≪高村比呂希 著≫ 
 
 
 
 
 その後2人は様々な場所でデートを重ねた。野球を全く知らない雅子を誘って、後楽園球場に巨人阪神戦を見に行ったりもした。勿論橘が小さい時から大好きだった阪神側のスタンドで観戦した。その試合で田淵が堀内からレフトスタンドに高々とホームランを放った時は、隣に雅子がいるのも忘れて、橘が大騒ぎをしたので、後で雅子に「やんちゃな子供みたい」と言われたのだった。

 ある時、橘はある疑問を口にした。

「雅子はサ、今までホントに愛した恋人っていなかったの?」

「・・・」

「君のこと、会社の若い男子社員がみんな注目してるし、これまでも若い男が君を放っておく筈はなかったと思うんだ。だから、俺なんかと付き合ってていいのかなって時々思う時があるのよ」

 暫く無言でどう言ったら良いか考えている風だったが、やおら雅子が口を開いた。

「好きな人はいましたよ。でもそういう人は大抵友達が先に好きになっちゃって。私、友達を裏切ること出来ないから、いつもそれ以上には進まなかったの。本当よ」

「そうか。じゃぁ、俺は君の友達に好かれなかったから、こうして君とデート出来るって訳だ」

 橘は、軽いタッチでこの話を終わらせようとしたのだが、雅子はそうではなかった。

「橘さんはそういうのとは全然違うの。最初に会った時に、ビッビッビと来ちゃって・・・」

 橘譲二24歳、佐々木雅子22歳。橘の入社3年目の初夏の頃であった。それから1年と少し経って2人は結婚した。周囲もあの2人は結婚するのだろうと見ていたから、予想通りのゴールインだった。

 ただ、婚約時代、橘の所属する営業部の責任者である大塚部長からは、

「橘君、佐々木君と結婚しても子供が出来るまでは、そのまま彼女に勤めて貰う訳には行かないかねぇ?」

と、打診されたりしていた。橘は大塚部長に、正式に結婚の報告をし、結婚式には主賓として出席して頂くお願いをするとともに、自分の力だけで雅子を養いたいので、退職させたい旨を申し出た。

 大塚は優秀なセクレタリーを失うことを非常に残念がったが、最後は橘の申し出を快く了解してくれた。当時の一般的価値観では、苦しくとも共働きはしないというのが男のプライドだった。

            *   *   *

 結婚3年目に長男が誕生した。橘譲二は28歳になって父親になった。彼自身はその頃、平社員ながら城北支店を背負って立つ意気込みで仕事に邁進していて、朝、実家に移っていた雅子から電話で「これから病院に行く」との連絡は受けていたものの、一旦事務所を出てしまうと、そのことをすっかり忘れて営業に走り回っていた。ある取引先を訪問した時、そこの主から、

「橘さんの部下の方から、昼前に連絡があって、橘さんに奥様の実家に至急電話するように伝えてくださいとのことでしたよ」

と言われた。今、午後4時過ぎたところだ。

「いかん。忘れてた。もしかしたら」

 橘はその主に電話を借りて、実家に連絡を入れた。

「赤ちゃん、生まれましたよ。3千500グラムの立派な男の子です」

 雅子のお母さんの声だった。

「そ、そうですか。じゃぁ、今から急いで病院に向かいます」

と言って電話を切ろうとしたら、

「もしもし、譲二さん! 病院どこか分かっているの?」

「あっ、そうでした。すんません、どこの病院でしたっけ?」

「まあまあ若いお父さん、落ち着いて下さいね。板橋中央病院の302号室ですよ。母子ともに健康ですから、そんなに慌てなくても大丈夫ですからね」

 橘は、義母にからかわれながらも、嬉しさで胸が一杯になった。但し、まだ父親になった現実感はなく、足が地に着かずフワフワ浮いているような感覚に陥っている。人が言う「天にも昇る気持ち」とはこのことだろうか。