≪高村比呂希 著≫ 
 
 
 
 
 暫くの沈黙の後、橘が口を開いた。

「つまらないことを言ってしまった。どうか許して欲しい。
 私が頭に浮かべるべきは、一緒に苦労し中小企業を立て直した社長一家が夜逃げしなければならなかったこと、そして一家心中に至った悲惨な現実だった。
 そういう状況に追い込んだ経済恐慌、それを放置した日本政府の無為無策・無責任。そういう日本をどう変えるか、皆さんに本業返上で助けて貰ってここまで辿り着いたと言うのに。この成果を政治に活かすために、出来ることは何でもやるべきだと改めて気付かせて貰った。この通りだ」

 橘は深々と頭を下げた。そして続けた。

「もう、迷わない。少なくても、日本の政治を変えるキッカケだけは作りたい。そうしないと死んで行った人達や、身を滅ぼして行った人達に申し訳が立たない」

 率直な橘の言葉は、全員の胸を打った。

 最後に、橘が安田に革新党へのアポイントメントを依頼した。

「安田さん、早速党首に会えるよう段取りをお願いします。その時、こちらの責任者は橘譲二だと言うことも是非お伝え下さい。会見の時に、驚かれて話が進まないのも困るので」

「分かりました」

「それでは、今晩これから、皆さんの慰労を兼ねてちょっと豪華な食事会を予約しておきましたので、都合の悪くない方はご一緒にどうぞ」

 安田だけが次の予定が入っていて辞退したが、他の3人はOKということで、4人は橘の事務所(共感ネット保険会社の会長室)のある代々木から、橘の運転するレクサスで、予約しておいたセルリアンホテル最上階のレストランに向かった。

 

                  *   *   *

 

「皆さん、本当に良く頑張って提言を纏めてくれました。心から感謝します。今日は私からの感謝の気持ちですから、遠慮なく注文して貰って、これからの勝負のために英気を養いましょう。それでは乾杯と行きましょう。乾杯!」

 1つの到達点に達したので、その達成感か安堵感かが全員を雄弁にした。雑談に花を咲かせる3人を見て、橘は、安田を含めて彼等4人が自分と何の利害関係もなく、ボランティアで「日本再生、提言7ヵ条」を纏めてくれたことを奇跡だと思った。そして、60歳を過ぎた今、こういう人達と仲間になれたことが心底嬉しかった。

 時計は9時半を回っていた。今日のところはお開きとなったが、橘はレストランの反対側にある夜景が前面に広がるバーで飲みたい気分だった。だが、兵頭は「家が遠いので」と断わりながら帰って行った。金子も申し訳無さそうに、「明日出張のために朝早い」といいながら去って行った。

 

 エレベーター前に橘譲二と箱崎綾が残された。

「箱崎さん、今日は本当に嬉しかったので、バーで少し余韻に浸りたい。ということは車で君を送っていけないから、無理には引止めないよ」

「渋谷からならタクシーでも帰れる距離ですから少しだけご一緒させて下さい。先程のレストラン、覚えていらっしゃいますか? 私の友人と一緒に橘さんに初めてお目に掛かった場所です」

「ああ、良~く覚えているよ」

「日本で私の居場所がやっと見付かったと思えた最初の運命の出会いでした。私にとっては大切なホテルだから、もう少しいたいのです」

「それじゃ、1時間ほど付き合って貰おうかな。申し訳ないが、バーに先に行って夜景の綺麗なカウンター席を2つ確保しておいてくれないか? 俺は今日ここに泊まることにしたるのでチャックインして来る」

「分かりました」

 箱崎綾はエレベーター・ホールを挟んでレストランの反対側のバーに向かった。橘は一旦エレベーターでロビーに降り、手続きを済ませて、再び最上階に上りバーに入って行った。 
 
 
                  *   *   * 
 
 
 バーの中は少し暗くしてあるので、下界に光の海が輝いて見える。思ったより広いスペースで、中央にはグランド・ピアノが置いてあって、女性ピアニストがムーディーな曲を演奏している。ソファー席やボックス席はほぼ満席に近いが、大きな全面ガラスの前に10人程度が座れるカウンター・バーが設えてある。そこはまだ数人座っているだけだった。その一番奥に箱崎綾が座って、こちらに手を振っていた。橘は彼女の隣に座った。

「どう、ここからの眺めは? ニューヨークの摩天楼のバーでも思い出してたんじゃないか?」

「そうじゃないんですが、さっきバーテンダーの方に聞いたらあの辺りは横浜なんですって。渋谷から横浜が見えるなんて想像もしてなかったから、ビックリしちゃって」

「ここからの眺めは絶景だな」

「本当に夜景が綺麗! 普通今の時期は空気が澄んでいないから、こんなに綺麗に見えるのは珍しいんですって」

「函館は100万ドルの夜景とか言うらしいが、ここのは105万ドルの夜景なんだ」

「何ですか、その端数の5万ドルは?」

「消費税」

「嫌だ、橘さんってば。ハハハ」

 

「何に致しますか?」

とバーテンダーが聞く。橘は綾が飲んでいるカクテルを見て、

「それは何かな?」

「ドライ・マティーニでございます」

とバーテンダーが答える。

「箱崎さん」

「今はPJ5じゃないので綾と呼んでください」

「じゃぁ、綾、なかなかしゃれたものを飲んでるなぁ。でもそれ、男の飲み物じゃないのか?」

 ジェームス・ボンドの嗜好品だから、そんなことを言って橘は綾をからかったのだ。

「あら、橘さん、ニューヨークでは女性が普通に飲んでいますよ」

「そうか。これは失礼した。私にも同じものを」

と橘はバーテンダーに伝えた。