≪高村比呂希 著≫
1969年8月末、大学4年になった早乙女恭子のもとに、ある招待状が来た。内容は、
「全共闘の態勢を立て直し、もう一度、国家権力に対する最終闘争を展開するため、各大学別になっていた全共闘を全国組織として一本化し、「全国全共闘」を結成する。その決起集会を、来る9月5日に日比谷野外音楽堂において開催するので、是非とも参加されたい」というものであった。
だが、阪大全共闘は、1月の機動隊導入により封鎖が解除され、主要メンバーの殆どが逮捕されて以来、壊滅状態になっていた。学内のどこを見ても、平和な学園風景が戻っていて、最早、過激な行動が学内に受け入れられる雰囲気は皆無となっている。どこにも最終闘争を展開出来る余地など無い。早乙女は「欠席」を返信したのだった。
日比谷野音の全国全共闘結成決起集会に於いて、東大全共闘の山本義隆が議長に、日大全共闘の秋田明大が副議長に就任した。だが、この頃、全共闘運動が大学改革から始まって既にそれを越え、革命闘争の色彩が強くなり、その手法が過激化して行くことに着いて行けない一般学生が急速に脱落して行った。
全共闘は、新左翼各党派の専門活動家のセクト色が強い組織となって行き、当初のような一般学生をも巻き込む自然発生的な運動体という全共闘の精神は大きく変質した。全国全共闘の発足という更なる発展を期した一大イベントが、それを峠に一気に衰退に向かう最終章の幕開けとなったのは皮肉以外の何ものでもない。
全共闘運動は、1969年10月21日(10.21)の佐藤首相訪米阻止闘争を最後に影を潜め、その年の内に、全国であれだけ荒れた大学紛争は全て収束したのだった。そして、1970年6月の日米安全保障条約更新に際しては局所的な阻止闘争はあったものの、ほぼ無風状態で通過したのであった。「70年安保阻止」を旗印に盛り上がった全共闘運動は、正にその年に事実上崩壊したことも歴史の皮肉と言えるだろう。
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大学4年生となった早乙女恭子は、自分の中では、既に阪大封鎖を機動隊により解除されてしまった時をもって全共闘運動は終焉し、目標を失って悶々とした日々を送っていた。1年振りに再開された授業にも出てみたが、教授の言葉が上っ滑りして行くだけで何も面白みがない。
2年生の時授業を受けた刑法の滝田秋雄教授を懐かしく思い出していた。刑法の授業もさることながら、彼の父親であった滝田幸雄元京都大学総長の戦前の事件の話を度々してくれたのだ。
1920年代、ロシア革命の影響を受けて日本でもマルクス主義が社会の一大潮流になって行った。京大の社会科学研究所が学生達のマルクス主義運動を支える重要な思想的バックボーンであった。
この頃からマルクス主義の道を歩み始めていた川上肇は、1928年に大学から批判され辞職を余儀なくされた。滝田もマルクス主義擁護の論陣を張るようになり、やがて彼の言動が問題とされるようになる。1933年4月、遂に文部省により滝田に辞任勧告がなされ、このことが事件に発展する。いわゆる滝田事件である。
法学部は教官の総辞職で文部省に対抗したのだが、最後には一部の教官が留任声明を出したため、法学部は分裂し結局は文部省に屈してしまった。この時の文部省当局の攻勢を見て、法学部の学生達は7月で既に帰省してしまった学生達を招集し、文部省非難の学生集会を開催した。
しかしこの集会の首謀者達は直ぐに拉致されたのであった。時の文部省に対して辞職の意思を変えず、徹底抗戦を決めた多くの教授陣と、身体を張って文部省非難の行動に出た学生達の連帯。これが戦前に起きた滝田事件の真髄であった。滝田幸雄はこの事件後大学を追放されたが、戦後京大に復帰し1953年には総長となった。
早乙女恭子はこの話を聞きながら、そこに学生運動の原点を見た気がしていた。だから、自然に彼女は滝田親子を尊敬の念で見ていた。
ところが、阪大の紛争は、幸雄の子滝田秋雄が学生部長になってから起きた。中核派学生の授業妨害を理由とした不当処分撤回を要求する全共闘に対して、怯むことなく一歩も引かない滝田秋雄は、活動家達の格好の標的となったのであった。
全共闘の中心メンバーの1人として早乙女も交渉の席に同席したが、他の活動家が滝田を非難と憎しみの目で見るのとは早乙女のそれは大きく違っていた。父親が文部省に対して一歩も引かず、遂に京大を追われることになったが、子供もまた、紛争が拡大しようとどうしようと、一切の妥協をしようとしない姿勢を貫くこの人物に対して、早乙女恭子は少なからず喝采を送りたい気持ちであった。
気分が晴れない早乙女恭子は、ある時ふと滝田秋雄教授を訪ねてみようと思った。彼が自分を覚えているかいないかはどうでも良かった。これからの生き方の、何らかのヒントやキッカケが貰えればいい。いや、大衆団交の場に彼を引き摺り出した非礼を詫びよう。今度は滝田からの非難を目一杯浴びても最後まで彼と同じように頑張れるか試してみよう、そう思ったのだった。そして、思うが早いか、彼女はもう滝田教授の研究室の前にいた。在室を示すプレートが掛かっていた。ドアをノックした。
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