≪高村比呂希 著≫
 
 
 
   (この小説に登場する人物・組織は全て架空であり、実在する人物・組織とは一切関係ありません。 編集部)
 
 
 
 橘和馬が家を飛び出したのは大学3年が終わった春休みの最中だった。当初は友達の下宿に転がり込んでいたが、狭い部屋にそうそう長居も出来ず、何人かに頼んで1週間づつ世話になることにした。だが、いきなり家を飛び出して来たから、食事・洗濯をどうするか、着る物をどうするか、何より金をどうするか、何一つ当てがない。

 泊めてくれた友人達の何人かは既に就職活動を始めていた。彼等は、就職活動どころか、生活もままならない和馬を心配してくれたが、和馬自身は「民間会社に就職するつもりは全くないんだ」と答えていた。

 彼は中央官庁の役人になるつもりだった。5月の国家公務員試験を受けようと思っている。それは就職冬の時代だからではなく、国を再生する仕事がしたいという思いからだ。

 だが、和馬の衣食住が整わず、とても公務員試験の準備に集中出来る状況ではない。和馬の当面の課題は、何とか継続的なアルバイトの口を見付けて、アパートにでも入って普通の生活を始められるようになることだった。幸い彼は3年生までに卒業に必要な単位はあらかた取り終わっていて、週1回のゼミに参加すれば良いだけだったので、時間的にはアルバイトするのに何の障害もない。

 春休み中に幾つかのアルバイトを始めた。1つはコンビニ店員、もう1つは書店の店員のアルバイトだ。どちらも本郷の友人のアパートから近い場所だった。それとは別に転がり込んだ先の友人がやっていた週2日の家庭教師の口。友人は就職活動とサークル活動が忙しくなったので、橘に家庭教師のバイトを譲ってくれたものだった。

 橘は、父親とは喧嘩別れになったままだが、母親に心配させてはいけないと思い、住みかが変わる都度、電話で知らせておいた。

 ある日、現金書留が和馬の下に届いた。中には簡単な手紙と共に、現金20万円が入っていた。手紙には、

「元気でやっていますか? 当面の生活費を送ります。お友達に迷惑を掛けるのも良くないことですから、これで安全なアパートにでも移って勉学に励んで下さい。家のことは心配無用です」

とあった。自分が飛び出して来てしまって、一番淋しく思っているのは母親の筈なのに、家のことは心配するなとある。

 気丈な母親の心遣いに思わず和馬は胸が詰まった。そして、現金を送って貰って正直こんなに嬉しかったことは嘗てない程だ。有難かった。アルバイト代が手に出来るのはまだまだ先だったので、それまでは友人に世話になる以外なかったからだ。

 早速アパートを探した。

 丁度3月下旬は会社の人事異動や学生の卒業・就職で空きが沢山出来る時期だったから、それ程苦労せずに同じ本郷に気に入った所が見つかった。敷金礼金などを払い、最低の生活必需品を買い込んで、和馬はいよいよ1人暮らしを始めたのだった。

 平日はコンビニ、土日は書店で働き、月曜木曜の夜は、千駄木まで家庭教師に通う。週1・2回仕事の都合を付けて大学に通い、空いている日の夜は公務員試験の準備に当てる。そんな毎日だった。

 正月前から国家公務員上級職(Ⅰ種)試験の準備は行なって来たつもりだが、3月の春休みと4月が、最後の追い込みの時期だったのに、今回の家庭のゴタゴタで半月強の停滞を強いられたので、和馬は寝る時間も惜しんで必死に遅れを取り戻そうとした。

 ところで、友人から引き継いだ家庭教師先は、中央官庁の官僚の子息だと友人から聞いていた。

 父親の名前は奈良橋幸太郎。その子息幸司、今度中学3年生になる。男3人兄弟の次男坊である。御三家といわれる有名私立高校を目指しているとのこと。それらの高校は毎年東大合格者数が飛び抜けて多い名門だ。

 和馬自身もそういう学校から東大に進んだ身だから、何となく親近感がある一方、責任の重さを感じるところでもあった。そして、子息の父親は、ずっと後に経済産業省の次官に上り詰める人物であったが、この時はまだ通産省の課長だった。

 後のことになるが、和馬が上級職(国Ⅰ種)試験に受かって入省した先が通産省だったから、省内で奈良橋課長から、親しく声を掛けて貰えること度々であった。

 

 さて、和馬に一定の生活ペースが確立され、贅沢さえしなければ、アルバイト収入だけで何とかやっていけると自信を深めたところに、母が訪ねて来て、今度は30万円置いていくと言う。和馬は、

「自分も社会に出る前の1年間、どこまで1人でやれるか試しているので、気持ちは嬉しいが受け取れない」

と言って返そうとした。だが母は頑として受け取らなかった。

「余れば貯金しておけば良いだけの話。お前がそこまで言うなら、これを最後にするから受け取っておきなさい。」

と言って、暫く間をおいて、しみじみとした口調で続けた。

「それにね、今回はお父さんが、様子を見に行って来いと言い出したことなの。お金にも困っている筈だから持って行ってやれって」

「え! 親父が?」

「そうよ。お父さんも大学の時、神戸の自宅から通学出来るのに、独立したくて西宮のアパートに住んだんだそうよ。それが今の自分を作ったと。和馬にはそういう機会を与えてやることを完全に忘れていた。申し訳ないって」

「ふうん。親父も優しいとこあるんだ」

「それはそうよ、実の親子なんだから。それに子供はお前しかいなんだし。お前はどうしてお父さんをそんなに悪く言うの?」

「別に親父だけを悪く言ってるつもりはないよ。信じられないようなバブルを惹き起こしておいて、それがはじけてとんでもない不況を招いたのに、親父達の世代は責任を感じてないんだ。誰かが悪くて自分は関係ないって顔してるのが堪んないんだ。ただそれだけ」

「今直ぐとは言わないけど、いずれは休戦してね。お父さんに言われて、和馬が最後の1年間だけでも自活するのは悪いことではないんだと思うようにはなったけど」

「とても理解のある両親で助かりま~す。じゃぁ、これは、自活補助金として受け取らせて頂きます。但し、これを最後にしてよね」

 正直言えば、和馬は、洗濯や掃除や炊事はこれまで全部やって貰ってたのに、今は自分でやらざるを得ないことが大きな負担だった。でも、家を飛び出した意地もあり頑張ってはいるが、親に優しくされると、思わず家に戻りたくなる。

 だが、父親の「出て行け!」が取り消された訳でもない。和馬は、その誘惑を吹っ切るように、巣立った子供の覚悟を示そうと、

「基本的にはもう家に戻らないで何とか自立して頑張るつもりだから、心配しないで。何かあったら直ぐ電話するから」

と母親に宣言するのだった。

                     *   *   *