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≪高村比呂希 著≫
その後2人は様々な場所でデートを重ねた。野球を全く知らない雅子を誘って、後楽園球場に巨人阪神戦を見に行ったりもした。勿論橘が小さい時から大好きだった阪神側のスタンドで観戦した。その試合で田淵が堀内からレフトスタンドに高々とホームランを放った時は、隣に雅子がいるのも忘れて、橘が大騒ぎをしたので、後で雅子に「やんちゃな子供みたい」と言われたのだった。
ある時、橘はある疑問を口にした。
「雅子はサ、今までホントに愛した恋人っていなかったの?」
「・・・」
「君のこと、会社の若い男子社員がみんな注目してるし、これまでも若い男が君を放っておく筈はなかったと思うんだ。だから、俺なんかと付き合ってていいのかなって時々思う時があるのよ」
暫く無言でどう言ったら良いか考えている風だったが、やおら雅子が口を開いた。
「好きな人はいましたよ。でもそういう人は大抵友達が先に好きになっちゃって。私、友達を裏切ること出来ないから、いつもそれ以上には進まなかったの。本当よ」
「そうか。じゃぁ、俺は君の友達に好かれなかったから、こうして君とデート出来るって訳だ」
橘は、軽いタッチでこの話を終わらせようとしたのだが、雅子はそうではなかった。
「橘さんはそういうのとは全然違うの。最初に会った時に、ビッビッビと来ちゃって・・・」
橘譲二24歳、佐々木雅子22歳。橘の入社3年目の初夏の頃であった。それから1年と少し経って2人は結婚した。周囲もあの2人は結婚するのだろうと見ていたから、予想通りのゴールインだった。
ただ、婚約時代、橘の所属する営業部の責任者である大塚部長からは、
「橘君、佐々木君と結婚しても子供が出来るまでは、そのまま彼女に勤めて貰う訳には行かないかねぇ?」
と、打診されたりしていた。橘は大塚部長に、正式に結婚の報告をし、結婚式には主賓として出席して頂くお願いをするとともに、自分の力だけで雅子を養いたいので、退職させたい旨を申し出た。
大塚は優秀なセクレタリーを失うことを非常に残念がったが、最後は橘の申し出を快く了解してくれた。当時の一般的価値観では、苦しくとも共働きはしないというのが男のプライドだった。
* * *
結婚3年目に長男が誕生した。橘譲二は28歳になって父親になった。彼自身はその頃、平社員ながら城北支店を背負って立つ意気込みで仕事に邁進していて、朝、実家に移っていた雅子から電話で「これから病院に行く」との連絡は受けていたものの、一旦事務所を出てしまうと、そのことをすっかり忘れて営業に走り回っていた。ある取引先を訪問した時、そこの主から、
「橘さんの部下の方から、昼前に連絡があって、橘さんに奥様の実家に至急電話するように伝えてくださいとのことでしたよ」
と言われた。今、午後4時過ぎたところだ。
「いかん。忘れてた。もしかしたら」
橘はその主に電話を借りて、実家に連絡を入れた。
「赤ちゃん、生まれましたよ。3千500グラムの立派な男の子です」
雅子のお母さんの声だった。
「そ、そうですか。じゃぁ、今から急いで病院に向かいます」
と言って電話を切ろうとしたら、
「もしもし、譲二さん! 病院どこか分かっているの?」
「あっ、そうでした。すんません、どこの病院でしたっけ?」
「まあまあ若いお父さん、落ち着いて下さいね。板橋中央病院の302号室ですよ。母子ともに健康ですから、そんなに慌てなくても大丈夫ですからね」
橘は、義母にからかわれながらも、嬉しさで胸が一杯になった。但し、まだ父親になった現実感はなく、足が地に着かずフワフワ浮いているような感覚に陥っている。人が言う「天にも昇る気持ち」とはこのことだろうか。 ...more»
≪高村比呂希 著≫
橘譲二は25歳の秋に結婚した。相手は2歳年下の雅子。2人は社内結婚である。橘の入社から遅れること2年、佐々木雅子は東京女子大の英文科を卒業し、橘のいる城北支店と同じ営業部の旗艦店である池袋支店に、OLとして入社して来た。
池袋支店ビルのなかに大塚営業部長の部屋がある。池袋支店の会議室で営業担当者会議があった日、橘は大塚部長に決済印を貰うため会議の開始時間より30分ほど早めにやって来た。
当該フロアーに行くと部長室の前に、見慣れぬ女性が座っている。すらっとした知的な匂いのする女性だ。橘は彼女を気にしながらも、従来から、直接ドアをノックして部長室に入っていたので、今回もそうしようとした。その時、
「あのう、申し訳ありませんが、どちら様でしょう? 私の方でお取次ぎしますので」
と彼女が言う。
「あっ、そうなんですか? 貴女は?」
「申し遅れました。新人の佐々木雅子と申します。当営業部の庶務兼大塚部長のセクレタリー業務担当として昨日配属されました」
「そうなんだ。俺、橘譲二。城北支店の営業係です。ある保険契約に先立って、大塚部長の決済を仰がなくちゃいけないんで来ました」
「今後ともどうか宜しくお願い致します。早速お取次ぎ致しますので、少し、お待ち下さい」
橘は直接部長室に入れなくなった面倒臭さを感じたのも一瞬で、佐々木雅子の美貌に加え、丁寧な受け答えと、新入社員としての初々しさに好感を持った。この娘(こ)がいるなら頻繁に部長室に来るのもいいかなと思った。
そんな出会いがあって以来、橘が池袋支店に用事がある時は必ず雅子のもとを訪れ、彼女と会話することにした。
同じ営業部内は勿論のこと、他の営業部の男子社員にも、また同期の男子社員の中にも佐々木雅子の名前は知れ渡って行った。橘がそれを思い知らされたのは、研修所に一泊して行われた若手営業担当者経験交流会で、久し振りに会った他営業部の同期の者に
「君のところの営業部長付きの佐々木雅子という娘(こ)、凄い美人なんだってねぇ」
と言われたのだ。
「彼女、会社のテニス部に入ったとかで、うちの後輩どもが騒いでいるんだよ」
と更に彼は言う。
そうか、これは放って置くと危ないな、と橘は思った。
翌日、早速用事を作って池袋支店に立ち寄ることにした。大塚部長が不在なのを知っていて、彼女に部長宛書類を預けるためにやって来たのだ。
「部長いる?」
「いえ、今日は本社に行っていまして夕方戻る予定ですが」
「あっ、そう。じゃぁ、この資料部長に渡しておいてよ。ところで佐々木さん、テニス部に入ったんだってねぇ」
「お恥ずかしいんですが、同期の友達に誘われたものですから」
「佐々木さんがテニスをやるとは思わなかったなぁ」
「下手なんですけどね。橘さんには私は何が似合いそうに見えました?」
「う~ん。そうだなぁ、相撲部とか柔道部とか、ハハハ」
「酷~い!」
彼女はそう言いながら、橘にからかわれていることが嬉しそうだった。橘はふと腕時計に目をやった。午前11時40分。
「佐々木さんはいつも昼食はどうしてるの?」
「お弁当の日と近くのお店で頂くのと半々かしら」
「今日は?」
「近くでお弁当でも買って来ようかなと・・・」
「じゃぁ、チョッと早いけど一緒に昼食でもどう?」
「はい、喜んで」
橘としては、昼飯ながらこれはデートの誘いのつもりである。思いの外上首尾だ。しかし、佐々木雅子の方は、会社の先輩に食事に誘われただけと思っているだろうなと橘は思った。
会社から徒歩10分の所に、評判の良いレストランがある。橘は雅子をそこに誘った。店の中は12時前ということもあって、まだ空いていた。
「今日は、俺のおごりだから、好きなもの頼んでよ」
「え? そんな、申し訳ないですから・・・」
「いいの、いいの」
結局2人はその店のランチ・フルコースを頼んだ。当時の値段で確か千百円、かなり高めの贅沢メニューだった。2人は会社では出来ない様々な話題を話した。自分達の学生時代のこと、趣味のこと、会社のことなど、彼女も興に乗ると橘によくしゃべった。途中から寧ろ橘が聞き役に回るほどだった。気が付くと午後1時。慌てて2人は会社に戻ったのだった。
「嫌でなかったら、今度は夕方以降に外で会いたいんだけどな」
「ホントですか? それってデートのお誘いですよね」
「そんな風に堅苦しく言わなくても・・・」
「橘さんに誘って頂くなんて、大変光栄です。是非お願いします」
「じゃぁ、日時・場所とか、後で電話するから」
「はい」
橘は弾む心で池袋支店を後にした。 ...more»
≪高村比呂希 著≫
従来の東都損保の一般的価値観であった、「会社にとってのお客様とは代理店のこと」を否定し、「保険契約者こそが唯一無二の顧客」を実践した橘譲二。三つ目のエピソードは彼が否定した代理店会との確執である。
日本がバブル経済に突入した頃、人事異動で橘は三年勤めた麻布支店長から渋谷支店長に変わった。この店は、東都損保が誕生した初期の頃からの大変伝統のある最も格式の高い老舗である。それだけに古くからの代理店が多く、高齢化も進んでおり、店全体の営業成績は伸び悩みが続いている店だった。これまでのような訳には行かないことだけは良く分かっていた。
しかし、代理店達のプライドは高く、赴任前から渋谷支店の有力代理店が、「三十六歳の若造が支店長やるような店に見下された」と言っているとの噂が橘の耳に入っていた。
店が大きい分、女子社員の数も多いので、赴任して直ぐに、橘はまず女子社員一人ひとりと会話する機会を設けた。支店の実態を知るには彼女達に聞くのが一番だし、彼女達にやる気を出して貰えたら、店をもう一度建て直すことが出来ると思ったからだ。
「仕事の中で貴女が最も嫌だ思っていることがあったら、まずそれから解決するので、遠慮なく言って欲しい」
橘は全ての女子社員に対してこう切り出した。
ある社員は、業務に於ける時間ルールの徹底を望んだ。
「毎日、一応締切時間を設けているんですが、代理店さんがその時間を守ってくれないので、どうしても残業が多くなってしまうのです」
またある女子社員は、
「本社からいろいろな報告が求められますが、本社の各部門がタイミングも書式も内容もバラバラに指示して来るので、堪りません。もっと話し合って一つにするとか、重複を無くすくとか簡素化して欲しいです」
橘もこれらについては尤もだと改善を約束した。そして、ある女子社員が橘に重大な問題意識を与えてくれた。
「来月代理店会の旅行があるんです。その旅行に付き合わされることだけは許して欲しい」
橘は改めて他の女子社員にもこの旅行のことを聞いてみた。異口同音に「嫌だ」と言う。これが彼女達の最大の希望だったのだ。渋谷支店の前近代的な慣習に橘は唖然とした。
お酌させられたり、二次会では代理店にダンスやカラオケを付き合わされたり、今で言うセクハ店の売り上げの半数以上ラすれすれのことが繰り返されていたらしい。
代理店会とは、支店に所属する保険販売専業の個人事業主の親睦団体のことであり、通常その支を稼ぎ出すので、その威圧力は極めて強い。支店の社員と代理店会が一緒に年二回、親睦を目的とする旅行があるのだが、勿論彼女達はホステスではないのだから付いて行く義務は全く無い。
橘は早速代理店会の会長と折衝した。橘のやり方はいつも正論による正面突破だ。
「今後、代理店会の旅行に、女子社員を同行させるのはやめにして欲しい」
これに対して代理店会側の言い分は、
「我々の旅行の最も大事な狙いは、日頃お世話になっている女子社員の慰労とコミュニケーションであるから何が何でも連れて行く」
というものであった。
「女子社員が全員、その旅行を嫌がっている」
「それは、旅行の趣旨目的など、支店長の女子社員教育が間違っているからではないか」
「順番にお酌させていると聞いている。そういうことに店の女性陣を動員することは支店長として認める訳にはいかない」
ラチが明かなかった。女子社員の慰労と言いながら、旅行費は本人負担。その上ホステスまがいのことを求める。そんなことを代理店会から強要される言われはないし、そんな慣習が存在すること自体が、古い体質から抜け出せない東都損保の今日的問題を明確に言い表していると橘は思った。
橘の腹は決った。「徹底抗戦も辞さず」を覚悟し、それが代理店会の総意であるならば会の解散も已む無し、の姿勢で臨んだのだ。これがトラブルにならない筈がない。
橘は、旅行当日、女子社員に「代理店会の旅行へは参加するに及ばず」の指示を出し強行突破を図った。女子社員の参加は一人もなく、バスの中は最初から不穏な空気が漂う。宿泊先での宴会前の恒例の会議では支店長更迭論が出る。それを受けて、橘支店長は代理店会解散論を出す。
橘は、この会議で良識派の代理店も多く参加しているのは把握していたから、彼等に訴える作戦に出た。
「もし、貴方の娘さんがその立場だったらどう思うか?
「行きたくないという彼女達の気持ちを考えてあげたことはあるか?
「本当に日頃彼女達に感謝しているなら、違う形で示すべきではないか? 旅行に参加させることは、全くの逆効果だ
「もし、ホステスが必要なら、支店の費用で現地調達するがどうか?」
すったもんだの末、遂には「会社抜きの代理店会の位置付けに変える」という緊急動議が出され、支店長の顧問資格が剥奪されることになってしまった。
だが、一方では正論も動き出した。
「女子社員の本音を聞いてみたい」
という良識派のある代理店の発言で、雰囲気は一転し、橘の立場も一気に好転。その機を逃さず、橘は支店長として、次のように締めくくって、この場は一旦休戦に持ち込んだ。
「会議をこれほど紛糾させてしまったことは誠に申し訳ない。しかし、このことは今後の渋谷支店の発展に向けて必ず解決しなければならない問題と認識している。ついては、今日のところは継続審議にして頂いて、旅行から帰った後、女子社員の意見聴取を含めて最終結論を出すということにさせて貰いたい」
橘は、この問題を支店の体質転換のキッカケにしよう考えた。
代理店会の問題はこのことだけでなく、代理店会参加代理店全体の売上げが毎年減収を繰り返し、他のチャネルに比べて大きく見劣りしていた。つまり、代理店会の支店貢献度において大きくマイナスとなっていることが数字上からもハッキリしていたのだ。既得権に胡坐をかいて、成長力を失った代理店会。
このことを自覚させるために、旅行から帰ると直ぐに保険販売キャンペーンを実施した。代理店会全員の成約グラフを張り出し、その隣に他のチャネルや、新しい保険募集勢力のグラフも並列にして、それらが代理店会のグラフをどんどん抜きん出るように仕組んでいた。結果は一目瞭然だった。
過去に於いて代理店会が支店を支えていたのは紛れもない事実であり、それを否定するものではないが、支店の足を引っ張る現状に於いてもなお、「代理店会あっての支店」との間違った認識が蔓延っている。それを改めさせることが何よりも優先した。支店長をも更迭出来るといった思い上がりも直させなければならなかった。
更に、代理店と会社は一緒になって顧客へのサービスに全力を挙げるべきであるのに、代理店は、常に会社は自分達代理店に奉仕しなければならないと考えている大きな錯覚を正さねばならなかった。
このキャンペーン結果は、代理店会の危機感を醸成し、彼等の認識を大きく変えさせることに寄与した。
但し、一般的に各店で見られる、この代理店・東都損保間に存在する課題は、長い年月掛けて築かれて行った歴史の産物であり、保険の自由化、合併統合という業界再編の新しい時代になってもなお、澱のようにこびり着いた会社の抱える古くて新しい問題である。
橘の代理店会との闘いも、代理店会に投じた大きな一石ではあったが、女子社員の旅行不参加を勝ち取っただけの、或いは、皮相的・局所的成果の一つに過ぎなかったのかも知れない。 ...more»
≪高村比呂希 著≫
2つ目のエピソードは、支社開設で見せた橘の顧客重視の店作りだ。
城北支店での営業活動が認められ、橘は麻布支社開設の責任者に任命された。店舗新設を、まだ係長の橘に託す異例の人事だった。橘33歳。
生保業界で「支社」と言えば、大勢の部下と大勢の外務員を抱える拠点責任者で、支社長ともなれば地域でもステータスが高い存在である。黒塗りの車と運転手付き、会社によっては役員クラスもいる。
損保の場合は、基幹店舗である「支店」の傘下に「支社」が置かれる営業組織(課と同じ位置付け)なのだ。だから役員や部長クラスでない係長の橘が支社長になれた。但し、係長の支社長就任は全く初めてという訳ではないものの、異例中の異例人事であることには違いない。
店舗の物件探しから、必要備品の購入、人事部への女子社員異動候補者要請等など全て1人でやらざるを得なかった。テリトリー内の企業や商店との商談では、支社長の名刺を出すと、殆どの相手がもう一度彼の風体を確認するように眺めて感心してくれる。「その若さで支社長とは凄い」といった目で。
社内や代理店には全く威力を発揮しない「支社長」という肩書きが、これほど一般社会で効果があるということを体験して、橘は、肩書きも店舗も、全ては顧客のためにあることを確信した。やはり支社にとって最も大事な対象は代理店や他の募集チャネルではなくその先にある保険の顧客や見込み客であることを再確認したのだった。
最初の店は電気店の2階で、予算の関係から大人4人が席を並べると一杯という狭さだったから、他店から移管されて麻布支店所属になる代理店の来社時の机も置けなかった。だが、開設準備の最初の数ヶ月は仕方ないと橘は割り切った。
この間、橘が最大エネルギーを費やしたのは、城北支店で経験した、代理店研修生の大量採用大量育成であった。橘の得意技だ。今度は一国一城の主として、麻布支社の強力な保険募集軍団の構築である。自ずと入れ込み方が違って来る。
研修生候補者と頻繁に会い、橘の熱っぽさに感服して、大多数の者はその場で転職を決意したのだった。橘は多い時で1日に10名の候補者と会って説明・説得に当ったと言う。
橘は、それこそ土日もなく昼夜の別なく、寝食を忘れてそれら諸々の準備作業を進めて半年後、広い店舗に移転した。橘は顧客第一主義の店作りを徹底するために、一階は営業店舗だが、二階は、地域に開かれた営業店舗を謳い文句に、会議室、兼、市民への開放スペースとしたのだった。
そして、いよいよ正式に麻布支社としてのお披露目のパーティーを行うことになった。従来、お披露目には取引先代理店をご招待して、会社の役員が挨拶するのが東都損保の決まり相場だったが、代理店にも了解を取り付けて、お披露目は顧客向け講演会に変更した。当然ながら、講演会に客を集めることを代理店研修生の担当とし、テリトリー内飛び込み営業の実践研修の場としても仕掛けたのだった。
おそらく、市民への開放スペースを設けたことと顧客向けセミナーを支社レベルで実施したのは、東都損保では勿論のこと、損保業界としても初めての試みではなかったか。どちらも今では当たり前になっているが、外務員や代理店の先にいる顧客への直接サービスの考え方は業界にはまだ存在しないと言って良かった。
講師はNTTの的場英氏にお願いすることにした。彼はその後ある事件で失脚する運命を辿るが、当時はマスコミ等に引っ張りだこの、正に「時の人」であり、今日で言うところの「IT社会の生みの親」とも言える人物である。
ある人脈を使い無理なスケジュールの中、何とかOKを貰ったまでは良かったが、何とお披露目パーティーの当日、大問題が出来した。東京に未曾有の大雪が降って、電車は止まる、車は走れず大渋滞、支社の玄関にも入れないほどの雪が積もってしまったのだ。午前中には本社から女子社員に帰宅命令が出される始末だ。講演会は中止にするか否か、みんなで雪かきをしながら思案を重ねた。
講師に頼んだ的場氏は、前日大阪出張の筈であるが連絡が取れない。交通状況を確認すると新幹線も飛行機も止まっている。これでは的場氏も、講演会に間に合わないだろうと已む無く中止の判断をしようとしたその矢先、ご本人から連絡が入った。
「予定通りで宜しいですか?」
「え? 今大阪ではないんですか?」
「いえ、昨日から飛行機が飛ばず、大阪には行けませんでした。今、東京の自宅ですから、早めに出掛ければこちらは大丈夫なのですが」
「はっ、はい。予定通りやりたいと思いますので、どうか宜しくお願い致します」
橘は受話器を耳に当てながら、深々と一礼していた。よし!
だが、今度は客足が心配になる。多分マスコミも取材に来るだろう。研修生達には再度自分の顧客に出席確認の電話をさせた。
しかし案ずるより産むが易しであった。蓋を開けてみれば、会場は満員(と言っても支社の大会議室だから定員百名)となった。満員になったのは、何といっても彼が「時の人」だったからであろう。
橘にしてみれば、この日は人生で最も長い1日となった。
因みに、この日集ってくれた顧客は港区にある会社の社長、または、その代理人、商店会役員、ロータスクラブ会員等々、テリトリー内の有力者などが多かった。後々これらの人達や組織が、東都損保の団体保険の顧客になり、麻布支社の支援者になって行ってくれるのである。
橘支社長のもと、顧客第一主義に染め抜かれた研修生達がこれら有力顧客の紹介等、大きな支援を得て、急速に戦力化して行ったこともあり、立ち上がったばかりの麻布支社は、2年で支店昇格を果たし、橘は東京のど真ん中で東都損保で最も若い支店長となった。これも過去に例のない早さだった。
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≪高村比呂希 著≫
(この小説に登場する人物・組織は全て架空であり、実在する人物・組織とは一切関係ありません。 編集部)
橘譲二は東都損保に入社して、研修後は営業係として城北支店に配属となった。以来、橘は退社するまで約35年間を主に営業分野に従事することになる。
東都損保のメイン・チャネルは保険代理店だ。従って、新米営業係としては、支店に所属する代理店に出向き、彼等に顔と名前を覚えて貰い、コミュニケーションを蜜にすることから仕事を覚えて行かなければならない。
最初は先輩の営業係が引き回してくれたが、2回目からは、自分1人で出向かなければならない。ぎこちない訪問が、徐々に様になって行った頃、つまり、代理店からすれば、お客さん扱いの時期を過ぎた頃、代理店の橘に対する態度は実に様々であることが良く分かって来た。
契約高の低い代理店は丁寧に応対してくれるが、契約高が高い代理店ほど、橘に対してはあからさまに偉そうに振舞う。それは多分、東都の社員を食わせてやってるのは俺だ、1件も保険契約を集めていない新人のお前はそのところをよくよく弁えろ、といった気分なのだろう。
支店の先輩達を見ていても、大きな代理店に対しては下にも置かない気の使いようなのが分かる。「お客様第一」という標語も店内に張り出されているが、「支店にとってのお客様とは、代理店さんのことである」と明言する先輩も多い。
入社早々橘が感じたのは、正にこの点がおかしいということだった。東都損保にとって、お客様は保険の契約者しかいない筈。他業界では代理店の役割は会社の営業マンの仕事だ。営業マンが会社の中で、あれ程鷹揚に振舞うことが許される世界なんてあり得ないのではないか、と思ったのだ。
この疑問は、やがて橘を革新的人物という評価を定着させて行く上で極めて重要な問題認識となる。
橘の営業マン人生は「代理店が東都損保のお客様」という社内の常識を否定し、「契約者こそ東都損保の唯一のお客様」という考え方と仕事のやり方を確立させる闘いだったと言っても過言でない。そのことを象徴するエピソードが3つある。
* * *
先ずは最初の配属先城北支店時代。当時損保会社は契約高のシェア競争をしていた。そのために、各社とも増収のための施策を次々に繰り出していた時期だ。
代理店をメイン・チャネルとする東都損保は、代理店の数を増やすことが最大の増収施策だった。優秀代理店を効率良く、且つ、数多く作るにはそれまでのやり方を変えて、代理店研修生制度というものをスタートさせた。
金がなく、学歴もない人でも、在庫を持たず、貸し倒れリスクもない保険代理店事業を、3年間保障付きで、社員としてやれるのだ。橘は、新しい仕事を探している若い人が一生の生業にするには持って来いの良い制度だと確信した。
そして、自分が見出した代理店候補者達と一緒に汗を流し、彼等を戦力化することに全力を挙げようと考えた。既に大きな規模になっているが成長力では高原状態の横柄な既存代理店ではなく、新しい戦力構築で勝負しようと思ったのは橘ならではなかったか。
橘は営業担当者として全国で一番多い代理店研修生を採用した。若い研修生達は、自分の一生が掛かっているだけに真剣な態度で研修を受け、保険募集活動に当たり、徐々に成果を生み始め、遂には城北支店全体の増収に貢献するに至った。
その頃、会社は土曜半ドンから土曜日は休みに変わった。だが、成果を上げつつあるとは言え、研修生達は3年間の内に(研修損保障期間)食べて行けるだけの契約募集を達成しなければ行けない。みんな必死だ。彼等は土曜日を休んでいられる身分ではないのだ。橘は、自分がこの世界に誘い込んだ責任もあり、土曜日も出社日と決め、彼等の相談に乗り、一緒に顧客への提案内容を固めたりもした。
彼等が支店の一大戦力となって行くに連れ、既存代理店達も刺激を受け、支店全体が活性化して行った。この代理店研修生制度を打ち出した本社の所管部門も、この城北支店の取り組みを大変好ましい事例として、全社に紹介するなど広報したこともあって、当時、橘は平社員ながら「時の人」となったのだった。
既存代理店頼りでは、支店全体の成長力にならないことを見抜き、新興勢力を作り彼等と一緒に顧客に向かって汗を流した橘を一躍有名にした最初の業績だった。
* * * ...more»
≪高村比呂希 著≫
京都に戻った橘は、立川での藤本と早乙女恭子の2つの残像から、それまで読みたいとも思わなかったマルクスやレーニンの本を読み漁るようになって行った。
何故彼等は他を全て捨ててまで、あのように己の信念に忠実に生きることが出来るのか、その秘密を探ろうとしたのかも知れない。自分に足りないものを埋めようとしたのかも知れない。
だが、マルクスの本質は理解出来ないまま、心情的左派の色合いだけが強まって行く。期を同じくして、学内も70年安保を控えて、いわゆる一般学生をも巻き込みつつ益々左傾化を強めつつあった。
大学3年生になった橘は、新聞部の執行部内で重要ポストの1つである、報道局長に選ばれた。未消化ながら「マルクス主義」の論調を張り、「唯物史観」を語る橘譲二を執行部の先輩達が選んだのだ。
このことが、後に橘を大いに悩ますことになる。
その年の秋、関西学院大の学内は学生ストライキに突入して行く。新聞部の執行部にも学生自治会のメンバーを兼ねている者が多いので、当然、この闘争には新聞部が挙って闘争委員会を支援すべきであるとの意見誘導がなされる。
だが、橘は、報道局(学内新聞の取材記者グループ)のメンバーを、指示や命令で闘争委員会本部の支援要員にすることは出来ない。それは、理論上、留年や就職放棄を覚悟することであり、そんな重い決断をメンバーに迫る権限や義務を、学生である1報道局長が持っている筈はないと思った。
橘は執行部の面々を前に、
「闘争委員会本部に行くかどうかは、自分のところは、メンバーの自主判断としたい」
と発言した。この発言を巡って、橘が予想した通り会議は荒れに荒れた。
「ことここに及んでまで、橘は軟弱に過ぎるのではないか」
「橘が日頃唱えていることと、いざとなった時の行動が違い過ぎる」
「新聞部は学内のオピニオン・リーダーであるべきだ。それは、今回のストに際しては先頭に立つということだ。橘にその認識があるのか」
「そういう重要な場面で自主判断とは日和見と言われても仕方ないのではないか」
先輩達の糾弾は留まる所を知らない激しさだった。橘はそれにじっと耐え、最後にこう言った。
「闘争委員会の本部に入るかどうかというのは、自分の将来を決めてしまうかもしれない大きな決断となる。それを誰かが勝手に決めることなんて絶対に許されない。自分自身で重大な覚悟を持って決めること以外ない。私は当然のことを言っているのであって、日和見などでは決してない」
「じゃぁ、橘自身はどうすんだ?」
「勿論私は参加する」
「分かった」
こんな遣り取りでその場は何とか収まった。橘自身の参加は、40年経った今でも、未だに本心だったかどうか不明なのだ。行き掛かり上、その場を収めるにはそう言うしかなかったとも言えるし、自分の信条に忠実に言ったとも言えるからだ。
1969年(昭和44年)、70年安保改定阻止に向けて、学生運動は大きな転換期を迎えていた。
全国殆どの大学は機能麻痺状態となり、「東大安田講堂事件」と同様の学生による学内籠城事件は、全国で同時発生的に展開されて行った。
東大安田講堂事件の陰に隠れて全国版のニュースにはならなかったが、橘のいた関西学院大も同じようにかなり過激だった。
今思えば、1970年を目前にして、学生運動の鎮圧に乗り出した大きな国家権力の前に、一般学生を巻き込んだ大衆運動の限界に来ていた。
安田講堂陥落のその同じ日に、関西学院大にも、機動隊がロックアウト解除のために入って来ることが知らされた。筋金入りの活動家と、心情左派的一般学生によって、機動隊乱入阻止の闘いが始まる。
徹夜で座り込む2千人程度の一般学生と、徹底抗戦の準備のため、コンクリートなどを持ち込んで籠城を準備する活動家達。橘にとっても「人生最大の決断」の時であった。闘争本部の支援要員としては、間違いなく刑務所送りを覚悟し、家族も、友達も全てを捨てて籠城側(活動家の役割)に回らざるを得ない。
その時、闘争委員会の活動家に橘を含めた十数名が呼び出された。
「君達には、これから一般学生を無事学外に脱出させる任務を負って貰う」
と告げられた。
「これは、闘争委員会としての指令である」
と言う。
本来命令される理由(いわれ)は何もないのだが、その口調から、橘たちの揺れる気持ちを既に見透かしていたものと思われる柔らかいものだった。脱出経路を示される中で、橘は心からホッとしたのを覚えている。
進路は体育会系の猛者達に塞がれていたが、その使命感からと言うより、籠城戦から逃れられたという恐怖心からの開放感は、いとも簡単に彼等のピケを打ち破り、安全地帯までみんなを誘導することが出来たのだった。
解散後、橘は、そのまま友人の下宿に辿り着くやいなや、疲れと興奮の中、濡れ雑巾のように深い眠りに落ちて行った。
10時間以上も眠っただろうか。翌日、転がり込んだ下宿の友人が教えてくれた。関西学院大の籠城戦は安田講堂よりも激しく、陥落までに6時間以上も要した後、籠城者全員が逮捕されたと言う。橘の友人達は、中にいる筈の橘を追い駆けて、そのまま拘留先の警察まで釈放を求めに行ってくれたとのことである。
ふと、阪大の籠城戦はどうだったのだろう、早乙女恭子は活動家として逮捕されてしまったのだろうかと思った。そして、もしそうなら、籠城戦から逃げ出した負い目も加わって、己の中途半端さ加減に今更ながら落ち込む思いであった。
学内は何事もなかったが如く平和が戻り、大衆に裏切られた形の活動家は已む無く、より孤立を深め、一気に先鋭化する以外の道を閉ざされて行く。
この日を境にして70年安保闘争と大衆左派運動は転げ落ちるように壊滅に向かう。超過激派を作り出すことによって、労働運動を含め全ての左派運動の論理破綻を演出した「時の権力」のシナリオが、後の高度成長の日本を生み出したと言っても過言でない。
大変な国家戦略であったとも言える。ただ、その後の「よど号事件」「浅間山荘事件」「日本赤軍」など、超過激暴力集団を創出してしまったのは、そのシナリオの副作用だったのだろうか。
大学四年生になった橘は、メンバーが入れ替わって何とか存続した新聞部とも完全に関係を断ち、就職活動とアルバイトの他は、専ら麻雀・パチンコ・競馬に映画と、過去3年間とは全く違った堕落した生活になって行った。それは、過去3年分の遊びを取り戻すかのような集中ぶりで、直ぐにプロ級の腕前になった。
この1年間は、橘にとって、学生運動の中核に近いところで過ごしたにも拘らず、最大の戦いの場面で逃亡したことの心の負い目と、恋人が突然目の前から消えてしまった心の空洞を埋めるために必要な時間であったのかも知れない。
その頃、彼を下宿に訪ねた友人は、以前なら深夜まで、国家権力やアメリカの横暴などをテーマに議論して大いに盛り上がったものなのに、もう橘はその手の話しは一切しなくなり、寧ろ、「俺のギターの弾き語りを聴いてくれ」などと言いながらサイモンとガーファンクルなどを歌うのでとても驚いたと証言する。
橘は、中堅損保の東都損保から内定を貰い、翌1970年(昭和45年)4月、様々な思いを振り切って、サラリーマンとして、これまでとは全く違う人生の第一歩を踏み出したのであった。 ...more»
≪高村比呂希 著≫
翌朝、早乙女恭子が、午後には大阪に戻りたいと言うので2日目も海で遊ぶものとばっかり思っていた橘は、急遽、宿の時刻表を調べて、午後1時に新大阪駅に着くバスがあることが分かり、2人はそれに乗って帰った。
「橘君、海水浴に付き合ってくれてありがとう。絶対に忘れられない旅行になったわ」
「いや、それは俺も同じだよ」
「橘君、これからも新聞部やるつもりなんでしょ?」
「うん、そのつもりだけどね」
「新聞部で頑張ってね。だけど、自治会活動なんかはしない方がいいと思うよ」
「そこまではどうも俺には無理だと思ってる」
「ならいいけど」
これが早乙女恭子との最後の会話となろうとは、この時まだ橘譲二は知る由もなかった。
海水浴から帰って橘は1人下宿の部屋で、ギター片手に「サウンド・オブ・サイレンス」を歌えるように練習に励んでいた。早乙女恭子からは一切連絡がなかった。四日目、橘は恭子に連絡しようといつものように阪大女子寮に電話した。
「はい、清心寮です」
「早乙女恭子さん、お願いします」
「あのう、早乙女さんは先週寮を出られましたが・・・」
「寮を出たというのは、引越ししたということでしょうか?」
「はい、そうです」
「えっ、そ、そうなんですかぁ。引越し先、分かりますか?」
「いいえ」
「先週というのは具体的には何日でした?」
電話の相手は海水浴に行く前日を告げたのだった。
「引越したこと、何故一言も言わないんだ!」
橘は怒りにも似た感情を恭子にぶつけたかった。まっいいや。そのうち連絡して来るだろう、と一旦は矛を収めたのだが、数日後、彼の下宿に早乙女恭子からの手紙が来るに及んで、橘はただならぬ事態を悟らされた。
手紙は淡々と次のように書かれていた。
前略
先日は、突然の提案にも拘わらず、小旅行にお付き合い頂いてありがとうございました。あの日のことは私の一生の思い出にさせて頂きます。
橘さんは、突然私が姿を消したことを怒っていらっしゃるかも知れませんね。でも、私はもうこれ以上橘さんと一緒にいることは許されないので、辛く胸が張り裂ける思いですが貴方と別れることを決意しました。
私は既に、志を共にする同士と行動を共にすることを誓っています。ベトナム戦争反対、米帝打倒、安保条約破棄を勝ち取るために一身を捧げることを選びました。原爆で一瞬のうちにこの世から抹殺されてしまった私の親戚の人々や広島・長崎の人々の無念を思う時、私が何もしないでいる罪悪感は払拭しようがないのです。
橘さんとの幸せな人生を選ぶか、自分の信念に生きるか、悩みに悩み抜きました。はたまた、その両立の道は無いかとも、必死に考えましたが、それは貴方に迷惑が掛かるだけで、下手したら貴方の将来を私が潰すことにもなり兼ねません。
お察しの通り、私は大阪大学全共闘のメンバーの一員として国家権力と戦う道を選びました。これからは、彼等と四六時中行動を共にするつもりです。
橘さんには心から感謝しております。私の青春をかけがえのないものにしてくださいました。しかし、もうこれ以上貴方に甘える訳には行きません。
このような手紙で一方的にお別れを言う私をどうかお許し下さい。そして、私をどうかお忘れ下さい。私をどうか探さないで下さい。
草々
橘譲二様
早乙女恭子
橘は金鎚で脳を叩かれた程のショックを受けた。自分の前から彼女が去って行くなどと考えたこともないことが突然起きたのだ。信じられない。もう一度読み返してみても、本当に恭子が書いたのかと疑いすらした。
そして、彼女の言葉に間違いないと認めざるを得なくなった時、悔しさが湧き上がった。
新聞部の記者として一般学生より何倍も問題意識を持って活動して来た自負はあるものの、関学学生自治会のプロ活動家達には大きな距離感を感じ、橘自身、自分の優柔不断さをよくわきまえており、彼等のようにある覚悟に基く信念と行動の一致は、自分には到底無理だと思っていたからだ。
なのに自分の恋人がそういう覚悟の出来る人間だったのを知り、橘は今更ながら自分の小ささをひしひしと感じていた。もう一人の自分が橘を責める。
「橘、お前はそれでも男か! 彼女の方がよっぽど潔いしその決断は男らしい」
不覚にも橘の目には涙が溢れ、手紙の上に落ちた。
「このまま、俺は本当に恭子を失ってしまうのか」
現実感がなかった。そう簡単にこの現実を受け止められる筈もなかった。
その後、橘は阪大の学生課に行って高校の同級生と告げて、早乙女恭子の現住所を聞き出したりもした。だが、その住所は神戸市の実家になっていた。万が一にも、本当に実家から通っているということはないだろうかと祈るような気持ちで、だが反対に実家に戻っている筈がないことを分かっていながらも、橘はその足で神戸の実家に帰り、翌日早乙女の実家を訪ねてみた。
母親が応対してくれた。
「あら、橘さん。いつも恭子がお世話になっています。珍しいですね、橘さんが訪ねてくれるなんて」
「久し振りに実家に帰ったので寄ってみました。もしかして恭子さんも実家に帰っているかなと思いまして」
「7月に一度戻って来たけど、夏休みは帰れないって言っておりましたねぇ」
「あっ、そうですか。じゃぁ、向こうに帰ってから彼女に連絡してみます。お邪魔しました」
恭子の家族もまだ彼女の行動を全く掴んでいないようだ。
暫くして彼女の母親が、娘と連絡が付かなくなったと橘を下宿に訪ねて来たことがあったが、橘は恭子から来た自分宛の最後の手紙を母親に見せてやることしか出来なかった。
* * *
しかし、一瞬だけ橘が早乙女恭子を目撃したことがあった。それは、ある日関西学院大新聞部記者として京都市で行われた大規模なベトナム反戦街頭デモの取材中に、東京で大規模な反戦デモが予定されており、全国の大学にデモ参加が呼び掛けられているというものだった。
それは、学生達が主催する立川米軍基地に近い砂川での全国規模の決起集会のようだ。
橘は、新聞部同学年で報道カメラマン志望の宮本という男と2人で新幹線に飛び乗り、早速東京に向かった。
彼等は東京駅に着くと休む間もなく中央線に飛び乗って国鉄立川駅に向かった。最初の取材は立川駅に集ってくる学生活動家達の大学名とその人数を出来るだけ沢山聞き出すことだ。立川駅に降り立つと既に大勢の若者がヘルメットを手に集って来ていた。橘は早速取材を始めた。
「どちらから来ましたか?」
「神奈川」
「大学はどちらですか?」
「横国」
「何人くらいが横国から来ていますか」
「ざっと50人と言ったところかな」
こんな調子で、橘は次々に聞いて行った。学生達が駅前の広場に無統制に思えるように屯しているのは、どうやら立川駅前を各大学の集合場所にしているかららしい。また、新手の一団が駅から吐き出されて来た。大阪弁の集団だ。
橘はその中に早乙女恭子に良く似た女性を認めた。そして橘は彼女に釘付けになった。恭子に間違いない。彼女は仲間と話しながら橘の直ぐ近くまでやって来たので、まだ橘の存在に気が付いていない。橘は覚悟を決めた。恭子に質問することにした。
「大阪からですか?」
橘の質問に振り向いた恭子は、大きな目を見張った。かなり驚いているらしく、声が出ない。
「皆さん、大阪から来られたんですよねぇ?」
橘はもう一度恭子に尋ねた。
「いいえ」
これが恭子の答えだった。
「阪大の皆さんじゃないんですか?」
彼は更に畳み掛けた。その時、近くにいた仲間の男子学生が、
「何を聞いてまんのや。いややゆうてるやろ。あっち行けや。オイみんな」
と言うなり、恭子の周りを大勢の男子学生が取り巻き彼女を守るようにして砂川に向かって行った。
橘はずっと恭子を見つめていた。彼女は一度だけ橘を振り返っただけだった。
何故か駅前のどこか近くの店から「サウンド・オブ・サイレンス」が聞こえていた。あの時浜辺で聴いたあの曲が。
こんな所で彼女に会えるとは。凄く驚いたが、再会出来た喜びなど全くなかった。寧ろ、橘は、自分の恋はこれで完全に終わったことを悟った。恭子とのことは過去のことと、心の決着を着ける時だと自分に言い聞かせていた。だから、同行したカメラ担当の宮本が、「お知り合い?」と質問したのも橘の耳には入らなかった。
橘は立川市砂川で行われたこの大規模なベトナム戦争反対のデモを取材する中で、中央のステージで、ある男がリーダーとしてアジテーションを行っている場面を目撃した。橘は演説の中身ではなく、その男の声と姿に魅せられたのだった。
それが、歌手加藤登紀子の旦那になった今は亡き藤本氏であったことを後で知る。
* * * ...more»
≪高村比呂希 著≫
さぁ、文化祭も終わり、3年生はいよいよ受験モードに突入する時期を迎える。だが生来の勉強嫌いの橘はなかなかその気になれない。10月のある日、早乙女恭子はそんな橘を心配した。
「受験、どの大学にするの?」
「まだ何にも考えてないんだ。受験しなくても入れてくれる所どっかないかな?」
「スポーツ推薦というのがあるけど、橘君、野球やめちゃったしねぇ。でもまだ4~5ヶ月あるから、今から頑張れば間に合うわよ」
「受験勉強なんて、やりたくね~なぁ」
「橘君にもあの大学がいいとか、憧れみたいなとこ、全然無い?」
「そりゃあるよ。親父と兄貴が共に関学(関西学院大)を出てるから、俺も入れるならそこに入りたいんだけどな・・・」
「ふ~ん。じゃあ、次の日曜日その大学見に行かない?」、
「え? 君が一緒に行ってくれるの?」
「うん。自分の目で見れば本当に行きたくなって受験勉強頑張れるかもよ。それに・・・、たまにはね、2人で電車のデートもしてみたいじゃん?」
「分かった。じゃそうしよう。ところで君の志望校は決ってんの?」
「一応はね」
「どこ?」
「言って落っこちちゃうと恥ずかしいから言いたくないけど」
「どこ? どこ?」
「橘君だから言っちゃおうかな。大阪大学の法学部か大阪外大」
「へぇ、凄いな。早乙女は勉強出来るからな」
「誰にも言わないで」
「言わない、言わない」
大学なんてあまり興味を持ったことが無く、親父と兄が同じ大学だったから、橘も漠然と関西学院が良いと思っていただけだったが、2人で訪れたその大学の緑と時計台の佇まいは、橘の想像以上に素晴らしい独特の雰囲気があり、彼を魅了して止まなかった。
何としてもここに入りたい。橘が大学に行きたいと本気で思ったのはこの時が生まれて初めてだった。ここを2人で訪れようと提案してくれた彼女に感謝した。
そして、こんな別世界を恭子と2人で散歩出来る幸せを噛み締めていた。行き交う男子学生が自分達2人を注目する視線も気にならなかった。否、正しくはその視線は恭子に集中するのだが、寧ろそれが誇らしかった。
この3年間で、少女から少しずつ大人びた女性へと変わりつつある恭子は、大学生になったらどれだけその美しさと輝きが増すのだろうか? そんな想像をついついしてしまう橘であった。
この時の特別な雰囲気がそうさせたのかどうか、帰り道のとある公園を散歩しながら、早乙女恭子は自分の生い立ちについて、訥々と語り出した。
「実はね、うちの本当の故郷と言うかルーツみたい所は神戸じゃないの。広島なの」
「へぇ。広島生まれか!」
「ううん。生まれは神戸だけどね。両親が2人とも広島市の出身なの。ただ、それは小さい時から聞かされていたから知ってたんだけど」
「・・・」
「3年前の高校受験の手続きの時、分かったことなんだけど、両親は私の生まれる2年前までずっと広島にいたの。だから今も本籍は広島市」
「そう」
「母に聞いたら、仕事の関係で神戸に引っ越したみたい。その後私が生まれたって訳。私ね、小さかった頃、近所の友達にはお爺さんとかお婆さんがいて、沢山の従兄弟もいて、お正月なんか賑やかで、とても羨ましかったの」
「早乙女にはご両親と弟さんがいるじゃないか?」
「そうなの。私にはそれ以外の親戚がいないのよ」
「えっ?」
「私もね、何故なの? ってしつこいくらいに母や父に聞いたんだけど、お前が高校に入ったら教えるって言われてて、高校1年の時遂に父が教えてくれたの・・・。
親戚は原爆でみんな死んじゃったんだって。 唯一父の弟が戦地に行っていて原爆は免れたんだけど、終戦後戦死の報が来て・・・。遠い遠い親戚はいるのかも知れないけど、父方も母方もみんな死んじゃったんだって」
2人は初めて神戸から電車で西宮に来たのだから、もっと浮き浮きして歩いていても不思議はないのに、彼女はこの告白で気が晴れるどころか、益々気持ちが沈んで行くらしく、うつむき加減に歩いている。橘譲二は何か言わなければと思いながら、どう慰めてよいか分からない。
吐いた言葉は、
「原爆かぁ。酷いもんだね。中学の時、学校で広島に行って平和記念館を見たけど、ぞっとしたのを覚えてる」
だった。
「橘君には内緒で、去年私もそこに行って来たの。展示されていた写真、死体もあれば、全身火傷を負ってベッドで寝かされている人もいる。爪がただれている手だとか、もう見てられなかった。全部私の親戚の人に思えちゃって・・・」
「1人で行ったんだね?」
「うん、ゴメンね。私ね、思ったの。そういう写真を見ながら、もしかしたらあれは父や母だったのかもって。そうだったら私は生まれて来ていない筈だし、こうして橘君とも会えなかったなって。両親が神戸に越したのは原爆の半年前だったんだもの。」
橘は何故か急に彼女が愛おしくなった。彼女に巡り会えた奇跡を感じた。運命を感じたのかも知れない。
橘は立ち止まり、彼女の正面から自分の両手を彼女の両肩に乗せ、瞳を見つめた。
恭子も彼の意図が分かったのか、そっと目を閉じた。高鳴る鼓動に息苦しさを覚えながらも、橘は勇気を奮い立たせるように彼女の唇に口づけしたのだった。
恭子はそのまま橘の懐深く抱かれて行った。橘にとってこれが初めての口付けだった。2人は暫くそのままの姿勢でいたが、やがて恭子の嗚咽が洩れた。
橘は「この娘(こ)は必ず俺が守る」本気でそう誓った。高校3年の秋だった。
* * *
この関西学院大訪問以降、橘譲二は人が変わったように受験勉強に打ち込み、念願どおり関西学院大学商学部に合格、入学した。
橘は神戸の家から通えば通えるが、一旦親元を離れ西宮市内に下宿することを選んだ。早乙女恭子も阪大法学部に見事受かり、希望通り進学した。そして、心配する両親を説き伏せて大阪市内の大学の女子寮に入った。
2人の距離は少し離れたが高校時代と違って時間は有り余るくらいに出来たから何の問題もなかった。大学1年の内は毎週必ず会って、大阪や、たまに京都まで足を伸ばしたりして、様々な場所でデートを楽しんだものだ。
橘がサークルとして選んだのは「関西学院大新聞」総部だった。関西でも伝統あるクラブだ。親父も兄も、かってはそこに所属していた。先輩たちには大手新聞社の社長以下錚々たるジャーナリストがいる。
彼は希望して、いわゆる「報道部」を担当することになった。時あたかも「授業料値上げ反対」の運動が、急速に全学を包むように広がって行った時期だ。「報道部」は、そういう運動の主催者を掴まえて話を聞いたり、大学側の窓口に取材したりするのだ。
それを記事にすることが役割だから、学内に限られるものの、行動は一般紙のそれと異なるところがない。勿論、運動部のいろいろなリーグ戦での戦いや、絵画部やオーケストラの展示会・演奏会などにも顔を出して、記事にする。
しかし、すぐに紙面の半分は当時の全国各地での学園紛争や世論の安保反対記事で占められるようになる。
終章につながるこの物語の原点はこの大学時代の「報道部」の活動にあることを記しておこう。
恭子の方は女子寮に自治会があり、その会計係をやらされていると言うが、当時の国立大学の寮の自治会は、学生運動の拠点だったりするのだが、さすがに女子寮はそういうことはないと恭子は言う。
ところが、いつものデートのある日、恭子が橘に、
「アメリカは一体アジアをどう思ってるのだろう?」ときつい調子で橘に疑問を投げ掛けたことがあった。
「どういう意味?」
橘は聞き返した。
「ベトナムであんな激しい無差別攻撃を平気で行うアメリカの神経が分からないの」
早乙女恭子の言う無差別攻撃とは、アメリカ軍による北ベトナム絨毯爆撃(北爆)のことだ。ジョンソン大統領の米国は、ベトナムがソ連の陣営に組み込まれてしまえば、周辺アジアはドミノ倒しのように次々とソ連化してしまうという「ドミノ理論」で危機を煽り、ベトナムを死守する名目で戦渦を拡大する米国に対して、国際的非難の高まりが見られた時期である。
「君の親戚が原爆で一瞬のうちに消えてしまったのだから、君のアンチ・アメリカは良く理解出来るよ」
「そんなことじゃないの。日本に平気で原爆を落とせたり、北ベトナムを平気で絨毯爆撃出来るアメリカは、アジア人を同じ人間とは思ってないんじゃじゃないかしら」
「確かに。人種差別の要素もあるかもねぇ」
「日本も戦前にはとても酷いことしたけど、今この瞬間、これほど酷いことしてるのは世界中でアメリカだけでしょ。なのに何故、日本政府はアメリカに何も言えないの? 何故、国民は見て見ぬふりするの?」
ベトナムの模様は毎日のようにニュースで報じられていたが、この日本でベトナム戦争反対の街頭デモが起きたという話は聞いたことがないと橘は思った。大学新聞の記者としては「授業料値上げ反対」というレベルの運動を取材している程度で、日本の政治や世界政治への問題意識での新聞作りは「まだこれからかな」と早乙女恭子の指摘に頷かざるを得なかった。
2人は大学2年になった。お互い以前ほど時間が取れなくなり、デートの頻度は減って行った。
あちこちの大学で紛争が頻発し、学内も騒然とした感じになって行く。学生運動も、それまでの学生自治会内で新しい勢力が台頭し「全学連」は遥か昔に死語になり「全共闘」が勢いを増して行く。学生も盛んに街に出てデモを繰り広げるようになって行った。
この頃になると、学内新聞の論調も客観的立場の取材記事というよりも、打倒米帝国主義、ベトナム戦争反対、日米安保条約破棄の論説が紙面を覆うようになる。
橘の所属する新聞部の編集会議は毎日のように開かれ、3・4年生の先輩部員達が長時間議論を戦わせる世界政治討論会の趣になって行く。学内新聞は、この路線を一気に強め、全学の先頭に立つべきだという急進派と、学内世論の両方を客観的に伝える従来路線で行くべきだという穏健派に分かれて連日論争が繰り返された。
2年生の橘にはまだこの論争に口を挟むだけの考えが纏まっていないこともあり、専ら彼等の遣り取りを聞いている他なかった。だが、橘は恋人の早乙女恭子の影響もあり、心情的には急進派の言うことにより頷ける部分が多いと感じてはいた。
原爆で一瞬の内にこの地上から消されてしまった早乙女恭子の親族の無念や、同じように今、ベトナムで一般人が大勢殺されている事実を思い、橘の心も奥は「反米」となって行ったのである。
そして、橘と同じように、1・2生の新聞部員達の多くも急進派支持に傾いて行き、ある日、穏健派の先輩達は全員が席を蹴るようにして退室して行ったのだった。遂に2派による闘争に決着が着いたのである。
それ以降の大学新聞は、正にアジテーション一色の、学内闘争を指揮する学生自治会の機関紙、乃至、宣伝ビラ・アジビラに化して行った。それに嫌気して辞めて行く橘の同級生や後輩も数多く出たが、橘は、徐々に戦闘集団化して行く新聞部の執行部にある種の危険を感じ取りながら、更に、自分は決して執行部の人達のようには過激になれないことを自覚しながらも、退部しようとはしなかった。
自らの「日本はアメリカと手を結ぶべきでない」という考えに忠実であろうとしていたのかも知れない。
* * *
大学2年生の夏。久し振りに会った早乙女恭子は、橘譲二に一泊二日で海水浴に行くことを提案した。
橘は戸惑った。2人はまだキスをする以上の行為には発展していない。それが2人で泊り込みの小旅行などして良いものかどうか。それを見透かしたように恭子は橘に言った。
「勿論、部屋は別々に取ってね。それに民宿だったら学生も大勢泊まってるから変な目で見られないし」
「あ、あ、そうだよな。よし行こう」
その翌週、橘は丁度アルバイトで入ったお金を全額持って、恭子と共に大阪からバスに飛び乗り、2時間強を掛けて日本海側の野田海水浴場に着いた。観光案内によればこの辺りはリアス式海岸で、入江は変化に富んだ風景が一番の特色だという。海水浴シーズン以外の時は人も疎らな漁村ではないかと思われるが、今は8月初め、あちこち大勢の海水浴客で賑わっている。
予約しておいた民宿は、海に面した道路沿いの売店や小さな旅館などの家屋が立ち並ぶ一帯のはずれにあった。
橘は今日からの2日間は、大学の紛争のことも新聞部のことも全て忘れて、早乙女恭子と一緒に海水浴場にいられることをとことん楽しもうと考えていた。
通された部屋は海が正面に広がる絶景の部屋だ。並びの2部屋が橘達に当てがわれた。民宿のおかみさんが言うには、今日は天気が良いので海に沈んで行く綺麗な日没が見られるそうだ。
今、午後2時だ。2人は早速水着に着替えて海に繰り出した。浜辺の海の家からは大きなボリュームで「サウンド・オブ・サイレンス」が流れている。サイモンとガーファンクルが歌う、映画「卒業」のテーマ曲。橘の大好きな曲だった。
考えてみれば、水着姿で2人でデートするなんてこと今まで一度もなかったし、高校時代の体育の時間でも、夏の水泳教室は男女別々の授業だったから、橘が早乙女恭子の水着姿を見るのはこれが初めて。彼女のビキニに近いツーピースの水着と顕わになった曲線美。眩しい。
橘はこの時、妙に恭子を女として意識した。それはそうだ。橘も恭子も共に20歳の夏を迎えていたのだから。
民宿から借りた浮き輪とマットで、2人は波と戯れた。周囲にも大勢の人々が歓声を上げながら泳いでいるが、橘は彼女と手を繋いで波に揺れながら、2人だけの世界になって行くのを感じる。ベトナム戦争も、日米安保条約も、今は遥か遠くの世界のことのように思えた。このまま2人だけの時間が永遠に続けばいいと本心で思った。
ふと、恭子も同じように思ってるだろうか、と橘はそれを確認したい衝動に駆られたが、焼けるような太陽の下ではそんな会話は相応しくないと思い直した。夕方にでもなったら、自分の今の気持ちを伝え、恭子の気持ちを聞いてみようと。
宿に戻り、シャワーを浴び、1階の食堂で他の宿泊客と一緒の夕食となった。
食堂に行ってみると、家族連れが2組、男女の大学生と思われるグループが2組、橘達と同じような若いカップル3組が既に食事をしていた。どうやら一番最後に橘達がテーブルに着いたようだった。民宿のおかみさんによればこれで満室なのだそうだ。宿のご主人がその日に獲った魚を大きな皿に刺身として出してくれる。煮魚もある。兎に角新鮮で美味しい。
そう言えば、民宿の料理は安くて美味しいのだと誰かが言っていたっけ。本当だ。食事が終わると家族連れやカップルは部屋に引き上げて行くが、大学生のグループはどちらも食堂に残り、飲み会を続けるようだ。言葉や話の内容から、大阪の大学生と名古屋の大学生のグループのようだが、既に両者の交流が始まっている。
橘と恭子は、彼等を残して部屋に戻った。時刻は午後6時40分前後だった。おかみさんが事前に「日没は午後7時ぐらい。浜辺や自分の部屋から見ると良い」と教えてくれていたから、他の人達も早めに食事を終えて戻って行ったのだろう。
2人は橘の部屋から日没を拝むことにした。既に太陽は西の水平線の直ぐ上にあり、その辺りから手前まで、太陽が波に反射して、キラキラした光の帯がこちらに向かって伸びている。
黄金の輝きとは正にこのこと。昼間真上にあった太陽は白色だったが、今はその時より大きく赤い。いよいよ太陽の下弦が水平線と接触する。波の音以外何も聞こえず、海は赤に近い金色。幻想的だ。
橘も恭子もじっと見入っていた。太陽は僅かに残す上弦を海に沈めることを躊躇するかのように、最後に強い輝きを放った瞬間、視界から消えて行った。
橘は我に返って恭子を見た。恭子はそれより前から、ずっと橘を見つめていたようなのだ。
言葉は要らなかった。
2人は立ったままきつく抱きしめ合った。恭子は橘の胸の中で、小さな声で呟いた。
「このまま橘君と2人だけでいたい」
「俺もだよ」
橘が確認するまでもなかった。恭子も同じ気持ちだったのだ。橘は胸が一杯になった。
だが同時に、恭子が急に海水浴に行こうと言い出した時の唐突感が、今また「何故?」という疑問形で頭をもたげようとしていたが、「いや、今この瞬間が大切なんだ。理由なんかいらない」と思い直し、疑問を無理やり頭の片隅に押し込めた。
辺りは夜の帳が降り始めていた。静かだ。海は既に煌めきを止め、黒い海に変わりつつある。空は西の方が僅かに赤く残照に染まっているだけで他は暗くなり始めていた。
橘は無性に彼女の唇を求めた。彼女も素直に応じたのだった。橘は昼間見た恭子の水着姿が脳裏に蘇えり、もう我慢が出来なくなって、恭子を畳に押し倒そうとした。
だが、
「待って」
と恭子が言う。仕方なく橘は両手を離した。
「布団を敷くから橘君は、外を見てて」
言うが早いか押入れの襖を開けて、布団を取り出そうとする。
「いいよ、俺がやるから」
「いやよ。橘君は海を見てて!」
「分かった、分かった」
橘は心臓の鼓動の音が一段と大きくなるのを感じながら窓の外を見ていた。背後では彼女が布団を敷く音がする。ファスナーの音がする。布が擦れ合う音がする。
「もういいよ」
恭子の声。橘は振り向いたが部屋の中は真っ暗だ。それでも恭子が布団に仰向けに寝ているのは分かる。
「恭子!」
彼も隣に横になり彼女を抱きしめた。彼女は身に何も着けていなかった。橘も大慌てで着ていたものを全て脱ぎ捨てた。
* * * ...more»
≪高村比呂希 著≫
(この小説に登場する人物・組織は全て架空であり、実在する人物・組織とは一切関係ありません。 編集部)
橘譲二、通称JTは1947年(昭和22年)7月、神戸市長田区に生を受けた。父親は日本郵船のエリート・サラリーマンだった。男兄弟の次男坊として生まれた譲二は、長兄とは8歳も離れていたから、幼い頃は兄からとても可愛がられて育った。
戦後間もない、世間一般が、貧しく食べること生きることに精一杯の時代。隣近所の子供達の身なりも食生活も似たり寄ったりで、特に不満を感じることなく遊びに夢中になっていた。
ある日、小学校に入学することになり、母親に連れられて行った学校は、家から歩いて30分以上も掛かる遠くの学校だった。今で言う越境入学だ。どうもこの学校は、自分達が育った下町の長田区とは別の世界の人種が多く通う所だった。
彼等は橘譲二の全く知らない「幼稚園」という学校を卒園しているらしく、団体生活にもいたって慣れていて、先生との会話も洗練されているのを幼な心に感じ取っていた。
長田区に「幼稚園」なんてあったんだろうか? 小学校入学の前の日まで毎日、朝から日が沈むまで泥だらけになって遊びまわっていた仲間は誰も「幼稚園」などに行っていないし、小学校に入るまでその存在すら知らなかった。
そこは、神戸ではレベルの高さで有名な川井小学校で、良いとこの子女が多く通っていたのだった。
そんな小学校時代の前半は、テキパキとそつなくこなすクラスメートに比べ、団体生活に慣れず勉強嫌いな橘は、気遅れもあって目立たない子と言える存在だった。
転機は小学校3年生の頃。時は若乃花・朝潮の時代。小学校でも大変な大相撲人気だった。若乃花に憧れる少年達は。少しの休み時間も惜しんで、校庭に丸い円を描いては相撲を取った。腕っ節だけは人一倍強かった橘少年は、相手が誰であろうとやっつけてしまう。1年上の上級生にも負けることがなかった。
そうなると世の中が違って見えてくる。彼の強さがクラス中で注目され、敬意が払われるようになったのだ。
それが彼の自信に繋がり、弱虫で喧嘩などしたこともなかった自分に、子分のような取り巻きが何人も集って来るのだった。小学校卒業の頃には、いわゆる「番を張る」存在になっていた。
彼は小学校五年生の頃から、草野球に夢中になり、土地柄から当然、熱狂的阪神ファンになって行く。野球チームのみんなが憧れるのは「牛若丸・ショート吉田」だ。橘は持ち前の腕力にものを言わせて、「1番・ショート」の定位置を奪い取る。
丸岡中学では3年間野球部の選手として、野球付けの毎日を送り、将来は本気でプロ野球選手になりたいと願っていた。
橘は高校受験勉強なるものを一切やらなかったため、志望校に行かせて貰えず、担任教諭の指導で、元女子高で何年か前に共学となったばかりの県立夢ヶ丘高校に入学させられたのだった。男子よりも女子の人数の方が圧倒的に多い高校だ。
中学では硬派の代表格の野球部で鉄拳制裁も含め徹底的に鍛えられた橘は、自分の気質は質実剛健、或いは、バンカラが最も合うと思っているのに、男子が肩身の狭い元女子高。彼はそれが嫌で、校外では絶対に母校の帽子を被らなかったと言う。
さて、高校に入学してからの橘はどんな若者であったのか。高校野球部と言えば甲子園。だが、この元女子高に野球部はあるにはあるが、甲子園を目指す学校とはまるで別の次元だ。同好会と言う方が相応しい。野球を楽しみたい人集れ、と言った感じ。
毎年、甲子園大会の地方予選にはエントリーするものの、緒戦で万一勝ったりしたら選手自身が大騒ぎという校風なのだ。橘は、他にやりたいスポーツもないので、「仕方ない軟弱な野球部にでも入ることにするか」と渋々入部した。
3年間厳しい中学野球部で特訓させられた橘は、2・3年生を差し置いて直ぐにホットコーナー(3塁手、長嶋茂雄の影響で3塁手の希望者多く激戦区)のレギュラーを獲得する。そして、その年に地方予選ベスト16まで勝ち抜くという奇跡を演じてしまった。
初戦・2回戦まではスタンドにも応援らしい応援も無く人影疎ら。だが兵庫県大会だけは2回戦を勝つと試合会場が甲子園になる。憧れの甲子園。選手もそうだが、母校の生徒も、まさか野球部が甲子園まで行くなどとは思ってもみなかったから、この快挙に3回戦からは大挙して在校生や関係者が詰め掛けたのだった。
随分後のことであるが、橘の息子が野球をはじめた頃、彼は息子に
「お父さんは甲子園に出たことがあるんだ」と言ったことがある。それを聞いた息子は「うちのパパは甲子園の選手だったんだぞ」
と、友達に威張っているのが耳に入って、さあお父さん大慌て。
本当は「甲子園で野球をやったことがある」の間違いだと子供に詫びて訂正したが、東京育ちの息子は、父の言う意味の違いがサッパリ分からない。仕方ないから
「もうお父さんの甲子園の話はほかでするな」
とだけ息子に命じた。息子は目を白黒させながらも黙って頷いた。
甲子園で2勝したあと優勝候補の一つと言われた神港高に敗れて、この年の兵庫県大会は終わってしまった。この相手高にはさすがに歯が立たなかった。
ナインの中には後の阪急ブレーブスの宮本投手と巨人の正捕手になる吉田がいたのだから、大敗を喫したのは仕方なかった。橘は宮本の投げるボールに一度もバットが当たらなかった。掠りさえしなかった。この時、橘は初めて上には上がいるもんだと心底思った。
プロ野球選手になるという夢が急速に遠のいて行くのを感じざるを得ない出来事だった。
だが、それでも、選手達は学校内ではヒーローとして迎えられた。元々が県下の優秀で可愛い女子高生が通う高校だ。彼女達により自然発生的にファンクラブのようなものが出来て行った。
同じ1年生でレギュラー選手だった仲間達にもいつの間にか彼女が出来ていた。
ご他聞に洩れず橘の前にもある女性が現れた。ファンクラブの1人で同学年の早乙女恭子だった。小柄ながら、大勢の女子生徒の中でも抜きん出たその美貌は、学内で大評判になっていた。
* * *
その日の練習を終えて橘は1人自転車で家路を急いでいた。既に日は落ちていて、商店街も店じまいしている店が多く薄暗い。人通りも少ない。いつものようにある角を左折しようとした時だった。路地から出てくる自転車と接触しそうになった。
「あっ!」
という女性の声を聞いたような気がするがそれどころでない。橘は咄嗟の判断で左折をやめて右にハンドルを切り、対向の自転車を避けるように大回りして左折しようとした。
そこでタイヤがスリップし、橘は自転車もろとも横倒しになってしまった。したたか左肘を地面にぶつけた。
「大丈夫ですか?」
若い女性がそういいながら、急いで橘に駆け寄って来たようだ。多分、相手の自転車に乗っていた人だろう。橘は、左肘の痛さと、自転車の下敷きになった左足くるぶしの痛さに顔をしかめながらも、
「はい大丈夫です。どうってことないですよ」
と答えながら、ゆっくりと立ち上がった。
「あらっ、橘君」
「え? あぁ、早乙女さんか」
その人は、クラスこそ違うが学年が一緒で、入学早々、「ミス夢が丘高」と噂されるほどの美貌の人、早乙女恭子だった。野球部ファンクラブのメンバーだし、野球部の先輩達が何かに付け噂する人なので、当然橘も知っていた。と言うより、正確に言えば、橘が秘かに憧れていた人だ。
「ごめんなさい。私、停止もしないで表通りに出ようとしちゃって」
「それはこっちも同じ。君に怪我がなくて良かった」
「あっ、血が出てる!」
彼女はそう言いながら、自分のハンカチーフを取り出して、彼の左肘を包帯状に巻いてくれたのだった。嬉しい筈なのに、その時の橘は心臓が高鳴り、息苦しい程だった。
「私の家は直ぐそこだから一緒に来て。ちゃんと手当てしなくちゃいけないから」
彼女は自分の自転車に戻り、そう言ってから、ハンドルを握って歩き出そうとした。でも、彼はこれ以上彼女と一緒にいると、それこそ窒息しそうで、早くこの場から逃げ出したかった。
「いや、大丈夫だよ。俺んちもそんなに遠くないから。じゃぁ、これで」
と誘いを断わり、そそくさと自分の自転車を引き起こした。
「ホントに? 酷くなる前に必ずお医者さんに診せてね」
「あぁ、そうするよ」
橘は遠ざかりながら、振り向くと彼女はまだずっとこちらを見ている。現金なもので、憧れの女性と初めて口を利いたからか、痛さなど何処かに吹き飛んでしまったかのようだ。
「早乙女さ~ん! ありがとう!」
彼は心の中で叫んだ。彼女が巻いてくれた左肘のハンカチに、そこはかとなく彼女の優しさを感じていた。
そして、彼女が視界から見えなくなった所で自転車を止め、前輪を股で挟み、転んだ弾みで斜めになってしまったハンドルを元通りに戻したのだった。
結局医者に行くことなく、怪我は治ってしまったのだが、あれから50年近く経った今も、橘の左肘にはこの時の怪我の痕が残っている。
数日後、橘は、ハンカチを返すという名目で早乙女恭子を初デートに誘った。彼女は断わるどころか、寧ろ、「橘君と港を見に行きたい」などと嬉しい逆提案をしてくれる程だった。
早速2人は神戸港の中突堤に向かって歩いたのだった。今日は2人とも自転車を家に置いて来ていた。2人が近付くキッカケを作ってくれた自転車ではあったけれど。
その後、練習の合間を縫って、2人は度々デートを重ねた。話をしていて楽しいのである。心が弾むのである。野球部のこと、クラスのこと、先輩のこと、勉強のこと、プロ野球のこと、映画のこと、話題なんか何でも良かった。話をする、ただそれだけで橘は幸せだった。まだ一度も手すら触ったことがない。
これが初恋と言うものか、初恋は片思いが多いと物の本には書いてあるが、自分達は幸せだね、相思相愛だから、などと言い合っていると楽しい時間はあっという間に過ぎて行った。
時には王子動物園や須磨水族館などに行って乗り物に乗ったり、2人でソフトクリームを食べながら散歩することはあっても、2人はまだ16歳、高校1年生なのだ。学校の食堂で一緒に食事したり、休みの日には大倉山図書館で一緒に勉強するといった可愛いデートが専らだった。
高2になり、再び夏の高校野球県予選。昨年まで1回戦などには誰も応援に来なかったが、今年は違う。大勢の女子生徒が押し掛けてくれていた。だが、それにも拘らず、この年は、以前と同じように1回戦で敗れ去ってしまったのだ。
こうなると、期待させて期待を裏切ったツケは大きく、活発だったファンクラブも潮が引くように自然解散となって行った。
橘はこの敗戦をもって野球部を退団することにした。最早、プロ野球選手になることを夢見る野球少年ではなかったし、橘自身、野球に対する情熱が急速に消え失せて行くのをどうすることも出来なかった。勿論、野球を辞めることについては、早乙女恭子にも相談している。
「私は、3塁手の橘君が大好きだったのよ。でも、弱いチームでもう1年続けるだけの目的とか理由が無くなってしまったのよね、きっと」
というのが彼女の理解だった。当たらずとも遠からず。勝てない野球なんて面白くない。
一方で、当時世界を席巻していたビートルズやストーンズに憧れを持ち始めていた。静かに流行り始めたカレッジ・フォークなどにも興味があった。家には兄のギターが置いてあったので、いたずらしたことはある。
残りの高校時代は、運動部とは対極のそういう音楽なんぞをやり、青春を謳歌したいというのがその時の本音だったのだが、さすがに恥ずかしくてそこまでは彼女に言えなかった。早乙女恭子の方は、それまで野球部のファンクラブで活躍していたので、特に他の部活はやっていないようだ。
* * *
橘は野球部に退部届けを出して、暫くは自宅でギターを独習していたが、どこからかそのことを知った同じ小・中校出身の唐沢剛が、高2の秋口に橘をマンドリン・クラブに誘った。唐沢は高1の時からそのサークルに所属し、この秋からは指揮者に指名されたという。
誘われて行ってみると、女子50~60人、男子も10人程度いる大所帯の楽団だ。女子は全員マンドリン担当で、男子は指揮者唐沢の他、マンドリン5人、ウッド・ベース1人、ギター3人といったところ。ギターは、云わば主役のマンドリン演奏を引き立てる伴奏役のようだ。
「僕が入ってギターは4人だが、幾ら引き立て役と言っても、人数が少ない分、寧ろ目立っちゃうんじゃないか?」
そう橘は思ったが、唐沢初めギターの3人が、熱心に橘に一緒にやろうと勧誘してくれるので、不安ながら橘はその場で入部することを決めた。
彼がマンドリン・クラブに入ったのは、毎年9月に行われる文化祭の後だった。文化祭の一環で、市民会館を借り切って音楽祭も並行して行われるのだが、例年、音楽祭を最後に3年生は退部して行くから、丁度、2年生が中心となって、来年の文化祭を目指してクラブ運営を始めたばかりの時期だった。そういう意味では、新入りとしては丁度キリが良かったと言えよう。
橘のギター特訓が始まった。最初は2つの問題にぶち当たり、四苦八苦。1つは楽譜が分からないこと。もう1つは左手の指がサッサと動かないこと。野球で鍛えた握力があるのにコツが分からないので、左指の弦の押さえ方が不十分で良い音が出ないのだ。唐沢に聞いた。
「こんな調子で来年の音楽祭までにギターを弾けるようになるんだろうか?」
「平気平気! ギターの3人の内2人は去年から始めたんだよ。それまでギターなんて触ったこともないみたいだったから、初めは今の君より手が動かなかったよ」
「ホント? 3人とも上手そうだけどな」
「本当だよ。3か月で見違えるようになるから、俺を信じろよ」
唐沢の励ましもあって、そして、彼が付きっ切りで面倒を見てくれたので、度々の挫折を何とか乗り越え、少しずつ上達して行った。
実は橘と唐沢とは小学校時代、一緒に野球をやった仲だった。橘はその頃はショートをメインに投手・捕手・内野手など外野以外は何でもやったが、唐沢は専らピッチャーだった。身体も大きく、彼の投げる球が速くて、橘もそうそう打てなかった記憶がある。
橘は、中学に行っても当然、唐沢とは一緒に野球をやるものと思っていた。だが、唐沢は野球部に入らなかった。彼が選んだのはバレーボール部だった。
「何故野球をやらないんだ?」
大きな疑問と半分非難がましい気持ちを抱いて、橘は唐沢を問い詰めた。
「そりゃ俺だってやりたいよ。でもやれないんだ」
「なんで?」
「言えない理由があるんだ」
「言えよ。じゃなきゃ、納得出来ないよ」
「勘弁してくれ。やっと野球を諦めたんだから」
遂に彼は理由を言わなかった。彼の深刻そうな表情を見て、橘はそこに深い訳があるらしいことを察してそれ以上の追及は出来なかったのだ。
その後、人々の噂話が耳に入って来た。唐沢剛の父親と本家筋との間に金銭トラブルが生じて裁判沙汰になっているらしい。その本家筋は唐沢の父親を勘当し縁を切った。その本家筋の息子が同じ中学の野球部にいて2年生の有力選手になっているという噂話。
橘は、野球部の2年生に「唐沢」姓はいないから、本家筋の苗字は違うのだろう、多分唐沢は、父親に本家筋の息子と一緒に野球をやるのを反対されたのではないか、と推測したのだった。
高校3年生になり、マンドリン・クラブの練習もかなりサマになって来て、町のイベントや老人ホームなどの慰問コンサートなどをやるようになって行った。橘も、その頃になるとギターが似合うようになり、早乙女恭子にも褒められた。
「橘君は野球のイメージしかなかったから、どうなるかと思ってたけど、ギターを弾く橘君も素敵よ」
「からかうなよ。こっちは冷や汗もんなんだから」
「そこがいいのよ。大きい身体を小さくしてサ。とっても可愛いの」
「よせやい」
7月からは9月の文化祭に向けた練習モードに突入して行った。この時、指揮者の唐沢剛から、ステージの途中で、ギター班だけの曲を1曲演奏して欲しいと言われた。ジャンルはクラシックでもポピュラーでもフォーク・ソングでも何でも良いから、と言われた。つまり、ギター班4人で何か1曲やれと言うのだ。
相談した結果、ブラザーズ・フォーの「遥かなるアラモ」(The Green Leaves Of Summer)をギターを弾きながら歌うことにした。当時、正にヒットしていた曲だった。
9月第2週の木曜日から土曜日までの3日間、高校の文化祭が開催された。文化祭では教師は殆ど見守る側で、全ては生徒会中心で、各サークルや各部が自主的に準備を進め、イベントのシナリオ・演出なども生徒が行う。マンドリン・クラブは土曜日の音楽祭で40分の時間を与えられた。
7月からの猛練習で当日を迎えるのだが、8月の夏休み中も何日か集まって練習が行われた。これも部員が自主的に決めた夏合宿であった。
いよいよ音楽祭当日。音楽祭は校内の音楽サークルが全部一堂に会して演奏会を行うものだ。室内楽部、吹奏楽部、軽音楽部、ハワイアン・サークル、それにマンドリン・クラブだ。
市民会館を借り切って行うこの音楽祭は、他校にも結構人気が高く、毎年出演者の父兄・同校の生徒・他校の生徒などで千名規模の会場が満員になる。
今年はマンドリン・クラブがトリを務めることになったが、彼等の前が吹奏楽部というのはあまり良い順番とは言えない。実は男女半々のこのブラスバンド、音楽祭の一番人気だからだ。それも彼等のステージ前半のマーチやクラシック音楽などの演奏に次いで行われる後半のフルバンドのジャズ演奏が音楽祭のハイライトなのだ。
昨年の音楽祭を橘も見ているが、フルバンドが演奏したグレン・ミラーの「イン・ザ・ムード」には強烈な印象を受けた。橘はそれがキッカケで音楽もいいなと思い始めたのかも知れない。
吹奏楽部フルバンドの今年の・ナンバーは、ジャズではなくラテンの曲だった。「ある恋の物語」と「闘牛士のマンボ」。フルバンドの指揮を執っているのも同級生なら、「闘牛士のマンボ」でサックス・ソロをやるのも同じクラスの仲間だったから、橘は無論応援しながらも、彼等の上手さに舌を巻く思いだった。
「まっ、仕方ない。自分達はベストを尽くすまでだ」
いよいよマンドリン・クラブの演奏が始まった。クラシックの曲や民謡・童謡など全員で演奏した。さすがに猛練習の甲斐あって、マンドリン・パートはほぼ完璧な出来栄えだった。曲によって別々のマンドリン奏者による長いソロもあるのだが、みんな大したものだ。堂々と演奏する。ギター班の伴奏もほぼノーミスだった、と橘は思った。
遂にギター4人組によるフォークソング演奏の時間が来た。司会者がその旨をアナウンスしている間に、4人以外は全員舞台から退席した。彼等は中央のマイクの前に立ってギターを抱えて唄い始めた。
この1曲に賭ける。そんなつもりで毎日練習して来た曲、「遥かなるアラモ」。4人が別々のパートを歌う必要があり、ギターの伴奏よりも何よりも、そのコーラスの練習がきつかった。8月の合宿でもかなり大きな声で歌ったので、その後1週間程度みんな声が擦れて困った経験を共有している。
1千人の前でたった4人で歌うのはさすがにビビるが、こんなに練習したんだ、絶対に成功させてやるという強い気持ちで唄い終わった。物凄い拍手。嬉しかった。
再び全員による後半の演奏。ラテン風の曲も加わり、その時はギター班がパーカッションも担当して予定の曲を全部終えた。舞台袖に退いてみんなで握手。ハイタッチ。だが、会場の拍手が鳴り止まない。若しかしてアンコール?
音楽祭に来てくれた人達からの儀礼的なアンコールなのか、本当にもう1曲所望されているのか? マンドリン・クラブがトリだから、音楽祭全体に対してのアンコールなのだろう。しかし、こんな状況は想定していなかったから、アンコール曲など全く用意してない。
指揮者の唐沢剛が
「お礼の挨拶だけしてくるわ」
と言って舞台に出て行った。
「ありがとうございます。皆様のお蔭で、今日はとても楽しく演奏することが出来ました。心から御礼申し上げます。ただ、私達、アンコール曲を用意してありませんので、もう一度「遥かなるアラモ」をお送りして、アンコール曲に代えたいと思います」
ギター班の四人は同時に「えっ!」と声を上げた。心臓が飛び出るほど驚きながらも橘は、マンドリンを主役としてその引き立て役のギター班に最後の花を持たせようという唐沢の気配りを感じたのであった。
4人は万雷の拍手の中を再び舞台中央に進み出たのだった。橘は二人とも、今は野球ではなく同じサークルで音楽をやっていることに、不思議な連帯を感じながら歌い終わった。
橘はお礼の気持ちもあって、楽屋裏で唐沢に言った。
「全然打ち合わせもなくアンコールの舞台に呼ばれたから、心臓に良くなかったよ」
「あぁ、そりゃ悪かったね」
「いや、正直言えばギター班にアンコールやらせて貰って嬉しかったのサ」
「中学の時、野球を辞めた俺を心配してくれたの、お前だけだったからな。少しはその時のお返し代わりにはなったかな?」
* * * ...more»
≪高村比呂希 著≫
大変面倒なことながら、この方針転換は相手社の中島取締役と合意しないといけない。橘は早速中島と連絡を取り、相手社に乗り込み緊急の会談となった。
「そちらのシステムに当社側の最低必要機能を移植開発して来ましたが、このまま続けていても新会社開設までに間に合わないことが明確です。あと5ヶ月もないことを考えれば、両社のシステムを両方稼動させて、現場を混乱させないことと、新会社として1つにしないといけない最低限の統合だけを行なって間に合わせるしかないと我々は思っています。その了解を頂きに来ました」
「ちょっと待って下さい。今のやり方で間に合わないなんて報告、私のところには一切来ていませんよ。現場責任者も当社側の作業に何の遅れもないと言っています」
「それは、著しい認識誤りじゃないですか? お宅のコンピューターの中に当社機能を移植開発していますが、システム環境やデータ形式・持ち方など良く分からず、苦戦しています。喩え開発が予定通り終わっても、本番で正しく動く保証がないと言っていますよ。更に言えば、御社の現場の人達も、その新しいシステムが稼動した時、どこにどういう問題が波及するか想像も出来ないと不安を訴えているそうですよ」
「そんな大事なこと、わ、わ、私の一存で決められるものではありません。統合実行委員会に諮りそこで決めて貰うのが筋でしょう」
「形式的にはそうしますが、もう今日からでも新方針で全力で当たらないと、それこそシステムが理由で合併が延期になりますよ。そうなったら私も貴方も重い責任が問われますよ。私の方は覚悟が決ってますが」
「旨く行かなくなったのはそちらの開発遅延が原因でしょう? こちらの責任ではない」
「何言ってるんですか。合併の日にシステムが間に合わないのを知りながら何の手も打たなかったら、中島さん、あなた役員失格となりますよ」
「余計なお世話というものです。橘さんの一方的な話だけで同意しろというのが、どだい無理な話しだし、失礼な話です」
埒が明かないとはこのこと。自分の守備範囲を狭く狭くして、自分には落ち度が無いと言いたいとの態度が見え見えだ。中島は取締役として両社のシステム統合全体を成功させる役割と責任があるにも拘わらずだ。橘は自分も同じ立場だが、少なくとも当社側の作業にだけ責任を持てば良いなどという狭い料簡ではない。
切羽詰った崖っぷちの危機感を共有出来ない中島を相手にしていては、それこそ方針転換しても間に合わなくなる。橘は、中島を無視して勝手に動くことに決めた。
苦渋の決断だったが、そう腹を固めた直後、橘は社長室に直行した。このシステム統合方針の大転換について、河瀬社長には何としてもOKして貰わないといけない。方針変更するにもその期限ぎりぎりに来ているし、変更も出来ずにずるずる行ったら、システムが理由で会社合併が出来なくなる。そうなれば河瀬社長の責任問題になってしまう。
そんな必死な思いで社長室を訪れたのだが、生憎河瀬は不在だった。秘書室長に聞くと昨日から九州に出張しており、今日の夕方の便で東京に戻るとのことだった。帰りのフライトの時刻を尋ねると羽田には3時間後に到着予定だ。
新宿本社から羽田には車でも電車でも1時間もあれば充分だったが、橘は気が急いて居ても立ってもいられず、羽田に向かった。河瀬社長がまだ福岡市内から福岡空港に向かってもいない筈の時間にも拘わらず。
橘は羽田空港でどう2時間を過ごしたのかさえ覚えていない。どんなに叱られようと、どんなに罵られようと、この方針変更は何が何でもOKして貰わないといけない。橘は河瀬社長に「分かった」と言って貰うまでは絶対に引き下がらないし、河瀬を家に帰さない、そんな決意だった。
福岡発ANA278便が到着し、到着ロビーに乗客達が現れた。橘は必死に河瀬を目で探した。いない。ぞろぞろぞろぞろ、既に大勢が出て来ているのに、河瀬社長の姿が見えない。
じりじりして待った。ファーストクラスやビジネスクラスの乗客は優先的に通されるのだから、もう出て来ていないとおかしい。社長はこの飛行機に乗らなかったのか、と不安が募ったところで、やっとあのいつもの社長の顔を見付けた。
「社長! お待ちしていました」
「おう、橘君か。何故わざわざ出迎えに来たんだ?」
「今日中に是非とも社長にご了解頂きたい事項が生じまして」
「そうか。待たしてしまったようで悪かったな、預けといたバッグがなかなか出て来なくてな・・・。だが、その話明日じゃダメなのか」
「はい。明日緊急に事務・システム統合委員会を開催して、大きな方針変更を決定しないといけなせんので」
「今は、俺も少し休みたいところなんだよ」
「すいません、お疲れのところを。でも、緊急を要する問題ですので、どうか・・・」
「仕方ない。車の中で聞こう」
車の中で、案の定、河瀬社長は不快感を顕にした。
もう10月末だぞ、そんな方針に変えて間に合うのか、橘が付いていながらこんな遅い時期まで引っ張ったのはどういう訳だ、一層のこと、事務もシステムも店舗も何も今のまま触らないで、合併だけしてお互い営業で競い合うという手もあるぞと、河瀬はありとあらゆる罵詈雑言を橘譲二に浴びせた。
河瀬が腹立ちまぐれに言った最後の話など、最初の何年かは何の統合効果も生まないのだから合併の意味もない。河瀬が「責任を取る」と言っているように橘には聞こえた。
橘は新方針について必死に説明し、元々、片寄せ方針で旨く行かなかった時のコンティンジェンシー・プランを考えてあり、それがこのやり方であること、五ヶ月あれば充分間に合うことを訴えた。
「勝手にしろ!」
「ハッ、ありがとうございます。明日早速その方向で動きます。2~3日中に社長のお出ましを願う場面にさせてみせます」
河瀬の「勝手にしろ!」「好きにしろ!」は不本意ながらOKという意味であることは長い付き合いの中で橘は良く解かっている。橘が言う「社長のお出ましの場面」とは、全ての周旋を終え、両社の最終結論を出しておきます、という意味だ。
2日後、両社の副社長主催の「統合実行委員会」を緊急開催して貰い、方針変更を提案した。この「統合実行委員会」と言うのは、合併の日まであと半年となった時、それまでの、両社社長が主導した合同経営会議で決めた各分野の枠組みや基本方針を受けて、残り半年間、各作業工程を済々と進める最高統括会議である。
座長は東都損保側は星野副社長、中央損保側は金井副社長である。金井副社長は当初事務部門の担当役員として、事務・システム小委にも出席していたが、7月の体制変更で副社長に昇格し同時に担当部門が営業推進本部と変わっていた。
「以上、この段階での方針転換により皆様に大変ご迷惑をお掛け致しますことを深くお詫び申し上げます。しかしながらことは緊急を要しますので、是非ともこの新方針をお認め頂きますよう、ご審議、宜しくお願い致します」
橘は深々と頭を下げた。東都損保の星野副社長が、
「中島取締役からは何か付け加えることはありませんか?」
と水を向けた。
「特にありませんが、我々の認識とは必ずしも一致していないということだけお伝えしておきます」
「ええと、それは、方針変更の必要はないとお考えだという意味ですか?」
「これからの頑張り次第では充分間に合せることが可能だと認識しています」
出席者の間でざわつきが起きた。
星野副社長は同席している兵頭一樹東都損保システム部長を見た。
「兵頭君、君は30年のシステム経験から見て、どう判断したのかね?」
「はい。今の危機状況を橘さんにお伝えしたのは私であります。開発作業のスケジュールという意味では殆どの工程はオン・スケジュールで、遅れがある工程でも1~2週間ですから、これは中島取締役の言われるとおり、今後の頑張りで充分追い着き可能です。
問題は、東都側で開発しているシステムが、中央側のシステムの中で本当に旨く稼動するのかという点なんです。来年4月1日の合併を控えて、もう5ヶ月を切りましたが、両社システム部門の現場では、確信を持っている者が1人もいません。つまり、東都も中央もなく、最終システム全体が今の延長線上で旨く行くと確信を持てている者がいないということです」
「兵頭君。システムの門外漢には良く分からんのだが、両社でこうしましょうと一致した青写真で仕事を進めて来たんじゃないのかね? 君の話を聞いていると、最初から確信もなく突き進んだと、とんでもないことのように聞こえるぞ。一方の中島さんは行けると言うし、一体どうなってるんだ! 分かるように説明しなさい!」
「お言葉ですが副社長! 最初から相手社のシステムを合わせて全体が全て分かっている人間なんて1人もいません。全体の半分はブラック・ボックスというのがスタート時点の与えられた条件なんです。ただ、一般的に、作業をしながらブラック・ボックスに切り込んで行って少しずつ分かって行くものなのです。従って半年ほど開発を進めれば、お互いかなりの理解が進み、軌道修正含めて、これで良いんだという確信に至るのが経験則でした。
残念ながら、今回はそうはならなかった。こんな事態に陥らせておいて、とても言えた義理ではないですが、30年間の経験から言わせて貰えれば、この時点で誰も確信が持てていないことは、必ず失敗します。大混乱に陥ります」
「橘さん、兵頭さん! 随分酷い提案ですね」
中央損保の金井副社長が、遂に口を挟んだ。
「大体これまで何の前触れもなく、いきなり当委員会でやり方を大きく変えたい、なんて、経営軽視も甚だしいですよ。何故前もってサウンドしてくれなかったのです。そうしてくれれば、中央損保側のシステム現場にヒヤリングを掛けることも出来た」
これには星野副社長が不思議そうに答えた。
「私は一昨日、聞いていますよ。だから、そりゃ大変だと今日の緊急委員会開催を金井さんにお願いした訳でして・・・」
「中島君! 何故私に知らせないのだ! こんな重大なことを」
「副社長、申し訳ありません。先日、橘さんがお見えになって、この件をお話になったのですが、その時は東都側の作業が遅れていて間に合うかどうか危ぶまれるとのことでしたので、頑張って貰うしかありませんとお伝えただけのことでした。副社長にお伝えするまでもないと・・・」
橘は公式の席でなかったら、中島の胸ぐらをつかんで張り倒したい衝動に駆られた。だが、今日は何があっても、方針変更案を承認して貰うことだけを優先しようと、ぐっと堪えた。代わりに兵頭が言い切った。
「中島さん。危機に直面しても危機だとも思わない責任者なんてあり得ませんよ。部下の方に聞いてみて下さい。『大丈夫、旨く行きますから』という人がいたらそれはシステムのプロじゃありません。中島さんに悪い情報が入らないようになっているなら、もっと危ない。私は、御社の現場責任者の方々や、そちら側の作業に当たっている協力会社からも見解を頂いています。御社側も含めて誰一人、中島さんのような楽観論者はいません!」
紛糾に紛糾を重ねた結果、やっと方針変更を認めて貰った。しかし、この方針変更は、相手社に疑心暗鬼を生み、双方の経営者・本社部門にはシステム統合の失敗と受け止められ、大騒ぎとなった。
橘と兵頭は様々な会議に連日出頭して、事情説明に追われた。両社合同の本社部門長会議では、橘はあたかも吊し上げ同然の非難の的となった。正に針の莚の心境だった。そういう場には決して中島取締役は顔を出さなかった。
しかしながら、両社のシステム部門はこの騒動を目の当たりにして、これを境に強烈な危機意識を共有し、初めて両軍を挙げた一致協力体制が出来上がり、新方針に基づく短期集中の詳細検討と、2交代制の24時間システム開発体制に突入して行った。
2001年4月1日の新会社発足にどうにかシステムは間に合った。橘はこれを置き土産にこの日、関東営業本部の新会社初代本部長に就任。得意の営業分野に戻って行った。
同じ日、中島は新会社の営業推進部の取締役部長に、兵頭は新会社の執行役員システム部長に就任した
* * *
入れ替わるように、その後任として前島仁が事務・システム本部の本部長として異動して来た。前島は橘と同じ入社年次だ。
新会社がスタートして1週間もしない内に、全国あちこちで事務の混乱が起き始めた。物流ネックやタイムラグ、システム不備、現地対応の不慣れなど様々な要因により事務が滞り、月末を乗り切れない事態に直面した。
再び事務システム部門は社内の厳しい目に晒された。そういう事務システムにして合併を迎えた当該部門に非難の目が向くのは当然だが、その同じ目は、既に本社を離れている前責任者の橘にも向けられた。
前島は本社各部より人材を集め、「緊急対策本部」を立ち上げ、事務混乱解決の専任プロジェクト体制を敷いた。
前島の素晴らしさは、4月最初の締切を迎えるまでに打つ対策と、それを乗り越えた後打つ手とに明確に分けて、且つ、全国の営業部門にキメ細かく的確な指示をして、更にその結果を部下に現地確認させたことだ。全国1店舗の対策漏れも許さない徹底の仕方である。事務正常化を自分の責任で是が非でも成し遂げるという強い姿勢を貫いたのだ。
その甲斐あって、事務混乱は約2ヶ月で収束に向かった。これは前島が全くの専門外である事務システム部門に異動して来て、たった2ヶ月で挙げた大きな功績だった。
その後、前島を責任者とする事務一元化プロジェクトがスタートした。その中身は、システムの一本化ではなく、二本立てになっている現場事務だけを兎に角一本化するというもので、システム片寄せではなかった。システムの並存解消にはもっと多くの時間と費用が掛かることから見合わされたのだった。
合併前から河瀬社長や他の経営陣も期待し、橘もこの合併に大きな夢を膨らませていたのは、2社が一緒になれば1社分のシステム費用で済むので、浮いた1社分の費用で「新幹線システム」(大手他社を凌ぐ競争力のある新システム)を作れるようになるという合併効果だった。
しかし、実際には、より現実的な問題解決が優先されたのだ。合併当初の事務混乱を収拾させてもなお、それだけ現場の事務ロードが重くこれを低減させることが喫緊の課題だったということだろう。
「新幹線システム」は先送りされたのか、はたまた、経営課題から落とされたのかは定かでなかったが、もう経営陣の誰もが「新幹線システム」を口にしなくなった。
自然消滅と見るべき状況に至り、橘は、合併効果として期待した、システム統合による新幹線システム開発資金捻出作戦は失敗に帰したと認めざるを得なかった。
当初の河瀬社長の思惑通り、「3J」が順番にシステム部門を経験した。その中で、最も重く厳しい役割を担ったのが橘であり、見事に失敗したのも橘であった。反対に前島と須賀は初体験のシステムで成功を収め彼等の経歴の中で燦然と輝くキャリアとなったのだった。
前島が指揮した事務一元化プロジェクトが約1年半掛けて目的を達成し、更に1年が過ぎた頃、河瀬社長が退任を発表した。東都損保時代から通算で6年という、慣例上の社長任期満了に近付いていたのだ。彼は次期社長に前島仁を指名した。
因みに、「3J」はその前年までに、既に専務になっていた前島が社長に就任して半年後、橘譲二が退職し、須賀次郎は専務に昇格した。橘の最終役職は常務取締役だった。
だが、前島新社長の盟友とも片腕とも目され、前島自身もそれを期待し、誰もがいよいよ「3J」の時代の到来を確信していた中での予想外の橘の退職は、このシステム統合の失敗が要素の1つであったとしても、必ずしも、決定的理由ではなかった。
この橘の「我が儘退社」の経緯、乃至、真相については後段で触れる。
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