≪高村比呂希 著≫
 
 
   (この小説に登場する人物・組織は全て架空であり、実在する人物・組織とは一切関係ありません。 編集部)
 
 
 息子和馬が有名中学に進んでからは、彼が学校の野球部に入り、父以上の体格の先輩達に混じって毎日練習するようになると、最早父親コーチの出る幕はなくなったようで、日曜日の父子キャッチ・ボールも極端に少なくなって行った。

 尤も橘譲二自身も、会社生活の中で最も忙しい時期を迎え、土日の出社や接待ゴルフなどが入り、平日はもとより休日もゆっくり父子で話す機会は激減して行った。

 それでも中学生のうちは出勤前の朝食時に、たまに一緒になることもあり、努めて橘が話し掛ければ、息子も待ってましたとばかりに学校のことなど積極的にあれこれ答えてくれる、そんな微笑ましい遣り取りは続いていた。

 だが、和馬が高校に進むと、橘は次第に和馬との会話に苦労するようになったのだ。たまにしか顔を合わせない上に、橘の質問に仕方なく答えるといった態度、答えも一言二言。とても会話にならない。自分の食事が終わればさっさと部屋に下がってしまう。

 母親とは昔のまま、何も気にせず話をする息子和馬が、何故、自分を嫌がるのか、ある日、妻雅子にそのことを聞いてみた。

「和馬は何か俺と話すのが嫌なようだけど、何でだろう?」

「気にし過ぎじゃないの?」

「お前とは和馬も前と変わらずに自分から話すみたいだけど、俺とはこっちが聞いたことしかしゃべらない」

「高校生ともなれば、男の子の自立が始まってるのよ。自分の父親は越えなきゃいけない対象だったり、越えられない鬱陶しい存在だったり、いろいろ感じる年頃なんじゃないかしら。でも、それは一時的な現象みたいよ」

「それならいいんだけど」

家のことは全て妻任せにして来たツケが来たのかと思いながらも、橘は釈然としなかった。

 彼は渋谷支店から埼玉支店長に異動して、仕事は前にも況して忙しかったが、自分の繰り出す営業戦略が次々当る面白さに、「仕事が大好き」と言って憚らない時期だった。橘の頭を占めるのは仕事が90%、家のことは10%だったろう。

 そんな時、妻の雅子が風邪を悪化させ気管支炎となり、肺炎の疑いもあるということで入院したことがあった。高校2年生になっていた和馬が、珍しくそれを知らせるために会社に電話をして来た。

朝、出勤時、雅子はとても具合が悪そうだったが、気丈に振る舞い、

「あなたが出掛けられた後、今日は休ませて貰いますから」

というので、

「もし、それでもおかしいと思うたら、タクシーで必ず病院に行くんだぞ」

と命じて家を出て来たのだった。和馬から電話が掛かって来たのはその日の午後だった。

「お母さん、今日病院に行ったんだけど、そのまま入院になっちゃった。着替えとか身の回りのものを、これから病院に届けに行くけど、お父さんも直ぐに来てよ」

「いきなり入院って、そんなに母さんの具合、悪いのか?」

「一応2~3日、安静が必要だからだって。その間に、精密検査するんだってサ。お医者さんがそう言ってた」

「そうか。お前、今日、お母さんに付き添って病院に行ってくれたのか?」

「そうだよ」

「偉いぞ、だけど学校はどうした?」

「そんなこと、どうでもいいからサ、お父さん早く来てよ」

「和馬、すまん。今日お父さん、仕事の約束があってどうしても抜けられないんだ。夜遅くには必ず行くから、夕方まででもお母さんに付き添っていてくれないか?」

「何で来れないんだ。お母さん入院しちゃったんだよ!」

「分かってる。だけどどうしてもダメなんだ。お前ももう高校生なんだから、お父さんの代わりに・・・」

「ガチャ」

 橘が全部言い終わらないうちに、和馬は電話を切ってしまった。その日は、支店に、取引先や保険代理店を招いての新商品説明会、兼、総決起集会だった。本社から副社長も応援に駆け付けることになっている。

 支店長である橘がこのイベントの主催者であり、ホストである。その場から抜け出すことは絶対に出来ない。橘は拙いなと思いながらも、大人になれば和馬も分かってくれると思うしかなかった。

 幸いにも雅子の病気は、それ以上の悪化は回避出来、検査結果も大事に至らず、後は家で養生すれば良いまでに快復したので、4日目には退院出来た。

 それ以来、家で顔を合わせても和馬はニコリともしなくなった。妻が言う。

「和馬、あなたが直ぐに病院に来なかったこと、本当に怒っていたみたいね。最も大事な人の一大事なのに、それより大事な仕事なんてあるのかって」

「そうか。高校生の和馬にはまだ分からないかも知れんな。自分の家族だけやなく、部下の家族も守るための戦いというのは、抜け出せない時があるんだ」

「和馬が嫌がっても、一度話しをしてみて、お願いだから」

「勿論そうするよ」

 妻にはそう答えたのに、それから2週間も和馬と話が出来ていなかった橘は、ある土曜日、出社予定をキャンセルして、1日中家にいることにした。

 和馬の高校は土曜日は半ドンだから、午後にも帰ったところを捕まえて徹底的に話をしようと思ったのだ。ところが、幾ら待っても和馬は帰宅しない。

 妻に、普通、土曜日の午後は和馬はどうしているのか聞いてみたが、たまに遅い時もあるが大体、2時ぐらいには帰ると言う。じりじりして待っていたら、夕方、やっと和馬が帰宅した。

 和馬は、この時間、父親が居間にいることに驚いた様子だったが、小さい声で「ただいま」と言っただけで、自分の部屋に入ってしまった。

 学生服からジーンズに着替えて1度出て来たが、洗面室に行ったと思うとまた直ぐに部屋に戻ってもう出て来ない。橘が妻を見ると「今よ」と目配せして来た。橘はおもむろに立ち上がると和馬の部屋の前に立った。

「和馬。チョッと入ってもいいか?」

「何?」

「お前に話があるんだ」

「・・・」

 橘はドアを開けようとしたが、中から鍵が掛かっているらしく開かない。

「和馬。ここ開けてくれないか」

「・・・」

「和馬。開けなさい」

「親父とは話したくない!」

 中から和馬の声が聞こえた。

「少しだけでいい。10分でいいから、話をさせてくれ、和馬」

 橘はそう言いながらドアを再びノックした。鍵を開ける音がしてドアが開いた。そこに挑戦的な眼をした和馬が立っていた。