≪高村比呂希 著≫
 
 

 
  従来の東都損保の一般的価値観であった、「会社にとってのお客様とは代理店のこと」を否定し、「保険契約者こそが唯一無二の顧客」を実践した橘譲二。三つ目のエピソードは彼が否定した代理店会との確執である。

 日本がバブル経済に突入した頃、人事異動で橘は三年勤めた麻布支店長から渋谷支店長に変わった。この店は、東都損保が誕生した初期の頃からの大変伝統のある最も格式の高い老舗である。それだけに古くからの代理店が多く、高齢化も進んでおり、店全体の営業成績は伸び悩みが続いている店だった。これまでのような訳には行かないことだけは良く分かっていた。

 しかし、代理店達のプライドは高く、赴任前から渋谷支店の有力代理店が、「三十六歳の若造が支店長やるような店に見下された」と言っているとの噂が橘の耳に入っていた。

 店が大きい分、女子社員の数も多いので、赴任して直ぐに、橘はまず女子社員一人ひとりと会話する機会を設けた。支店の実態を知るには彼女達に聞くのが一番だし、彼女達にやる気を出して貰えたら、店をもう一度建て直すことが出来ると思ったからだ。

「仕事の中で貴女が最も嫌だ思っていることがあったら、まずそれから解決するので、遠慮なく言って欲しい」

 橘は全ての女子社員に対してこう切り出した。

 ある社員は、業務に於ける時間ルールの徹底を望んだ。

「毎日、一応締切時間を設けているんですが、代理店さんがその時間を守ってくれないので、どうしても残業が多くなってしまうのです」

 またある女子社員は、

「本社からいろいろな報告が求められますが、本社の各部門がタイミングも書式も内容もバラバラに指示して来るので、堪りません。もっと話し合って一つにするとか、重複を無くすくとか簡素化して欲しいです」

 橘もこれらについては尤もだと改善を約束した。そして、ある女子社員が橘に重大な問題意識を与えてくれた。

「来月代理店会の旅行があるんです。その旅行に付き合わされることだけは許して欲しい」

 橘は改めて他の女子社員にもこの旅行のことを聞いてみた。異口同音に「嫌だ」と言う。これが彼女達の最大の希望だったのだ。渋谷支店の前近代的な慣習に橘は唖然とした。

 お酌させられたり、二次会では代理店にダンスやカラオケを付き合わされたり、今で言うセクハ店の売り上げの半数以上ラすれすれのことが繰り返されていたらしい。

 代理店会とは、支店に所属する保険販売専業の個人事業主の親睦団体のことであり、通常その支を稼ぎ出すので、その威圧力は極めて強い。支店の社員と代理店会が一緒に年二回、親睦を目的とする旅行があるのだが、勿論彼女達はホステスではないのだから付いて行く義務は全く無い。

 橘は早速代理店会の会長と折衝した。橘のやり方はいつも正論による正面突破だ。

「今後、代理店会の旅行に、女子社員を同行させるのはやめにして欲しい」

 これに対して代理店会側の言い分は、

「我々の旅行の最も大事な狙いは、日頃お世話になっている女子社員の慰労とコミュニケーションであるから何が何でも連れて行く」

というものであった。

「女子社員が全員、その旅行を嫌がっている」

「それは、旅行の趣旨目的など、支店長の女子社員教育が間違っているからではないか」

「順番にお酌させていると聞いている。そういうことに店の女性陣を動員することは支店長として認める訳にはいかない」

 ラチが明かなかった。女子社員の慰労と言いながら、旅行費は本人負担。その上ホステスまがいのことを求める。そんなことを代理店会から強要される言われはないし、そんな慣習が存在すること自体が、古い体質から抜け出せない東都損保の今日的問題を明確に言い表していると橘は思った。

 橘の腹は決った。「徹底抗戦も辞さず」を覚悟し、それが代理店会の総意であるならば会の解散も已む無し、の姿勢で臨んだのだ。これがトラブルにならない筈がない。

 橘は、旅行当日、女子社員に「代理店会の旅行へは参加するに及ばず」の指示を出し強行突破を図った。女子社員の参加は一人もなく、バスの中は最初から不穏な空気が漂う。宿泊先での宴会前の恒例の会議では支店長更迭論が出る。それを受けて、橘支店長は代理店会解散論を出す。

 橘は、この会議で良識派の代理店も多く参加しているのは把握していたから、彼等に訴える作戦に出た。

「もし、貴方の娘さんがその立場だったらどう思うか?

「行きたくないという彼女達の気持ちを考えてあげたことはあるか?

「本当に日頃彼女達に感謝しているなら、違う形で示すべきではないか? 旅行に参加させることは、全くの逆効果だ

「もし、ホステスが必要なら、支店の費用で現地調達するがどうか?」

 すったもんだの末、遂には「会社抜きの代理店会の位置付けに変える」という緊急動議が出され、支店長の顧問資格が剥奪されることになってしまった。

 だが、一方では正論も動き出した。

「女子社員の本音を聞いてみたい」

という良識派のある代理店の発言で、雰囲気は一転し、橘の立場も一気に好転。その機を逃さず、橘は支店長として、次のように締めくくって、この場は一旦休戦に持ち込んだ。

「会議をこれほど紛糾させてしまったことは誠に申し訳ない。しかし、このことは今後の渋谷支店の発展に向けて必ず解決しなければならない問題と認識している。ついては、今日のところは継続審議にして頂いて、旅行から帰った後、女子社員の意見聴取を含めて最終結論を出すということにさせて貰いたい」

 橘は、この問題を支店の体質転換のキッカケにしよう考えた。

 代理店会の問題はこのことだけでなく、代理店会参加代理店全体の売上げが毎年減収を繰り返し、他のチャネルに比べて大きく見劣りしていた。つまり、代理店会の支店貢献度において大きくマイナスとなっていることが数字上からもハッキリしていたのだ。既得権に胡坐をかいて、成長力を失った代理店会。

 このことを自覚させるために、旅行から帰ると直ぐに保険販売キャンペーンを実施した。代理店会全員の成約グラフを張り出し、その隣に他のチャネルや、新しい保険募集勢力のグラフも並列にして、それらが代理店会のグラフをどんどん抜きん出るように仕組んでいた。結果は一目瞭然だった。

 過去に於いて代理店会が支店を支えていたのは紛れもない事実であり、それを否定するものではないが、支店の足を引っ張る現状に於いてもなお、「代理店会あっての支店」との間違った認識が蔓延っている。それを改めさせることが何よりも優先した。支店長をも更迭出来るといった思い上がりも直させなければならなかった。

 更に、代理店と会社は一緒になって顧客へのサービスに全力を挙げるべきであるのに、代理店は、常に会社は自分達代理店に奉仕しなければならないと考えている大きな錯覚を正さねばならなかった。

 このキャンペーン結果は、代理店会の危機感を醸成し、彼等の認識を大きく変えさせることに寄与した。

 但し、一般的に各店で見られる、この代理店・東都損保間に存在する課題は、長い年月掛けて築かれて行った歴史の産物であり、保険の自由化、合併統合という業界再編の新しい時代になってもなお、澱のようにこびり着いた会社の抱える古くて新しい問題である。

 橘の代理店会との闘いも、代理店会に投じた大きな一石ではあったが、女子社員の旅行不参加を勝ち取っただけの、或いは、皮相的・局所的成果の一つに過ぎなかったのかも知れない。