「皆さん、私が新社長の前島です。どうか宜しく。例年、新年度のスタートに当たって、1年間の経営目標を定め、全社員の意思統一を図る場である、支店長会議を開催していますが、本日はこれを拡大して、全国の支社長・営業課長の皆さんにもお集まり頂きました。それは、本日スタートを切った新経営陣の決意を皆様に伝えると共に、全社員が一丸となってこの会社を勢いのある会社に変え、お客様により安心・安全なサービスをサポートする、真に顧客に役立つ保険会社にして行くことを、全員で誓い合う場としたかったからです。
我が社は東都損保と中央損保が合併をして3年が経ちました。前社長の河瀬新会長のご指導の下、合併という大事業を成し遂げ業界四位という大手損保の地位を確保し固めることが出来ました。
しかしながら、会社合併からの3年間は、皆さんも良くご存知の通り、日本経済の低迷を受けて、減収減益との闘いを強いられましたが、社員全員が一致結束してコスト・セーブに努力した結果、遂に黒字を出せる会社になりました。このことは、即ち、我が社は3年を掛けて、収益構造を確立・獲得出来たということを意味します。
しかし我が社は、残念ながら合併時よりも収入保険料の規模が縮小したままの状態が続いております。規模縮小は衰退に他なりません。
新社長としての私の使命の第一は、何としても増収構造を確立して成長軌道に乗せることと認識しております。どうか営業の皆さんは、もう一度、『増収こそ命』を胸に刻んでください。営業の使命は何と言っても増収を確保することであります。
本社部門には、営業第一線が増収出来るよう、その一点であらゆる施策を考え実施して貰いたい・・・」

2004年4月1日、この日新社長に就任した前島仁は全国の営業本部長・支店長、並びに、その傘下の営業課長・支社長全員を都内の某ホールに集めて、社長就任のお披露目を兼ねた、新体制による初めての支店長会議を開催した。全国から約1千名の役職者が一堂に会した盛大な会議となった。

常務取締役関東営業本部長の橘譲二は、友人であり、営業マンとしても良きライバルであった前島仁の晴れ舞台の演説を、大きな感慨をもってひな壇の上で聞いていた。但し、一点だけ、少しばかりの違和感を感じながら。

橘譲二(JT)と前島仁(JM)は入社が同期で、且つ若い時から2人とも営業で際立った成績を上げ、その名が知られる存在だった。彼等の2年後輩にも2人に比肩する営業マンがいた。名を須賀次郎(JS)と言った。3人が揃って支店長になった頃、人は彼等を「3J」と呼ぶようになっていた。

橘の感慨は、本日、盟友の前島が遂に社長になったということ、そして前島の社長姿が直ぐ目の前にあるということだった。
事前に前社長の河瀬から、「橘のごく個人的な考えで良いのだが、次の社長には誰が相応しいと思うか?」と聞かれ即座に「それは前島でしょう」と答えた場面がつい昨日のように蘇えった。それは単なる参考意見であって、最終的には河瀬前社長自身の決断だったにしても、橘には盟友前島の擁立に少しでも関われたことが嬉しかった。
そして、前島の社長就任はまた、「3J」の過去の業績が花開いたことを意味し、橘は、これで思い残すことなく会社を去れると思った。

一方、新社長演説に対して感じた違和感というのは、前島が増収第一主義を大々的に宣言したことだった。橘自身は、日本経済が右肩上がりの時代だった頃のような成長路線は最早過去の遺物であり、今は会社全体を、数字さえ挙げていれば少々のことは目を瞑るといった過去からの悪しき風習を完全に断ち、無駄のない筋肉質の会社にして、顧客にとって最も使い勝手の良い会社を目指すべきだと思っている。
橘はやはり辞める決意をして良かったと思った。このまま自分が会社に残ったら。遠からず前島と意見対立をする場面が来るかも知れないと感じたからだ。

橘はこの後、前島新社長に辞表を提出する。新社長として盟友の橘を他の誰よりも頼りにし、期待していた前島が、橘の突然の辞表提出に、驚きこそすれその理由を理解出来る筈もないから、なかなか辞表を受理しない。

「本当にあんたには手子摺るよ。俺は橘をずっと盟友だと思って来たし、今もそう思ってる。だが、お前はそうは思っていなかった・・・?」
「いや、それは違う。俺にとっても前島は今でも盟友中の盟友だよ」
「だったらなんで、俺がこれほど頼んでるのに断わるんだ? お前が社長じゃなく、俺が社長になったからか? 喩えお前の方が社長になったとしても、俺は喜んで協力しこそすれ会社を辞めるなんてあり得ない」
「そういうことじゃないんだ。河瀬さんの社長退任と共に、俺の役割は完全に終わったと悟ったのよ」
「分からん。河瀬さんだって、後は3Jに託したと思ってる筈だって。俺には敵前逃亡としか思えない」
「分からんでもいい。盟友と思ってくれているなら、俺の最初で最後の我が儘を聞いてくれ」

半年間、2人が揉めに揉めた挙句、9月末日、橘は会社を去った。

誰にも理解されない退社だったが、これが橘にとって新たな人生の幕明けを告げる号砲となった。それからの橘の人生は大転回して行く。人は彼を称して、3つの人生を生きた人と言う。

一つは、この世に生を受けてから22歳で就職するまでの人格形成期。特に、野球・音楽・恋愛・学生運動などを中心とする青春時代は、後の橘譲治を形作る上で重要な期間だった。

2つ目の人生はサラリーマンとして全力疾走した35年間である。彼が他に比べて特別に働き者だった訳ではない。その彼が、「3J」と称され若手支店長の代表格に擬せられたのは、常に仕事を通じて改革者の道を歩み、それを潰そうとする一派からの圧力にも、決してぶれることなく貫いたからだろう。結果は常に後から付いて来た。2つ目の人生の最後は、社長の盟友という誉を得て退職することが出来た。

そして、3つ目が退職後の人生だ。そこには、橘自身も想定し得なかった劇的な人生が待っていたのだ。
普通、サラリーマンの定年退職後の人生は「余生」という言葉に代表されるような、表舞台から降りた後の、のどかなおまけの人生を想定する。
だが、橘の場合は、その対極の行き方を選ぶ。それは、日本の経済恐慌、もっと言えば、日本を沈没から救うため、日本再生に向けた命がけの戦いとなったのだった・・・