≪高村比呂希 著≫
一方的に橘がしゃべるだけだった。自分がどういうことを会社でやっているか、特に代理店研修生の採用から育成まで、保険代理店として一本立ちさせて、その家族が食べて行けるようになるまで、責任を持つのが自分の役割だし、最も遣り甲斐を感じる仕事だ、といった話をした。
だが、和馬は目も合わせず、全く興味を示そうとはしない。
「決して、お前やお母さんを放っといて、そういう人達の方を大事にしている訳じゃなんだ。部下を家族のように大切にしなくちゃならない仕事なんだ。そういう立場が分からないのか」
「・・・」
「俺にとって、一番大事なのは、和馬だしお母さんだということを、分かって欲しいんだ」
「・・・」
沈黙の時間が流れた。遂に和馬が口を開いた。
「そんな話、何故するのサ? 仕事人間のお父さんには全然興味はないよ!」
「どういう意味だ!」
「聞きたくない話を、何故、聞かなきゃいけないのか、ってことサ」
じっと我慢していた橘の心が、遂に切れた。理性が吹き飛び言葉より先に、右手で和馬の頬を平手打ちしていた。
「何だ、その態度は! それが親に対する言い方か!」
妻が和馬の部屋に慌てて入って来た。
「あなた、やめて! 和馬もお父さんに謝りなさい!」
和馬も、父親に生まれて初めて頬を叩かれたショックに逆切れの表情だ。
「謝らなきゃならないのは僕じゃない!」と言ったかと思うと、和馬は騒々しく家を出て行った。
「和馬!」
雅子は和馬を引止めようと彼を追おうとしたが、
「放っとけ!」
と、橘に言われ立ち止まった。その晩、和馬は遂に家には帰らなかった。
* * *
翌朝、橘は和馬のことが気掛かりではあったが、営業関係の接待ゴルフがあり車で出掛けた。家に残った雅子は、夕方になっても一向に帰る気配のない和馬がさすがに心配になり、和馬の友達の家に電話で尋ねて回った。
その結果、中学の時一緒に野球をやっていた山本卓という友達の家にいることが判明した。雅子は、山本卓の母親に、迷惑を掛けていることを詫び、和馬を電話口に呼んで貰った。
「早く帰ってらっしゃい」
「親父、今日もゴルフなんでしょう?」
「そうよ」
「だったら、家に帰るの明日にするよ」
「何故?」
「だって、ゴルフの時は家に帰るの早いから、また顔を合わせなきゃならない」
「そんなこと言わないで、今直ぐ帰っていらっしゃい。お父さんも、手を出したこと反省してるから」
「明日、月曜日には帰るよ。家で親父に会わないですむから。卓ももう1日泊まって行けって行ってるし」
「卓さんや卓さんのお母様に、お父さんと喧嘩したこと話したの?」
「勿論。そうでなきゃ、幾ら何でも急に泊めて貰えないよ」
「明日、学校はどうするの。制服はこっちに置きっ放しだから、朝、一旦戻ってから学校に行くつもり?」
「いや、休むよ。こんな状態じゃ何にも頭に入らないから」
「こんなことで学校休むの良くないわ」
「高校になってからまだ1日も休んでないんだよ。明後日は必ず行くからサ」
「分かったわ。じゃぁ、卓さんのお母様に替わって」
雅子は丁寧に礼を言って、もう1晩息子が厄介になることお願いし頭を深々と下げて電話を切った。
雅子が橘に「息子とじっくり話して」と言ったことがこんな結果になってしまって、ただただ驚くのであった。それにしても、息子和馬の父親に対する反発がこれほど強いとは思ってもみなかった。
和馬は1人っ子だから、ちょっと父親と喧嘩したぐらいで外泊するようなナイーブな子に育っちゃったのかしらと雅子は思った。雅子が知る限り、父子喧嘩はこれが初めてだった。
世間の男の子に比べたら、父親との喧嘩が高校2年生で初めてというのは、多分一番遅い部類なのではないかと思った。やはりそういうつもりはなかったけど、結果として大事にし過ぎて甘やかせたと言うことになるのかなと認めざるを得なかった。
和馬に弟でもいれば兄弟喧嘩もしただろうしもっと逞しく育ったろうに。第2子を作れなかったことを和馬に申し訳ないとも思った。
こうして翌日から元の3人家族の生活に戻ったが、生まれて初めて父親に叩かれたショックが、和馬にとっては自分のプライドが木っ端微塵に打ち砕かれた強烈なトラウマとして心の奥に残った。
一方、手を出した橘の方は、男兄弟の中で育ったことと時代背景もあり、親から体罰を受けたことは数え切れない。その感覚からすれば1度の体罰で家庭が可笑しくなるなんてあり得ないと思っている。
この感覚の違い、即ち、橘達団塊世代は家でも学校でも運動部でも、体罰が日常茶飯事だった世代と、体罰が社会悪とされ、ちょっとしたことが新聞沙汰になるほどに排除され、親からぶたれたことのない子供が圧倒的多数となった団塊ジュニア世代との受け止め方の大きなズレ。それが橘と和馬の親子関係の簡単な修復を難しくしていた。
必然的に和馬が父親を避けるので、2人の生活時間には完全に共通時間帯が無くなって行った。橘は、雅子を通してしか和馬の動向が分からなくなった。
和馬が高校2年生最後の試験で、成績トップ5%に入ったことが妻から伝えられた。妻雅子によれば、3年生のクラス分けでトップ10%の生徒は、東大受験候補生として専門クラスで指導を受けるのだそうだ。例年の実績では、現役組6%程度は東大に合格しているらしいから、順調に行けば和馬も来春、東大に受かる可能性大とのことだ。
雅子は橘に報告しながら嬉しそうだったが、橘は手放しで喜べなかった。どうにも東大生が苦手なのだ。学生時代に鼻持ちならない東大生を見てから、東大に対する畏敬の念はすっかり消えていたのだった。







