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Posts from — 10月 2010

お前は何様だ(5)意外な展開

日興Pと詳しく打ち合せ、現状分析と同社の試算査定を行った。創業者は、社長のまま、既にアメリカへ帰ってしまっていた。NPによると既に彼からは、辞表を取り付け、かつこの会社の持つ世界的特許権は、すべて日本法人の所有権として、リガールチェック済みであるという。

しかし、彼はアメリカからまだ様々な指示をおくってきており、NPの説明とは食い違いも多い。問題は、この会社の支配権を一体誰が保有するかであり、VC他の株主との関係がどうなっているのかが重要だ。VCも実はNPの関係先が多いし、実体の株式所有は、NP関連で67%を所有していることがわかった。

勿論創業以来、事業は4年以上が経過し、すでに多くのサービス利用顧客を有していた。一流起業も多いし、とにかくクライアント数は数百に上っているのだから、事業を止める訳にはいかない。

現実試算査定の結果は、大きく資本を食ってしまっており、一旦大幅減資を行い、その後改めて当面資金の増資をつのる意外に、再生の道は無い。
極めて乱暴ではあるが、シニアベンチャーとして、新たな投資家としての立場を申し出て、改めてNP社にK君の社長就任と95%減資案での再生プランへの賛同を求めることとして、全情報開示の上での交渉を始めることとなってしまった。

当時、時代にときめくプロVCのトップとズブの素人シニアコンサルタントの駆け引きだから、今考えただけでも冷や汗が出る緊張の日々を過ごす事となったが、毎日が新鮮な勉強の日々となった。
Eシステムの社員を含めて、出会う人全てが、バリバリのキャリア達である。
既にE社の社員の大半は、さすがキャリアだけあって、その実状を知らされて、あっさりと次のキャリアを求めて、ほとんどが退職していた。

但し、このシステムを理解する技術者二人には、絶対に残留してもらわなければ、このビジネスの継続は出来ない。K君は理系とは言え、むしろ経営と営業分野でしかなく、この世界の天才達が作ったビジネスモデルを理解し、改めて紐解く技術者がいなければ、事業存続は出来ない。ましてやその機関サーバーとソースコードは未だにアメリカにあるのだった。

二人の超一流技術陣が、引き続き経営参画することを含めて、再生プランに同意を頂けたことは、このビジネスとその技術が本物である証しとして安心できる理由でもあった。

95%減資は、当然全てのその他株主の同意が必要だ。
K君と新たな投資家は、全てのVCを相手に極めてハードなネゴが必要であるが、その自信だけは備わっていた。
単なる感でしかなかったが、元サラリーマンの感は、正しかった。相手はプロの投資家たちであり、VCのサラリーマン達である。潰れることの紙屑化よりは、減損処理で、紙屑として保有すれば、万一、事業再生が成功すれば、投資は生き返るのだから、、、。保身の立場を考えればとうぜん受諾するはずと踏んだのだ。

実はただ一社、猛烈に反対した投資家がいた。それが我が出身業界である大手損保の課長さんだったのは、面食らう他なかった。我が感の予測の源泉が否定されたのだ。彼は、未だに前社長(いやまだ現社長)のビジネスモデルと経営力を信じるし、社長交替は勿論、減資になど応じる気は無いという。

説得を最終にまわし、結果応諾を取ったのだが、びっくりしたのはその全ての

判断が、当該担当の課長さんが、権限者であったことだ。少なくとも億単位の投資であるから、部長か担当役員との交渉を覚悟して、ある意味張り切って乗り込んだが、その応諾を含めて、全てが課長マターであった事は、同じ保険会社としての常識は、全く通じないものと思い知らされたりしたものだ。
(要は、決済額が丸二つも違うという現実に???)、、、続く!!!

10月 31, 2010   No Comments

お前は何者だ(4)ITバブルとの闘い

「ビルゲーツ」を超えるという日本人IT起業家がいた。

彼は慶応工学部を首席で卒業し、SANYOからMITのMBAを取得、ボストンで起業した。NASAでの研究員を経て、インターネット時代の最強セキュリティを当時のアメリカIT技術陣を総動員して開発、そのまま米国で起業した。
グリーンカードによる国籍取得の後、日本への進出で故郷への錦を飾る予定であった。

いわば、電子小包の開発で、民間版郵便局をそのビジネスモデルとして、多くの日本人技術陣を採用、Eシステムセキュリティ(仮称)はスタートした。日興P以下、日本の機関投資家や大手損保が、こぞって株主として、その起業の支援と投資は完了し、東大卒他のバリバリの社員たちが、この企業のストックオプションを期待して、その事業へ参画していた。

何とストックオプションの実現価格は、一株一億とも言われていたし、確かにその技術(ソフト)に対して,マイクロソフト社さえ着目し、ソフト売却の打診があったというから、本物の技術であろう。

時代はITバブルの絶頂期であった。
その会社に、偶然二人の極めて近しい知人が紛れ込んでいた。二人とも当然そのストックオプションの所有権があり、その創業者の天才的才能を信じて疑わなかった。多くの天才的技術者と同様に、、、。

その知人の一人は、同社の企画部門に入社して、すでに4年が経過していた。本来なら、日本において、そろそろ上場されるべき時期であったはずだ。実は彼こそ我が現役時代に育てた保険代理店ビジネスの教え子として優等生のK君である。

K君には、小生独立時にそろそろ、その企業を卒業して、一緒に新たなビジネスを始めないかと声掛けしておいたのは、どうもそのEシステムの状況が思わしく無いと聞かされていたからだ。
聞くところ、その社長は天才だが、経営者としてはどうみても考え方、行動面で異常であると考えられる。

そんな時、K君に日本での大株主である日興Pから、「社長就任の打診がきているんですが」と真に唐突な相談を受けたのだ。まさに我が人生の再スタートと時期がかぶる偶然であるが、詳しく聞けば、この事業継続は社長さえ変われば、十分に期初の計画の達成が可能かもしれないと考えられる!

早速、フリーになった気楽な身の上で、K君と日興Pのトップに面談を求めた。ITの世界もベンチャーの世界も、初体験であり、皆さん、ふたまわりは年齢が若い。言葉も常識もまるで違う世界であった。
この世界の常識を我が息子達から学びながら、ベンチャービジネス業界に足を踏み入れることになった。

まずは、実践からと考え、この会社の全ての株主に面会を求め、同社の実状をK君共々説明に回り、彼が、天才創業者に変わって社長になることの同意を求めることとした。
我が立場は、何と新たなベンチャー投資家として、天下の日興Pと五分の形式を踏んでのシニアホリエモン状態であった。

日興pによると既に同社の資金は、米櫃の底が見えており、その資金の多くが、
創業者のアメリカEシステムに逆送金の実態があると聞かされた。日興Pだけでも、10億円をはるかに超える資金が出ているのだから、大変な問題である。

(飛ばすと話が見えなくなる。ここは一旦休憩して続くとしておこう!)

10月 31, 2010   No Comments

お前は何者だ(3・初めの3社)

歴史のある「Y飲食」については、その経緯を含めて「団塊世代が行く」で詳しくご紹介した気がするので、多少ダブルかもしれないが、スタートの再生事業であったので、素人なりに手をつけた再生に向けた厳しい手口を紹介する事から、はじめて行くこととする。
保険屋で学んだ現場主義の哲学を実践するいきやよしだが、ずぶの素人であったことを割り引きながらおつきあいのほど、、、。

この会社が、倒産寸前に追い込まれたのは、創業経営者の突然の死と後継者の不在であった。
会長として、前社長の奥さんが高齢を押して経理を統括し、新社長は、亡くなった社長の人望があつかった現場の職人さんが、引き継ぐしかなかったのだろう。本業は、叩き上げの調理人であって、突然社長は無理だったと思う。経理だって、社長婦人だった訳だから財務面は、まったく素人であり、すでに個人資産を相当つぎ込んだ状態の所で、サドンデスの状況で舞い込んだ話だった。

社長さんに、話を聞くと当然の如く、「一日も早く早くおりたいのだ」という。会長さんと面談すれば、我が前歴を聞かれて安心したのか、経理も全て任せるからという。
社長は、現場には強いのだから味(品質)は、業界でも負けない様だ。給与を3分の1にしてもらい、顧問として、一年間残っていただくことで当面の社長をお引き受けした。会長には、月末資金を手当するので、名目上全株を譲ってもらい、今後は一切個人資金の負担はさせないことで、かつ当面の純経理を無給でお願いすることとした。多分心配だったろうから、元気なうちは、事務所に出て下さいとお願いして、、、。

何をやるにしろ、経理が全てとは知りつつ、最も弱いのが経理実務と理解はしていたので、独立を決めた時、タクシーの運転手をやっていたその道のプロのIさんに、やることすら決まっていない段階で、引きこんでいた。
iさんは、二つ年下の昔の取引先の経理マン、プライベートながら30年の の付合いで、道は違えど互いの呼吸は阿吽の関係であり、タクシーの運転手をしている事情も承知だが、「とにかく独立するから手伝って」で、了解してもらってはいたが、即刻ハードな実務とは思わなかったに違いない。

(事業再生の道は、彼が主人公の物語でもあり、いつかは彼の人生も暴露したいものだ???)

経営陣が急に入れ替わることを従業員たちは知らなかった。もちろん会社の状況も知らされては居ない。
緊急社員集会の前に、絶対必要社員には、前社長から根回しをお願いした後、社長から、実質倒産状況と経営移管の話をお願いした。
「何とか、給与の20%カットを了解いただき、全員で会社存続に協力して欲しい。だめな場合は、一ヶ月後の退職で了解願いたい。判断は一週間、、、」

厳しい選択だが、既に社長には経営責任を取っていただいているので、職場を維持する為には、それ以外の道なしを理解いただくより無い。当面は、パートさんを含めて希望者全員の雇用を維持することが、救いのはずと信じて、、。

既に経済環境は悪化していた。勿論再就職の道など彼等には皆無であることは、理解していた。彼等が理解しているかどうかは別だったが、、、。

一週間後、好か不幸か、全職員が了解となった。(後から考えるとなってしまったが正しいのかも)
15箇所程度の職場には、素人目にみても不採算店が数カ所あるが、当面は維持せざるを得ない覚悟が必要となった事になる。社員パートさんを含めて、高齢化した職人さんたちがほとんどであり、とにかく職場確保が、再生の目標となってしまった。

この再生ポリシーが出来上がったことが、後々再生ビジネスとしての悩みの種となるのだが、とにかく経営責任を取ってもらい、経営を無給状態とすれば、どんな企業でも再生は可能と安易に理解してしまった。資金回収もどがえししての話だから、これでは、当たり前だがビジネスになる訳も無い素人事業再生家の誕生の瞬間であった。

経営コストのリストラ効果は、実に大きいとの気づきは、その後大きく禍根を
残すこととなる。

かくして、Y飲食は6年経った今もなんとか生き残りはしているが、苦しい経営が続いている。景気は良くなる気配もなく、零細企業におけるデフレ経済は厳しさを増すばかりである。

その後の、自然減の社員と不採算店の整理では、再生の成功はあり得ない。
資金回収不能のまま、わが甥っ子が、今も食えずの状態で、職場維持に苦しんでいる実情である。

とにかく職場がなくなれば、再就職先の無い社員が20名程度いる以上、経営コストは、ボランテイアのまま存続し、投入資金の帰るあてなどあるはずは無い。グループから切り離し、連鎖しない撰択で、我が甥は今日ももがき続けている。必ずいつかはその苦労が、開花するはずと見守るのみである。

10月 27, 2010   No Comments

お前は何者だ(2・六年の総括)

「お前は何者だ」と、今もって自問自答しつつ、夢に日付を入れてしまった後悔があるが、やはり限りなく正直に独白して行こうと思う。
いや、その前に???

元気なうちに、退職してしまった時、様々に非難を浴びた。
その後、たくさんの人達から、「いずれは社長になるはずなのに」ともちろんお世辞にしろ聞かされもした。もちろん、中途入社組のヤクザな体質を知る自分への総括は、「常務というポストですら、おこがましく、やりすぎだろう」と感謝して退職を決めたし、今もってその答と正答性は疑わないでいる。

問題は、意識の中に芽生える生意気さと生臭さが消えない事にある。批判精神と共に芽生える実践への理屈が、頭をもたげる「お前は一体何者だ」

退職して6年が経過し、その経過を振り返るのだが、おそらくこの間に関わった企業再生の数は、10社を超えるはずだ。いずれも今なお、決して成功したとは言い難い状況だが、少なくともその企業に属する「キャリア不足」の社員の職場だけは、今も確保できていると自負している。(少なくとも彼等の次に職場はなかったとの自負心)

一方で、10人以上の経営者の首をはねた事になる。
瀕死の重傷の中小企業の再生を引き受ける場合、社長退陣が大前提であったから、生首をはねた訳では無いのだが、考えればおこがましいことでもある。そして自らが社長になる事もなかったのは、変なプライドだったのかも?
社長恐怖症であった訳でも無いが、社長給与をボランテイアで実質代替すれば、その(社長の)使用経費を含めて当面は、企業存続が可能である事がわかる。
(素人コンサル業の唯一の哲学だったかも、、、)

遂に社長業を経ずに、コンサル業者として大胆にもIPO宣言をし、その社長育成までをチャレンジ目標とする「お前は、一体何者だ」を世に問う事になってしまったという事だ。(IPOには必ず投資家が必要でもあり、その為にも自らの立場と履歴を明確にしておく事も必要かもしれない。)

「シャレ」で始めたIPO宣言から6年、
(今最も得意とする新たなジャンルとしての保険事業は、初めての起業であり、新5か年計画を作成中!)

苦節10年の物語が悲劇となるか、間違って喜劇となるか???
長い前置きはこれ位にして、まずは、10社(多分もう少し多いかも)の再生物語を始めましょう!

10月 25, 2010   No Comments

お前は何者だ(番外・堪忍袋)

「お前は何者だ」の「お前」とは、もちろん著者自信を客観的に問うものとして、心のうちを描こうとするものであるが、なかなか難渋している。

事実の中で、登場する他人の人物像をも映し出す可能性があり、躊躇が生まれ、過去の未発表ドキュメントのコピーと安易に考えていたが、難しい?

そんな中、他人としての「お前は、一体何者だ」と問いたくなる事も多い。自分を棚にあげて、人を批判したり、指導するなどするべきでは無いが、そんな歳にもなったかもしれないとの想いから、あえてこのテーマを選んだのだが筆が鈍る。

さて、人が堪忍袋が切れる時とはどんな時?
(はやばやと「号外」として脱線するある個人的事件!)
飼犬に手を噛まれた時、、、一度位手を噛まれても堪忍袋は切れないが、2度目が、傷口に塩をぬる形であれば、犬の感性とは別にして堪忍袋は切れてしまう。
浅野内匠頭の刃傷は、こうして起こったのだろう。
高校時代に停学処分を受ける事件を起こした刃傷事件は、既に反省を込めて書いた。たくさんの人に迷惑をかけた瞬間的刃傷事件で有り、堪忍袋が切れた訳ではない若気のいたりだった???

サラリーマン時代、ある不良代理店が、女子社員を虐めて泣かせる場面に切れて、刃傷に及びかけた事があるが、流石に体力的に不利を察知してギブアップしてくれてその難を逃れたことがある。大きな取引先ではあったが、独断で長年続いた契約解除させた時、事情を了解し、上司は許してくれた。(その後、大事な契約保全に奔走し、顧客から感謝の本社直送便をいただいたっけ)

部長時代、上司である我が役員付秘書がお局ぶりを発揮し、横暴を極めても放置されていた頃、彼女が、電話で我が部下である支社長を面破している場面に直面し、堪忍袋を切って恫喝した事がある。(残念にもその女性は今も職場で生きているようだが、その後何人の女子社員が死んだだろう)

そんな自分を見てか、当時の部下達もみんな「怖かった」と飲みながら感想を述べるのだが、「何時も接待役は飲めない自分だったのに」と考えたりしているのだが、、、。
だって、互いの古傷を慰め合う元部下コンペが、今年で70回を数えている事実は、「事実」だろうと慰めつつ、「お前は何者だ」を問おうと考えていのだが,(この歳になって、現役引退を決意して、なんと生臭い性格?)・・・

昨日、堪忍袋を切るような事実に遭遇し、一日明けてクールダウンをする為に号外を使って、過去の堪忍袋が切れた状況を思い出してみた。
五十年程度で、マジギレは、この程度であり、後はどこかに演出がある自分が存在するのは、高校時代の刃傷沙汰の反省があるからだと思っている。

今回は、どう対処すべきか?

正義はあっても、決して理解は得られないかもしれない。
相手が周辺を見えないばかりか、自らの立場と責任を感じ取ってはいないなら、、、自己保身のみで判断し、悪気をみじんも考えていないはずだから、、

事件としては、2度目である。(事件とせずに収集せざるを得なかった。負けて納めたのは、自らにも責任はあるからだった。)
今再び、多くの人生と夢をかけた「戦い」において、完勝する為の堪忍袋の切り方を問われていると理解している。
(具体事例として、描けるのは五年後?)

さて、「お前は何者だ」シリーズは難解過ぎるかもしれない。
フィクションの「ラストラン」への御礼の意味を込めながら、現実の悲劇を予感する結末に向けて走り出した。
所々で、過去と現在をコラボさせて行くつもりだ。

難解極まりない主人公の「精神分裂気味行動と思考方」は、著者自信にも理解出来ないものであり、何よりも厄介なのは、その表現力の稚拙度であろう?

ごく少数の読者の賢明なる解釈力にのみ期待して、2号へ進む!!!

10月 23, 2010   No Comments

お前は何様だ?(1)2005・8記

A君への手紙
(この1年の活動報告)

前略
早いもので、辞任を決意し、辞表を提出した日から1年の月日が流れました。9月末の退職までの3ヶ月間、独立後の9ヶ月間を今一度振り返って、その後の心情と活動についてご報告しておきたいと思います。
 7~9月の3ヶ月は長い苦しい日々の連続でした。辞任のタイミングはこの時以外にはないとの判断に基づき、誰にも相談せず決心の上、行動を起こし、その後、お世話になった方々に説明して廻ることにしたのですが、さまざまな誤解と憶測を呼ぶ結果となってしまいました。
特に期中、突然の辞任となったことにその理由がありました。それは、自分の立場が執行役員という身分に対するさまざまな解釈の違いからであったと思います。タイミングとしては、株主総会が終わって新体制が確認されたその時以外には難しいとの判断があり、むしろその時期を選んだのでしたが、結果として混乱させることになってしまいました。しかし、その時期に関しては今も正しかったと確信しております。個人的な弱さを含めて翌年3月ではむしろ辞めることはできなくなっていたと思います。即ちそれは個人的理由ということを認めざるをえませんが・・・・・・・(当時は、会社にとってもよい時期であると勝手に解釈していたかもしれません)。
 
退職までの3ヶ月間の心の葛藤は、結果として多くの同僚、部下の期待を裏切ることとなってしまいました。このことは、日頃の自分の立場を経営者(取締役)として振る舞いながらも一執行責任者であるとの責任転嫁による矛盾が、敵前逃亡と写ってしまったことにあります。多くの社員の期待の大きさに真剣に戸惑い、悩みました。
 合併以降、誰よりもIOI を愛し、合併の成功を祈り、最後の奮闘をしてきたことがその誤解の源であったと思います。残念ながら、IOIでの私の役割は、経営者ではなく執行役員としての結果責任を厳しく問われるべき立場にありました。そして、その立場を了解するとともに、自らの引き際を考えました。個人的には、現役で目いっぱい働けるであろう60歳まで、残り3年を切る歳廻りの中、決断は、個人的理由を優先することとなってしまったのかもしれません。
 [外へ、前へ、早く]は現役時代の自分の最大の価値観となっていました。すべての業務の価値基準の中に、その言葉を対峙しつつ、仕事をしてきました。そして率先垂範を旨とするべき自身の行動の全てが、内向きになっていることにも気付きつつありました。
最後にもう一度[外]へ出て、力いっぱい自分の判断だけで走ってみたい。[前]は大きな崖ッぷち。「早く」をより速くに変えて、走りきるほかに道が無くなっていたのです。

 混乱の退職劇から6ヶ月が過ぎようとしています。走りに走った結果、いつの間にか7つの会社と200名にも上る社員が、あえぎ、もがきながらも一緒に走ってくれています。振り返って思えばまことに恐ろしい状況といえます。恐らくあの日の決断無くして、各社の役職員諸氏の職場は維持されていたか、、、、、、、。まさに偶然の積み上げの中で、かろうじて生活費だけでも支払える、ぎりぎりの中小企業の生命維持装置を、コントロールするスリルを味わう日々となりました。
 
退職が確定した昨年9月20日ごろ、60年もの歴史のあるY社の決算書が手元に届きました。この会社の再建が可能かどうか。机上での判断では誰が見ても、もはや手遅れといった状況でした。しかし、その業界を多少は知っている甥っ子に、現場の状況確認について指示をしました。二日後の結論は、1000万の資金注入ができれば、1年以内に再生が可能との判断でありました。財務諸表よりも現場での判断を優先すべきである。独立は決めたものの明確な業務も決まらない中で、偶然もたらされたこの情報に、無謀にも賭けてみることになりました。10月1日までに最低500万の資金が必要。現経営者との二人三脚の経営が可能との情報の中、9月30日、IOI社人事部に退職金の振り込みが、10月1日であることを確認。甥っ子は資金提供可のTELを受け、その足で税務当局と交渉、差し押さえの延期決定を了解させてきました。
[外へ、前へ、速く]の実践は、この企業と従業員およびオーナーの個人資産の多くを救える可能性がでてきたのです。今日現在、当初の資金投入予定をはるかにオーバーしておりますが、以前にもましてみんなが再生に向けて努力を続けており、この企業の再生は成功するものと確信しております。
 
その後も偶然は続き、気が付けばグループ企業7社の負債総額はなんと4億円を超えておりました。しかし、必ずそれを超える資産ができているはずです。(銀行は個人補償だけでこれだけ多額の負債を見逃すはずはありません。)それが5億なのか8億なのか、今はまだわかりません。しかしわずか6ヶ月でできあがった借金の保証人は、一人自分自身であり、その担保になっているものは今後とも長い付き合いとなるA君そのものであろうと考えております。だからこそ失敗は赦せません。
 あの日からたった1年しか過ぎていないのに、3年分にも5年分にも匹敵する仕事の質と量が、目の前にあることに驚愕しております。次々に出現するビジネスチャンスに対して、自分だけで決済ができることについて後廻しにせず、ひたすら,速くをモットーに走りつづけることを喜びとして、今日に至りました。ただ時間の管理を、自分だけの意思で決定できることの大きさに驚かされています。これこそが自分のやりたかったことであり、サラリーマンからの脱出の理由であったのだろうと得心しています。
 

1年たって今思うことは、時間をあくまでも自分の意思で使い得ることの価値は何にも代えがたいほど貴重であるという認識が大きく芽生えたことです。この一年の中で、海外に3回、入院が1回、平日プライベートゴルフが1回、いずれもサラリーマン時代にはどうしてもできなかったことでした。なぜか大きなプレッシャーの中、直球一本槍を押し通したその幼知性は自分がやはり組織人ではなかったとつくづく思います。少なくとも自分個人にとっては、正解の選択であったようです。そしてIOIにとっても間違いなく正解であったはずです。あの時、あの日の選択こそがベストデシジョンであったと思います。
 時間は有限であり、時間を自らの意思で自由に使う事が、何ものにも変えがたい価値を生み出すのであり、自分の納得のいくまで限られた時間を走り続けたいと思っています。
 
A君、人生はいろいろであり、価値観もそれぞれに違います。お互いに後悔の無いよう、今という時間を真剣に捉えて、1日1分を大切に、自己責任の中で決断していきましょう。        草々

一部公開済み「文」かもしれませんが、5年前の記録のアーカイブとして当時の記録「原文」のまま(1)とさせてもらいました。(今後とも固有名詞だけは避けるつもりですが、ご迷惑をかける人がでるかもしれません)                                   

10月 18, 2010   No Comments

原点回帰(夢に日付を、、、)

「夢に日付を」は、「わたみ」のオーナー渡辺美樹氏のベストセラー随筆である。
現役時代に、忙しい彼にある仕掛けをして講演をお願いした事がある。その時の彼のテーマが「夢に日付を」であった。

全くの偶然だが、退職から一年後、日経の特集に多少大きく取り上げられたサラリーマンを決意した頃の「走り書き」が、かみさんが大事に所有していたものとして、むりやり公開させられた。このあたりについては、すでに何回かブログのネタにしているはずだ。ゆめを日付にした訳ではなかったが、あまりにも偶然のサラリーマンをスタートする大胆な目標が、メモとなっていた。

今、新たに現役役職を全て辞する宣言をし、それでも結構忙しく走り回る日々が続いている。

退職後、名目社長を10社程度こなしただろうか?
しかし、ついに社長とも会長とも呼ばれず、自らもその役職を自らに課すことを拒否してきたのは、なぜだろうか?

結果的には、社長業失格という烙印を自らに下したまま、第二の現役を終えた事になるのかもしれない。

一方で、まだ十分に元気であり、第三の現役を始める決意を固めて、もう一度「夢に日付を」入れる事となりそうだ。サラリーマン時代のハッタリ的日付けでは無く、世界に公開する日付であるところが、内緒でかみさんに渡していた言い訳メモとは、大違い?

63年間の集大成として、自らの人生を総括する日付となるが、必ず夢に日付を入れ、その目標に向かって努力すれば「夢」は実現する事を立証できるものかどうか無謀なるチャレンジである。

実は、これまでも掲げてきたのだが、目標がとてつも無く高すぎて、見えないので、「シャレとして公言はしたものの日付を入れる事は流石に躊躇してきた。

社長業を断念したこの時期には不自然な夢であるのだが、昔のブログに書いてある「ホリエモンに挑戦」として、そのさわりを書いたかもしれない。

それは、「シニア起業家」への挑戦として逃げを打ってあったが、具体的にはIPO(株式公開)という事であったはずだ。
幸いシニア起業家は達成できた。十分にベンチャー起業としてのビジネスモデルとしても自負するものでもある。

第三の現役として選んだ道は、引退の無いコンサルタントの道であり、サラリーマン終了時の原点回帰という事になる。

社長業は、遂に成功しなかったが、シニアコンサルタント(シニアアドバイザー)として、社長を育て、補い、約職員を指導する立場なら十分に自信があると恥ずかしながら告白するものである。人も企業も育てる事は可能である!

そして、自ら起業したビジネスモデルの成功を実証するための「IPO」の日付を2015年4月1日として、再び「ゆめに日付」をいれ、世界?に公表する事と決意した。経営者では無くアドバイザーとして、、、。

その時フレミヤエイジは、確か68歳!

「プレミアムエイジ」を造語し、「団塊世代が行く」を独り言として、恥ずかしげも無く公開し、その後「ラストラン」が、フィクション化された。
ノンフィクションとしての「ラストラン」の最終章が発表されるとすれば、悲劇に終わるはずと仮定(期待)したが、それまでに5年程度かかりそうなので、この間は、これまでたまったマイドキュメントにある未発表の独白を、差し支え
の無い範囲で公開もして行き、何とか完結させたいと思っている???。

10月 18, 2010   2 Comments

娘の観た神戸??

わが町神戸を娘が訪ずれた。

娘は、あるファッション誌の編集部員に転職して数年になるが、結婚後も近くに住いながらも、滅多に実家へ戻る事はない。いやすれ違いの共稼ぎで、家事さえままならないとかで、旦那には何とも申し訳無い限り、、、。

その娘が、突然帰ってきて、一週間程神戸を取材してくると珍しくも告げに来た。
15ページほどの神戸特集を一人で担当するという報告に、「よし、2日程休んで付き合おう」と申し出たのは親として、当然だったと思う!

ぴしゃりと断られた上に、神戸の見所ポイントさえ説明させてくれない。
わが町神戸を離れて35年、娘は神戸を知るはずも無いが、親父が根っからの神戸っ子である事くらいは、知っているだろう???

今日、その雑誌の発売日、内緒で書店で、立ち読み、、、。
買わなかったのは、当然かみさんがきっと本屋の開店と同時に買っているだろうから!

早帰りして、案の定テーブルに置かれていた分厚い雑誌、ゆっくり見ても、そこには、「わが町の匂いなどかけらも感じない。残念!!

もっとも、私の知る神戸には、彼女のファッション誌に特集されるよな装いなどなかったはず?
娘の感じた神戸こそが今時の神戸の姿なのかも、、、。
オリエンタルホテル周辺は確かに、旧居留地だけれど、昔こそそんな言い方はしなかったよ!(一週間も滞在して、取材先はこの周辺の一点張り!)
神戸にある唯一の高級ホテルではあったけど、デートに使えるほどのおしゃれさえ感じられ無い、無粋なホテルであったはず!
様変わり???

娘に伝えたかった神戸のファッションといえば、三ノ宮センター街の「JUN」を尋ねるカップル達、高架下の靴屋街を闊歩するジーパン族!
食べ物なら、まず「眠眠」の餃子、「たちばな」のたこ焼き、、、。
不揃いな神戸を愉しむのなら、「モロゾフ」で、チョコを買い、「ドンク」でケーキと御茶をする芦屋のお嬢さま達が定番だ。
北野クラブでは、豪華な仏蘭西料理が楽しめるらしいけど、純粋神戸っ子は、入った事すらなかったっけ?
それでも今の神戸を知りたい人、親戚一同様、
親ごころとしては、特集効果でたとえ一冊でも多く売れることを祈るのみ!

ところでみなさん、「GINZA」なんてファッション誌、ご存じでしたか?
娘曰く、知る人ぞ知るメジャー雑誌だとか!赤字雑誌だろうと聞いたところ、「???」がその答え、
¥630はとても付き合えませんのでご注意のほど!!!

10月 12, 2010   2 Comments

24年ぶりの六本木

なぜか、この時期に「3J」が六本木に集合した。

.ひと月程前にJSから突然の電話は、「5日の夜,六本木で会食予定を入れておいて」の一言・・・。
大専務からの依頼を断る程の度胸など無い。5日当日に再びTELで、「六本木交番前で、六時だから、、、。」と相変わらず?
やっとの事で「あとのメンバーは?」と聞き返した。「勿論JTさん」の一言で終わりなら、なぜ一月前には内緒にしたの?別段断る相手でも無いでしょう!

JTは、電撃合併をわずか5日前に成し遂げた我が出身損保の大社長!

出会うや否や、二人の計算上ではあれから24年たったのだと二人で手帳を見比べる。
引き続きはじまった二人の想い出話は、会談の意味が二人には分かっていたからだろうが、こちとら一体何が始まるの???ただ構えるのみ
いや、二人の記憶のすごい事、大会社の首脳になるには、これ程つまらぬ事も全部頭の中に残っているのだと、マジ感心して、記憶力の弱さに劣等感か、ボケ状態か疑ってしまったり、、、。

思えば、25年前、jsに業務引継ぎを行った場所が、六本木アマンド、翌年田舎まわりから赴任したJTの歓迎会をしたのが、24年前という事だった。間違いなく、彼等に都会のバブルをご教授したのは、今や零細企業のしがない経営者Jtであった。(しかし、何度かこの地でその後も飲んでるぞー何でまた??

ならば、「お陰で無事勤め上げました。そのスタートがこの六本木,ありがとう」が、会合の趣旨であり、場所が此処でなくてはならないのだが、とても「そんな玉」の二人であるはずも無いし???

せいぜい、「零細企業は大変かい?」と冷やかし半分なら承知しないぞ!
結局その意味不明な会合は、三人の出会いは24年前の六本木だった事だけは紛れも無い事実であり、その結果が今日の大合併を作った事だけは間違いない事実であると納得して、互いに確認させてもらったのみ!
(別に大きな意味は無し!)

唯一新たな会話で確認できた事実は、その10年後のゴルフ会談で「将来の社長はJT,副社長はJt,僕は専務でいいよ」と言って、納得した時間(瞬間)が確かに
あったこ???
その五年後にJTが大社長、Jtは我侭退職、翌年JSは大専務となったんだった。

そしてまた10年を経て、今日の六本木。
初めて、実体的割り勘負けの現実を味わいつつ、この25年重ねた飲み会と取られた握りの大きさに、大きな溜息とともに我が人生を振り替える。
酒が飲めないハンデイは、サラリーマンには致命傷だったのかも、、、と!
(この行はきっと三人以外は意味不明かも)

あっという間に、最悪の瞬間がやって来る。そう言えばその後も何度かあった気がする。黒塗りの車が近づく瞬間だ。(
(そういやーやっぱり最近避けていた訳だった。)

「今日は、経費でタクシーを奮発するぞー俺だって社長さんだ…」

あれから25年、退職して、はや7年。
勿論、後悔など微塵も無いし、一人で歩き出したこの7年の充実感は、黒塗りの車に負けるものでは決してない。(断じてない、いやないはずだ!)

初めての起業が、やっとスタートする。
たとえ大失敗になったとしても、それが自分らしい生き方だった。

多少感傷的になったのは、やっぱりあの素晴らしい会社が消滅する瞬間が交錯するからだろう!

「また、三人でゴルフを始めよう」が、今夜の結論となったけど、別段こちら
から中断した訳でも無し、「喜んで幹事をひきうけますよ」とお返ししておきました。

でもこのブログの本音には、どこかに引っ掛かりが見えるよね?
なぜかは知らねど、、、でも副社長のポストよりは今の自分が有っているよ!中小企業のおっさんが、似合いどころと自分で自分を評価できるから、、、。

10月 9, 2010   2 Comments

福岡でのシンポジウム報告

第一部のテーマ
「経済に君臨し、支配する「資本主義」の誕生と、それが超えられていく方向について」
第二部は「世界経済のサンアル、「喜悲離場」を提案する」

何とも難しすぎるテーマのこのシンポジウムを聴く人達は、福岡の生協事業連の幹部の皆さん方、出席者の七割が女性である。

第二部は、実は韓国の詩人「金芝河」さんの特別講演であった。残念ながら、御本人は欠席となったが、このシンポジウムに向けた書き下ろし原稿とその解説付きという試行は、かえって氏の持つ言葉の力を伝えるものとなったかもしれない。
(一部は、このシンポを主催する生協の創設者「行岡良治」氏)

この二つのテーマが、不思議に主催団体とコラボしていく様が、失礼ながら真に面白い。二つのテーマが活字となって既にテーブルにセットされており、読者の感想までが、しつらえてられているから、難しいテーマも読み替えしが可能である。

要は、これから進むべき経済の理想を二人が、希望的に予測し、予告していく事で、生協としての今日的在り方を示すものと理解したが、果たしてこの哲学
的表現と詩的表現の衝突がコラボする演出は、予期されたものであったのかどうか??

きっと急遽主演不能となった金芝河氏の天才的演出原稿とそれをたんたんと読み切る素人「語り部」の努力の故、起こった偶然なのであろう。

前日の寝不足にもかかわらず、私にとっては退屈させない4時間であった。

金芝河氏のいう「喜悲離場」とはこれからの市場は、アメ横(市場)への回帰であり、行岡氏は、それが人類の発展の中で、資本主義の超えるべき次の経済市場も、その(喜悲離場)中にこそ存在するのだと難しい表現を勝手解釈して、帳尻合わせをして納得ているのだが、、、。

市場経済と資本を容認し、その再配分を悲喜交々の中に容認する金と心のバランス経済こそ、次の本物の社会経済体制であべきだと二人は同意したのではなかろうか?

さもなくば、行岡氏の講演原稿を読んだ金氏が、極めてその哲学論に独自の指摘表現で、講演原稿を書き下ろされたのであろう?

会場の聴き手の理解は、それぞれであったろうが、その難しすぎるテーマにもかかわらず、納得の表情がとても面白かった。

10月 8, 2010   No Comments