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≪高村比呂希 著≫
社長の河瀬明夫は、専務だった時に、システム部門を担当したことがある。
彼が東都損保に入社してコンピューター・システムに関わるのはその時が初めてであったが、勘の良い河瀬は、自分が推し進める業務改革は、システムを用いて会社の仕組みを変えることが最も現実的で早いことを悟り、河瀬主導で中間事務を無くす新しい事務システムを開発し稼動させた。
社長に就任してから河瀬が考えたのは、これからの損保経営者はシステム部門の技術者を使いこなし、コンピューター・システムを経営目標に有効に生かすことが必須の素養だということだった。自らの経験に基く教訓であった。
そんな思いから、河瀬は将来を嘱望されている「3J」に順番にシステムを経験させようと考えた。
最初に須賀次郎。須賀は「3J」の中では最も若い。橘・前島よりも2歳年下である。ある日、須賀は営業部長をしていた広島から本社に転勤になった。
須賀は着任早々、河瀬社長に呼ばれ、「損保初のロードサービス」という新サービス戦略の実現を指示された。「ロードサービス」とは、車の事故・故障時、レッカー車を出動させ救援することだ。
須賀はその日から全国を駆け巡り、レッカー車を保有する業者に説明会を行ない、東都損保のロードサービスのネットワーク入りを促し、地元の東都損保の支店長にはネットワーク構築に向けた協力要請を精力的に行なって歩いて、物凄い勢いで全国ネットを構築して行った。
その一方で、システム部門に対しては膝詰め談判を行い、新時代のサービス戦略の重要性を何度も説明し、現場の契約者から連絡を受付けて、その地域のレッカー業者を手配し現地に差し向けるためのコールセンター・システム構築を急がせた。
システム部門も総力戦で昼夜を問わない突貫工事を行ない、たった数ヶ月でコールセンターのカット・オーバーに漕ぎ着け、晴れて損保全社に先駆けて東都損保の「ロード・サービス」がスタートしたのだった。
* * *
ロード・サービスが実施に移されて間もなく、橘譲二が事務部門とシステム部門を統括する執行役員として、名古屋の営業部長から本社に栄転して来たのだった。
橘は、河瀬社長から「会社合併もあり得る。その時は、事務とシステムが最大の難問になる、その時に備えてお前を事務システム統括部門に配置するのだからそのつもりで」と言われたことが鮮明に耳に残っている。
橘は、事務システムの統合は数ある統合作業の中でも最も難しいことは承知の上で、最も合併効果が出るのは事務システム統合だと理解していた。2社合わせたシステム投資額をシステム統合で半減させることも可能だし、浮いた分で業界に冠たる最新システムを作ることも出来る。
橘は新システムのことを「新幹線」と呼んだ。社長からこの夢のある仕事を与えられたことを意気に感じていた。
数ヵ月後の2000年3月、東都損保は中央損保と合併することが正式発表された。即日、会社全体が合併に向けて走り出した。橘は直属の部下であるシステム部の部長兵頭一樹と、これからの進め方について、本音で突っ込んだ意見交換を行なった。
兵頭は橘に言う。
「合併まで1年しかないということは、橘さん、正直、システム統合をやり切るのは相当難しいと思わないといけないです」
「そうだろうな。相手の事務もシステムも全く分からないのだから」
「そう。それを把握するだけで半年やそこら直ぐに過ぎてしまいます。そこで、この短期間にシステム統合をやり切るには、どちらかに寄せるしかないと思うんですよ」
「うん。兵頭君はどちらに寄せるのが良いと思ってる?」
「相手社のシステムに寄せるのが早いと思います。と言うのは、中央損保は当社にない特別のマーケットを持っていて、それがまた途轍もなく大きい。同社はそのマーケット向けの数多くのシステムを長年手掛けて来ているので、逆に寄せると当社にはそのシステムが無いから大問題になります」
「なるほど。当社側で同じシステムを作って間に合わせるという訳には行かないんだな?」
「1年ではとてもとても・・・」
「分かった。私もそれしかないと思う。その方針で行こう。但し、当社側の反発が大きいのは覚悟して掛かるとしよう」
* * *
数日後、橘は社長室にいた。そこには河瀬社長と日本システム・ソリューション(通称NSS)の副社長の大下、それと橘の3人がいる。
NSSは東都損保の大株主の日商銀グループの会社であり、兵頭達は過去30年に亘ってこことパートナーシップを結び東都損保のシステムを共同開発して来た。日商銀は昭和40年代初めに、日本で最初に銀行のオンライン・システムを成功させた輝かしい歴史を有するのだが、その技術者達が集まって別会社を作り、日商銀グループ会社として立ち上げた会社だ。システムの力は日本有数である。
この日はNSSの大下福社長が河瀬社長に、NSSが過去に手掛けたシステム統合事例をレクチャーする日だったのだ。大下が二つの事例を縷々説明し終え、河瀬に向かって言った。
「河瀬社長が仰るとおり、会社合併ではシステム統合が最大の問題です。それが旨く行くかどうかで合併の成否が決まると言って間違いありません。弊社も沢山の事例を経験していますから、是非弊社に今回のシステム統合を任せて貰えないでしょうか?」
「いや、会社合併に当たっては、まず当事者同士が主体的にやるものでしょう。NSSさんに当事者になって頂くつもりは全くありません」
河瀬は大下の申し出をピシャッと断わった。が、大下も粘る。
「それは分かりますが、私共も御社とは30年もの間一緒にやらせて頂きましたので、当事者の一人と考えて頂いても良いのではないかと思います。それに、システム統合となれば、橘さん達にとっては初めてのこと。私共には多くの経験とノウハウがございます」
橘には口を挟む余地が全く無い。
河瀬が言った。
「そういうことも承知した上で、私はこの橘にやらせたいのです。システム統合が旨く行くも行かないも全てこいつ次第と決めておりますので」
会談は終わった。NSSの大下は提案を引っ込めて帰って行った。河瀬は橘にただ「そういうことだ」とだけ言った。橘は己に課せられたミッションの大きさに改めて胸が震えた。「社長は俺を買いかぶり過ぎではないか?」「本当に俺に出来るのか?」、橘の脳裏には様々な自問自答が去来した。そして決意した。「やるっきゃない!」。
* * *
橘と兵頭は相手社(中央損保)の事務・システム責任者との第一回目の会合を持った。これは事務・システム小委員会と言い、合併協議の正式機関として立ち上げたものである。
先方は事務部門とシステム部門を担当する金井専務とシステム部長の中島取締役が出席した。当方は事務統括部長であると同時にシステム部門も担当する執行役員の橘と、単なる部長の兵頭の2人だから、肩書き上は全くバランスしていないが、業界ランキング上は東都損保の方が上位なのだから、これで勘弁して貰おう。
第一回目の小委。責任者同士の顔合わせと今後の進め方を決めるのが今日の目的だ。両者挨拶自己紹介のあと、進め方の議論に移った。
だが、双方まだ社長調整もしていない段階では具体的に何も決めることは出来ないので、1年しかない中で事務・システムの統合をするには、お互い細部を擦り合わせて下から積み上げるやり方で方針を決めるのでは間に合わないという認識で一致し、ある程度トップダウンに決めるべきだということだけ合意して、後はお互いの部門の第一線責任者達の顔合わせを明日からでもどんどん進め、次回の小委(1週間後)で、方針並びに作業部隊の編成を議論することにした。
ただこの時、相手社の中島取締役の態度が橘には堪らなく気に入らなかった。言葉の端々に、「当方は特別大きな日本産業という大企業マーケットを持っている。東都さんのシステムで果たして日本産業向けのシステム対応が出来ますかねぇ?」と匂わすのだ。
それが単にシステムのことだけに止まらず、「私はそこの経営者と20年来の付き合いがあるし、信頼されてもいるが、果たしてあなた方にそれが出来ますか?」と勝ち誇った態度に見えるからだ。
小委が終わった後、橘は早速兵頭に、
「あの中島って奴は去年システム部門に来るまで長いこと日本産業担当の営業だったんだよ。ただそれだけのことで中央損保の中でも大手を振って歩いてるという噂だ。俺も長いこと営業やってるから分かるけど、ああいう手合いはね、日本産業にはぺこぺこしてだよ、社内に向けては日本産業を傘に着て、ごり押しするタイプなんだ。うちにもそういう輩はいるけど、とても当社では役員にはなれないけどね。自分では何も出来ないし、しないんだから」
と、憤りを口にした。そして、兵頭と確認した相手社システム片寄せ方針に対しても、
「兵頭君、片寄じゃなくて、中央損保システムを日本産業向け専用にして、それ以外を全部当社システムにするって訳にはいかないかねぇ?」
と言い出す始末。
「あの中島って取締役が気に入らないのは分かりますけど、それはつまり2社のシステムをそっくり残すことだから、何の統合効果も生み出せないですよ」
「中央損保のシステムは日本産業向けに特化しても、そっくり残すことになっちゃうの?」
「審査から契約計上、商品システム、料金請求、保険金支払いシステムと、現在のシステムは一応全部ないといけませんからね」
「・・・、そうだよな。でも何かシャクだよね、あの中島の思う通りになるのがさぁ」
「でもここは、中島のことは目を瞑って、河瀬社長の夢の実現、その一点で突っ走りましょうよ」
「だな?」
そんな遣り取りがあって、次回小委までの間に、橘は河瀬社長と2度に亘って議論し、相手社システムへの片寄せ方針の内諾を得て、小委に臨んだ。
中央損保の金井専務が基本方針について「東都側の見解を先にどうぞ」、と譲ってくれたので、橘が、「中央損保システムに片寄せで行きたい」と答えその理由も述べた。
その途端、前回の不遜な態度に輪を掛けて中島が勝ち誇ったような笑顔になった。
「私達もそうするのが一番良いと思っていましたが、良くご決断されました。橘さんや兵頭さんのご英断を多とします」
と中島が発言した途端、橘の顔付きが変わった。
「中島さん! その不遜な態度、やめてくれません? あなたは私の上司じゃないんですよ。まだ同じ会社じゃないんだから。一体何様のつもりですか!」
「何様のつもりって、私はただお2人を称えたかっただけですよ」
「『多とする』は目下に向かって言う言葉でしょうが! 況して、上位社が下位会社のシステムに片寄せするなんてことはまずあり得ないんだ。それを、やっと正しい選択をしましたね、みたいな人の心を逆なでするような言い方は今後一切止めて貰います」
と、方針とは別な所で揉めたが、小委としての方針は決定した。これを両社合同経営会議に諮って最終決定する。二回目の小委では、夫々の事務局が作成した作業組織体制案が、一部を修正して決定された。
中央損保システムへの片寄せ方針を合同経営会議に諮り了承を得て、事務システムの統合作業を進めたが、案の定、東都損保本社内の反発は大きかった。だが橘と兵頭の2人は既定方針で強引に推し進めた。この時の橘の腕力は如何なく発揮され、当初の反発は諦めに変わって行ったかに見えた。
が、しかし、本社各部門はこの方針には総論已む無しだが、各論になると、これだけは譲れないと、ある機能については東都損保側のシステムを活かすべきとする方針を掲げるようになって行った。
橘がそのことに対しても必死に説得に当たり苦戦している丁度その頃、橘の耳には、経営企画部の担当役員から次のような話が伝わって来た。
中央損保社の取締役会で、ある副社長が次のように発言したそうである。
「他の分野は悉く東都損保に主導権を握られてしまったが、唯一、事務・システム分野は中央損保が主導権を握った。これは金井専務・中島取締役の手腕による賜物であり、当社にとって大きな成果である。取締役会として2人に拍手を送るべきことではないでしょうか」
満座の拍手の中、2人はお互いを持ち上げた。
「中島取締役の丁寧で粘り強い説明が功を奏し、先方が我が社のシステムの良さを理解したことが決め手でした。その意味で今回の成果は、中島取締役の働きによるものと思っております」
「いえ、私の働きなど微々たるもので、相手社のトップを説得してくれた金井専務の働き掛けがあってこその結果です。金井専務、本当にありがとうございます」
とんだ茶番だ。あの2人が何をしたというのだ。中央損保システムへの片寄せ方針は端から兵頭と俺で決めたんじゃないか。中島達が東都システム寄せだったのを、説得して中央システム寄せに変えさせたとでも言うつもりか。橘は胸くそ悪くなった。
だが兵頭は、
「だけど、彼等も喜んでいる場合じゃないですよ。仮に、本社の主張が通っちゃうと、中央損保システムの中に、我が社のシステム機能を移植するか、新規開発せざるを得なくなりますからねぇ」
と、そのことが余程心配といった様子だ。
東都損保本社の自社システム機能復活の声に対して、橘と兵頭が必死に抵抗したが、幾つかは頑として変らない。その1つが経理システムだ。悪いことに、経理部門の統合小委に両社システム部長の出席を求められた時、東都側経理部長から中島取締役への質問に対して、中島取締役の返答が東都側に火に油を注ぐこととなってしまったのだ。
東都損保経理部長はこう質問した。
「我が社では、代理店さん側のロードが最も掛からない精算方式として、経理システムでこういうやり方をしていますが、それをそちらのシステムの中に組み込めませんか?」
これに対して、中島取締役が、
「それはおかしいんじゃないですか? 合同経営会議の中で両社社長がご承認された片寄せ方針ですから、当然、全ての会社運営は弊社システムに合わせるべきです。両社の違いを言い立てて、それを全てシステムで埋めろというなら、片寄せなんか出来ません!」
と言ったからもう大変。同席していた兵頭一樹まで槍玉に挙げられ、
「兵頭! システムの片寄せが、会社運営全体を中央損保のやり方に変えろという意味なら、そういう説明をちゃんと社長にしたのか? 社長はそういう理解をした上で片寄せを決めたと言うのか?」
それに対して兵頭が答えようとする前に中島が言う。
「少なくても当社側は社長を含めそういう理解です」
「中島さん! それじゃあんた、騙し討ちだ。まっいい、今、あんたに聞いてるんじゃない。どうなんだ、兵頭!」
「今、存在する決定は飽くまで基本方針ですから、不都合な部分があれば、時間の許す範囲内で、それを対応することまで排除していないと思います」
兵頭は中島の無神経な発言に腹わたが煮え繰り返る思いながら、事態収拾のためそう言わざるを得なかった。橘が最初の小委で中島の本質を見抜いていたことを改めて凄いと思った。それに比べて自分は今日この場でやっと同じことが分かったのだから余りにも遅過ぎる。
中島は基本方針決定までに何の苦労もしていないばかりか、その後起きている東都損保側の対システム・ブーイングを宥めすかし、時には強引な説得を含めて基本方針に沿った形になるよう努力を続けているのに、それを一気に水泡に帰す彼の発言は許し難い。そうも行かないのは分かっているが、中島を折衝窓口に引き摺り出して、東都損保本社と直接システム交渉させたいくらいだ。
このことに勢いを得た本社部門が、その一件で、両社合同経営会議の了解を取り付けるに及び、不本意ながらシステム部門はその同じ機能を中央損保システムの中に作り込むことを了承せざるを得なくなった。
だが、この小さな敗北が、大敗北に繋がって行く。完全片寄せに比べるべくもなく、大変な統合作業となって行ったからだ。
中央損保システムの中に、東都システムのある機能を移植することを東都側が請け負うしかなかったのだが、それは、相手社はその機能について全く知識が無いからだ。だがそれは、良く分からない相手社のシステム環境やデータ環境の中でシステムの開発を行うことになり困難を極めた。
開発当事者達は不安を払拭できず、確信を持てないまま半年が過ぎ、遂に、このままでは間に合わないという非常に危険な事態に陥った。
この状況に直面して橘譲二は、片寄せ方針をご破算にし、夫々のシステムを並存させて、必要な機能は既存システムのまま使えるようにするしかないと悟った。そして新会社として最低限必要な機能だけ、両社のシステム間を繋げて統合する形に方針転換する以外、システム統合を間に合わせることが出来ないことも解っていた。2社合併・新会社発足まで僅か5ヶ月に迫っていた。
* * *
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≪高村比呂希 著≫
バブルに翳りが見え出した頃、橘は埼玉営業部の部長に栄転して行った。この地は東都損害保険会社のドル箱地域である。自動車保険の販売シェアで1位の地域だ。埼玉といえばゴルフ場のメッカであり、バブルの象徴として会員権が大暴騰して、天井を打つ頃であった。東京では小金井カントリーの会員権が3億円、埼玉では大京カントリーがオープンしてまもなく1億円といわれるほどの狂乱の時代である。ゴルフ会員権が3億円と聞いたアメリカ人が、てっきりそれは会員権でなくゴルフ場の買収価格と思ったという話が聞えていた。まだみんなが土地の神話を信じ、誰もバブル崩壊を唱えるものはいなかった。
橘が埼玉に着任してまもなく、大手の取引先の社長から、栃木インターから直ぐのところに建設中のゴルフ場があるので、東都損保にも法人会員になって貰いたいとの話が持ち込まれた。その社長の名は宇賀神信彦、55歳。宇賀神は一介の自動車整備士から身を起こし、いつしか小さいながらも自らの整備工場を持つようになり、今では埼玉県内では中堅の自動車整備工場と目されるまでになった人物である。
宇賀神はこのバブル期、従来からの自動車保険に加え、東都損保の個人年金を自社の顧客に売りに売りまくった人物であった。
彼はいつも、ダンヒルのライターをこれ見よがしにテーブルに勢い良く置くのだが、この日も橘を前にして、同じことをした。そして、これもまたいつものように、おもむろに、左肘をテーブルに着いて、左手指に挟んだタバコに火を着けた。それは癖というよりも、左手首の金のブレスレットとキャッツアイの指輪をさり気なく相手に見せるための工夫であった。
全くのプライベートだったら、橘はこの種の人間とは話しもしたくないところだが、何せ宇賀神は、損保業界の最大の激戦区の埼玉に於いて、東都損保の稼ぎ頭の保険代理店であった。
こういう人物には、橘が力のある部長であることをしっかり示しておかないと、後々嘗めて掛かってくること間違いないことは経験上良く分かっていた。
宇賀神信彦が橘にゴルフ会員権の話しを切り出したのは、タバコを一服した後、だった。
しかし、いくらバブル時代とは言え、2千万円の法人会員券を部長職で決済出来る筈もなく、直ぐさまゴルフ好きの担当役員にこの件を持ち込むと、さすがバブル時代、即決でOKが出た。
早速橘が宇賀神社長に快諾の返事をすると、彼は、そのゴルフ場の理事になれると大喜びしてくれた。橘にとっても当然そのコースの理事達と面識を得るチャンスであり、理事達の多くは一部上場企業の会長・社長級なので以降の営業展開にも大きなプラスとなる。2人は大宮「南銀」で祝杯ということになった。橘は埼玉でも上々のスタートを切ったかに見えた。
しかし、問題が発生した。「本社がこのゴルフ場会員権購入を承認しないので、已む無しだな」とあっさり担当役員から告げられたのだ。だが、宇賀神社長が「已む無し」で済む筈も無い。出入り禁止も「已む無し」との覚悟をしながら、埼玉での出足のつまずきを恐れた橘は一策を講じてみた。
「社長! 会社のOKが取れないので、私が代わりに買いますよ」
これがバブル時代の怖さであったかもしれない。提携ローンもあるようだし2千万円程度、何とかなるさ、と思った。だがこの頃のローン金利は8%という高利であった。今考えれば、一介のサラリーマンに何とか出来る金額ではない。考えられない馬鹿げた決断だった。宇賀神社長はそれでも許してくれない。
「東都損保の法人会員と橘部長の個人会員では重さが違い過ぎるんだよ! 個人なら4~5本揃えて貰わないと格好が付かないだろうが!」
怒気を含んだ宇賀神の声と表情に、橘も切れかける心をグッと抑えて、
「社長、電話を貸してください!」
橘はその場で手帳から、何本かの電話番号を書き出し電話を始めた。まず、大学同窓の出世頭に。
「橘譲二ですけど、こんにちわ~。 東都損保の埼玉支店で頑張ってます。ところで社長!、栃木にいいゴルフ場がオープンするんですけど、どうです? 私も買うんですけど、2千万は安い思います。一口乗りませんか?」
「譲二が買うんやったら、乗ってもええで~」
「ありがとうございます~。後日パンフレットを持って伺いますので」
何と橘は同じ話法で、バブル成金から親しい社長クラスまで、その場から6本の購入予約を取ってしまった。
自分の分を入れて合計1億4千万円の売り上げをわずか1時間程度で決めてしまったことになる。さすがに宇賀神社長はびっくりしたのと同時に、橘に対する信頼感は決定的なものとなった。
しかし、これが東京発のバブルであった。当時の橘の顧客である中小企業の社長連中は全てこのバブルの真ん中にはまっていたのだ。
10数年後、橘が名古屋の営業から東京に戻った頃には、その中小企業も社長さん達も全滅していた。
わずかに橘はサラリーマンとしてそのローンを持ちこたえたが、ローン残債は残っていた。そして、今年そのゴルフ場の償還期限になった。彼のところに来た通知は「理事会において償還は十年据え置きと決定いたしました。今後ともよろしく」とあった。10年後に償還など可能性は0%だが・・・・。
橘は当時の東京発の不動産バブルの入り口をその目で体験しつつ、その崩壊後の経済処理の仕方について,確信的疑問を抱いていた。金融機関のはしくれに身を置き、彼はその崩壊の日本の経済危機の頃を名古屋で五年間過すこととなったのだが、不思議な事に名古屋においては、その影響度が極めて軽微なことに気付く。
名古屋という地は基本的に現金主義が、伝統的に残っていた。一部金融機関とゴルフ場の関係にバブルの影響はあったとしても、一般経済には、同じ日本経済の中にありながらも、軽微であったように思うのだ。
従って、当時のバブルは、不動産バブルのように見えてもその実は明らかに金融バブルだったのだ。金融バブルの向かった先が不動産であり、地上げの頻発、不動産の高騰を招いたのだ。
* * *
そもそも日本にバブル経済をもたらした原点は、1985年のプラザ合意だと言われている。
ニューヨークのプラザホテルで行われた会議に、日本からは大蔵大臣と日銀総裁が出席した。その会議で米国が各国に要求した、ドル安円高誘導容認・内需拡大のための超低金利政策実施を日本だけが飲まされ、それがバブル発生の環境条件となった。
では、バブルを引き起こした実行犯、乃至、真犯人は一体誰なのか?
バブルが崩壊して日本が沈没した時、マスコミは盛んにそういった犯人探しの特集を組んでいた。ある人は地上げを繰り返す不動産屋だと言う。それを放置し無策を地で行く行政の責任だと言う人がいる。いや、バブルの真っ只中にあって何の危機感も持たない政治家だと言う人がいる。それらを許し、且つ、バブルに乗って儲けようという国民が悪いと言う人もいる。
だが橘は、一貫して、それらは全ては共犯ではあるが主犯ではないと見ていた。主犯は金融機関、特に銀行だと考えていた。銀行が産業や商業を育成する社会的役割を忘れ、あれほど慎重だった貸し出し審査基準も無視して、不動産を担保に金を貸しまくったからだ。銀行が儲け第一主義に走ったから、不動産の転売速度が加速し、短期間での不動産の暴騰を招いたのだ。銀行からじゃぶじゃぶ金を借りられなかったら、高い土地をそうそう買えるものではない。
そして、橘が最も腹立たしいと思ったのは、バブルがはじけ銀行に踊らされた不動産業や建設業がばたばたと倒れて行ったのに、銀行には公的資金が投入され国が銀行を救ったことだ。
橘が当時のバブル崩壊の経済規模の大きさに気付いたのは、その末期に彼の古い友人との会食の際であった。彼は当時、ある都銀の新橋支店の次長であったが、不正融資に絡み、本社への懲罰的転勤が決まっていた。
「うちの支店で抱える不良資産の額を、橘さんはどれくらいだと思いますか?」
橘は突然の友人の質問の意図が解らず、一瞬の戸惑いの後、
「さー、どうなんだろう?」と答えるしかなかった。
彼が言いたかったのは明らかに、日本経済の沈没が間近ですよと言いたかったのだ。それは金融マンとしての彼の責任意識と共に、遺言のようにも感じて怖くなったのを記憶している。
「1都銀の1支店の不良資産の実態が、100億円に近いんですよ!」
と彼は言うのである。
決して彼がオーバーな話をしているのではないことは、彼のその後を見れば解る。
友人はしばらくして、本社勤務を最後にあるサラ金業者への転出して行った。
その額はきっと今後もオープンにはならないだろうが、1支店の不良資産が100億であるならば、一体、日本の当時の不良資産の総額はいかほどであったのだろうか。
決してその全貌は明らかにされないまま、小泉、竹中改革まで放置されていたのである。
失われた10年とよく言われるが、金融機関発のバブル形成とその崩壊の責任を完全隠蔽する為には行政の不作為以外に、手はなかったというのが正しいのだ。
日本は公的資金注入までに10年の年月をかけて、小泉構造改革という名の下に銀行の不良債権の解決と日本経済の再生に向けて動き出し、大きな成果を生んだように見えるが、実はその成果を吹き飛ばす程の大不況が世界を覆おうとしていた。 ...more»
≪高村比呂希 著≫
六本木の「アマンド」は橘譲二にとって思い出の場所であった。ここに来ると、時の流れに何かしら感慨を抱きつつも、あの時代が蘇えるのである。
橘は30歳代後半の頃、この六本木を中心的マーケットとする東都損保麻布支店長という重責を3年間務めている。当時は、日本が正にバブルに突入して行く前触れのような時代であった。
地下鉄駅誘致反対を唱えた麻布商店街の間違いは、「東京の田舎・麻布」に導いてしまったことだ。一方の六本木は、既に世界的繁華街として名が知られ、繁栄を極めていた。一つの短期的、且つ、短絡的視野による決定誤りが、その街の繁栄を30年遅らせていた。つまり、地元商店会は、外国人も多く来るような世界に開かれた街よりも、昔ながらの麻布を守り、そこに暮らす人々の絆を大事にする街を選択したのだ。その象徴が地下鉄駅誘致反対だった。
その後、六本木との決定的な対比に衝撃を受けた麻布商店街は、麻布復興に一丸として当たり、今では麻布に地下鉄が走り、六本木に迫り、追い越す勢いである。
その真ん中にある麻布自動車の本社用地が、坪5千万円で売られたという噂が広がり、それが日本バブルの象徴的出来事となった。麻布はその昔、日本のデトロイトとも言われ、周辺には自動車整備工場が多数参集していた。その多くは橘の取引先でもあった。
彼はその取引先に対して、
「もうこの地での工場経営は無理ですよ。マンションか事務所ビルに建て替えるべきです」
などと本音でアドバイスして、随分叱責を買った記憶がある。しかし、その後それほど時間を置かない内に、時代の波は彼ら自動車整備業者を呑み込んで行くのだが、その頃、そんなアドバイスをする損保の支店長はいなかったし、地域で評価される筈もなかった。
バブルの波は、今から見れば想像を絶する異常さであった。ある取引先の印刷工場が倒産した時、その土地を是非買いたいというデベロッパーが現れた。橘は、少しでも倒産した取引先が助かるよう、支店内の応接室で土地売買を仲介した。
橘は、当事者のほかにも銀行員と司法書士を同席させて、一気に売買成立を図ろうとした。彼が驚いたのは、話が決まった時、そのデベロッパーが何と現金で20億円を机の上に積み上げたことだった。そんな時代だった。
今、冷静に考えれば、もしあの時正規の仲介手数料を取ったとしたら、5%、1億円になっていたのにと思わないでもない。だが遠い過去のことである。
「アマンド」は、そんなバブル突入期の麻布支店での3年間を無事終えて、後任の支店長の須賀次郎との業務引継ぎに利用した喫茶店でもあった。橘譲二自身の次の転勤先は渋谷支店長だ。
「今座るこの下の底地は坪1億円。ハイ、これがこの地域の唯一の引継ぎ事項・・・」。
業務引継ぎは5分で終了し、あとは雑談だった。
次の年、橘と同期の前島仁(後に社長となる人物)が、地方の店から丸の内支店長に栄転して来た時、東京のバブルの現状を前島に教えてやった場所も、この同じ六本木の「アマンド」だった。
その後、バブルは益々狂乱の度合いを深めて行った。それに呼応するように、渋谷・麻布・丸の内の3支店長は共に業績を伸ばし、社内外から注目され、やり手の3支店長として一目置かれる存在となって行った。
前島仁。仁は正しくは「まさし」と読むが、人々はみんな「じん」と呼ぶので、本人もいちいち訂正しない。だから人々が前島仁・橘譲二・須賀次郎の3人の名前の頭文字をとって「3J」と呼ぶのにも違和感を持たない。
前島と橘は高校野球の球児だったし、会社でも野球部を率いる立場にある。そして須賀は高校・大学・社会人を通じてラグビーの選手だった。その意味では、単に、やり手支店長3人衆というだけでなく、3人とも体格も良く、筋金入りの体育会系スポーツマンだ。ただ、橘だけは体育系には珍しく、高校時代はスポーツではなく、音楽サークルでギターをやっていた時期があった。ともあれ3人は、バイタリティーに溢れ、押しの強さは超一流。飲むことは勿論、ゴルフに麻雀、遊びは大好きとの共通項を持っていた。
だから、若手営業マン達は「3J」に付いていくのが大変ではあったが、人気は絶大だった。彼らを目標にしていた社員も多かったようだ。若手営業マンの間では、この「3J」が別の意味で囁かれていた。彼等について行くのは「地獄の苦しみ、自殺行為、だが自慢出来ること」(Jigoku・Jisastu・Jiman)と。
この時、彼等「3J」を含め、東京都内の全支店長を束ねる「東京営業本部」の本部長は後に社長になる河瀬明夫であった。
「3J」は互いに遠慮のない物言いをするので、傍目には強烈なライバルと映るのだが、実は不思議な絆で結ばれているようなのだ。それは、互いに夫々の力を認めていることもあっただろうが、それ以上に、敬愛する共通の兄貴分の元で100%自分の力を発揮出来ているという充実感の方が大きかったようだ。「3J」の求心力となっていたその兄貴分とは、他ならぬ河瀬その人であった。年齢的には河瀬は「3J」より5~6歳年長であった。
* * *
金融庁のキャリア課長との「ひさご」での会談から数日後、保険代理店の金子順が橘譲二(JT)を訪ねて来た。彼の手には少額短期保険法の抜粋のペーパーがある。
金子はペーパーのとある箇所を指差しながら橘に言った。
「保険代理店も保険会社になれるということですよねぇ?」
「なるほど、保険代理店は保険会社を兼営出来そうだし、逆に保険会社も代理店を兼営出来るみたいだね・・・」
だが橘はその話に入る前に前回の続きの話をしたかった。
「あの後考えたんやけど、やっぱりあの法律の問題点は、売り上げの上限を低く決められていることだと思うんだ。それがネックとなって金融庁の要求する検査項目に耐えられる保険システムの開発コストが賄えないと思うね」
「そうすると認可される保険会社は出て来ないということになっちゃいますよ」
と金子は少々不満そう。
「いや、保険システムがそんなに大変だと気付いている共済会社は少ない筈だから、やっぱり申請は殺到すると思うよ。だって、大儲けしている無認可共済は現実に随分あるからな。でもきっと、認可後にそのコスト負担から彼等の利益も吹っ飛ぶことになるだろうとは思わないか?」
橘は意味ありげに笑いながら更に続けた。
「金子君、やるなら保険会社を新しく興して、同時に保険システムのASP事業を併設することだね」
「ASP??? 何ですかそれは?」
「綴りまでは分からないけど、アプリケーション・サービス・プロバイダーと言って、今流行のITビジネスらしいよ」
「橘さんが、保険システムは少額短期保険会社には無理、って言ったこととどう繋がるんですか?」
「そう、一社でやるのは無理がある。だから、一つの保険システムを作って何社かで利用すれば採算に合って来るんじゃないかな。どうもそういうシステムをウェブに乗せて共同利用させることをASPって言うみたいなんだ」
「へぇ、なるほどね。橘さんはシステムにも詳しいんですねぇ」
「昔、システムで痛い目に会ったからね。兎に角僕はその可能性にちょっと心当たりがあるので、君は金融庁ルートで無認可共済からの移行でなく、全く純粋に、新たに少額短期保険会社を立ち上げることが出来るのかどうか当たってみてくれないか?」
「分かりました。一週間ほどで結論を持って来れると思います。ついでに金融庁への無認可共済からの問い合わせ状況も確認しておきますね」
金子の目が輝いている。橘も漠然としていた夢が少しずつ形になって行くような気がした。
「それじゃ、一週間後にもう一度、このビジネス・プランの可能性について検討してみようや」
二人は、途方もない野望に胸膨らませて別れた。
* * *
橘譲二と金子順の出会いは、今から20年ほど前、橘が渋谷支店長に赴任して暫くの頃であった。
東都損害保険(株)では、新卒のリスク・マネージャー育成という大胆な販売戦略を立てていた。リスク・マネージャーとは、法人相手のリスク・コンサルティング・保険販売員のことである。その募集の網に掛かったのが金子だった。彼は早大新卒入社だったのである。
勿論、彼の保険論の理解度は一般の3倍速、おまけに販売研修においても、一ヶ月の実践訓練すら不必要なほどの成長力で、半年後には、ほぼ東都損保の誇る新戦力リスク・マネージャーとして自立できる技量を備えていた。時は渋谷にも不動産バブルの波が押し寄せていた。
彼は早大理工学部建築学科卒、この波を見事に利用して成長していく。当時銀行も金余り、企業は利益先送りの節税対策に必死というマーケット状況にあった。銀行とゼネコンと不動産をミックスすれば保険はたちまち金融商品として、一気に大型化していく。
銀行は名目の担保さえあれば、とにかく貸しまくった。その担保を創造するのが積み立て型の保険である。損害保険、個人年金保険、医療保険など全てが貯蓄型となり、利益繰り延べプランとして、高金利にも拘らずその保険料を担保に銀行は融資を推進する。まさにWIN=WIN=WINの関係が成立するのだ。
銀行各社は競ってこの手法を取り入れ、自ら見込み客を探し保険会社に斡旋して来る。見返りは協力預金となる。節税のための融資で定期預金が付いてくる。おまけに関連会社による保険手数料が大きい。こうして1万円単位の保険販売が、1千万円を超え、1億円を超え、やがて10億円超にまで膨らみ、遂には領収証の桁数が不足する始末であった。
金子も当然この戦線にいち早く参入して行く。すでに彼の後援者(顧客)として、銀行、ゼネコン、設計事務所、税理士などが揃っていた。考えれば、保険版サブプライムバブルであった。
保険屋たちのバブルはこうして始まった。そして沢山の保険屋が束の間の夢によって身を滅ぼし、消えていった者も多い。このような保険販売はバブル崩壊よりずっと前に金融当局からの規制が徹底された。精確な理由は不明なるも、当局にとって税収が減ることだけは間違いなかったからだろうか。
そういう中でも金子の読みは正しく、バブルに乗じて一気に自身の保険売上高を拡大したが、驕ることなく、浮かれることなく、それを自身の大型代理店化の足掛かりにしたのはさすがであった。
橘譲二が渋谷支店に着任してまもなく、その場所に東都損保の高層本社ビル建設計画が決定した。その昔、坪百万円ほどで購入した1千坪ほどの土地が、坪1億円と言われる程にまで暴騰していた。月当たり賃料は坪5万円程度というから、床面積2万坪になれば、年間ざっと百億円もの収入になるではないか。
当時、橘たち大勢の営業マンが全国で深夜まで営業に駈けずり廻っても会社の最終利益は年百億円に満たない時代である。保険業など解散して、不動産業に転業した方が良いと橘は密かに考えたりもしたものだ。
しかし、橘はそのビル建築前から竣工までの3年間、その高層ビル建設の責任者のような顔をしながらも、バブルに飲み込まれないよう自重して支店長職を全うしたのだった。
* * *
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(1-1 ある会談)
2005年ゴ5月の夕刻。橘譲二は六本木の裏通りにある創作料理屋「ひさご」の一室で、金子順と共にある人物の到着を待っていた。橘57歳。金子38歳。
2人が雑談しながら待っている人物とは、金融庁官僚の阿久津紀夫(43歳)のことだ。阿久津は、庁内のエース級と目されるキャリア課長で、金子が主催するプライベート勉強会の仲間でもある。彼は、「保険業法の改定法案」を閣議決定まで持ち込み、その頃、やっと一息ついた状態であった。金子の気配りで、その保険業法改定に興味を持つ橘に、阿久津を引き合わせようとセッティングされた会談がもう直ぐ始まる。
通常、1つの法案制定作業は、例えそれが小さな改定であっても、優秀なキャリア官僚達が3ヶ月以上の徹夜作業で、関連法との調整、チェック、関係各省や与野党との政治的根回しを経て、漸く成案化される。
当然、霞ヶ関にタクシーが連夜並ぶことになるのは致し方ない。彼らには労働基準法の適用はなく、勿論残業代など、昨今の官に向けられてきている集中砲火の中では、申告出来る筈もない。
彼らがホッと出来る唯一の場所と時間は、ヒョッとしたら深夜の帰宅タクシーの中だけなのかも知れない。
橘は、その前年、ある後悔の念を持ちつつも、ある損害保険会社を突然辞めた。中堅損保2社が合併して業界4位となり、大手社の仲間入りを果たした後、様々な統合作業も一段落して、さあこれから攻勢に転じようという会社にとって極めて重要な時期であったにも拘らず、いわば勝手な我が儘で常務職を投げ打ったのだった。
金子順は、橘譲二が育てた保険代理店であり、保険屋としては珍しい早大理工学部出の、専業の生損保兼営代理店として大成功した人物だった。自他共に認めるプロ中のプロ代理店と目された人物である。現在は、保険代理店を経営する傍ら、あるIT企業の役員にも就任している。二人の興味と関心は、阿久津紀夫が起案したと言われる「百年の歴史を持つ保険業法の改定について」であった。
改定の目的が「少額短期保険事業者の特例」という保険業法により、「簡易保険事業の設立が可能になる」との情報が2人にもたらされ、そこに興味をそそられていたのだ。
長年、損保会社の役員として金融庁所管のこの法律に悩まされた橘には、この法改正が事実であれば、過去の保険業法改定の慎重過ぎる改定に比べ、あまりにも性急で乱暴ではないかとの想いがある。しかしその一方では、「この改定には大きなビジネス・ヒントが含まれているのではないか」との漠然たる期待もあった。
橘が今回、阿久津に是非会ってみたいと思ったのには幾つか理由がある。長い間、損保業界に籍を置いて来た身にとって、雲上人である監督官庁のキャリア官僚と会える機会はめったにないことなので、彼らは一体どんな人種なのか、彼らの思考スタイルはどういうものなのか、是非話をしてみたいという興味があった。
加えて、損保の常識からすれば、果たして、少額短期保険事業という簡易な保険会社などに、大きなコスト負担を伴う「事務」や「システム」、「不正契約の排除」や「消費者保護」のための様々な対応など、果たして可能だろうか。
実は、発表の事実以外に隠された当局の思惑があるのではなかろうか、などなど、俄か勉強とはいえ様々な疑問符が浮かぶのである。
橘は、金子から阿久津との会談を打診された時、一も二もなく即座にセッティングを頼んだ。
* * *
「いやー、遅くなってスイマセン。役所の会議が長引いてしまいまして」
と言いながら阿久津が現れた。
遅れたとは言うが、実際はたかだか7~8分の遅刻なのだが、2人に詫びる彼の態度に、橘は好印象を持った。
しかしながら、名刺交換、お互いの自己紹介、乾杯などを行なったものの、なかなか会話は打ち解けない。金子からの事前のアポイントの時も、橘が元保険会社の役員だと言うことへの多少の警戒心が働いていたのであろう。阿久津からは
「安い店で割り勘なら・・・」
とわざわざ念押しされていたくらいだ。
今日の食事会は、勿論プライベートという建前であり、割り勘で3千円見当の約束だった。そうは言っても、橘は大手損保会社を前年に退職したばかりで、金融庁のキャリア課長と対等の会食など到底考えられなかった。まして、プライベートと断っていてもこちらから呼び掛けた初対面の会談である。
橘は「ひさご」に対して事前に根回しをしていた。実際には料理は1人1万2千円だが、伝票には3人分で1万2千円と書いて持って来るようお願いしておいた。
なかなか会話が弾まないのは、熱心に橘を引き合わせたがっている友人の金子の願いを受け入れはしたものの、阿久津にとって、この会談の目的がいま一つ分かっていないこともあるかも知れない。
或いは、橘には阿久津に幾つか聞いてみたいことがあるのだが、それよりも、この会談が阿久津にとっても有意義なものになるために、損保第一線の長い経験から、彼の職務に役立つ何らかのアドバイスを送れないものかと、妙に肩に力が入っていたからかも知れない。会談の成り行きは全く分からなかった。
3千円の割り勘の店にしては、豪華過ぎる料理が運ばれて来た時、阿久津にそれを覚られないようにと、橘は熱を込めて話し出した。
「ところで阿久津さん。少額短期保険事業の認可は、無認可共済を厳格に審査の上、金融庁の行政下に収めることになると思うのですが、その無認可共済とやらは一体どれほどの数があり、どれほどの数が認可出来るものとお考えですか?」
「さあ。無認可共済だということは把握困難ということもありますから、正確に把握はしていませんが、電話帳あたりから類推してみたところでは7~8百程度でしょうか?」
阿久津の答えに橘は戸惑った。どんなに低く見積もっても一万近くはある筈だ。大きな認識の誤りだ。一桁違う認識に対してどう答えたものか。仕方ない。直截的に言ってしまおうと彼は決めた。
「阿久津さん、その認識では、おそらく金融庁は問い合わせ業務だけで麻痺してしまいますよ」
「そうですかね。悪質業者を排除する狙いからすれば、そう心配することも無いでしょう」
阿久津は橘の指摘に驚きもせず、あっけらかんと答えた上でこう言った。
「まず、少額短期保険事業者の登録を希望する共済は、全て特定保険事業者として受け付けて、こちらの管理下に置くつもりです。悪質業者は、その時点で自動的に排除されるでしょうから、この法律の狙いは生きる筈ですよ。どれくらいの数の業者が登録してきますかねぇ。いずれにしてもそれからですよ、正式認可される保険事業者の数の想定は」
なるほど、一理あるけど本当に数少ない金融庁職員で、混乱せずに進むのかな? 橘はその懸念を簡単に肩透かしされたと思いつつ、2つ目の疑問をぶつけてみることにした。
「少額で短期な保険に限るということのようですが、これを法整備で縛るといことは、被保険者1人当たりの加入限度額を常に管理しておくということですよね? 私の経験からして、今の保険業界でもコンピューターによる契約管理は出来ていても、事務面・コスト面から顧客管理はなかなか出来ないでいるようです。それが、売り上げ制限があり、且つ1千万円の資本金でも可能な保険会社に、果たして、コンピューター・システムの構築維持が可能でしょうか?」
橘は現役時代の後半に、金融再編の大波の中、合併実務を経験している。彼は合併作業の中でも、最も厄介とされるシステム統合を担当したのだ。相前後して、他の金融機関でも合併が相次いだが、旨くシステム統合が合併効果を生んだ事例は少ない。だが橘は、これこそが会社合併の意味を生み出す究極の仕事と意気に感じ、チャレンジし、見事に失敗した悪夢のような経験を持っていた。
その後、両社システムの暫定的な接合手術により、並存連結型システムとして稼動しているが、5年経過しても本格統合システムは実現していない。その大きな原因がコンピューター・システムの膨大な構築・維持コストであることを、橘は深く理解していた。
阿久津はこの指摘には大きく反応した。金融庁としては、コンプライアンス違反を取り締まる必要性を重々承知しているからだ。良い指摘を貰ったとでもいうように、阿久津は笑顔で答えた。
「顧客管理なくして、少額短期保険の法の精神は崩れます。当然システム対応は標準装備ということになりますね。通達で顧客管理とシステム装備を促しておきましょう」
橘はこの回答に不満だった。通達を出せば済むという話ではない。システム装備が不可欠だとすれば、売上高が制限されている少額短期保険会社には、小さい利益の中からそのコストを負担するのはとても無理ではないか? だとすれば、今回の保険業法の改定は、無認可共済を全部廃業させるためだけのもので、一つも新しい保険会社を作らせない法律だということになる。
「阿久津さん、売り上げは50億に制限されてますよね。資本金は1千万以上であれば良いんでしたねぇ。システム構築には一体幾ら位費用が掛かると思われますか? 私は以前システムを担当したことがあるのですが、膨大なランニング・コストが掛かる上に、更に費用を掛けて顧客管理システムを構築することは叶わず、大変苦労した経験があるのですが・・・」
阿久津が憮然とした表情に変わったのを察して、突然、金子順が会話に割って入った。
「ところで阿久津さん、この法律の狙いは、無認可で消費者への詐欺まがいの業者を取り締まるためでしたよね。善意の無認可共済であれば、保険事業認可は許容することになりますか?」
一見、大きく話題が変わってしまったかのように見えたが、阿久津は、橘が一番聞きたかったことを簡単明瞭に答えた。
「いえ、立法のスタンスに合わないものは認可しない訳ですから、結果認可すべき事業者が出なくても、それはそれで法の趣旨は生きるんですよ。要は無認可共済というジャンルの事業が無くなれば、この法律の趣旨は生きることになります」
さすが、キャリア官僚の自信に満ちた答えは明快であった。法律によって金融庁が無認可共済という、一万もの事業者が存在する事業ジャンルを統括することによって、この新しい分野の官僚支配が完成して行くのだ。その結果、認可される事業者が仮にゼロであったとしても、不法業者を締め出すことが出来るのだから、有意義な法改定だと阿久津は胸を張る。
「その際、善意の無認可共済の顧客はどうなりますかね?」
金子は心持ち小声で訊ねた。
「金子さん、消費者保護は結果なのです。行政マンは必要だと思われる法律を起案し、上程すればいいのですよ。現にこの法律による保険事業は、経営責任と消費者責任を前提としており、保険業法上の保護機構(セーフティー・ネット)は存在しないんですよ。顧客はそのことを承知して、この保険に入ることが原則なのです。ついでに言えば、正式には金融庁認可ではなく、届出制という行政手続きなのです」
2時間があっという間に経過していた。実に真剣な議論になった。脱線する余裕もなく、阿久津紀夫の束の間の安らぎには程遠い「仕事」そのものになってしまったかも知れない。
仲居が請求書を持って来た。予定通り、そこには1万2千円と記入されていた。金子はその請求書を二人に確認させた。
「すいません。4千円通しになってしまいましたけど、いいですか?」
「いいですよ。案外リーズナブルな値段ですね」と阿久津が言う。
「またいつかやりましょう」。
橘が応じる。
3人は一緒に店の外に出た。阿久津は直ぐにタクシーを止め、「それでは失礼します」と言って乗り込んで行った。そのタクシーが視界から消えたのを確認して、金子は「ひさご」にとって帰し、残金の2万4千円を届けてから、橘が一足先に行っている「アマンド」に向かった。
* * *
俄か反省会となった。
「いやぁたいしたもんよ。あれが行政にいながら立法を司る官僚の精神だな」
と、橘は感想を口にした。
「でも、消費者無視も甚だしいと言えませんかね?」。
金子は少々不満そうであったが、兎に角も最後は円満に別れられてホッとしている風だった。
「いや、あれでいいんだよ。きっとあの法律は生きるだろう。でも認可を得られる事業者はほんの一握りとなるんだろうけど、世に無認可共済という事業者が消えることだけは間違いなさそうだね。結果、彼が言ってるように、長い目で見れば消費者は守られて行くんだろうし・・・」
「彼、最後に言ってましたけど、他の部門への異動が決まってたんですね。あの法案は完全に彼の手から離れたってことですよね? だからあそこまで踏み込んで僕らに話してくれたんですかね?」
「そうかも知れんね。先方さんはどうか分からないけど、こっちは凄く面白かったよ。こういう機会を作ってくれてありがとう」
「いえ。ところで、阿久津さんの異動先の検査部門って、金融庁の中ではどういう力関係なんですか?」
「それは分からないけど、金融機関からすれば泣く子も黙る金融庁検査部というからね。金融機関に何か問題があればどういう指導や措置を示達するか、それを決するところだから、相当な権限を持つ強面の部署だよ。阿久津さんはやっぱり金融庁のエースなんだろうね」
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主な登場人物
橘譲二
主人公。学生時代は全共闘。損保役員を中途で辞任、企業の再生ビジネスを展開。ラストランへ
早乙女恭子
評判の美人女学生。学生時代の恋人。全共闘運動に身を投じる。後に「日本革新党」党首
佐々木雅子
同じ会社の後輩。その美貌と明るい性格と仕事振りとで社内で評判の女性。橘譲二の妻となる
橘和馬
橘譲二の息子。後に経済産業省のキャリア。父とは意見が合わず、親子喧嘩から確執・断絶へ
橘純太郎
橘譲二の兄の長男(甥)が転職を橘譲二に相談。譲二は「辞めるな」と言い、自分は辞職を決意
橘洋二郎
橘譲二が損保を辞めて、最初の企業再生事業を一緒に頑張った人間。橘譲二の兄の次男(甥)
金子順
橘譲二が代理店研修生として育成した人物。後に「日本SIS」社長。橘と共に日本再生PJT推進
阿久津紀夫
金融庁キャリア官僚。無認可共済一掃を図るための法案を作成し国会での可決を策した当事者
前島仁
同じ損保会社に於ける橘譲二の盟友。後に同社社長となる
須賀次郎
同じ損保会社に於ける橘譲二の盟友。後に同社専務取締役となる
河瀬明夫
橘譲二が師とも仰ぎ、自身の目標ともした人物。同損保の社長。後に会長
宇賀神信彦
橘譲二が赴任した埼玉支店の取引先の自動車整備工場の社長。橘に高額なゴルフ会員権を売る
兵頭一樹
合併時の橘譲二の部下。システム統合の実務責任者。後に橘と共に日本再生PJT推進
金井専務
合併相手社の事務システム統合責任者。後に副社長
中島肇取締役
合併相手社のシステム統合責任者。後の常務取締役
星野副社長
副社長。河瀬社長に次期社長として、次期社長候補の噂ある星野ではなく盟友の前島を推薦
唐沢剛
高校時代のマンドリン・クラブの指揮者。小学校の時の野球仲間。長じて商社マンとなる
滝田秋雄教授
阪大教授。安田講堂陥落降全共闘運動も急激に衰退。目標を失った早乙女恭子が頼った人物
青柳慶子
滝田秋雄教授の紹介で、早乙女恭子が新たな第一歩を踏み出すキッカケを与えてくれた議員
末松営推部長
橘譲二の嘗ての部下。橘が会社の営業方針を巡って、中島常務と論争した時に同席
奈良橋幸太郎
経済産業省のキャリア。後に次官。同省に入省した和馬は学生時代、息子幸司の家庭教師だった
奈良橋幸司
橘和馬が家庭教師をした相手。当時中学生。父幸太郎は息子にも官僚の道を望むも、商社マン
松本輝彦
経済産業省内で、官の改革を進めようと思いを一にする橘和馬の同志、後輩
黒川憲章
天才ソフトウェア技術者。特別のソフトを引っ提げて日本上陸。金遣いの荒さが祟って失脚
安田克彦
元神奈川県議。ある生協の創設者。現在は市民活動家。後に橘と共に日本再生PJTを推進
三浦孝弘
橘譲二が立ち上げる新設保険会社の大口出資者。「有機野菜を守る会」の会長
箱崎綾
元「ウォール・ストリート・ジャーナル」記者。日本に戻りテレビ等で経済コメンテーター。PJT参加
目 次
プロローグ
第一部 男の半生
第一章 ある会談
第二章 バブル時代
第三章 システム統合
第四章 青春賦
第二部 夫々の闘い
第一章 顧客第一主義
第二章 家族
第三章 女闘士
第四章 父子の断絶
第五章 我が儘退社
第六章 改革派官僚
第三部 ラストラン
第一章 起業
第二章 回帰
第三章 プロジェクト5
第四章 提言七ヵ条
第五章 出馬
エピローグ ...more»
「皆さん、私が新社長の前島です。どうか宜しく。例年、新年度のスタートに当たって、1年間の経営目標を定め、全社員の意思統一を図る場である、支店長会議を開催していますが、本日はこれを拡大して、全国の支社長・営業課長の皆さんにもお集まり頂きました。それは、本日スタートを切った新経営陣の決意を皆様に伝えると共に、全社員が一丸となってこの会社を勢いのある会社に変え、お客様により安心・安全なサービスをサポートする、真に顧客に役立つ保険会社にして行くことを、全員で誓い合う場としたかったからです。
我が社は東都損保と中央損保が合併をして3年が経ちました。前社長の河瀬新会長のご指導の下、合併という大事業を成し遂げ業界四位という大手損保の地位を確保し固めることが出来ました。
しかしながら、会社合併からの3年間は、皆さんも良くご存知の通り、日本経済の低迷を受けて、減収減益との闘いを強いられましたが、社員全員が一致結束してコスト・セーブに努力した結果、遂に黒字を出せる会社になりました。このことは、即ち、我が社は3年を掛けて、収益構造を確立・獲得出来たということを意味します。
しかし我が社は、残念ながら合併時よりも収入保険料の規模が縮小したままの状態が続いております。規模縮小は衰退に他なりません。
新社長としての私の使命の第一は、何としても増収構造を確立して成長軌道に乗せることと認識しております。どうか営業の皆さんは、もう一度、『増収こそ命』を胸に刻んでください。営業の使命は何と言っても増収を確保することであります。
本社部門には、営業第一線が増収出来るよう、その一点であらゆる施策を考え実施して貰いたい・・・」
2004年4月1日、この日新社長に就任した前島仁は全国の営業本部長・支店長、並びに、その傘下の営業課長・支社長全員を都内の某ホールに集めて、社長就任のお披露目を兼ねた、新体制による初めての支店長会議を開催した。全国から約1千名の役職者が一堂に会した盛大な会議となった。
常務取締役関東営業本部長の橘譲二は、友人であり、営業マンとしても良きライバルであった前島仁の晴れ舞台の演説を、大きな感慨をもってひな壇の上で聞いていた。但し、一点だけ、少しばかりの違和感を感じながら。
橘譲二(JT)と前島仁(JM)は入社が同期で、且つ若い時から2人とも営業で際立った成績を上げ、その名が知られる存在だった。彼等の2年後輩にも2人に比肩する営業マンがいた。名を須賀次郎(JS)と言った。3人が揃って支店長になった頃、人は彼等を「3J」と呼ぶようになっていた。
橘の感慨は、本日、盟友の前島が遂に社長になったということ、そして前島の社長姿が直ぐ目の前にあるということだった。
事前に前社長の河瀬から、「橘のごく個人的な考えで良いのだが、次の社長には誰が相応しいと思うか?」と聞かれ即座に「それは前島でしょう」と答えた場面がつい昨日のように蘇えった。それは単なる参考意見であって、最終的には河瀬前社長自身の決断だったにしても、橘には盟友前島の擁立に少しでも関われたことが嬉しかった。
そして、前島の社長就任はまた、「3J」の過去の業績が花開いたことを意味し、橘は、これで思い残すことなく会社を去れると思った。
一方、新社長演説に対して感じた違和感というのは、前島が増収第一主義を大々的に宣言したことだった。橘自身は、日本経済が右肩上がりの時代だった頃のような成長路線は最早過去の遺物であり、今は会社全体を、数字さえ挙げていれば少々のことは目を瞑るといった過去からの悪しき風習を完全に断ち、無駄のない筋肉質の会社にして、顧客にとって最も使い勝手の良い会社を目指すべきだと思っている。
橘はやはり辞める決意をして良かったと思った。このまま自分が会社に残ったら。遠からず前島と意見対立をする場面が来るかも知れないと感じたからだ。
橘はこの後、前島新社長に辞表を提出する。新社長として盟友の橘を他の誰よりも頼りにし、期待していた前島が、橘の突然の辞表提出に、驚きこそすれその理由を理解出来る筈もないから、なかなか辞表を受理しない。
「本当にあんたには手子摺るよ。俺は橘をずっと盟友だと思って来たし、今もそう思ってる。だが、お前はそうは思っていなかった・・・?」
「いや、それは違う。俺にとっても前島は今でも盟友中の盟友だよ」
「だったらなんで、俺がこれほど頼んでるのに断わるんだ? お前が社長じゃなく、俺が社長になったからか? 喩えお前の方が社長になったとしても、俺は喜んで協力しこそすれ会社を辞めるなんてあり得ない」
「そういうことじゃないんだ。河瀬さんの社長退任と共に、俺の役割は完全に終わったと悟ったのよ」
「分からん。河瀬さんだって、後は3Jに託したと思ってる筈だって。俺には敵前逃亡としか思えない」
「分からんでもいい。盟友と思ってくれているなら、俺の最初で最後の我が儘を聞いてくれ」
半年間、2人が揉めに揉めた挙句、9月末日、橘は会社を去った。
誰にも理解されない退社だったが、これが橘にとって新たな人生の幕明けを告げる号砲となった。それからの橘の人生は大転回して行く。人は彼を称して、3つの人生を生きた人と言う。
一つは、この世に生を受けてから22歳で就職するまでの人格形成期。特に、野球・音楽・恋愛・学生運動などを中心とする青春時代は、後の橘譲治を形作る上で重要な期間だった。
2つ目の人生はサラリーマンとして全力疾走した35年間である。彼が他に比べて特別に働き者だった訳ではない。その彼が、「3J」と称され若手支店長の代表格に擬せられたのは、常に仕事を通じて改革者の道を歩み、それを潰そうとする一派からの圧力にも、決してぶれることなく貫いたからだろう。結果は常に後から付いて来た。2つ目の人生の最後は、社長の盟友という誉を得て退職することが出来た。
そして、3つ目が退職後の人生だ。そこには、橘自身も想定し得なかった劇的な人生が待っていたのだ。
普通、サラリーマンの定年退職後の人生は「余生」という言葉に代表されるような、表舞台から降りた後の、のどかなおまけの人生を想定する。
だが、橘の場合は、その対極の行き方を選ぶ。それは、日本の経済恐慌、もっと言えば、日本を沈没から救うため、日本再生に向けた命がけの戦いとなったのだった・・・ ...more»


