吉本隆明の「芸術言語論」
一昨日のNHKで吉本隆明の最後?の講演を聴いた人も多いはず!
氏は団塊世代にとって、そのカリスマにはまった人も多い。
「共同幻想論」なる難解な哲学書の著者だった。「資本論」を理解不能とほうり出して、これこそ日本の現状打破のバイブルとしながらも、これも十分に理解でき無いまま、しかし、今度は彼をその行動に向けたバイブルとした時代・・・・。
NHKでは、糸井重里氏のコーデイネートで実現したものだが、吉本氏が自らそれを希望したというその実現性の不思議さから、興味深く2時間の講演記録を楽しんだ。
難解だった彼の著書と比べて、解りやすく、親しみ深い彼の講演は、主に言語の持つ意味について哲学的(いや平易な言語として)に彼の最後の主張として、熱く、とつとつと語るものだった。
言語には沈黙から発する幹や根に属するものと、単なる花や葉として一時的表現と位置づけられるものがある。そして芸術的言語は常に自己表出される沈黙叉は独り言の中にあると「氏」は説明された。
沈黙する言語とは、内在する感情の表現であり、叫びであり、独り言として表現されるという事であれば、日記やブログでの表現こそその芸術性を帯びていると解釈すれば良いのだろう?。
いつも不安を感じつつ、自らの感情を真実の叫びとして「独り言」を書くわが身にとっては、ブロガー継続への救いの道にも似た説得力を持ち、ただうれしかった!
鴎外も漱石もドストエフスキーにしても、その伝える表現の奥にある沈黙にこそ、その芸術性があり、それは読み手の勝手な感性の中で初めて捕らえられるものであるとし、芭蕉の俳句においても、その芸術性は彼の独り言の自己表現にある沈黙の芸術性であると解説してくれた。
沈黙の叫びを言語にする「独り言」は、伝えるべき言語とならずとも良しと勝手解釈すれば、この「独り言」は、絵を書き、音楽を奏でる芸術と同等の意味があると理解出来る。
気ままに書く我がブログでさえも、芸術音痴と悩む孤独な心を大いにはげましてくれるものである。
吉本隆明の「共同幻想論」が、たった今理解出来たような気がする。
同時に読み終えル都同時に、記憶を失うその筋書きの奥にある「沈黙」こそが、静かに我が心の奥に沈殿を重ねていったのかもしれない。
「沈黙の叫びこそ言語芸術の根源である!」と理解して、大満足し、あえて自ら望んで語った「吉本講演」の中で本質的理解せよとの遺言でもあったように感じたのだが・・・・。


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