説明したところ、これが大受けしたのだ。

最後に「このような丁寧な説明が出来るのが、生協という組織の強みでしょう!万一(事故時)の場合は当社にお任せください。当社は24時間オープンのサービスセンターがあります!」

こうして、生協陣営が組合員に保険の拡販を勧めだしたのだった。
販売ツールは自前のチラシがある。加入時には保険資格を取った「ボランテイアおば様達が活躍してくれる。一気に売り上げは伸び、生協陣営の手数料収入が伸びていった。

あれから30年、あのころと同じ新宿の地で保険・共済事業をラスト・ランさせる決意を固めた。

退職から5年、サラリーマンでは決して得られない様々な教訓とノウハウの習得が出来た。

中小企業再生とは、忘れ去られた日のあたらない世界で、吹きこぼれていく労働者たちの職場確保であると心得た。
大不況においても大手企業のリストラは未だ救われていく道がある。パート、アルバイトであっても、マスコミも救いの声を上げてくれる。

政治の手の届かない中小企業倒産は今も数知れず発生し、そこで働く人たちの行き場は、青テントでしかない・・・・。

残念ながら、これ以上に続けていく資力も体力もない。
手がけた中小零細企業は10社を超えたであろうか。
一勝一敗であったかもしれない。少なくとも敗戦処理の場合にも、従業員の職場は維持できたと自負している。
顧客と従業員を無償で売却すれば、力のある同業者で、再生はしてくれる。そして職場は残る。倒産前に決断し、損と見栄さえ投げ出せれば・・・・。

一方、経営者の首をいくら切っただろう。
彼らにはその責任があり、そして食うだけの資力は、なぜか持ち合わせているものだ。
そして、社長コストをボランテイアで繋ぎさえすれば、零細企業再生は可能である。ただし短期的でしかないが・・・・。

残念にも、ここに資金が付く事は決して無い。政治は最弱者を決して救わないのだ。
もちろん「金融」など元気であっても、救えるはずも無い。
まして現状は救われる側で、税を喰っている状況だ・・・。

実は、直近の何本かの実話を省略せざるを得なかった。
「事実は小説よりも奇なり」とはよく言ったもので、実話では書けないものが本当は面白いのだろう。面白い小説は、みんなフィクションではないのかもしれない。

「ラスト・ラン」は今から始まる。
書くとすれば「フィクション」でしかないが、誰かが「フィクション」でラスト・ランを想定してくれたら面白いだろう。
10年後に未だ元気であれば、「ラスト・ラン」の顛末と、書けなかった事実や掲載しなかった事実も免責期間を迎えるかもしれない・・・・。

                                   (終わり)

6月 25, 2009   No Comments

ラスト・ラン(13) 失敗(その2続き)

非営利社団法人の幹事を引き受けて、1年が経過してNPOという組織をあきらめかけた丁度その頃、世の中は「07年問題」をテーマとした論議が活発となってきつつあった。

団隗世代の活躍の場を作るための新しい「NPO法人」の設立に伴い、その支援を要請されたのだった。
その手口は25年前と全く同じ、配役も同じだったが、最初に紹介された人(常務理事)に感動してしまった。

すでに「70」を前にしながら、その勢力的活動と理論背景、中でも神奈川で生協を立ち上げ、52歳にして早々と退任、その後ずっと社会活動家として忙しく走り回っている「Yさん」と出会ってしまったことで、人生が一変していく(かも知れない)。

何度かブログにも登場したことがある「Yさん」から「ラスト・ラン」の方向性が決められ、難しい「リ・スタート」の選択となってしまったことだけは間違いなさそうだ。

このNPO組織も、やはりアメリカの「AARP」が対極にあったし、未だにその組織研究を一つのテーマにしていたのだからびっくりもする。
25年もの間、同じ「ネタ」でスポンサー探しをして、それに乗せられる人たちがいる。(乗せる人が同じであったことが実に情けない。)

但し時代はリアルな高齢化時代の夜明けであり、その説得力は大きく増している。
団塊世代の働き場と社会貢献は時代の要請に違いないのだから・・・・。

25年前の理事長は元経企長事務次官「S」さん、今回は代表理事が元厚生労働省のキャリアから宮城県知事を終えた「A」さん。

「A]さんについては多少予備知識があった。
確か同い年のT大卒、憧れのT大全共闘世代であったはずで、レベルは違えど同じ体験と悩みを共有する同志的親近感を抱いていた。
(あの日安田講堂の前で彼は何を悩実苦しんだだか?)

Yさんを交えて「A」さんと会談、・・・。
多少の政治的意図を感じなくもなかったが、彼の団塊世代の再結集論に勿論共感しないはずはない。

この組織には生協陣営というリアルな事業体も参画している。
すでに全国のNPO法人が結集しているし、「連合」という大組織も参加している。
イコール傘下に30万人もの社会活動家と組織労働者が100万人いる(あくまでも)計算だ。

しかし直ぐに計算上のパフォーマンスでしかない事は直ぐに見破った。
よし!組織化を目指して「法人部会」を設立して、努力してみようと開き直ったまではよかったが、すでにこのトリックにはまっている事業家がいた。
法人部会設立とビジネスとの共存の了解を組織から取り付け、スポンサー企業を廻ってみた。驚くことに事実認識が全く違う経営者達。

リアルビジネスを期待して机上論としてのリアル会員の存在を信じて疑わない社長さんに、実態を告げるとだまされたと撤退を決定する始末。
その最たる企業が、この組織の存在基盤を作っている通販・出版事業であった。
30万人に発行される会報誌を担当すれば、物販もできれば、広告も取れる。但し1号当たりの発行コストは1000万にも及ぶなら、読み手がその100分の1程度と解ればどうか?。
「企業家なら下りるに決まっている!。」

ここで大失敗をしでかした。
印刷屋の経営に苦戦していた馬鹿な経営者にとって、この出版物は発行部数が10分の1になっても、なおおいしいに違いない。
事実を告げてスポンサーが下りれば、印刷代を受け持つ企業がいなくなる。情報紙のみが全国のNPO法人にとってこの親組織の存在価値なのだ。
共有情報紙として、経費節減も可能なのだから、なくては困る唯一の活動の実態でもあった。

止めると組織崩壊に等しい。
一方で印刷屋には仕事がない。発行部数を5万部にして、内容はボランテイアの素人編集で我慢してくれれば、(とにかく紙代の原価回収さえできれば、)と無理やり納得して引き受けざるを得なかった。

内容や広告、通信販売商品の自由度については了解をもらったはずだった。
この組織では、なぜか配付代まで業者持ちだと言う。勿論会員名簿など存在しない。全て承知の上でのボランテイア参入では有ったのだが、当然コストは一杯まで絞って、実用性の重きを置く。ペイラインまでの成長をめざしたベンチャースピリットを発揮したのだ!

継続する為だけに最大限の企業努力を試みた。
売れるはずもない保険の広告を挿入したのが致命傷だったらしい。「保険は全労災と競合するから問題だ!」と総括していただいた。
全労災がスポンサーとして何をしてくれたのか?・・・ 
連合がスポンサーとなる約束ではなかったか?・・・
企業利益の追求との「コラボ」がこの組織のメインテーマと約束したのではなかったか・・。

順次去っていく企業スポンサーと新たに現れる(だまされる?)奇特な事業家群・・・。

NPO法人はリスクも責任も取らない(取らなくていい組織であるようだ。
理事長はお飾りでしかなく、実態を知らされないし、責任を追及できるはずもない。
みんなが善意の人であり、悪人はいない。
企業はだましてもよい物である以上、スポンサー足り得ない。
いや、きっとどこかに悪人はいるに違いない。
もし、プロの社会活動家がいるとしたら、悪人でなければプロとなりえないのだから。

かくして、(おかげで)NPO法人から撤退を余儀なくされたものの、すばらしい出会いも沢山体験できた。
大きく「損」したが、「得」に変えられる芽をつかめれば、先行投資でもあるのだ。
そしてこのブログが始まったきっかけも、こんな失敗が根源にあったことも告白しておこう。
(この激務も失敗の産物ではあるのだが・・・・。)

6月 25, 2009   No Comments

ラスト・ラン(12) 失敗(その2)

 アメリカにAARP(全米退職者同盟)という組織がある。

今から25年以上も前、この団体の代表者を日本へ招聘したという社会起業家に出会った.すでに2000万人以上の会員を組織化、「共済」他を運営し大発展の途上にあるその会長(ジョン・デニング)が、日本との提携を求めて講演会を開催するという。

そのスポンサーになることこそ提携への近道であるとその社会起業家の熱い要請に感じるものがあった。
必ずや、団塊世代がリタイアする25年後あたりには、この共済組織が日本でも必ず必要になってくる・・・・。
当時は職域中心の団体保険は、退職と同時に加入が難しくなる欠点があった(と思う)。

この頃から、日本の高齢化社会への漠然とした問題意識が生まれつつあったのは、自分が団塊世代という特別な集団の中で生きているという認識が強くあったからだろうと思う。

AARPの会長による日本講演は無事終了し、主催団体となった非営利法人のスポンサーとして前職の保険会社(D社)は長く、この世界との接点を持つ事となった。歴代の事務局長は常にD社が担当し、その非営利法人は唯一の社団法人として、その後現在に至るまで継続している。
(AARPは、現在3000万人を越える優良退職者団体として君臨している。)

私が退職する寸前には、偶然にも同期の「S君」がその団体の事務局長として、目の前に迫る少子高齢化問題への本団体の合理化と自立化に向けて、骨身を削ってくれていた。
「S君」は時代の変遷の中で、この団体について苦悩を続けていたようだが、その将来に一つの目途をつけて事務局長を辞任、退職を決意した私にもその真意を報告してくれた。

それから(辞任後)半年もしないで、彼は全身に転移した悪性の癌によって、早すぎる生涯を閉じる事となってしまった。
彼が病院へ向かったのは,団体に対する一つの道筋をつけた後であった。本当に多忙な毎日であったらしい。もう少し前に検査に行っていれば命を落とす事はなかったかもしれない・・。

彼の出した結論は、D社の完全撤退と自分の退任がセットとなっていた。
時は、この団体が本当に必要とされるはずの「団隗リタイア」時代でもあったのだが・・・。私はD社に報告、了解をもらって、個人として、この団体の幹事役を買って出ることにした。

25年間この団体は全く成長を止めていたかのごとく、資金難の状態となっていた。D社が頑張って運営してきた資金源も底を突いていた。S君が撤退を決めた理由はそこにあったのだ。

幹事着任から1年後の総会を前にした理事会で「この団体はすでにプロの私の眼からは債務超過法人で最悪の状態です。」と発言せざるを得なかった。

事業再生が本業であるわが身にとって、非営利法人という団体の再生プランが一つのテーマとなってしまう次の失敗の原因が発生していくこととなる・・・・。(続く)

6月 21, 2009   No Comments

ラスト・ラン(11) 失敗その1

我が尊敬する「S先輩」から真っ向から反対された再生事業がある。

前職時代にすでに付き合いのあった印刷事業者から、民事再生事案としての処理中に受けた相談であった。
その相談してきた社長の退任とその後のボランテイア協力を前提条件としてお引き受けてしまった。
すでに2つの再生案件に取り組みながらの兼務であることから、その失敗に気付くまでに随分時間を費やす事となる。
主として失敗の原因は2つ有ったと思う。
その一つは装置産業の斜陽化を食い止めるには、大きなコスト負担がかかることに対する読み違い。もう一つは、前社長の引き続き業務遂行と予定していた後継社長候補の退職であった。

已む無く前職会社への取引依頼と営業協力を願い出た際に「S先輩」から反対されたのであった。
ビット参入とはいえ、多少の仕事を戴く事はできたのだが、締めてみれば、そのほとんどが採算割れの受注である。当然のこととはいえ、営業にはハジを欠かせない価格での受注を強く要請しておいたのは、見得のみにこだわる我が悪い癖でもあった。

勿論担保オーバーになっている「自社ビル」を関係者とのシビアな交渉によって、売却できた所が潮時であった。
しかし零細工場の従業員達にとって行き場所などない。

結局大きな機械を動かすのに高いコストを払って借家住まいで出直し経営を続けてしまう。
この時、機械を捨てて、営業のみで生きる案を考えなくもなかった。零細企業群この業界では、すでに受注品の5割以上が外注にたよるのが常識であったのだから・・・。

機械を捨てれば、印刷屋ではなくなる。
倒産寸前の工場に残る5人のおじさん達に次の職場などあるはずもない。

苦肉の策はこの会社の所有する機械を持たない取引先(下請け)で、不景気にも拘らず業績を伸ばしている会社の社長に厚かましくも相談してみる事とした。

「機械をリースするので、営業権と従業員を引き取ってもらえないでしょうか?」
案ずるより生むが易し、商談は纏まった。
新たにその機械を内製化すれば数億のコストが必要であり、ましてやこの機械の仕事量を2社分合わせれば、機械はフル稼働するだろう。

前職の営業権だけは残してもらう事もお願いした。
データ保管責任と継続受注責任がある。営業ノウハウも残る。

かくして、営業所と機械の所有権だけ残して工場分離に成功したものの、大きな傷跡だけは残る結果となった。
しかし、そこで学んだことは、最後まで頑張った後、果敢に「損切り」さえ決断できれば、従業員の職場だけは提供できる・・・。

この教訓は我がビジネスモデルとして、その後も生かされていく。
倒産責任は社長だけが受けるべきだある。そして彼ら(経営者)は何とか再生も可能なのだ!

6月 17, 2009   No Comments

ラスト・ラン(10) 保険代理店

 35年も前の話に戻る。サラリーマン、個人起業家、工場労働者などの経験を経て、28歳のひねた新人保険マンは誕生した。

そこで出会ったビジネスこそ資金不要で独立が可能な保険代理店事業であった。
努力を継続しさえすれば、経験、キャリア、能力を問わず事業家として成功させる事が可能なこのビジネスに心底ほれ込んだのは、自らの「夢」と重なる部分があったのであろう。
在庫不要、売り掛け金回収不要、借入金も(金利も)不要な上に、研修を受けながら一定の保証金まで受け取れる「研修生制度」が核保険会社に創設された頃であった。

研修生さえ、採用できれば、自分の売り上げノルマは達成できるこの制度が自らの営業の原点となった。
やがて日本はバブル景気に突入していく。
入社後10年で、軽く20人以上の研修生を採用しただろうか・・・。
いや採用したというよりも「だまし、すかして」採用にこぎつげたといった表現の方が適切かもしれない。彼らはほとんど制度の理解ができていたはずもないが、誠心誠意説明して、その熱意に折れて入社してくれた人たちだった。
(確か2-3人にはだましたつもりが、完全にだまされた失敗もあったっけ?)

勿論、だましで終われば、その人の人生をも狂わせるペテン師でしかない。
とにかく時間を惜しんで彼らと共にマーケットを駆け回った。頑張りさえすれば必ず成功するとの確信も事実として積み重なっていった。
同時にサラリーマンとしての思わぬ出世街道がついて来ていたのも紛れも無い事実である。
 そう!!。
何時しか役員にまで上り詰めた中途入社の生意気なだけの役員が誕生した真実の裏側には、彼らの努力と成長の賜物以外の何者でもない事実を、誰よりも理解していたつもりだ。

時はバブル崩壊となり、彼らも多くはバブル景気の影響をもろに受けていた。
独立、自立した保険代理店は、バブルで痛む事などありえない。
確かに本業だけでは事業が傷つくことなどなかったのだが、入る収入と努力の積み上げが反比例する頃、その能力との狭間が生まれ、個人事業家には隙間が発生する。
酒、株、不動産などなど・・・・。

サラリーマンを終えた頃、傷つき、大事な顧客を放棄する寸前の代理店が沢山存在する現状に責任を感じずに入られない。
しかし、保険代理店事業は「ある事情」から「ご法度」としている。
相談に乗りつつも思案を重ねている頃、追いかけるように一人の元部下が、退職を決意する偶然が重なったのも不思議な話である。

何社かの代理店を合併させて連合体事業を提案した。
時は代理店事業の大型化対応でしか生きられない「コンプラ一色」の金融再編時代である。

保険代理店が事業再生ビジネスの対象になるとは予想外といわざるを得ないが、まさしく時代はそれを要請し、それ以外には元受保険会社(すなわち元我が社)にとって顧客喪失しかない事態にとっては、皮肉にも救世主が現れたに均かった。
幸いにも大口顧客の多くは、未だにそれらの代理店と共に契約を継続してくれているのだから、事業継承の挨拶のみで、ありがたくも事業継続は可能であったのだ。

勿論、本来抱えるはずもない大きな負債を抱えての再スタートとなるのだから、経営は容易ではないし、得意のリストラも勿論ままならないから、今も苦戦を続けている。それでも量的メリットで、再生は可能である。この事業統合は、やがて我が「ラスト・ラン」の主軸と繋がることとなる・・・・。
(売り上げはなんと5億円にも上るボリュームとなっていた。)

6月 12, 2009   No Comments

ラスト・ラン(9)ITベンチャーとの出会い(2)

 問題は2つ有った。

VC中心に投資された資金は10億をはるかに越えていたが、優秀なる技術人とIT系営業マンの人件費は膨大なものであり、すでに資金(資本)が底をついている。
顧客からの安定した売り上げは確保しているのだが、明らかに資金不足である。一方この状況を知るVC(投資家)はN社のみである。K君と向かったN社VCに「2つの了解」をもらう事とした。
(幸いにも多くの社員は雲散霧消していたことも幸いではあった)

90%の減資了解とその後の増資によって、K君サイドが支配株主となることによる再建案を提案した。
これ以外にはどんなに優良企業であっても整理、清算しか道は残されていない。VCはN社のほかに10社程度が相乗り状態である。
(いずれも有名VCだった事にもびっくりしたものだ)

IYバブルの典型的投資姿勢を目の当たりにする事になった。
全ての投資家にも同じ方針を理解してもらわなければならない。相手は全て40代~30代の若手キャリア達であり、その道のプロであった。登場陣物の多くはアメリカMBA資格の保有者だ。こちらは長年の金融マンとはいってもただの元保険屋でしかない。

交渉力と粘り腰では負けないが、にわか勉強の日々が続いた。
彼らの保有する株式は企業が生きてこそ意味もあるが、今はただの紙くずでしかない。何よりも大金融資本から見れば、放置しておいて減損処理さえすれば、消してしまうことのできる資産ではないか・・・。
何よりも彼ら担当者は個々には優秀であっても、みんな一介のサラリーマンでしかない。

こちらは、一切の権限を持つ大?個人投資家だ。
全ての了解を取り付けるのに2ヶ月もかからなかった。並行して資金集めをしなくては今日の飯が食えなくなる。
(何とか資金的にクリアできる目途もついた)

もう一つ、了解を取り付ける人物がいた。
すでに帰国して米国で同業を再スタートさせているはずの前オーナーの合意が必要だ。
彼の協力と同意がないことには、この再生劇は終わらない。
(彼は同じビジネスモデルでアメリカで生きているはずなのだ)

天才起業家にあう為、ニューヨーク経由ボストンへ急行した。
即決の為のN社のリーガルアポイントを引っさげて、一泊3日の強行軍であった。ボストンのホテルで3時間、一応の了解を得ることができたのは、とにかく行動主義の成果であったと思う。(天才のエイリート起業家は単なるペテン師にも思えるほど制裁がなかった)

全ての環境が整い、様々な法的手続きに則って、無事K君はE社の社長となった。

皮肉にも、同時に我が社の専務を失う事にもなったのだが、同社はその後も紆余曲折はあったものの、今も独立した優良企業として、K社長の下、IPOの機会をうかがっている。
(その後ITバブルが崩壊し世界恐慌のさきがけというアゲインストの風に中も・・・)。

こうして、大冒険ではあったが、初の投資事業は多少の利益を得て、何とか成功したのであった。

こんな時、またまた偶然のビジネスチャンス(ピンチ)がおとづれることになる。未だ退職日から半年もたっていない時期である。

6月 7, 2009   No Comments

ラスト・ラン(8) ITベンチャーとの出会い(1)

十年ほど前、ITベンチャーブームにのってアメリカ籍の日本人天才起業家が逆上陸してきた。

E社のK社長は、慶應主席から某企業を経てMITのMBAをこれもトップで卒業して、起業をしたらしい。アメリカで世界で最強のインターネット・セキュリテイーソフトを開発して、大成功、日本に逆上陸してきた(らしい)。

そのソフト開発は、IT技術史上「マイクロソフト」や「インテル」に匹敵し、K氏はビル・ゲイツや孫正義をも越える(かもしれない)。
彼は米国に本籍を移しながら、帝国ホテルのVIPルームを根城として単身逆上陸だった。
日本でのスタッフも、ほぼ東大、MIT組みが10人以上勢ぞろい・・・・

一流のベンチャーキャピタルがこぞって、投資しているし、あの「T海上」すらも!

こんな背景でストック・オプション付きで経営陣の一角に迎えられたのが、当時、早稲田の建築を出て、D社の研修生で入社した代わり物のK君だった。彼の最初の就職に関わったのは、勿論僕の冗談からだった。見事に彼は代理店として大成功していたが、この話には飛びついた。(この話がどこから彼に持ち込まれたのかは定かではない)

続いて、飛びついたのは、なんと我が息子であった。
彼はある大手IT系企業に就職が内定していた。誘ったのは、当然K君!
「江戸の仇を長崎で」取られたような話だが、普通の選択ではありえない二人の判断は、ITバブルの象徴であったのかもしれない。

我が息子は3年で、天才経営者に見切りをつけて転職した。そのIT技術ではなく、経営者としてのK社長の異常性に決別するのに3年の年月が経っていた。
そして、その後も残ったK君にも我慢の限界が見えてきていた(様だった)。

丁度その頃、僕は退職を決意して、K君にもあきらめて、退職、我が事業のパートナーを要請して、ほぼ承認を得ていたその時であった。

ITバブルは崩壊寸前の頃でもあったそんな時、K君から相談を受けた。
メイン投資家でもあるN証券VCからE社の社長就任の要請を受けているというのだった。現社長を都合によっては背任で訴追するかもしれないというのだから驚く話である。

あれから5年もたつが、その最強のセキュリテイーソフトは最強のままであり、その技術力も本物であるはずだ。息子もそう言っている。
要は天才技術者は、経営については、全くだらしなく、アメリカに残してきた「米国E社」へ日本で集めた資金の一部を逆送金していたらしいのだ。

すでに日本でのビジネスモデルは「少」たりといえども完成していた。おそらく彼の浪費体質さえ改善すれば、日本E社は十分に立ち行くはずだから、N社からの要請を受けるべきであろう。

勿論、K君が経営を引き受けるには、大きな問題があった。
膨大な投資家(VC)の資金はそこをついていたのだった。

すでにフリーで起業していた僕とK君はN証券VCへ向かったのだ・・・・・・。 
偶然の第二幕が始まった 。  (続く)

6月 2, 2009   No Comments