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Posts from — 11月 2017

(4) 安保、非核3原則、原発

日米安保条約が諸悪の根源である事については本来左右両陣営において一致するべき点で無ければなりません。
日本の完全独立の為の「一丁目一番地」が米国の「核の傘」を認める事ではないはずです。
「日米安保」有りきがいつの間にやら知識人の常識と成ってしまった感があります。
(憲法違反の軍事条約である事が明らかであるにも関わらず、日米同盟が、日本の発展の基軸であるとの見解において…)
しかしそれは「経済優先の日本」が踏んでしまった地雷であり、「非核3原則」という言葉が、(まやかしとして造られた)戯言でしか無い事も立証されてしまいました。
それは米国経済の尖兵となる事でもたらされました。日米同盟を外交の基軸と考えるのが常識という状況は一体どこからくるのでしょうか?

経済的繁栄が全てに優先する「資本主義」時代が長く続き、その結果「新自由主義」という妖怪が大手を振って闊歩し始めてています。その中で失われて行く日本の伝統や文化の価値に気付き、やがて次の時代には必ずそのしっぺ返しが訪れてしまう事ががはっきりと見えてきています。
(米国はアジアでの利権を維持する為にこそ日本における米軍基地が必要なのであって、米軍基地が日本の防衛に欠かせないというのは詭弁に過ぎません。むしろ米軍基地の存在は日本が戦争に巻き込まれる可能性を増大させている事に思いをいたすべきです。

果たして、朝鮮特需が無く日米同盟が無かった日本はどうだったのでしょう。
日本経済の急速な発展はやがて「バブル」となり、経済的に米国の背中を見てしまった(世界第2位の経済大国)日本経済は1985年のプラザ合意以降)完膚無きまでに打ちのめされました。
失われた20年はやがて30年になろうとしています。この間の世界経済は中国やインド、ベトナム、そしてロシアに至るまで緩やかに発展を続け、米国の失敗のツケすら日本が負う状況が現在を形作っています。(米国は経済の行き詰まりの際には、属国への付け回しと「やむ無しの戦争」でこれからも辛うじて生き延びて行くでしょう)

日本経済の急速なる成長は団塊世代の企業戦士化とともに増える労働人口(生産力)の急拡大もその背景にありました。もし、朝鮮戦争特需や日米同盟が無くとも緩やかなる経済成長は日本国民の勤勉性で今日では十分に追いつき追い越していたのでは無いでしょうか?
(バブル絶頂期に米国のマンハッタンを買い占め、ラスベガスの賭博場を独占する日本人の爆買いを研修という名の元に垣間見る貴重な経験が頭をよぎります。虎の尾を踏んだのでは無いか…と半信半疑で1カ月程度の研修で(バブル絶頂期とも気付かないまま)帰国したのは25年も前のことになります)

日米同盟が無かりせば、自衛隊は警察予備軍を強化発展させた本来の(憲法で認める範囲内での)自衛隊の完成が適っていたのかもしれません。無論、現行憲法でも専守防衛を禁止する…とうたっていませんし、国民を守る為の警察予備隊の発展は(やがて自衛隊となり)経済の発展とともに必要不可欠であったと信じます。
特に大災害等における自衛隊の活躍と必要性は立証済みであり、真に国民(国では無い)を守り、治安維持に努める「一定の」武力の保持(戦力では無い)は必要です。しかしそれはどこまでいっても軍隊では無く、他国を威嚇するような武力になる事は立憲民主主義憲法を有する我が国では起こり得ない筈だったのです。

軍隊を有すると言う覚悟をする為には、もちろん先に憲法改正が無ければあり得ないのです。(立憲主義を標榜するならば…)
しかるに米国依存と共に既に明らかに他国を威嚇するだけの武力が日本には存在してしまっており、非核3原則を嘯きながら「核の傘」に寄りかかり、挙句に集団的自衛権という他国への脅威と戦争への加担までをも「自衛力」という名で可能な事態に至っています。

立ち止まってもう一度、考えて見ましょう。
敗戦後の日本国(憲法)は先ず中立国である事を前提に出来上がっており、当然ながら個別国との(軍事)同盟は憲法に背いた存在です。日米安保の成立で憲法は明確にいがめられたまま今日に至っております。
戦力保持をしないから米国の戦力(核の傘含む)を借りるような予期は日本国憲法には有りません。
先ずは憲法を護るとするならば、この日米安保を見直す所へ論議を戻す事から始めるしかないのです。その上で自衛隊の存在とその後の過程で成立した違憲立法の数々を検証し、改定が必要かどうかを考えるのが事の本筋であり、それこそが立憲主義の基本であるはずです。

既成事実を積み上げ、安保や自衛隊を合憲、違憲と論議する事こそナンセンスなのです。
憲法を無視した明らかな違憲立法や条約を解釈改憲とする事自体が間違いです。
現状の安保が果たして合憲かどうか?自衛隊のどこまでが合憲であり、違憲な部分はどこにあるのか?
どんなに解釈の幅を広げても違憲であるものがあるとするならば 、先ずそこを炙り出して、もう一度自衛隊を考えてみる事が大事です。違憲立法を放置したままの既成事実の積み上げでの憲法論議はどこまでいっても立憲民主主義に反するものです。
(今回のわがまま解散ももちろん違憲(憲法7条には総理大臣の専権事項としての解散権など記されていない)ですし、その意味では違憲解散が行われるからそれを止める為という憲法改定を論じる枝野さんの論も可笑しいのですが…既に既成事実の我儘解散は忘れ去られています)

安保問題です。
まず、戦力という面では、今や核装備が必須戦力である事は(北の要求を見ても)世界常識としても明らかです。戦争戦力と核装備は不可分な時代に世界は変わってしまいました。
一方で非核3原則は米国にとっても誠に(経済的に)都合の良い政策です。核防衛の為で有ればどんなに高額であっても日本は受け入れる事になる。
しかし流石の米国も日本の核装備だけは許さない…
矛盾による米国策…
日本が米国の属国である事を裏切る可能性を否定できないからです。核の傘という「亡霊」を置き「核は持ち込まない。但し米軍艦隊、基地を除く」という戦略上の便法はアメリカにとっては最高の軍事方針であり、米国の経済優先の最大戦略と合致するものでもあります。

日本は十分に核兵器を保有する能力を有しています。
にも関わらず「核を持たない軍備」でなければ、米国を含めて世界の世論は(未だに)それだけは認めないでしょう。(軍備又は軍隊であっても韓国、中国、ロシアさえ認めないでしょうが…)
軍備力を保有すると言っただけでも北朝鮮からの攻撃の可能性(リスク)は真に高まります。それはもちろん米国と共に攻め込まれるというトラウマ(イラクのフセイン)が「北」にあるからです。(朝鮮半島を領土化した歴史が日本には有ります)
拉致の理不尽を盾に北を仮想敵にする事のリスクこそが「本当の危険」ではないかと思います。
北の核の現実的ターゲットがあり得るとすればそれはグアムでもハワイでもなく、沖縄米軍基地になるでしょう。そのような選択は実は万一にも起こらないでしょうが、(リスク保有の)理論値のみで言えばそうなります。
(トランプの挑発に日本が間違っても加担しない事が最善のリスク軽減であるにも関わらず、安倍さんはトランプとの密約ができたかの如く急ぎ「国難解散」を強行し、北政策の日本での同意を取り付けたというのではないのかと危惧されます)

今からでも日米安保の破棄と「中立日本」を考える事は可能です。
本当に「核」を持たない決意なら中立が最も安全なる戦略であり、すべての国との平和条約を「日本国憲法」の宣言を盾にして唯一の防衛戦略とする道はあり得るのです。

核を持たないのなら原発も不要です。
日本の知的能力で戦争や原子力への経済投資を他産業に振り向ける事が(絶対比較による)安全性を高められると断言できます。
核保有のできない日本には、原発による核開発の道しかなく、それは米国の経済利益の追求にも必要不可欠で有り、現に原発技術は米国からもたらされたものでした。

日本は多少の経済の衰退があっても経済(金)よりも平和(人)を優先する国であるべきです。
経済については後ほどの章でもう一度触れたいと思いますのでここでは省きますが、核無し軍備と原発戦略は間違いなく米国を利し、あえて言えば日米の軍事産業と大手企業を利するのみで、その為のリスクを声高に叫ぶ政府は米国追随主義の独りよがりでしか無いと見抜くべきなのです。(米国に追随する2番手で良い経済大国戦略)

憲法論議とは少し離れますが原発問題について少し述べておきたいと思います。
今や「軍備やむ無し」の論議が盛んですが、攻めるも守るも今や核抜き軍備が何の意味もない事を北朝鮮が示してくれています。必ず憲法改正論者の主流はその現実に行き着かざるを得ないはずです。日本は世界のどの国も認めるように、もはやいつでも核武装が可能な国に成っています。
(米国他先の戦勝国は日本の核軍備だけは認めないでしょうが…日本という国の位置付けは戦後70年を経てもそんなものです)
その上で日本のできる事としての原発推進の果実を手に入れさせられました。
一方で「核・原発」は、日本株式会社という経済発展には欠かせないものとなっています。
電力、エネルギーは常に戦争の具にされる一番のもので有り、日本の原発推進技術の発端は米国の要請であった事も自明の理です。(経済利益での共通項)
原発推進と非核3原則は時の政権が矛盾を承知でセットでもたらしたものです。電力会社は日本経済の要であり、万一にも東京電力が先の福島事故で潰れるような事になれば(実質破綻なのにも関わらず、東電はビクともしないで威張った経営の最たる企業です。日本経済も一度壊滅せざるを得なかったはずです。東芝が潰れるのとはわけが違うのです。(電力株は日本の主要産業がほぼ有している主力金融商品でも有ります)

一方では原子力は未だに廃棄が不可能で有り、逆にそれ故に日本の原発だけは世界に網羅された損害保険システムでも引き受け手が有りません。
世界中でグローバルに大発展した「損害保険システム」で引き受けられないものは原発くらいでしょう。戦争保険よりリスクが高いものです。リスク算定不能という事です。
日本にはそれにもかかわらず、日本原子力プールという万一の対応をするという名目の組織が有ります。福島の事故でこの機構は全く機能できませんでした。
もちろん東電も、もっと言えば国でも実質の保証は不可能であったわけです。この機構は世界の保険会社に引き受け手がない事からの御守りとして国の要請で損害保険会社で作られた国策事業では有りますが、もちろん福島事故を保険事故として有責とすれば、この機構はおろか日本の保険会社も全て倒産の憂き目にあったでしょう。原発事故は実質免責となる様にしくまれているのですが…(何のための原子力保険機構で有る事か…)
さて原発が安いエネルギーだと言われていますが、無保険である事が立証されました。もしこのリスクを保険料に換算できればどの程度のコストが必要か?
実は当然ながら引き受け保険会社がないという事はリスクは現実に存在し、かつその補償額については無制限であるという事ですから、その保険料は半端なものでは有りません。実はその事によって、全ての国民が強制的に原発事故について保障させられており、それでもまかないきれない事もはっきりしたのです。
(原発安全神話は、その意味で作られたまさに神話であり、それが福島で示されてしまったのです…)
原発コストが安いなどという学者がいかにいい加減なものであるかが分かります。
保険にさえ入れない最も危険なエネルギーが核であり、核兵器の恐ろしさは間違いなく地球を滅ぼす威力を有してしまっています。北朝鮮が今回実験した核が広島に落ちた原爆の20倍程度だと言います。(原発というエネルギーは原爆と共に決して人類が作り、採用してはならないものです。日本での再利用計画も当然ながら破綻し、核処理すら出来ないまま、この地球上に放置されていきます。

(私は広島の原爆資料館を見た日から、戦争と米国の非情さを感じ、戦争の悲惨さに気付きました。当時は米国がベトナムで化学兵器の人体実験を行なっていた時期です。「北爆」という空からの無差別爆撃を繰り返していました。むしろ軍国的少年であった心情が一変し、日本の侵略戦争への道を歴史の中で学び、日本の戦争への必然性と人間の愚かしさにも気付きました。大きな犠牲によって得た日本国憲法の必然性と正当性も知り得たと思っています。同時に歴史を修正し、あの戦争さえ美化していく日本の風潮が垣間見える事を危惧するものです)

万一にも「北」が日本の米軍基地をターゲットとして日本の原発基地近くを攻撃したとすれば、それを守る為の軍備などあり得ないのです。 米国には「日本の真珠湾奇襲」がトラウマにありますから、その前の軍事作戦を取る可能性はあり得る話です。故に核武装や核の傘が有効であるなどという事ほど無謀な論議はあり得ません。
(核防衛という名目で莫大なる核抑止兵器を買わされる事になるでしょう)
圧力や威嚇で「北」を止められるものでもない事も日本の「真珠湾」から米国は学んで欲しいと心から思います。
そのような挑発に日本がその口車に乗る様な威嚇を行い、日米同盟による「新安保法制」の行使というような密約がない事を祈るのみです。

(今回の冒頭解散の裏側に安倍トランプ密約があるのでは…と咄嗟に考えたのですが、まさか幾ら何でも2年先の消費税の使い道を問う事を名目に使うなんて馬鹿げ過ぎて理由になるはずもありませんがそれを押し通して解散した裏側に何が有るのかを考えなければなりません。
そんな茶番的理由による解散であっても自民党の圧勝は予定通りの結果となりました。選挙で民意を得ているという一点で万一の場合の米国追随を強行突破して行くでしょう???)

要は憲法改定、安保、核、原発、軍は切っても切りきれない「岸、安倍」一族の妄想として一連のものだという理解が必要なのです。。。。

11月 21, 2017   No Comments

(3) 憲法9条と自衛隊

日本国憲法は敗戦国日本が、その後も独立国家として世界の承認を得て自律的宣言として世界に約束する宿命を有していました。
その約束の一つとしての「戦争放棄」と「戦争のない世界」を希求する事は絶対要件でもありました。そしてその役割は今なお変わるものでは無いはずです。事情はどうあれ「侵略戦争」を国の意志として行使した歴史的事実は曲げられませんし、その変更には戦後70年を経た今もなお、世界の了解と賛同が道義的にも必要なものだと思うのです。

戦力の保持は日本の歴史と民族的習性からも戒めるべきものと思うのは、自らに流れるDNAの中にも存在する事を認めざるを得ません。その血脈は右へ行こうが左へ向かおうが、または「人間の性」として存在するのかも知れません。
憲法において戦争権を放棄する事で唯一自制できるものであれば、率先してそれを行うしかないでしょう。(歴史的必然と理不尽とはいえ世界的要請でも有ったのでした)
日本が戦争のできる「普通の国」になれば、おそらくそれは核装備を含めた「最強の国」を目指す事に向かうはずです。日本国(民)が持つ「その英知」は戦後の驚くべき経済発展をみれば明らかです。

憲法9条は明らかに戦争権と共に軍備の保有を放棄する事をうたっています。
その上で国を守る術として、憲法は世界平和を希求し、日本はその為には外交努力のみでそれを達成する事を求めています。
平和外交と政治的中立をセットとして選択し、その意味での「永世中立国」を前提としたものです。しかし残念ながら日本はその発展の過程の中で、まずこの中立性を放棄してしまいました。
米国の占領政策と発展の為の経済優先方針から(止む無く)東西対立の中では西側に立つ事を選択したのです。明らかに1960年の日米安保条約の締結がはっきりした岐路であったと思います。

戦後の国民の政治的叫びが最大になったのもこの年でした。
「憲法違反である軍事同盟は許さない」と国会を取り囲んだ大衆の声は確かに国民の半数を超えていたでしょう。東大の学生であった「樺美智子さん」が国会前で圧死するという悲惨な事態を起こしながらも多くの国民が訴えたのでした。
岸内閣は確信犯として「憲法を無視して」条約締結をした後、退陣するという政治的選択をしたのです。(その孫である安倍首相が同様な執念を見せるのは偶然ではなく、祖父の違憲条約を合憲化する為の固い意志である事は明らかです)

この時、明らかな憲法違反が発生し日本は「中立性」を完全に失い「専守防衛権」の存在を憲法解釈で押し通し、結果として自衛隊の存在を軍備として承認、強化していったのです。その自衛隊は拡大の一途をたどり、日本は世界有数の軍事強国にもなっていますし、既に国際法条の権利として集団的自衛権の承認にまで踏み込んでしまいました。(違憲状態を修正せずして、自衛隊をなし崩し的に解釈改憲を繰り返し明確なる違憲の安保法制の改定にまで踏み込みました)

自衛隊は朝鮮戦争における米国の要請に基づき「警察予備隊」として発祥したものです。(米国が初めて自国の利益の為に最小軍備を承認してしまったのが「警察予備隊」という名称であり、意図としては順次の軍備拡大容認ではあったのですが…)それ故に今も自衛隊で有り、軍隊ではないし、当時は警察予備隊とせざるを得なかったのです。

警察予備隊を前提とした自衛隊を否定するものでは有りません。国内の治安維持及び大災害の救助には欠かせない存在でも有ります。
しかし憲法が戦争を放棄している以上戦争戦力である事は出来ないのです。それが憲法の原点である立憲主義というものであり、その立場で憲法論で言うなら筋としてはやはり憲法の改定以外にはあり得ない状況である事も事実ではあります。

憲法が専守防衛権を放棄しているものとはもちろん読めませんが、戦争を放棄している憲法である以上、その前提はどんな場合にも外交的中立性で戦争を抑止することが求められているのです。

日本は朝鮮戦争において、米国への兵站基地を沖縄(当時米国の占領下)と共に憲法に照らし合わすことなく提供する事になりました。そして警察予備隊は自衛隊に昇格し、日米安保条約の締結へと進んでいきます。同時に日本は戦争景気によって経済的復興を手にしていった事実と対米追随を明確にしてしまいました。

しかし、一連の日本の方針は明らかに軍事方針であり憲法違反です。
当時から日米安保条約は憲法違反であるのも関わらず軍事同盟ではないとの主張で条約は成立してしまったのです。朝鮮戦争における南北対立に加担し、その中立性は壊され日本は完全に西側に組み込まれていきます。今も日本は北朝鮮が仮想敵となり、ロシア、中国とも(軍事的)敵対的立場となっています。(仮想敵を置く事も明らかに憲法違反です)

北の脅威を国難と主張し、軍備拡張の具にしていますが、果たして一連の政治的選択が憲法違反でないと言えるでしょうか?
リスクは間違いなく高まっています。北が日本を攻める(侵略する)とは今もって思いませんが、リスクは米軍基地がある以上高くなっている事は認めざるを得ません。

朝鮮戦争は日本に莫大な経済的利益をもたらしました。
米国追随が日本経済の発展に大きく寄与した事も事実です。日本は発展を重ね、いつしか米国についでの経済大国になりました。(その恩恵を大きく受けた一人でも有ります)
しかし国民が経済、金が全ての価値尺度になる事を希望していたとはとても思えません。日本の歴史、文化でもなかった貨幣的価値観が生まれ、いつしか日本は米国の属国としてあらゆる要求に「NO」と言えなくなってしまっています。

何処でどう間違ったのでしょうか?
自衛隊を完全なる違憲状態にしたものは何だったのでしょうか?自衛隊の現状と今般の安保法制は明らかに違憲状態です。しかし、一方で憲法の許す範囲は何処まであり得るのでしょうか?
日本は立憲民主国であるという考え方は未だに民意を十分に得ていると思います。立憲民主とは唯一憲法に立脚してその方の中で主役は民(市民、生活者)であると思うのですがが…?

憲法を大前提にした法律を作るのが政治であり、政治家の絶対的使命だと思います。
一方で、日本が米国追随を明確にしたのは日米安保条約です。全ての国との平和条約の締結を憲法は希求しています。
明らかな憲法違反は、ここから始まりました。残念ながら現実の経済優先主義では日米同盟が大前提とする解釈がまかりとおていますが、既成事実の毒饅頭を食べてしまった「60年安保」が憲法違反への実質的スタートとなりました。そして日本の中に米国が誕生し、日米地位協定は日本国の裁判権さえない土地を作ってしまたのです。

そして自衛隊です。
自衛隊は自衛隊である以上は憲法違反であるとは思いません。順序が逆なのです。自衛隊の現状から違憲状態のものを先ずは改定する見直しの論議が先にあるべきです。
憲法の枠内での自衛隊に対して憲法違反になるような「自衛隊法」は制定されていないか?違憲装備は存在していないか?むしろ法解釈的絶対違憲状況を確認し、修正する事を優先するべきが立憲主義の基本ではないでしょうか。

(その点では日米同盟を基軸と考える枝野氏にも若干の危うさを感じるところです。今回の安保法制や共謀罪法を含めて改憲の外堀を埋めるための既成事実化は敵の術中に陥る気がしてしまいます。「北」の脅威を煽っての解散も、来るべき米国の軍事行使への加担承認を目論んだ安倍グループの戦略であったのでは、、、。「小池希望の党」さえ予定通りの改憲勢力作り戦略の一環であったと考えられないか…)

自衛隊の既成事実を踏まえて、明らかに超えてしまっている装備やその装備の裏側を告発していく政治的活動を求めるべきだと思います。その上であるべき自衛隊をしっかり法律で縛れば、自衛隊違憲論など出てこないように法整備する事は可能です。
(北朝鮮の状況は80年前の日本の状況とあまりにも似通い危険極まりない状況である事にも思いはいたすべきでしょう。是非とも拉致問題と共に日本が平和的解決の為に仲介できれば良いのですが…)
日米安保条約の違憲性をこの間の変遷から紐解き、安保の解消と日本国の独立、政治的中立性の保持も目指す事こそが立憲民主主義の原点であり、再論議がひつようです。

日本の防衛はどうするのか?と問われます。
憲法では日本の防衛はあくまで非武装中立の外交で敵を作らない事であり、事実日米安保が無ければ敵が現れるリスクは格段に下がります。
防衛をいうのは常に敵国を作り煽ることから始まり、やがてその戦力が侵略へと走ってしまうのが歴史です。
果たして事実中立国であるとしたなら「侵略」など今の世の中で実際に起こり得る(許される)はずもありません。
北朝鮮、中国、ロシア、韓国…を上げるのでしょう?これらの国が日本侵略を本当にする可能性などあり得ません。
日本がその経済力で「侵略」を企てない限り、そして世界世論が既にそれを許すような事はないのです。

残念ながら今の世界では、戦争の前提は核戦争となっています。抑止は地球規模(地球消滅)になってしまいます。(その意味では核が悲しいかな抑止力になっていることも認めざるを得ませんが…)
逆に戦力の保持イコール「核なし」ではあり得ないのが世界の情勢であり、核保有国が核拡散防止条約は必要だが全面核禁止条約には調印しない以上、その既得権と抑止力は核保有国の責務とせざるを得ない状況があります。

(唯一の被爆国である日本が全面核禁止条約に調印できないような状況で、核の傘を認める体たらくは目を覆いたくなる情け無い事態が現実になっています。
ならばせめて核保有を含めた軍備力と非核3原則の廃止を宣言する勇気はないのでしょうか?
軍備イコール核保有国が必須の世の中であること…しかし、日本には絶対に核保有を認めないというのが世界的判断が実存しています。
その中でこそ活きるのが平和憲法であり、今こそ日本国憲法の元での非武装中立國宣言への回帰が政治的最大課題であると確信します。

現実の尖閣問題と中国の脅威を言われます。
尖閣が日本の領土であるという主張には勿論同意しますが、果たして日本の領土を今以て占有する米国の地位協定を何故放置するのでしょう。領土的にも経済価値的にも尖閣の比では無い。米軍基地が、核の傘が日本を守ってくれているという馬鹿な話が有りますが、それは真逆に戦争への加担と戦争リスクを呼び込むものでしか有り得ない事が何故わからないのか本当に不思議です。(尖閣にしても竹島にしても少なくとも先方国にも領土とする言い分はありますが、米軍の基地は明らかに日本の領土であるにも関わらず、裁判権すらない占領地となっているのです。そして「核の持ち込みは無い」という詭弁を政府はわかりきった嘘をつかざるを得ない現実が存在しています。

「絶対に」戦争が起こらないとはもちろん言えません。
しかしもっともリスクの少ない、戦争に巻き込まれない選択を考えなければなりません。攻められるリスクよりも攻められない努力こそがよほど利口な選択です。リスク管理上の比較で言えばごく当たり前の数理的選択となります。その選択こそが現状においてすら「非武装中立憲法」というのが我が結論になります。
(それでも攻められたら…武器を手にして護る覚悟での「死」よりも攻められて殺される「憲法」を選択する覚悟の方が…戦争リスクを考えるならば合理的選択です)

今や巨大化してしまった軍事産業が日本には(米国にも)有ります。
いつの間にか武器輸出が解禁されてしまいました。全てが経済の要請です。そして国内軍事産業は日本の軍隊設置を切望しているはずです。(米国の武器商人が武器所有禁止をさせないが如く)
戦争は常に自国の経済利益を優先して始まるのが歴史が証明する所でも有ります。経済優先の国、即ち企業利益を優先する。それが米国の戦争への歴史であり、米国民の選択でもあるのです。そんな国との軍事同盟と基地提供が如何に馬鹿らしい判断であるのか???
国にも企業にも血の通いなど期待すべきではなく、どこまでも拡大と利益追求を辞めないものです。憲法の「主権在民」の行使以外にはこの怪物を抑止する術はないのです。故に憲法は基本的人権を謳うのです。(主権在民は戦争をしない、武器を持たない権利であり、徴兵を拒否する権利…すなわち「生存権」です。

もう一つ、軍隊は必ず徴兵がセットになります(世界的常識ですが…)。
現状の自衛隊は日本国憲法の戦争放棄の上に成立し、自衛隊員は戦地へ赴く義務は本質的にない中で成立しています。しかしひとたび軍隊となれば、「銃を持って人を殺す義務」を追います。もちろん殺される可能性も承認せざるを得ません。軍隊には必ずその必要人員をそろえなければ成立しません。即ち、徴兵と人権の一部剥奪と国際法上の軍法会議は必須アイテムになる事が理解されていないで論議されていないでしょうか?
(その抜け道にあるのが常に戦死は経済弱者にしわ寄せが行くというのも歴史が語っている真実です。格差社会の広がりで少数の勝ち組に比して圧倒的負け組が現実の姿になりつつあります。戦争への参画で生活費を稼がざるを得ないという悲惨な状況すら現実的に見えてくるように思います)

この項の終わりにそれでも日本を侵略してくる場合を想定しろ…
…理想論で日本を守れるか…との問いに答えておく必要があります。
「人を殺すのだけは嫌だ。それでも殺すというのであれば、殺される側を選ぶ」と開き直るしか有りません。
「憲法がそういうのであれば…そしてそれが殺されない最大の戦略(選択)であるから」
無防備である事の強さを私なりに多少は経験上知っています。無抵抗で死ぬリスクは戦って死ぬ(戦わず死ぬを含む)リスクより実は低いのです。
誰も銃を構える怖さを自らのものとして捉えない無責任…
「40」を超える兵役に耐えられなくなった人が「軍備力が必要だ…」などというべきではないのです。
戦争が無くってよかった世代が、将来の子供達に銃を強制する事などするべきではない。「お国のためなら」…は無責任な他人事にしかならないでしょう…

11月 14, 2017   No Comments

(2) 憲法前文と象徴天皇

日本国を考える上で天皇の存在を無視する事は出来ません。

古代よりの日本の歴史と文化を学ぶ中で常に天皇は雲上人として(または元首として)、庶民を含め大半がその存在を認め支持し(「現人神」と認識し)、日本国を形成して来た事実は曲げられません。
ある時は君臨し、ある時は雲上に鎮座まし、ある時は時の政権に利用されて来られたのです。紛れもなく、日本国の歴史と文化は天皇と共に形作られ、今日まで継承されて来たものが数多くあります。
まさに天皇は有史上における古代より常に日本国の象徴であり、全国民(庶民を含む)がいつの時代においても(どんな場合にも)圧倒的支持を得た(ある意味民主的な)存在であり続けて今日までそれは継承されています。

現行憲法が日本滅亡の危機にあった先の大戦(敗戦)の際においても、なおその圧倒的支持は変わらず、天皇の護持無くしては一億火の玉になっても戦いを続けていた可能性も否定できませんでした。
そしてその結果として世界の戦争相手国からは、戦争の最高責任者としての処置を求めて来た事も歴史的事実でした。しかし天皇は機関的にその立場に象徴的に立たれていた事(戦争責任)も明らかであり、戦争裁判の審判を仰がざるを得なかった情勢でした。

天皇は自らその機関的責任も認められ、戦争の終了を希求されました。
天皇の存在と世界世論の狭間でとにかく戦争を終了させる手立てとして、天皇自らも終戦と共に考えられた結果として生まれたものが日本国憲法の前文です。
それ故に憲法前文が日本国独自で独特の理念として天皇の御言葉に代えて表され、その御印を持って表したものが憲法前文です。
あくまでも「前文」で有り日本国憲法の外に位置するものと考え、理念であり、またこの国の骨格を形作る為の大事な「前文」です。故にこの前文は条文において憲法としての拘束を受けるものではなく、また憲法発布前の元首天皇が御璽として自らの立場と憲法の内容を進んで承認されたものだと理解するべきです。そしてこの前文こそが日本国憲法そのものでもあり、短い文章の中にその「全文」が込められているとも言える大事な文章でもあります。

そのような背景と共に第1章に象徴天皇の制定をおいた理由があります。天皇は自らこの憲法の枠外に置かれ、憲法で有するべき国民の権利(基本的人権)をも放棄される事としたのでしょう。天皇の象徴制を立憲主義の中で理解し、新たな憲法を進んで承認された事で敗戦後の混乱と一億玉砕の危険を回避できたのであり、戦後の一定の混乱はあっても大きな犠牲も出さずに敗戦の処理が進み出した事はその後の歴史が証明しています。

占領国であった米国の知恵もそこに当然ながら残しつつ、諸外国も了承する(必要のある)日本国憲法が成立したのではないでしょうか。
(そこには、時の日本の英知も十分に結集され、歴史認識を踏まえた終戦宣言と日本の進むべき道を国内外に指し示すものでなければならなかったのです)
こういった日本独自の文化伝統が合間って、国際法的憲法をも超越する(べき)憲法が成立(一般的憲法論をも超越したところにある)したと考えるべきでしょう。

繰り返しになりますが、憲法前文と第1章にある天皇の項は天皇の存在(戦争責任からの免責)を世界に認められ、かつ日本国民を納得させる為には絶対的必要性を持ったものです。
それ故に前文の不可思議さも日本国憲法の必需品として(歴史の継承物としても)一字一句変えるべきものでは無いのです。

日本国憲法は言うまでもなく、その骨格として戦争放棄の平和主義、主権在民と共に日本国民の基本的人権を等しく認めるものとなっていますが、同時に日本の歴史と文化を維持、継承する意思を世界に承認してもらうものでもありました。
一方で天皇だけはこの憲法の埒外におかれ、しかも唯一(一般的)人権を剥奪されてしまいます。
故にこの憲法に異議を唱える資格と権利を有するのが天皇であるとも言えるのですが、昭和天皇はその埒外にある事を理解、承認され、象徴としての地位をお受けになられる事によって前文の成立と必要性が有りました。前文こそが日本国憲法の象徴でもある所以だと思います。
今生天皇も現行憲法を最も愛され、昨今の動きを憂慮されておられるご様子をいわゆる改憲派は一体なんと考えるのでしょうか?
(その事すら忖度されないで)「戦争のできる国」への道を憂慮され、また何をおいても率先して現行憲法を遵守されようとする天皇のお姿をみても「護憲を主張したい」と思うのです。

昭和天皇に戦争責任はあったのか?
残念ながらそれには「YES」と答えざるを得ません。
しかしそれはイコール「日本国の消滅」であり、日本という国の形を壊し、日本国の歴史と文化をも消滅させる事でも有った…と強く思うところに至りました。「70年をかけて」…

「現行憲法と象徴天皇制が日本国の継続とその後の発展を創る原動力にもなりました。そして憲法の施行と共に私は産まれました。戦後の混乱と苦労は有りましたが平和な日本はこの憲法無くして有り得なかったと強く思います。
そして今尚、いやこれからの日本にこそ、この憲法無くして日本の平和と素晴らしい歴史と文化の発展はないと確信するものです」

11月 9, 2017   No Comments