≪高村比呂希 著≫
京都に戻った橘は、立川での藤本と早乙女恭子の2つの残像から、それまで読みたいとも思わなかったマルクスやレーニンの本を読み漁るようになって行った。
何故彼等は他を全て捨ててまで、あのように己の信念に忠実に生きることが出来るのか、その秘密を探ろうとしたのかも知れない。自分に足りないものを埋めようとしたのかも知れない。
だが、マルクスの本質は理解出来ないまま、心情的左派の色合いだけが強まって行く。期を同じくして、学内も70年安保を控えて、いわゆる一般学生をも巻き込みつつ益々左傾化を強めつつあった。
大学3年生になった橘は、新聞部の執行部内で重要ポストの1つである、報道局長に選ばれた。未消化ながら「マルクス主義」の論調を張り、「唯物史観」を語る橘譲二を執行部の先輩達が選んだのだ。
このことが、後に橘を大いに悩ますことになる。
その年の秋、関西学院大の学内は学生ストライキに突入して行く。新聞部の執行部にも学生自治会のメンバーを兼ねている者が多いので、当然、この闘争には新聞部が挙って闘争委員会を支援すべきであるとの意見誘導がなされる。
だが、橘は、報道局(学内新聞の取材記者グループ)のメンバーを、指示や命令で闘争委員会本部の支援要員にすることは出来ない。それは、理論上、留年や就職放棄を覚悟することであり、そんな重い決断をメンバーに迫る権限や義務を、学生である1報道局長が持っている筈はないと思った。
橘は執行部の面々を前に、
「闘争委員会本部に行くかどうかは、自分のところは、メンバーの自主判断としたい」
と発言した。この発言を巡って、橘が予想した通り会議は荒れに荒れた。
「ことここに及んでまで、橘は軟弱に過ぎるのではないか」
「橘が日頃唱えていることと、いざとなった時の行動が違い過ぎる」
「新聞部は学内のオピニオン・リーダーであるべきだ。それは、今回のストに際しては先頭に立つということだ。橘にその認識があるのか」
「そういう重要な場面で自主判断とは日和見と言われても仕方ないのではないか」
先輩達の糾弾は留まる所を知らない激しさだった。橘はそれにじっと耐え、最後にこう言った。
「闘争委員会の本部に入るかどうかというのは、自分の将来を決めてしまうかもしれない大きな決断となる。それを誰かが勝手に決めることなんて絶対に許されない。自分自身で重大な覚悟を持って決めること以外ない。私は当然のことを言っているのであって、日和見などでは決してない」
「じゃぁ、橘自身はどうすんだ?」
「勿論私は参加する」
「分かった」
こんな遣り取りでその場は何とか収まった。橘自身の参加は、40年経った今でも、未だに本心だったかどうか不明なのだ。行き掛かり上、その場を収めるにはそう言うしかなかったとも言えるし、自分の信条に忠実に言ったとも言えるからだ。
1969年(昭和44年)、70年安保改定阻止に向けて、学生運動は大きな転換期を迎えていた。
全国殆どの大学は機能麻痺状態となり、「東大安田講堂事件」と同様の学生による学内籠城事件は、全国で同時発生的に展開されて行った。
東大安田講堂事件の陰に隠れて全国版のニュースにはならなかったが、橘のいた関西学院大も同じようにかなり過激だった。
今思えば、1970年を目前にして、学生運動の鎮圧に乗り出した大きな国家権力の前に、一般学生を巻き込んだ大衆運動の限界に来ていた。
安田講堂陥落のその同じ日に、関西学院大にも、機動隊がロックアウト解除のために入って来ることが知らされた。筋金入りの活動家と、心情左派的一般学生によって、機動隊乱入阻止の闘いが始まる。
徹夜で座り込む2千人程度の一般学生と、徹底抗戦の準備のため、コンクリートなどを持ち込んで籠城を準備する活動家達。橘にとっても「人生最大の決断」の時であった。闘争本部の支援要員としては、間違いなく刑務所送りを覚悟し、家族も、友達も全てを捨てて籠城側(活動家の役割)に回らざるを得ない。
その時、闘争委員会の活動家に橘を含めた十数名が呼び出された。
「君達には、これから一般学生を無事学外に脱出させる任務を負って貰う」
と告げられた。
「これは、闘争委員会としての指令である」
と言う。
本来命令される理由(いわれ)は何もないのだが、その口調から、橘たちの揺れる気持ちを既に見透かしていたものと思われる柔らかいものだった。脱出経路を示される中で、橘は心からホッとしたのを覚えている。
進路は体育会系の猛者達に塞がれていたが、その使命感からと言うより、籠城戦から逃れられたという恐怖心からの開放感は、いとも簡単に彼等のピケを打ち破り、安全地帯までみんなを誘導することが出来たのだった。
解散後、橘は、そのまま友人の下宿に辿り着くやいなや、疲れと興奮の中、濡れ雑巾のように深い眠りに落ちて行った。
10時間以上も眠っただろうか。翌日、転がり込んだ下宿の友人が教えてくれた。関西学院大の籠城戦は安田講堂よりも激しく、陥落までに6時間以上も要した後、籠城者全員が逮捕されたと言う。橘の友人達は、中にいる筈の橘を追い駆けて、そのまま拘留先の警察まで釈放を求めに行ってくれたとのことである。
ふと、阪大の籠城戦はどうだったのだろう、早乙女恭子は活動家として逮捕されてしまったのだろうかと思った。そして、もしそうなら、籠城戦から逃げ出した負い目も加わって、己の中途半端さ加減に今更ながら落ち込む思いであった。
学内は何事もなかったが如く平和が戻り、大衆に裏切られた形の活動家は已む無く、より孤立を深め、一気に先鋭化する以外の道を閉ざされて行く。
この日を境にして70年安保闘争と大衆左派運動は転げ落ちるように壊滅に向かう。超過激派を作り出すことによって、労働運動を含め全ての左派運動の論理破綻を演出した「時の権力」のシナリオが、後の高度成長の日本を生み出したと言っても過言でない。
大変な国家戦略であったとも言える。ただ、その後の「よど号事件」「浅間山荘事件」「日本赤軍」など、超過激暴力集団を創出してしまったのは、そのシナリオの副作用だったのだろうか。
大学四年生になった橘は、メンバーが入れ替わって何とか存続した新聞部とも完全に関係を断ち、就職活動とアルバイトの他は、専ら麻雀・パチンコ・競馬に映画と、過去3年間とは全く違った堕落した生活になって行った。それは、過去3年分の遊びを取り戻すかのような集中ぶりで、直ぐにプロ級の腕前になった。
この1年間は、橘にとって、学生運動の中核に近いところで過ごしたにも拘らず、最大の戦いの場面で逃亡したことの心の負い目と、恋人が突然目の前から消えてしまった心の空洞を埋めるために必要な時間であったのかも知れない。
その頃、彼を下宿に訪ねた友人は、以前なら深夜まで、国家権力やアメリカの横暴などをテーマに議論して大いに盛り上がったものなのに、もう橘はその手の話しは一切しなくなり、寧ろ、「俺のギターの弾き語りを聴いてくれ」などと言いながらサイモンとガーファンクルなどを歌うのでとても驚いたと証言する。
橘は、中堅損保の東都損保から内定を貰い、翌1970年(昭和45年)4月、様々な思いを振り切って、サラリーマンとして、これまでとは全く違う人生の第一歩を踏み出したのであった。







