top-image

Archives for 12 月, 2009

第22回  第二部 / 第三章 女闘士 ③
≪高村比呂希 著≫        1969年8月末、大学4年になった早乙女恭子のもとに、ある招待状が来た。内容は、 「全共闘の態勢を立て直し、もう一度、国家権力に対する最終闘争を展開するため、各大学別になっていた全共闘を全国組織として一本化し、「全国全共闘」を結成する。その決起集会を、来る9月5日に日比谷野外音楽堂において開催するので、是非とも参加されたい」というものであった。  だが、阪大全共闘は、1月の機動隊導入により封鎖が解除され、主要メンバーの殆どが逮捕されて以来、壊滅状態になっていた。学内のどこを見ても、平和な学園風景が戻っていて、最早、過激な行動が学内に受け入れられる雰囲気は皆無となっている。どこにも最終闘争を展開出来る余地など無い。早乙女は「欠席」を返信したのだった。  日比谷野音の全国全共闘結成決起集会に於いて、東大全共闘の山本義隆が議長に、日大全共闘の秋田明大が副議長に就任した。だが、この頃、全共闘運動が大学改革から始まって既にそれを越え、革命闘争の色彩が強くなり、その手法が過激化して行くことに着いて行けない一般学生が急速に脱落して行った。  全共闘は、新左翼各党派の専門活動家のセクト色が強い組織となって行き、当初のような一般学生をも巻き込む自然発生的な運動体という全共闘の精神は大きく変質した。全国全共闘の発足という更なる発展を期した一大イベントが、それを峠に一気に衰退に向かう最終章の幕開けとなったのは皮肉以外の何ものでもない。  全共闘運動は、1969年10月21日(10.21)の佐藤首相訪米阻止闘争を最後に影を潜め、その年の内に、全国であれだけ荒れた大学紛争は全て収束したのだった。そして、1970年6月の日米安全保障条約更新に際しては局所的な阻止闘争はあったものの、ほぼ無風状態で通過したのであった。「70年安保阻止」を旗印に盛り上がった全共闘運動は、正にその年に事実上崩壊したことも歴史の皮肉と言えるだろう。                *   *   *  大学4年生となった早乙女恭子は、自分の中では、既に阪大封鎖を機動隊により解除されてしまった時をもって全共闘運動は終焉し、目標を失って悶々とした日々を送っていた。1年振りに再開された授業にも出てみたが、教授の言葉が上っ滑りして行くだけで何も面白みがない。  2年生の時授業を受けた刑法の滝田秋雄教授を懐かしく思い出していた。刑法の授業もさることながら、彼の父親であった滝田幸雄元京都大学総長の戦前の事件の話を度々してくれたのだ。  1920年代、ロシア革命の影響を受けて日本でもマルクス主義が社会の一大潮流になって行った。京大の社会科学研究所が学生達のマルクス主義運動を支える重要な思想的バックボーンであった。  この頃からマルクス主義の道を歩み始めていた川上肇は、1928年に大学から批判され辞職を余儀なくされた。滝田もマルクス主義擁護の論陣を張るようになり、やがて彼の言動が問題とされるようになる。1933年4月、遂に文部省により滝田に辞任勧告がなされ、このことが事件に発展する。いわゆる滝田事件である。  法学部は教官の総辞職で文部省に対抗したのだが、最後には一部の教官が留任声明を出したため、法学部は分裂し結局は文部省に屈してしまった。この時の文部省当局の攻勢を見て、法学部の学生達は7月で既に帰省してしまった学生達を招集し、文部省非難の学生集会を開催した。  しかしこの集会の首謀者達は直ぐに拉致されたのであった。時の文部省に対して辞職の意思を変えず、徹底抗戦を決めた多くの教授陣と、身体を張って文部省非難の行動に出た学生達の連帯。これが戦前に起きた滝田事件の真髄であった。滝田幸雄はこの事件後大学を追放されたが、戦後京大に復帰し1953年には総長となった。  早乙女恭子はこの話を聞きながら、そこに学生運動の原点を見た気がしていた。だから、自然に彼女は滝田親子を尊敬の念で見ていた。  ところが、阪大の紛争は、幸雄の子滝田秋雄が学生部長になってから起きた。中核派学生の授業妨害を理由とした不当処分撤回を要求する全共闘に対して、怯むことなく一歩も引かない滝田秋雄は、活動家達の格好の標的となったのであった。  全共闘の中心メンバーの1人として早乙女も交渉の席に同席したが、他の活動家が滝田を非難と憎しみの目で見るのとは早乙女のそれは大きく違っていた。父親が文部省に対して一歩も引かず、遂に京大を追われることになったが、子供もまた、紛争が拡大しようとどうしようと、一切の妥協をしようとしない姿勢を貫くこの人物に対して、早乙女恭子は少なからず喝采を送りたい気持ちであった。  気分が晴れない早乙女恭子は、ある時ふと滝田秋雄教授を訪ねてみようと思った。彼が自分を覚えているかいないかはどうでも良かった。これからの生き方の、何らかのヒントやキッカケが貰えればいい。いや、大衆団交の場に彼を引き摺り出した非礼を詫びよう。今度は滝田からの非難を目一杯浴びても最後まで彼と同じように頑張れるか試してみよう、そう思ったのだった。そして、思うが早いか、彼女はもう滝田教授の研究室の前にいた。在室を示すプレートが掛かっていた。ドアをノックした。                *   *   * ...more»
第21回  第二部 / 第三章 女闘士 ②
≪高村比呂希 著≫           全共闘は、1968年当時、日本各地の大学に作られた学生運動組織のことであり、学部別に存在した学生自治会を基盤とする、それまでの全学連とは異なり、政治的党派(セクト)を越え学部を越えて組織された学内全体を1つに纏めた組織であった。  そうは言っても、全共闘は日本共産党の青年組織、日本民主青年同盟(民青)だけは排斥・敵対した。それは、全共闘が革命的志向の強い行動派組織で「帝大解体」路線であるのに対して、学生自治会の多くに浸透していた民青の唱える「代表制民主主義による大学民主化」路線とは相容れる筈もなかったということだろう。  新左翼各党派所属のプロ(のような)活動家だけでなく、組織や党派に属さないノンセクト・ラジカルと呼ばれる一般学生達が広く参加した。彼らは、特定党派やイデオロギー的制約が一切ない分、自由で過激な行動を取ることが多かったのも当時の特徴であった。  ノンポリと言われる学生運動無関心派でさえも、大衆団交や街頭デモには進んで参加した過去最大の学生運動に発展して行ったのだった。  全共闘運動の最初は、日本大学であった。20億円の使途不明金問題が浮上したにも拘らず、明確な説明も反省も謝罪もない大学への不満が爆発したのだった。1968年5月27日、遂に秋田明大を議長とする日大全共闘が結成されたのであった。  続いて東京大学に全共闘が誕生した。発端は医学部インターン問題を巡る学生への不当処分であった。権威主義的な大学当局に対する抗議活動が高まり、7月5日に山本義隆を議長とする東大全共闘が発足した。東大も日大も両全共闘は同じように大学内の建物をバリケードで封鎖し、当局との大衆団交を要求したのであった。  東大の安田講堂はこの時から学生に占拠され、翌年1月の機動隊との攻防戦で陥落するまで、講堂の封鎖が続いたのであった。  そして、当時の日本の主要な国公立大学や私立大学の八割ほどの大学に於いて、全共闘が組織され、その殆どが闘争状態にあるか大学がバリケード封鎖されている状態にあったのが、安田講堂の陥落が全共闘の国家権力による敗北の象徴となり、その後各大学に続々機動隊が入り学生達が排除されて行った。  その結果、1970年の安保条約改正時には局所的な闘争はあったものの、いたって平和裏に更新されてしまったのである。                *   *   *  大阪大学も他の大学と同じように、1969年の初頭に機動隊が入り封鎖を解除した。その時100人以上の学生が検挙されたのだが、その中に早乙女恭子は入っていなかった。  それは、東大安田講堂に機動隊が乱入するとの事前情報に基き、阪大から10人程度の支援部隊を編成し、そのリーダーとして東京に向かったからだ。  ところが、東大に到着した時は既に攻防戦が始まっていて、構内にも入れない状況となっていたのだ。早乙女達は複雑な思いを胸に、一般人と共に遠巻きに攻防戦の一部始終を見つめるしかなかった。  そして、彼等は悄然としながらも、阪大の攻防戦に備えるべく、翌日、東海道線を乗り継いで大阪に引き返した。だが彼等が帰阪する前に、阪大全共闘は籠城戦に敗れ去ってしまったのだった。  早乙女恭子は、阪大全共闘の執行部の中で、偶然自分だけが逮捕を免れてしまったことにある種の後ろめたさを感じながら、この敗北をどう受け止めるべきか大いに悩んだ。  自分の本当の目的は、アメリカにベトナム戦争をやめさせることなんだと改めて思った。この2年の活動で、それがどこまで近付けたのか、もしかしたら遠くで勝手に空回りしていただけではないのか? 己の無力を思い知らされた。  そして彼女は、この学生運動が大学を変え、日本を変え、アメリカを変えられると信じたが、それは思い上がりではなかったか、と思った。  活動家の中には、「全共闘運動を通じて学生が労働者を覚醒するのだ」と言う者もいたが、今回雪崩を打つように、全国の大学で全共闘が続々敗北して行く様は、正に学生運動の限界を表す出来事なのではないか、と思わざるを得なかった。  どの労働組合もどの市民運動家も支援には現れなかった。社会一般からはこの学生運動は全く支持されていなかったのだ。同世代の労働者は大学に行きたくても行けなかった人達が多い。  彼等が、大学を封鎖して勉学を放棄し、この異常事態を引き起こしておきながら、学内をこれ見よがしに闊歩するヘルメット姿の学生達を快く思う筈がない。  全共闘運動の限界と衰退を目の当たりにして早乙女恭子は少しずつ、自分の目的を達成するには別の方法を探さなくてはいけないと感じ始めた。 ...more»
第20回  第二部 / 第三章 女闘士 ①
≪高村比呂希 著≫          大勢の仲間と一緒の大阪からの長旅の末にやっと目的地に到着し、立川駅から出たところでふいに「大阪からですか?」と質問され振り向くとそこに橘譲二がノートとペンを持って立っている。  早乙女恭子の胸はドーンと痛いくらいの衝撃で脈打った。顔から血の気が引くのが自分でも分かるくらいの驚きだった。  関西から遠くこの立川で想像もしなかった人物が自分に話掛けている。何も言葉が浮かばない。声にならない。ただただ、拙いところを拙い人に見付かってしまったという思い。  仲間が橘を遮ってくれたから良かったものの、もし私1人の時だったどうなっていただろう、と戦慄するのだった。  彼はあの後必死に私を探して、ここ立川まで追って来て遂に捕まえたということだったのだろうか。それとも偶然だったのだろうか。  手紙1本で一方的に別れた後ろめたさが再び恭子の心を覆った。本当は、ちゃんと橘に会って、彼が分かってくれてもくれなくても、説明して分かれるべきだったのだろう。  恭子もそれを何度も考えた。だが、会えば自分の決意がぐらつくのは明らかだった。「橘と離れたくない」、これが橘に対する嘘偽りのない気持ちだったのだから。  しかし、恭子は、自分がこの世に生を受けたのは、1人の男と幸せな家庭を築くためではない、広島で親族を全て失った自分は、広島・長崎と同じように今日もまたベトナムで大虐殺を繰り返すアメリカに戦争をやめさせる戦いに身を投じることなのだ、と己の使命を再確認したのだった。  その戦いに最愛の橘を巻き込む訳には行かない。彼の一生を私がぶち壊すかも知れないからだ。「愛しているからこそ別れなければならない」、そんなことが実際にあるんだなぁ、と恭子は思った。  仲間と集団になって歩きながら早乙女恭子は振り返った。遠くから橘譲二はじっと私を見つめている。 「橘さん、私を許して!」  恭子は心の中で叫んだ。涙が溢れた。橘の姿が滲んで見えた。 「恭子、さよなら」  悄然として佇む橘の姿がそう言っているような気がした。恭子は堪らなく悲しかったが、もう1人の自分が、これでやっと橘とのことは過去のことと心の整理が着けられると呟いた。  砂川での大集会とその後の街頭デモは、規模的には過去最高ではないかと思えるくらい人が集り、それを遠巻きにしている機動隊の数も凄い。「安保条約破棄!」「ベトナム戦争反対!」。シュプレヒコールを叫ぶ学生達の激しい怒声に対して、ひたすら静かに隊列を組んで微動だにしない機動隊。  物々しい雰囲気の中集会が終わり、デモに移った。各大学別に動き出した。自治会執行部の活動家と目される人間達は、一般参加の学生達が跳ねっ返りの行動に出て、機動隊に乱入の口実を与えないよう整然とした行進にこれ努めている姿が窺える。  早乙女恭子らの阪大の直ぐ後ろはどうやら九州から駆け付けた学生達のようだ。本当に歴史的に初めての全国規模の学生集会となっていた。行進していると分かるが、沿道には各テレビ局の車が駐車しており、車の屋根に上ったカメラマンが大きな望遠レンズをこちらに向けている。  機動隊との睨み合いはあったが、この日は大きな混乱もなくデモは終わった。このデモの様子は、その夜の各テレビ局のニュースに大々的に取上げられた。  翌日、各大学の活動家の代表者が本郷の東大に集った。阪大からも早乙女恭子を含めた3名が参加し、活動家達との討論会に出席した。テーマは2年後に迫った「70年安保粉砕闘争の進め方」であった。  活発な討議の結果、日米安保条約破棄の実現に向けて全国的な運動の盛り上げが必須である、そのために、全国の学生がまず総決起して一気に革命的状況を作り出し国を追い詰める。  その運動の考え方は、ベトナム戦争反対を叫んでアメリカの悪を白日の下に晒し、そのアメリカと同盟を結ぶ日本政府の打倒、並びに、日本帝国主義粉砕をアピールするというものであった。  これこそが、早乙女恭子が望んでいた考え方であったし、一身を捧げたい活動であった。  全国の一般学生の大半を同時に立ち上がらせるために、各大学は現在の学部別自治会の運動から、学部や個別運動組織を越えた、より強力な大学全体の運動組織に変え、学内の闘争機運を一気に高めなければならない、など幾つかの方針や宣言が採択され、最後に全国の大学間での連絡を蜜にすることを申し合わせた。  その翌年、1968年になると、アメリカの原子力空母エンタープライズが佐世保に入港し、入港阻止を叫ぶ反米運動に火が着いた。  大阪大学でも、中核派の学生活動家が授業妨害などの理由で処分されたことをキッカケに、学生部長らを標的とする大衆団交などが行われ、豊中地区の全校舎が学生達によって封鎖されるなどの事件が起こった。  全国の大学の多くで、その頃全学共闘会議(全共闘)が組織されつつあったが、阪大でも学生の処分が明らかになった時、それを待っていたかのように学生達により阪大全共闘が組織され、彼等の行動により、大衆団交が実現し、豊中校舎封鎖が行われたのであった。  この間、早乙女恭子は阪大全共闘の主要メンバーとして活動していた。その頃、彼女の元友人や、高校の同級生達によって、彼女のジーンズにヤッケ、ヘルメット姿は頻繁に目撃されている。  小さな集会では壇上で、ハンディー・マイクを使ってアジ演説する早乙女恭子の姿もまた、多くの人の見掛けるところとなった。 ...more»
第19回  第二部 / 第二章 家族 ⑤
≪高村比呂希 著≫         「橘も高校時代ギターやってたんやから、何か出来るやろ?」 「昔のことさ」 「さっき君にプレゼントした曲、どうやった?」 「好きな曲だったから、ホント嬉しかったよ。唐沢のピアノ、凄いなぁ」 「そう思うんやったら、お返しソングゆうのやらなあきまへんで」 「橘さん、是非お願いします」  ママまでそう言う。困ったな。出来る曲は1曲しかない。でも、ジャズじゃないし、この場に相応しくないなぁ、などとぐちゃぐちゃ考えてたら、どこから持って来たのか、唐沢がギターを橘に渡して、再びステージへ。 「それでは、僕の友達がお返しソングを演奏してくれるので聴いて下さい」  マイクで客に伝えてしまった。半ば強制だ。橘は覚悟を決めて、前に出た。 「強引にやらされますが、ジャズでなくてもいいんですかねぇ?」  ママが大きく頷いている。唐沢も右手でOKサイン。 「私が出来るのは1曲しかないのでそれで勘弁して下さい」  橘がおもむろにギター片手に歌い出した。あの「サウンド・オブ・サイレンス」だった。  その後、橘は、この店にたまに1人で行き、いつも同じ曲を歌うようになる。橘にとって束の間の息抜きのひと時なのだろう。だから、この店には誰も連れては行かず、彼にとって「Bフラット」は隠れ家のような存在となって行く。             *   *   *  和馬が小学校六年の秋に、雅子が橘に切り出した。 「和馬に良い教育を受けさせたい」 と言うのだ。 「なんだい藪から棒に」 「和馬を普通の中学に入れるんじゃなくて、中高一貫教育の学校へ進ませたいのよ」 「中学から大学までエスカレーターで行けるという所かい?」 「そうじゃなくて、中学校と高校の6年間を一貫教育してくれる学校よ」 「じゃぁ、大学は受験勉強しないといけないんだろ?」 「それはそうよ。大学受験は人生最初の試練としてやった方が逞しくなっていいと思うわ」 「だったら、中学で受験させて大学で受験させるのと、高校で受験させて大学受験をさせるのとではあまり変わらないだろう」 「そこが違うと思うのよ。1回しかない人生だから、その土台が出来る18歳までの6年間を、良い学校で学ばせて、出来る人達の中でじっくり揉ませたいのよ」 「それは良いかもしれないけど、これから和馬に中学受験の勉強をさせるのは遅過ぎるんじゃないか?」 「問題に慣れれば大丈夫よ。ゲーム感覚だから」 「和馬は嫌がるだろう?」 「そうでもないみたい。和馬の友達も受験するそうだから」 「分かった。だけどそのために塾に通わせるとか、そういうの、俺嫌いだから無しで頼むぜ」 「分かりました。貴方が野球のコーチをやったように、今度は私が和馬のコーチをやるわ」  そして、和馬はある有名中学に合格した。和馬は何となし誇らしげだ。雅子は合格を心から喜んでいるようだ。橘も嬉しくない訳ではないのだが、何かが引っ掛かっていて、全面的に喜べない。橘は何だろうと思った。あれこれ思い巡らせているうちにあることに気が付いた。  これはある種、エリート・コースへの道なのではないかということだ。自分が学生時代も就職後も、エリートとは無縁の半生だったから余計に、我が子がエリート・コースを歩む違和感は度し難い。  橘は大学生の時、新聞部の大学交流会に参加した。その時、東京大学の新聞部員の中に、あからさまに自分達私大の人間を見下したような物言いの学生がいて、気分を害したことがある。  橘はこんな交流会に参加するんじゃなかったとの後悔の念を持ちながらも、それまで東大に対してコンプレックスを含んだ畏敬の念を持っていたのが全て崩れ落ち、鼻持ちならない東大生のイメージが強烈に植え付けられてしまっていたのだった。  会社に入ってからも東大出は何人かいた。橘の先入観がそうするのか、彼等の実態がそうなのか、橘にはどうも付き合いたくない人種に映った。  確かに、和馬の入った中学・高校から毎年大勢東大に合格している。万が一、和馬が東大生になった時のことを考えると、それを喜んだものか、悲しんだものか。勿論東大生に立派な人間も沢山いることは頭では充分理解した上でではあるが、どうにも東大生和馬の姿が思い浮かばない。  心の引っ掛かりはこういうことだったのだが、橘は、俺の子供が東大に受かる訳ないかと思い直し、苦笑するのだった。  だが、後々、橘の悪い予感は的中することになる。 ...more»
第18回  第二部 / 第二章 家族 ④
≪高村比呂希 著≫           その頃、橘は東京で高校時代の同期の同窓会に主席している。当時、彼の通った高校は共学になって間もない頃で、元は神戸市有数の女子高だった。元々少ない男子の中で神戸から東京にまで出て来ている者はもっと少ないから、10数名のこじんまりした同窓会だった。  その中にマンドリン・クラブで一緒だった当時指揮者の唐沢剛がいた。彼は神戸大から大阪の家電メーカーに就職し、海外勤務などを経験した後、1年前、東京支社の営業課長として単身赴任して来たのだと言う。橘が唐沢と会うのは高校卒業以来だった。  懐かしい昔話で盛り上がった後、唐沢は、早乙女恭子の消息に触れた。 「早乙女、頑張っとるよなぁ」  当時、橘と早乙女の仲の良さは、クラスのみんなに知られていたから、唐沢も当然自分より橘の方が早乙女の現在の消息に詳しい筈だとする言い方だった。 「えっ! 早乙女は今何してんの?」 「何? お前、ホンマになんも知らんのかいな?」 「うん。正直言えばな、大学2年の時に彼女と別れてもうて、それ以来何も知らないんよ」 「へえ。そうやったんか? だけど、高校3年間に大学2年間か? 5年も付き合った元カノやろ? ちょっと冷たいんとちゃう? まっ、いいや。彼女な・・・」  唐沢の話では、早乙女恭子は大学卒業後、何年掛りか大分苦労して弁護士になり、数年前には、兵庫県の県会議員に当選したと聞かされた。所属政党は日本革新党だと言う。 「そうか。恭子が弁護士か。県議会の議員さんか!」  早乙女恭子は、卒業後、全共闘のメンバーだったことが災いして、なかなかまともな職には就けなかったと風の便りで聞いていたから、このことを知って橘の心も軽やかになる思いだった。  その日の同窓会終了後、橘は唐沢に誘われ、四谷のとある生演奏が聞ける店に連れて行かれた。中に入ると、奥のステージと思わしき場所に、ドラムセット、アップライトのピアノ、ウッドベースなどが置かれており、手前は7~8人掛けのカウンターと、ボックス席が2つあった。  従って、15~16人も入れば一杯になるかと思われる小さなライブ・バーだ。だが、小さいながらもオーク材で統一したインテリアは結構高級感を醸し出している洒落た店だ。既に7~8人の客がいた。  唐沢の説明では、この店のママがオーナーで、彼女は自分達と同じ、兵庫県立夢ヶ丘高校の3年先輩なのだと言う。しかもマンドリンクラブの先輩だそうだ。 「いつも唐沢さんが会社の同僚やお友達を連れて来てくれるので大助かりなんですよ。でも母校のマンドリンクラブの方を連れて来て下さったのは初めてです」 と、橘に告げながら名刺をくれた。橘も名刺を渡した。ママの名刺には「音楽とお酒とくつろぎの店 Bフラット 秋川レイ」とある。  ママを交えて3人でウィスキーの水割りで乾杯したあと、ママと橘が話している時、唐沢は馴染みの客なのだろうか、近くの人と何かしゃべっていた。暫くしたら2人が席を立ち、1人がドラム、1人がベースの位置に着いた。 「ママ、じゃ何曲かやるね」 と言って唐沢がピアノの椅子に座った。 「えっ! 唐沢、お前が演奏するの?」  橘は驚いた。マンドリンやギターでなく、ピアノを唐沢が弾くというのは予想外だったし、店の客の前で演奏する腕前だった、というのが一番の驚きだった。 「え~、僕の高校時代の友人がこの店に初めて来てくれたので、彼に1曲プレゼントしたいと思います。曲は『素敵なあなた』、バイ・ミア・ビスト・ドゥ・シェ―ン」 と、唐沢がマイク越しにしゃべって直ぐ演奏を始めた。ジャズだ。ピアノ・トリオ。唐沢がピアノをやるなんて、ジャズをやるなんて、全く知らなかった。上手い。ドラムもベースも堂に入ってる。プロだろうか?   ジャズを3曲ほど演奏して戻って来た唐沢に聞いたら、他の2人は、一応プロだそうだ。一応と言うのは、音楽だけで食って行くのは無理なので他の仕事を持ちながら、いろいろな店で演奏をしているということだ。  唐沢は大学時代、神戸大のジャズ研究会に所属してジャズ・ピアノに本格的にチャレンジしたんだと告白した。なるほど。 ...more»
第17回  第二部 / 第二章 家族 ③
≪高村比呂希 著≫           保育室のガラス越しに初めて見る我が子は、顔が皺くちゃで、手足も皺がよっている。盛んに口をすぼめては開く動作を繰り返している。 「これが自分の子か。俺にも雅子にも似てないな。何か猿のようでもあり、宇宙人のようでもあるな」  これが、橘の偽らざる第一印象だった。だが不思議なもので、じっと10分も見つめていると、俺達の子供が本当にこの世に生まれて来たんだという実感がひしひしと湧いて来て、感動が心に広がる。と同時に、この子に愛おしさを感じ、雅子に「ありがとう」を言いたくなった。病室に戻り、雅子の寝ているベッドの傍らに立って、 「雅子、よく頑張ったな。ありがとう」 と声を掛けた。 「うん。初めてのご対面の感想は?」 と雅子が言う。 「正直言って、まだ顔が皺くちゃで、美男子なのか醜男なのか分かんないねぇ。でも五体満足で本当に良かった」 「名前考えてくれた?」 「幾つか候補は考えたよ。退院までに決める」  3日後、橘は息子の名前を決めた。大学時代の活動から体得した反戦平和への思いから「和」を、また、その頃、橘が愛読していた司馬遼太郎の「竜馬が行く」に感じ入り、「馬」を採って「和馬」と名付けたのであった。平和のために竜馬のように活躍する男になって欲しいとの願いを込めた名前だった。「橘和馬」、妻の雅子も大いに気に入ってくれた。  妻子が退院し、雅子の実家に戻った時、橘が珍しく墨で書いた「命名 和馬」の半紙が、赤ん坊が寝かされている枕元に飾られたのだが、もう既に、雅子も雅子の両親も「カズマちゃん」と言ってあやすようになっていたから、「この子はもう和馬以外の何者でもない存在になっている」と思ったものだ。  それからの橘は以前にも増して、仕事に打ち込むようになった。自分に家族が出来たという意識は、仕事でも際立った責任感の強さとなって表れ、自分が採用した代理店研修生が早く独り立ち出来るように、徹底指導した結果、彼等が急速に戦力化して、城北支店の売り上げをはっきりと押し上げるように成って行った。いわゆる「橘塾」として他店にも知られるようになって行った時期である。  橘は、いくら夜遅く帰っても、必ず和馬の寝姿を眺めて至福の時を過ごしてから、眠りに付くのが日課だった。どんなに疲れていても、どんなにへとへとになっていても、和馬を見れば気分が和らぎ、元気が取り戻せる自分を感じていた。橘は、一旦眠りに就けば朝まで何があっても目が覚めない性質(たち)だったので、和馬の夜鳴きに悩まされることも全くなかった。その分、雅子が1人で奮闘していたのだが。  朝早く家を出て、夜遅く帰る生活だから、息子の起きている姿を目にするのは休みの日に限られる。和馬の横で添い寝をしてやると、和馬は目を大きく開けて両手両足を空中に向かってばたばたさせて喜ぶ。その姿が何とも可愛らしく、愛おしく、今度は思わず抱き上げてやる。両腕の中で何事か声を発しながら橘の目を見る。父親だと分かっているのだろうか。或いは、自分を抱いている人間はどんな奴かと見ているだけだろうか。泣いてぐずることもなく気持ち良く抱かれてくれている。  実は橘は赤ん坊が凄く苦手だった。ガラスのように脆く、泣き出したら手に負えない存在、他人の赤ん坊を見て可愛いなんて思ったことがなかった。なのに、自分の子供は可愛い。いつまでもいつまでも眺めていたい。自分でもこれは意外だった。もう早くも親ばかになっちゃったのかなと自分で自分が可笑しかった。平凡な幸せ、小さな幸せとは、こういうことだったのか。  ふと、昔、突然の別れとなってしまった早乙女恭子のことが頭を掠めた。彼女は今何をやっているのだろうか、どんな生き方をしているのだろうか。少なくても彼女はこんな小さな幸せを求めてはいない筈だ。しかし俺は今、雅子と和馬との3人の幸せな生活を享受している。彼等の世界で言うところの「小市民」そのものの生活を俺は是としている。所詮彼女とは住む世界が違ったのだ。これでいいんだと橘は自分に言い聞かせたのだった。  1人っ子の和馬はその後すくすく育ち、幼稚園ではサッカーを、小学校に入ってからは柔道のクラブに入った。小学校3年になってからは「野球がやりたい」と言い出し橘を大いに喜ばせた。  会社はかなり前に土曜日も休みになっていたが、橘は代理店研修生と共に土曜も出社していたので、日曜日の天気の良い日に息子とキャッチ・ボールをやるのが何よりの楽しみとなった。自分が野球を始めたのも小学校3、4年生の頃だったなぁ、と懐かしく思い出しながら。  橘は平日は殆ど息子と触れ合う時間がない。だから余計にこのキャッチ・ボールが大切だった。父子にとってこのボールの遣り取りが、言葉の遣り取り以上に大事な触れ合いの時間だった。和馬は和馬で、昔野球の選手だった父を誇りに思っていたし、現に、投球や捕球の仕方、構え方、ゴロの取り方、バッティングと、何でも教えてくれる父を尊敬していた。  キャッチ・ボールが終わると和馬は、学校での練習試合のことや、先輩に凄い選手がいて、その人が和馬相手にノックをしてくれたことなど、嬉々として橘に話してくれる。橘にとって、何とも言えぬ嬉しいひと時なのだ。父のコーチもあって、和馬は学校でもめきめき頭角を現し、4年生になって直ぐ、学校の4年生以上のチームで正選手に選ばれたのだった。父子の日曜日のキャッチ・ボールは和馬が小学校卒業まで続いた。  その頃、中学・高校では校内暴力やいじめ問題が社会問題化していたが、橘は、そういうことをしでかす子供とその父親は、多分自分達のような父子の会話や触れ合いが極めて少ない育ち方をしたからだろうと勝手に思ったものだった。しかし、後に橘のこの考えは大きな間違い、或いは、錯覚であることがハッキリして行くのだが、少なくてもこの時期、週1回、或いは、月数回の触れ合いではあったが、親子の絆はしっかり結ばれていると、橘は感じていたのだった。                *   *   * ...more»
Page 3 of 3:« 1 2 3
bottom-img