≪高村比呂希 著≫
翌朝、早乙女恭子が、午後には大阪に戻りたいと言うので2日目も海で遊ぶものとばっかり思っていた橘は、急遽、宿の時刻表を調べて、午後1時に新大阪駅に着くバスがあることが分かり、2人はそれに乗って帰った。
「橘君、海水浴に付き合ってくれてありがとう。絶対に忘れられない旅行になったわ」
「いや、それは俺も同じだよ」
「橘君、これからも新聞部やるつもりなんでしょ?」
「うん、そのつもりだけどね」
「新聞部で頑張ってね。だけど、自治会活動なんかはしない方がいいと思うよ」
「そこまではどうも俺には無理だと思ってる」
「ならいいけど」
これが早乙女恭子との最後の会話となろうとは、この時まだ橘譲二は知る由もなかった。
海水浴から帰って橘は1人下宿の部屋で、ギター片手に「サウンド・オブ・サイレンス」を歌えるように練習に励んでいた。早乙女恭子からは一切連絡がなかった。四日目、橘は恭子に連絡しようといつものように阪大女子寮に電話した。
「はい、清心寮です」
「早乙女恭子さん、お願いします」
「あのう、早乙女さんは先週寮を出られましたが・・・」
「寮を出たというのは、引越ししたということでしょうか?」
「はい、そうです」
「えっ、そ、そうなんですかぁ。引越し先、分かりますか?」
「いいえ」
「先週というのは具体的には何日でした?」
電話の相手は海水浴に行く前日を告げたのだった。
「引越したこと、何故一言も言わないんだ!」
橘は怒りにも似た感情を恭子にぶつけたかった。まっいいや。そのうち連絡して来るだろう、と一旦は矛を収めたのだが、数日後、彼の下宿に早乙女恭子からの手紙が来るに及んで、橘はただならぬ事態を悟らされた。
手紙は淡々と次のように書かれていた。
前略
先日は、突然の提案にも拘わらず、小旅行にお付き合い頂いてありがとうございました。あの日のことは私の一生の思い出にさせて頂きます。
橘さんは、突然私が姿を消したことを怒っていらっしゃるかも知れませんね。でも、私はもうこれ以上橘さんと一緒にいることは許されないので、辛く胸が張り裂ける思いですが貴方と別れることを決意しました。
私は既に、志を共にする同士と行動を共にすることを誓っています。ベトナム戦争反対、米帝打倒、安保条約破棄を勝ち取るために一身を捧げることを選びました。原爆で一瞬のうちにこの世から抹殺されてしまった私の親戚の人々や広島・長崎の人々の無念を思う時、私が何もしないでいる罪悪感は払拭しようがないのです。
橘さんとの幸せな人生を選ぶか、自分の信念に生きるか、悩みに悩み抜きました。はたまた、その両立の道は無いかとも、必死に考えましたが、それは貴方に迷惑が掛かるだけで、下手したら貴方の将来を私が潰すことにもなり兼ねません。
お察しの通り、私は大阪大学全共闘のメンバーの一員として国家権力と戦う道を選びました。これからは、彼等と四六時中行動を共にするつもりです。
橘さんには心から感謝しております。私の青春をかけがえのないものにしてくださいました。しかし、もうこれ以上貴方に甘える訳には行きません。
このような手紙で一方的にお別れを言う私をどうかお許し下さい。そして、私をどうかお忘れ下さい。私をどうか探さないで下さい。
草々
橘譲二様
早乙女恭子
橘は金鎚で脳を叩かれた程のショックを受けた。自分の前から彼女が去って行くなどと考えたこともないことが突然起きたのだ。信じられない。もう一度読み返してみても、本当に恭子が書いたのかと疑いすらした。
そして、彼女の言葉に間違いないと認めざるを得なくなった時、悔しさが湧き上がった。
新聞部の記者として一般学生より何倍も問題意識を持って活動して来た自負はあるものの、関学学生自治会のプロ活動家達には大きな距離感を感じ、橘自身、自分の優柔不断さをよくわきまえており、彼等のようにある覚悟に基く信念と行動の一致は、自分には到底無理だと思っていたからだ。
なのに自分の恋人がそういう覚悟の出来る人間だったのを知り、橘は今更ながら自分の小ささをひしひしと感じていた。もう一人の自分が橘を責める。
「橘、お前はそれでも男か! 彼女の方がよっぽど潔いしその決断は男らしい」
不覚にも橘の目には涙が溢れ、手紙の上に落ちた。
「このまま、俺は本当に恭子を失ってしまうのか」
現実感がなかった。そう簡単にこの現実を受け止められる筈もなかった。
その後、橘は阪大の学生課に行って高校の同級生と告げて、早乙女恭子の現住所を聞き出したりもした。だが、その住所は神戸市の実家になっていた。万が一にも、本当に実家から通っているということはないだろうかと祈るような気持ちで、だが反対に実家に戻っている筈がないことを分かっていながらも、橘はその足で神戸の実家に帰り、翌日早乙女の実家を訪ねてみた。
母親が応対してくれた。
「あら、橘さん。いつも恭子がお世話になっています。珍しいですね、橘さんが訪ねてくれるなんて」
「久し振りに実家に帰ったので寄ってみました。もしかして恭子さんも実家に帰っているかなと思いまして」
「7月に一度戻って来たけど、夏休みは帰れないって言っておりましたねぇ」
「あっ、そうですか。じゃぁ、向こうに帰ってから彼女に連絡してみます。お邪魔しました」
恭子の家族もまだ彼女の行動を全く掴んでいないようだ。
暫くして彼女の母親が、娘と連絡が付かなくなったと橘を下宿に訪ねて来たことがあったが、橘は恭子から来た自分宛の最後の手紙を母親に見せてやることしか出来なかった。
* * *
しかし、一瞬だけ橘が早乙女恭子を目撃したことがあった。それは、ある日関西学院大新聞部記者として京都市で行われた大規模なベトナム反戦街頭デモの取材中に、東京で大規模な反戦デモが予定されており、全国の大学にデモ参加が呼び掛けられているというものだった。
それは、学生達が主催する立川米軍基地に近い砂川での全国規模の決起集会のようだ。
橘は、新聞部同学年で報道カメラマン志望の宮本という男と2人で新幹線に飛び乗り、早速東京に向かった。
彼等は東京駅に着くと休む間もなく中央線に飛び乗って国鉄立川駅に向かった。最初の取材は立川駅に集ってくる学生活動家達の大学名とその人数を出来るだけ沢山聞き出すことだ。立川駅に降り立つと既に大勢の若者がヘルメットを手に集って来ていた。橘は早速取材を始めた。
「どちらから来ましたか?」
「神奈川」
「大学はどちらですか?」
「横国」
「何人くらいが横国から来ていますか」
「ざっと50人と言ったところかな」
こんな調子で、橘は次々に聞いて行った。学生達が駅前の広場に無統制に思えるように屯しているのは、どうやら立川駅前を各大学の集合場所にしているかららしい。また、新手の一団が駅から吐き出されて来た。大阪弁の集団だ。
橘はその中に早乙女恭子に良く似た女性を認めた。そして橘は彼女に釘付けになった。恭子に間違いない。彼女は仲間と話しながら橘の直ぐ近くまでやって来たので、まだ橘の存在に気が付いていない。橘は覚悟を決めた。恭子に質問することにした。
「大阪からですか?」
橘の質問に振り向いた恭子は、大きな目を見張った。かなり驚いているらしく、声が出ない。
「皆さん、大阪から来られたんですよねぇ?」
橘はもう一度恭子に尋ねた。
「いいえ」
これが恭子の答えだった。
「阪大の皆さんじゃないんですか?」
彼は更に畳み掛けた。その時、近くにいた仲間の男子学生が、
「何を聞いてまんのや。いややゆうてるやろ。あっち行けや。オイみんな」
と言うなり、恭子の周りを大勢の男子学生が取り巻き彼女を守るようにして砂川に向かって行った。
橘はずっと恭子を見つめていた。彼女は一度だけ橘を振り返っただけだった。
何故か駅前のどこか近くの店から「サウンド・オブ・サイレンス」が聞こえていた。あの時浜辺で聴いたあの曲が。
こんな所で彼女に会えるとは。凄く驚いたが、再会出来た喜びなど全くなかった。寧ろ、橘は、自分の恋はこれで完全に終わったことを悟った。恭子とのことは過去のことと、心の決着を着ける時だと自分に言い聞かせていた。だから、同行したカメラ担当の宮本が、「お知り合い?」と質問したのも橘の耳には入らなかった。
橘は立川市砂川で行われたこの大規模なベトナム戦争反対のデモを取材する中で、中央のステージで、ある男がリーダーとしてアジテーションを行っている場面を目撃した。橘は演説の中身ではなく、その男の声と姿に魅せられたのだった。
それが、歌手加藤登紀子の旦那になった今は亡き藤本氏であったことを後で知る。
* * *







