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Posts from — 5月 2011

原発事故と現場主義

長兄から、福島原発の現場技術者で1997年に亡くなられた平井憲夫氏の「私は原発反対運動家ではありません」の論文が郵送されてきた。

本ブログでも紹介されてはいるが、今一度原発現場の悲惨さと国家と東京電力の無責任体制について、15年も前の氏の訴えを引用しながら、神童さんの怒りに続けてみたい。

原発事故は、地震が避けられない天災であるものと同様に、必ず発生するものである、と彼は教えてくれている。

私は、地震が地球の自然破壊の怒りであり、受け容れざるを得ないものに対峙して、原発は人間が地球や自然を確実に滅ぼすものとして、決して許されない工作物である事に気付くべきであると考えている。

原発容認派は、テレビで「交通事故で年間一万人死んでいるから、車社会をやめろと言えますか」と宣う。
その通り!それなら車社会もやめましょう。同じ次元で原発を語る無知識であれば、貴方は今すぐ福島原発の中に入って、その真っ只中で事故処理に当たるべきだろう。

仮に現場作業員という「弱者」の失敗が、事故を起こしたとしてもそれは、絶対に国家の責任であり、原発を容認してきた全国民の責任でしかない。
起こってしまった事故を収める手立てを持たず、次世代、次次世代にそのツケを回すしか答えのない最悪の「兵器」が原発である事、
私達は日本人として「広島」で体験している唯一の市民である。

東電の自己保身、隠蔽体質と現場尻尾切りが、東電松本所長の現場責任の英断で偶然にも露呈して大騒ぎだが、全く無意味な論議でしかない。原子力村の現実は、日本の日常の現実であり、なんら驚くことではない。

これまで、多くの原発開発に無数の技術者、労働者、学者が関わってきたであろうか。原発の危険性は現場に近いほど、素人の作業員ほどその理解度は深いはずだ。
松本所長の英断も残念ながら罪である。
その下に働く作業員が未だ存在する以上、その危険性を東電に、国家に訴えなければ、、、。「とても、現場作業員では、事故解決などできませんよ。東京本社の社長、技術者、テレビで喋る学者、皆で現場に入って、状況確認を手伝って下さい」と訴えなければ・・・。

松本氏は、おそらく決死の覚悟が出来ている!
組織を出た方がいいから、首になった方がいい!
そして、国家の最高責任者として、現地対策本部を全権委任で再構築する。
これだけの大事故の最高権限本部が現地に無く、東電が悪い、保安委員会がだめだと書いているマスコミも最低!!!

現場技能士の15年前の訴えが、原発事故対策の全てであり、ここには、利害も、理論も、左右も何もない。彼の論文の最後のみ、再び転載しておきたい。

だから、私はお願いしたい。
朝、必ず自分のお子さんの顔やお孫さんの顔をしっかりとみて欲しいと。果たしてこのまま日本だけが原子力発電所をどんどん造って大丈夫なのかどうか、事故だけで無く地震で壊れる心配もあって、このままでは本当に取り返しのつかない事が起きてしまうと。これをどうしても知って欲しいのです。

ですから、私はこれ以上原発を増やしてはいけない、原発の増設は絶対に反対だという信念でやっています。
そして稼働している原発も、着実に止めなければならないと思っています。原発がある限り、世界に本当のへいわはこないのですから。

優しい地球   残そう子供達に!

5月 28, 2011   13 Comments

我が政治的原点と福島原発(2)

1970年4月1日、新卒で潜り込めるギリギリの上場会社の入社式に夜行バスで向かいました。
勿論、新幹線は開通していましたが、利用出来ない自分が(なぜか?)まだそこにいました。

「東京駅温泉」で、身支度をする中、ふと見た新聞で赤軍と名乗る集団の日航機乗っ取り事件を知りました。一つの割り切りが出来たと思った瞬間、その赤軍派の一人の名前に目が留まり、額然とした記憶が鮮明に残っています。

高校時代に、同じグラウンドでボールの形こそ違え、青春を共にしたA君の名前がそこにあります。文武両道の道を行く彼は、当時の密かなライバルとしていつも存在していましたがが、むしろ彼は生真面目なエリートの道を歩むだろうと思いながらその後の消息は全く知りませんでした。同姓同名を考えたのですが、どう見ても間違いありません。

その後の入社式以降の記憶が全く残っていません。
気がつけば、ことごとく新入社員研修に楯突く、不良サラリーマンが、出来上がっていたのです。新入社員は、バブル期で100人もいました。
今考えれば、驚くばかりですが、その半数程度はどちらかといえばノンポリ左派に分類される各大学での全共闘世代というそんな時代でした。学生気分が抜けない中での合宿生活だから、そんな内なる新入社員の状況も理解出来たのでしょう。
ちなみにその会社の社長になった同期入社のT君は、当時から頭一つ抜けた理論化であったと思いますが、だれもそんな当時の複雑な心境などは気付かなかったでしょう。彼も勿論すでに現役を終えて、どこかで、この原発問題にどう対処するべきか迷っているかも知れません。(残念ながら、私はその年の暮れにその会社を退職してしまいました???)

大阪万博は大成功、70年安保闘争は全く成立せず、民主化は一気に進み、立派なこの年の社会人一年生団塊一期生は、企業戦士に変貌して行きます。
一方沢山の就職脱落組も排出されました。レッドパージは、極左暴力集団として先鋭化され隔離、追い込みが徹底され、誰もが異常な集団として認めざるを得なくなったのですが、その余波の中、静かに各地で暮らして行く優秀な人材も沢山いました。

多くの元全共闘を名乗った元学生が、その後も反安保、反核、反原発運動を今日まで続けて来ている現実もいあるはずです。極めて少数派として・・・。
極左との精神的戦いに苦悩しながら!
かたや広島、長崎の原爆体験国日本は、非核三原則を形式的国是として、一方で原発による資源確保を片手にして、経済発展を遂げて来ました。

確かに、この恩恵を背景に団塊世代は一方の原動力として、多くな役割を企業戦士と化して身を粉にして頑張って来た訳です。食い逃げ世代、甘えん坊世代と言われつつ、まさに戦争の真っ只中を政治的ノンポリシーを決め込んで一心不乱に走り続けて来たのでした。

今、福島原発の想定外???の事故が発生してしまいました。それが毒饅頭であろうが、みんなで食べて来たのだから、今さら反原発とは言いにくい。
せめて脱原発にしておこう。
これが管総理の浜岡ストップ宣言のようです。
彼も団塊世代の市民派出身総理です。東京都知事の石原さんは、原発推進を今日もはっきり述べていました。彼は圧倒的支持で、この大震災の間に選ばれた大知事さんです。このサイトのゲストブロガーでもある猪瀬副知事は、どうでしょうか?かれも団塊世代のオピニオンリーダーの一人です。政治家として、明確に意思表明をしなければなりません。

広島、長崎、終戦、60年安保、団塊世代、70年安保、70年万博と大量企業戦士、原発推進、日本経済大爆発、バブル崩壊、団塊リタイア、福島原発と続きました。
佐世保にエンタプライズが入るといって実力阻止を叫んだ世代が、非核3原則の神話と経済発展の生活優先をミックスさせ、いつしか原発推進を無視し、反原発さえ言えなくなって行く過程の中・・・

この間に大きな隠された国策が存在しなかったか?
日航機が北に渡った事で、反原発勢力まで全てを連合赤軍に押し込んで圧殺して行くシナリオが、大阪万博から始まっていたとしたら、東電が世界に冠たる核保有企業として、国家の上に立つ事位は十分に可能な選択(戦略)であるかもしれません。

国が核を持たない宣言の誤謬的まやかしが、その隠れ蓑として民間に負わせる目眩ましとなっていれば当然菅総理とて、民主党とてその外にしか存在出来ないかもしれません。
この国家戦略こそが、自民党の長期戦略であったとしたら、今民主党が政権を保有する事さえ、大胆なる自民党の国家戦略かも?・・・
いやもし、戦後一貫してアメリカの統治戦略に踊らされているとすれば、もう日本の再生は不可能な敗戦が・決定した事態なのかもしれません。
(アメリカは、確かメルトダウンを即日事実通り理解し、影響圏を80kmとした。その先兵のGS社は、即日東京撤退の準備に入っていたといいます。)

最後に、その本当の危機は処理済み燃料棒の存在に有り、危うく難は逃れたが、その再処理の道が全く無い途轍もない怪物人工燃料が、大量に放置されたままである事が露見し、その一方で再処理工場の全く先の見えない研究は続いているのだから驚きです。

この再処理工場反対運動だけは、昔から今現在まで地道に続けられており、その結果として想定内の地球的危機を含んでいる運動がある事に敬意を評するのみです。
この運動が、現在(事故前までの)唯一の反原発世論であり、大きく原発推進を抑止していると考えれば、団塊世代は・少なくとも個々の意見としてその歴史的立場と意思を明確にする責任は、最低限でも行われるべきではないでしょうか?

勇気を持って、反原発を宣言したい。
ただ、ただ、単純に広島、長崎を反核をその原点として・・・。

5月 22, 2011   No Comments

我が政治的原点と原発(1)

緊急提言として、明確な原発問題へのメッセージを書くことにしました。ツイッターやブログにおいて、世代的問題意識を散見する中で、意思を明確にする責任世代の一人として、問題意識世代的経緯を踏まえながら・・・

これまでにも、書いた独り言の繰り返しながら、あえて今再びつぶやいてみます。
大学一年の夏、クラブ(放送部)の先輩の指令で訪れた「広島原爆記念式典と原爆ドーム」が、私の政治的原点になります。
高校までの単純野球少年にとっては、その旅の全てが謎となり、大人としての登竜門としての学生生活の始まりとなりました。
何故、原水協と原水禁がそれぞれ原爆ドームを原点としながらも対峙してこの広島の地で、睨み合いをしながら世界に訴えようとしているのか?
当時、社共は原爆記念日をその象徴的主張の場として、政治的セレモニーとして最大注力していました。

一方原爆記念館の主張するものは、人間の根源を問うものとして強烈なインパクトで、人間の成す悲惨さを私に訴えているようにおもえました。
原爆を投下したアメリカは高校時代に受験勉強からの逃避行を考えた要因のベストセラー「なんでもみてやろう」の小田実の作ったアメリカ的世界を一気に覆してしまったのでした。
社共の違いは帰ってきて直ぐに理解ができました。但しそれを学んだ側が、学内の政治バランスの中にあったからであり、そのバランス(多数)が結果は逆であったら違っていたのかもしれません。(今もその自然選択の流れに後悔はありませんが・・・)

学内では、学費値上げ反対からベトナム戦争反対へと純粋無垢で暇を持て余す学生なら、自然に問題意識を突きつけられるテーマが目白押しでした。当時のベ平連は前述の小田実ブームも手伝って一般学生を大きく刺激したものです。しかし自らのテーマは常に人間であり、アメリカであり、真珠湾を攻撃した日本軍を構成する人間の為せる技の裏側を探るものでした。

マルクスも毛沢東もとても歯が立たなかったのです。これも基礎能力不足が幸いしたのでしょうか?せめて高橋和巳であり、背伸びしても吉本隆明までが、限界点と悟りました。

反社共、反セクトの逃げ場としてファッションの様にノンセクトラジカルという得体のしれない人間不信組、反米帝(国主義)、反日帝の塊が出来上がって行きつつありました。
団塊世代の量は、一定の力となって数を構成できる要素を持っていました。全国で起こる全学連政治活動もやがて全共闘運動という大衆運動に変貌させられて行きます。その主役は明らかにノンセクト一般学生であり、ノンポリ(シー)であり、ベ平連が主役であったと思います。
全国の大学がこぞって、大衆団交という名の象牙の塔を吊るし上げる集会に正義を感じる時代を作ってしまいました。大学自治を政治的入門の為の権力との壁として認められていた時代でした。

街に出てベトナム戦争反対を唱え、機動隊に蹴り上げられるとその矛先は、日米安保に向かい、米帝原潜寄港絶対阻止に向かいます。佐世保がその象徴となり、巨大な空母エンタプライズの寄港阻止は、大衆運動として実力行使を徐々に是認して行きました。
故にこの頃の大半の学生は、あらゆる核と原子力に反対であったはずなのです。大学生の狭い社会とはいえ、間違いなく大衆運動として成立するべく、過半以上の支持があったでしょう?

砂川から三里塚、羽田、成田と反基地運動から農民大衆運動にまで広げて行く過程の中で、各政治的セクトの先陣争いとして一人でも多くの学生大衆を巻き込む政治的手段となっていきました。
これらの過程で、当然ノンセクトは、そのラジカルさの限界を悟る事になり、大衆運動としての限界が露出し、ノンセクト大衆運動や全共闘運動も終焉を迎えようとしていました。

分裂を重ねるプロ集団とその数の多さの中で巻き込まれて行く無党派ラジカルも相対的には増えて行きます。この流れの中で、大衆運動は労働運動とともに完全に崩壊して行きます。この間に出来上がったプロ集団は大衆運動から切り離される中で止む無く、極左暴力集団として自他共にパージされて行きました。ある意味では防衛的に、縮小分裂の中で否定するべき暴力が、防衛という名のゲバ棒を組織防衛のみの自己正当化の理論武装に先鋭化させて行ったのです。

大学の自治は、同時に一律的に機動隊の導入によって、一般学生を切り離すとともに大衆運動とも決別させ、武装対決に持ち込む事によって暴力集団の烙印で区別する選択がなされたのでした。果たしてそれをして大学当局が選択した訳ではなかったはずです。確かにそこにはおおきな国家的戦略があったように思えてなりません。

1970年は、安保改定時期であり、同時に日本万博がセットされることでの日本の進路が明確に決定付られる年でした。そして何よりも団塊世代の象徴であり、全共闘世代の一期生が大学を出て社会人になる年でもあった訳です。
一連の政治的動静が大きく変化する時代背景の中で、この世代が大衆運動の先兵として社会に出て行くか、日本経済の原動力としての働き蜂にするかによって、日本経済の動向は全く違ったものになる可能性がありました。そして見事
に70年安保は、60年安保の学生運動を量的に凌駕しながらも、雲散霧消して、影も形もなく終息してしまっていたのです。

果たして、極左暴力集団として、完全にレッドパージで追い込む事で、一般大衆との切り離しが、ときの国家戦略の中になかったと言いきれるでしょうか?

5月 21, 2011   No Comments

「徒然草マネージメント」は活きている!?

徒然草マネージメントは活きている!?

「現役時代の最後に実行したあの「徒然草マネージメント」が、7年経った今も広がっていますよ!」と嬉しい便りを頂きました。
正確には「外前早」マネージメント!
つれづれ草をトゼンソウと読んだませた赤面の幼い頃を自重の意味を込めて思い出しつつ名付けたものでした。

時の新社長が創ったスローガン「外へ、前へ、早く」は、自らの仕事の全ての価値判断として常に心中の行動指針として取り入れて成功してきたと信じていたのでしょう?
地域営業の最高責任者に就任させて頂いて、とにかくやりたかった事は、当然それまでの営業でやりたくないこと、無駄だと思うことをやらないで良いマネージメントでした。(その我儘ができる地位を得たのです)

頻繁な会議、無駄な「合わせ」の作文報告書、営業の世界と言いながら、困れば何故か増える会議と報告書が業界のマネージメントの常道だったと思います。間接営業の弊害だと思っていました。
上司の自己満足と数字合わせ、役員会への言い訳の聴取でしかないと考えていました。
先輩本部長の皆さんは大きな鞄に何でも答えられる様に書類を詰め込んで、本社へ出かけて行くように見えていたのです。

営業は外にしか答えは無い!、営業は結果であり数字が出れば理由など要らない。経過など頭の中でいつでも説明できる・・・。
生意気で鼻持ちならない最悪の部下だったでしょうか?「よいしょ」はなくとも、真面目に頑張れば昇進できる良い会社だったのです。

地域営業とは言え、部下の数は100人を超えてしまいます。顔と名前すら一致しない、会議でも頻繁にやらなければ、現場は解らない。
一方報告書など全部しっかり目を通すなど不可能じゃん!

こんな思いで、考えたのが、「外前早マネージメント」でした。

「とにかく、外へ、前へ、早くで成功したと思う場合は、報告してほしい。部支店長は、コメントを付けて採点してから、廻して下さい。全てに感想を付けて公開させてもらいます。」

普通は、部下にとっては又新たな報告が増える事になります。
「当営業本部においては、これ以外の一切の報告書の提出は、禁止とします。営業会議は、この報告書の検討会以外には、原則有りません。」
本社からみれば、(今思えば)異常なマネージメントで許せないかもしれません

「外へ、前へ、早く」をスローガンに終わらせず、実践してもらう為にできる事は、これしか有りません。
勿論、すべての報告書にコメントを書いて、そのコメントに自らの主観で評点を付けて全社員に公開しました。(往々にして、部支店長の評点とは大きな食い違いが出てしまいます)
ほぼ半数は、苦言であったように記憶しています。「報告に値せず」も随分有りました。
評点の累計はほぼストレートに人事効果に反映させることとしました。数で勝負が見えると厳しく指摘し、地味な報告(営業成果に繋がらないような)ほど褒め上げるように意図していました。
縁の下の力持ちを理解させたかったのです。営業は苦手でも守りは完璧な営業担当者も沢山いるのです。

当然役員会には常に手ぶらで行きました。(いや、小さめの鞄は持って行きました!ほど本社が作成した資料をいただけるので持って帰らなければ失礼です!)
おそらく、40人も居る役員さんの誰も気づかなかったでしょう。(鞄が空っぽだった事は・・・)
大きな鞄は、あまり役立たないように見えましたがどうでしょうか?だって40人もいて、意見を述べる最も多い回数は、常に一番だったと思いますから・・

尊敬する社長に「反対です」と率先して、言い張りましたっけ!
最も賛成していたからこその自信を梃子にして・・・
なにしろ、我が本部の価値観は、社長が決めた「外へ、前へ、早く」が全てなのですから、誰よりも盲目的な社長方針で進んでいるはずです。
(勿論、今でもその社長はこんな事は知らないでしょう。)

在任期間中(3年)この方針は貫きましたよ。
十分にその成果もマネージも成功している自負心は有りましたから・・・
勿論余計なパフォーマンスも不要と思っていました。

3年は、一つの評価するべき時期でした。
果たして、本部の判定は罰となりました。「つれづれぐさ・マネージメント」は失敗との判断が下ったのでした。
時あたかも社長交代が発表となり、盟友の我が仲間が、めでたく社長になります。「心からおめでとう!、そして「外前早マネージメントよさようなら」との退職は、当然の帰結です。不思議でも何でもないでしょう??

「外でもう一度始めてみよう・自分の足で歩いてみよう」
「外へ、前へ、早く」を新会長に退職金と共に頂く了承を得て、マイカンパニーの社是とさせて頂きました・・・。

そのマネージメントが、全国でうごめいていると聞こえてきました。名前はもちろん変わっているようですが・・・。
考えれば、当時の部下達が本部長に、支店長に、支社長になっています。
伝説で見知らぬマネージャーも使用しているとの事で、誰も我がブログなど見ない事を前提に今だから、お話ししておきましょう。

一つは、失敗マネージメントとされた事、(結果が全てではなく、グラフが全てですが、正解だったようです)
今一つは、すべての報告書を集約しなければ、外へ行く時間が少なくなる報告書が一つ増えるだけですよ、くれぐれもご注意のほど・・・

あれから7年、
やはり、本社が振らないマネージメントが増殖する事態は、異常かも?
本物であれば、使い方を間違わないで欲しいと見知らぬ可愛い後輩達に、誰かが伝えてもらいたいものです。

敗軍の将は、この「兵法」の極意を語った事は無いのですから、間違うと毒に当たるかもしれませんので、急に気になってしまいました。

5月 12, 2011   No Comments

映画「阪急電車」

昨晩「阪急電車」見てきました!
一気に青春時代へ・・・あれから40年が嘘のよう、走馬灯の如くとはこの事?

神戸で28年、東京で35年、阪急電車は4年間・・・
「野球は阪神、電車は阪急、うどんは大阪」が、東京へ出て西武線で通勤し出したあの頃の口癖(独り言)でした。
阪急今津線の西宮北口から宝塚には、映画と同様に全ての駅に我が青春の思い出が有ります。
でも映画は、どこの駅でも5つほどあれば良かった?
いや、関学と宝塚は絶対に必要だった?
でも関学があんなに難関だったっけ?(滑り止めと絶対に狙いが混在した?)
いや確かに絵になるし、ロマンがある!
宮本信子お婆ちゃん、メッチャ格好いい!(孫の演技も秀逸)
全く個人的に言えば、我が青春の門を映画化してくれたと錯覚するほどの現実感と独占欲・・・。主人公にも脚本家にもなり切れる映画でした。

ところで、阪急今津線は西宮北口から今津まで続きます。
そして今津は阪神電車沿線に繋がるのですが、映画には一切出て来ません。
なぜあの大阪の「おばちゃん達」を今津から出発させなかったのか?
一気に映画の雰囲気が変わってしまったでしょうが?(デフォルメがきつすぎる?は、おばさま方の声であり、真実に近い!)

西宮北口を過ぎると宝塚までは、学園風致地区!
そこには映画館もパチンコ屋もラブホテルも有りません。麻雀屋も・・・。
何故か無いはずの麻雀屋に入り浸りでした。
第六別館と称される数十軒の「民家」での閑静な佇まい潜り経営が、KG麻雀とKGボーイを育てたのです。あれは、大学の直経営だったのでしょうか???
先日亡くなった「沖山秀子」(神々の深き欲望)も常連でマドンナでした!

今津!我が「梁山泊」がそこに有りました。多い時には10人もたむろする一軒家は、だれが家賃を払っていたのでしょうか?
24時間、麻雀の場が立っていました。
そこからバイトへ、映画へ、たまには大学へ・・・。
一転して今津は労働者の街でした。
KGボーイに映画に無い強さがあるとしたら、映画は今津まで延長して始めて「阪急電車」と言えたのですが・・・。
阪神甲子園と阪急芦屋に続く西宮地域は、やはり独特の街かもしれません。
(いつか「今津ものがたり」を描いてみよう?)

極めてニッチな興味であっても、周辺住民とKGOB、OGは見逃さない興行性を秘めているのでしょう。
この地に無関係の人によるこの映画批評が、すごく楽しみです。
是非どなたか、チャレンジを!

5月 4, 2011   2 Comments

続保険自由化への道(序)

どこまで書くか、どこまで書けるか、どこまで書いて来たか等々、色々想いながらシンドウ編集長が了とした反発?に基づき続編とはおこがましいと自覚しつつ(いつの日か神童論共々まとめてもらえればと期待しつつ・・・)書き出してしまう。
「保険自由化の道は半ばにも至らず」が、続編とする動機としておこう。むしろ著についたばかりであり、金融自由化の中でも最も遅れる分野として「保険自由化」を実践的してにおいて捉えている。本来金融自由化の一環であった保険自由化は、合従連衡の同業合併によって、「最後の抵抗」を終えようとしている時期にある。

それは、今回の震災で電力各社(11社?)の強固な立場が露呈した事とも似通っているかもしれない。もちろんこれを全面否定するものでもないが、自由化の流れとは全く異質の国家的護送船団方針の堅持が始まっていると捉えるべきであろう。

奇しくも、昨日損保各社は震災関連と称して一斉に減益決算予測を発表した。損保協会は、十分な準備金を保有しており、何ら決算に影響を与えないとの予想をすでに発表していたのに、である。本来は協会発表が正しいはずだ!

便乗的決算予測変更ではないか?
地震保険には未だ多くの欠点があり、業界としては十分に保険対応ができない現実がある。基本的に天災は常に免責が、損保事業の基本でもある。今回のような膨大な国家的損害においては、本来損保業界は上げて保険約款対応を超えて、支援体制を取るべき事態でも有るはずだが、各社とも本業においてすら大混乱の途上にあり、それどころではないだろう。もちろんこれ(約款)以上の支払いを求められたらたまったものではない。

一転して、各社は震災影響での減益を発表しても、信用失墜や信用不安の解除されるであろうタイミングを見越して決算予測を変更する方針を選び、各社同時に発表する事にしたのではないか?
業界公式発表と各社別同時発表が違うのであるから、そう疑われても致し方無しである。そして損保決算は、如何にも自由に調整が可能な事項を保持している現実も指摘しておきたい。いわゆる準備金をどう処理するかによって、その時の決算を「横にらみ」しつつ操れるとすれば、それは自由化途上とは決して言えないとする所以ではないだろうか?

金融自由化の虚実と合わせながら、できればその問題点がどこにあるか迄、私見を纏めていければと考えて、序章としたい。
このマニアックな独断と偏見が、読物として耐えられるとは思わない事を断って置きたい。そして常に「了」となる可能性についてもお断りしておきたい。

5月 3, 2011   No Comments