≪高村比呂希 著≫
 
 
 
 
 大勢の仲間と一緒の大阪からの長旅の末にやっと目的地に到着し、立川駅から出たところでふいに「大阪からですか?」と質問され振り向くとそこに橘譲二がノートとペンを持って立っている。

 早乙女恭子の胸はドーンと痛いくらいの衝撃で脈打った。顔から血の気が引くのが自分でも分かるくらいの驚きだった。

 関西から遠くこの立川で想像もしなかった人物が自分に話掛けている。何も言葉が浮かばない。声にならない。ただただ、拙いところを拙い人に見付かってしまったという思い。

 仲間が橘を遮ってくれたから良かったものの、もし私1人の時だったどうなっていただろう、と戦慄するのだった。

 彼はあの後必死に私を探して、ここ立川まで追って来て遂に捕まえたということだったのだろうか。それとも偶然だったのだろうか。

 手紙1本で一方的に別れた後ろめたさが再び恭子の心を覆った。本当は、ちゃんと橘に会って、彼が分かってくれてもくれなくても、説明して分かれるべきだったのだろう。

 恭子もそれを何度も考えた。だが、会えば自分の決意がぐらつくのは明らかだった。「橘と離れたくない」、これが橘に対する嘘偽りのない気持ちだったのだから。

 しかし、恭子は、自分がこの世に生を受けたのは、1人の男と幸せな家庭を築くためではない、広島で親族を全て失った自分は、広島・長崎と同じように今日もまたベトナムで大虐殺を繰り返すアメリカに戦争をやめさせる戦いに身を投じることなのだ、と己の使命を再確認したのだった。

 その戦いに最愛の橘を巻き込む訳には行かない。彼の一生を私がぶち壊すかも知れないからだ。「愛しているからこそ別れなければならない」、そんなことが実際にあるんだなぁ、と恭子は思った。

 仲間と集団になって歩きながら早乙女恭子は振り返った。遠くから橘譲二はじっと私を見つめている。

「橘さん、私を許して!」

 恭子は心の中で叫んだ。涙が溢れた。橘の姿が滲んで見えた。

「恭子、さよなら」

 悄然として佇む橘の姿がそう言っているような気がした。恭子は堪らなく悲しかったが、もう1人の自分が、これでやっと橘とのことは過去のことと心の整理が着けられると呟いた。

 砂川での大集会とその後の街頭デモは、規模的には過去最高ではないかと思えるくらい人が集り、それを遠巻きにしている機動隊の数も凄い。「安保条約破棄!」「ベトナム戦争反対!」。シュプレヒコールを叫ぶ学生達の激しい怒声に対して、ひたすら静かに隊列を組んで微動だにしない機動隊。

 物々しい雰囲気の中集会が終わり、デモに移った。各大学別に動き出した。自治会執行部の活動家と目される人間達は、一般参加の学生達が跳ねっ返りの行動に出て、機動隊に乱入の口実を与えないよう整然とした行進にこれ努めている姿が窺える。

 早乙女恭子らの阪大の直ぐ後ろはどうやら九州から駆け付けた学生達のようだ。本当に歴史的に初めての全国規模の学生集会となっていた。行進していると分かるが、沿道には各テレビ局の車が駐車しており、車の屋根に上ったカメラマンが大きな望遠レンズをこちらに向けている。

 機動隊との睨み合いはあったが、この日は大きな混乱もなくデモは終わった。このデモの様子は、その夜の各テレビ局のニュースに大々的に取上げられた。

 翌日、各大学の活動家の代表者が本郷の東大に集った。阪大からも早乙女恭子を含めた3名が参加し、活動家達との討論会に出席した。テーマは2年後に迫った「70年安保粉砕闘争の進め方」であった。

 活発な討議の結果、日米安保条約破棄の実現に向けて全国的な運動の盛り上げが必須である、そのために、全国の学生がまず総決起して一気に革命的状況を作り出し国を追い詰める。

 その運動の考え方は、ベトナム戦争反対を叫んでアメリカの悪を白日の下に晒し、そのアメリカと同盟を結ぶ日本政府の打倒、並びに、日本帝国主義粉砕をアピールするというものであった。

 これこそが、早乙女恭子が望んでいた考え方であったし、一身を捧げたい活動であった。

 全国の一般学生の大半を同時に立ち上がらせるために、各大学は現在の学部別自治会の運動から、学部や個別運動組織を越えた、より強力な大学全体の運動組織に変え、学内の闘争機運を一気に高めなければならない、など幾つかの方針や宣言が採択され、最後に全国の大学間での連絡を蜜にすることを申し合わせた。

 その翌年、1968年になると、アメリカの原子力空母エンタープライズが佐世保に入港し、入港阻止を叫ぶ反米運動に火が着いた。

 大阪大学でも、中核派の学生活動家が授業妨害などの理由で処分されたことをキッカケに、学生部長らを標的とする大衆団交などが行われ、豊中地区の全校舎が学生達によって封鎖されるなどの事件が起こった。

 全国の大学の多くで、その頃全学共闘会議(全共闘)が組織されつつあったが、阪大でも学生の処分が明らかになった時、それを待っていたかのように学生達により阪大全共闘が組織され、彼等の行動により、大衆団交が実現し、豊中校舎封鎖が行われたのであった。

 この間、早乙女恭子は阪大全共闘の主要メンバーとして活動していた。その頃、彼女の元友人や、高校の同級生達によって、彼女のジーンズにヤッケ、ヘルメット姿は頻繁に目撃されている。

 小さな集会では壇上で、ハンディー・マイクを使ってアジ演説する早乙女恭子の姿もまた、多くの人の見掛けるところとなった。