≪高村比呂希 著≫
 
 
 
 
 国家公務員試験Ⅰ種に合格した和馬は1年後の1997年4月、晴れて通産省に入省した。和馬が官僚を志したのには幾つか動機があった。

 その1つは、バブル崩壊後、日本経済は悪化の一途を辿っており、このままでは本当に日本が沈没してしまうのではないかと危機感を募らせ、ならば真に日本立て直しに携われる職業をと考え官僚になった。

 2つ目には、官僚バッシングの一般的風潮への反発が挙げられる。即ち、日本の政治は、政治家主導ではなく、官僚主導の政治になっている。官僚頼みの政治家もだらしないが、これは明らかに官僚の権限逸脱行為だ。

 官僚は国益でなく省益の方を大事にするから国民のためにならない。官製談合・裏金作り等中央官庁の不祥事件が後を絶たず、バブル崩壊で官僚の無謬性神話は地に墜ちた、等々、止まるところを知らない官僚叩きに和馬は強い反発を感じていた。

 和馬の見るところ、実務を通じて政策を打ち出せるのは優秀な官僚であり、それが出来る政治家は極少数かゼロかだ。

 現在のデフレ経済から脱出させ、新しい国家像を作り前進させられるのも、やはり実質的には優秀な官僚だけだと言わざるを得ない。官僚の唯一の問題点は、省益と保身を優先する小物官僚が存在することだけだと思っている。

 和馬は自分が官僚になったら、省益志向だけは真っ先に退治するの意気込みであった。

 3つ目、和馬の学部の顔見知りの先輩達が数多く官僚になっていて、彼等が自分の仕事や国の将来像などを語る目の輝きに、使命感の強さを感じ取り、自分もそういう仕事をしたいと思ったことも重要な動機だった。

 更に言えば、和馬自身が気が付いていない、天邪鬼な性格、或いは、判官贔屓の性格も作用していたのではないか。つまり、マスコミが、挙って官僚批判をすればするほど、官僚に味方したい気持ちが強くなるのだ。

 それは多分、「批判するだけで、自分達では何もしないし、出来ないマスコミ」に対しする憤りとアンチ・テーゼの感情だったろう。

 何故マスコミは、日本のために大仕事をする官僚達をけなすばかりなのか? 

 何故マスコミは彼等を応援し、もっとやる気を出させ頑張らせないのか? もっと気持ち良く仕事をさせてやらないのか? と。

 

 和馬の配属先は、通産省資源管理局燃料資源課。

 大変硬い名前の部署だが、いわゆる石油・石炭・天然ガスなどの確保・備蓄・流通・開発全般を管理統括する部門である。

 第4次中東戦争勃発を契機とする1973年の第1次石油ショックと、イラン革命が招いた1979年の第2次石油ショックを経て、「日本経済の生命線=石油」の認識は国民の中に定着した。

 石油の安定確保と備蓄は国家プロジェクトで進める最重要テーマとなった。その推進部署が、和馬の配属された部署である。

 和馬が入省した年の12月、京都で開催された第3回気候変動枠組条約締約国会議(COP3)に於いて、ある議定書が議決された。いわゆる「京都議定書」である。

 初めて二酸化炭素を初めとする温暖化ガスの具体削減目標値が決められた画期的な議定書である。

 この国際会議では、日本政府を代表して環境庁が所管省庁として活躍した。環境庁長官が議長を務めた。

 ただし、この「京都議定書」が発効するためには、参加各国が国内の議会で批准する必要がある。  議定書では55ヶ国以上の批准締結が条件とされている。議長国の日本としては、何としても、国内の反対論を抑えて国会承認に持ち込まなければならない。

 経団連を初め、財界から聞えて来る反対論は、

「産業界を中心に世界有数の環境対策を施して来た日本が6%もの高水準の削減を求められるのは公平でない」

 或いは、

「欧州やロシア、米国は、夫々のエネルギー事情や環境対策のレベルから、数値目標が達成可能かどうかや、経済に与える影響を予めシミュレーションしていたのに、日本は合意を優先するあまり、裏付けがないまま6%を飲んだ」

というものだった。

 京都議定書が議決された時、通産省内でも、日本の産業界にとって重過ぎる日本の数値目標への不満が渦巻いた。通産省は戦後の産業振興を指導して来たという自負がある。

 そんな努力も知らずに勝手に決めた環境庁への反発がある。

 また、世界的にも日本の製品や技術が高く評価され、世界2位の経済大国になった戦後の道のりも、今回の厳しい数値により日本の産業の競争力が削がれ、一気に崩壊しかねないとの危機感がある。

 このような政府内部の対立もあり、また、産業界の根強い反対のため、なかなか国会承認を取り付けられる状況にはならなかった。

 この空気を一気に変えたのが、2001年4月の小泉政権誕生である。

 「京都議定書」という日本の歴史的都市の名を冠する国際的議定書を、日本こそいち早く国会承認すべきであるのに、なかなか批准出来ない状況は世界に恥を晒すだけであるとして、小泉政権の強力なリードで、初めて、批准への動きを加速させたのであった。

 経済産業省(旧通産省)と環境省(旧環境庁)との調整、経済産業省と官房長官、環境省と官房長官との調整などを経て、政府は一致して産業界を説き伏せ、「京都議定書」の国会承認を急ぐことになった。

 経済産業省は当初の反対論を引っ込め、産業界の説得役を任されることになった。局長級・課長級の動員は勿論のこと、若手官僚もこの説得活動に何人か動員された。

 その中に橘和馬もいた。彼は燃料資源課から企業との折衝の実務者として指名されたのだった。

 経済産業省からのこれらの人選には、本件の責任者であった製造産業局の局長だった奈良橋幸太郎の意思が強く働いていたと言われる。

 

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 奈良橋は、以前、和馬が家庭教師を務めた子供の父親である。

 中学3年生になる直前の子息の高校受験のコーチを頼まれ、翌年の入試の日まで約1年間家庭教師をしたのだが、その間、何度か父親の幸太郎が話し掛けてくれたことがあった。自分に絶大なる信頼を置いてくれているらしかった。息子幸司が目出度く合格した直後の4月、和馬は通産省に入省したのだ。
 
 だから何かと奈良橋は和馬に声を掛け、目に掛けてくれるのだが、和馬は、他の人々の手前もあり、局長という偉い人から平職員が、いろいろな場所で度々親しげに話し掛けられるというのは、和馬にとっては、正直言ってあまり嬉しいことではなく、何とも落ち着かないのだった。

 「京都議定書」を巡る産業界との調整役に選ばれる2年ほど前、和馬は奈良橋に自宅に招かれたことがある。それは、息子の幸司が東大の経済に合格したお祝いの会だった。

 和馬としては、無碍に断わるのも憚れるし、何より、3年振りに幸司に会いたかったので、招待を受けることにして、3年前と同じお宅を訪ねた。

 奥様の盛り沢山の手料理や、高級ワインなどで歓待された。その時も、奈良橋はいつも以上に上機嫌で、

「幸司がこうして東大生になれたのも橘君、君のお蔭だ」

と、頭を深々と下げるのだった。省内ではいずれ事務次官候補と噂されている人だ。

 和馬は、この人ほど「実るほど頭を垂れる稲穂かな」を地で行く人はいないのではないかと思った。だが同時に、漠然たる危惧も感じたのだった。

 それは、自分は体制に従順に従う性格(たち)ではないということから、いつかこの奈良橋氏と対立する日が来るのではないかという心配だった。

 和馬は自分の性格を嫌というくらい知っている。自分の考えは、どんな摩擦があろうとも貫こうとするし、誰かの手下に納まるタイプでもない。

 だから、もし、奈良橋氏が将来次官になった時、信頼する手下として自分に期待しているとすれば、それは大いなる見込み違いだ。だが、この時点ではまだ、荒唐無稽な心配と言えただろう。

 

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