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≪高村比呂希 著≫
「プロジェクトJ」(PJJ)のスタートから4年後の2009年の初秋、1人の若い才女が加わった。
⑤ 箱崎綾(同33歳)。
元米国経済紙記者、現在経済評論家として活躍中。
彼女は、慶応大学経済学部を卒業し、将来は国際金融に関わりたいとの夢を胸に、父親の友人でもある都心の個人会計事務所に見習いで入った。
その一年後、訳あってアメリカへ留学。ハーバード・ビジネススクールへ。卒業後、金融コンサルティング会社勤務を経て、ニューヨークの有名経済雑誌社「ウォール・ストリート・ジャーナル」の記者に転身した。
彼女の独特な取材方法と緻密な分析力で記す「ウォール・ストリート・ジャーナル、月刊金融レポート」は、いつもアッと言わせるほど、業界のプロたちにも評判で、圧倒的な読者フアン層を持っていた。
彼女の持つ人知れない武器は、天才的なインターネット操作の活用にある。
企業情報を検索するために、彼女の秘密のコンピューター画面では、取材企業の核心部分に如何ようにでも侵入できる。
まるで大波を鮮やかに乗りこなすプロのサーファーのように。ほとんどの「ファイアー・ウオール」なら乗り越えられるし、潜り抜けられる。忍び込めないシステムはないと言っていい。
更に、初めの段階から自らのパソコンからターゲットにアクセスするのではなく、必ず誰も知らないある組織のサイトを経由して侵入するよう心掛けた。ものの3分もすれば相手のパスワードを突き止め、さらに別の「レッド・ウオール」を構築する。自分の存在は100%知られることがない自信もあった。
しかも、ハッキングにより取り出したインサイダー情報は、金融界の不正暴露の情報として検討素材にはしても、非合法的なビジネスには決して利用しない。
ご都合主義的な正義と言えなくもないが、特に疑問は抱いていない。念には念を入れて、不法に入り込んだ痕跡を一気に破壊するトリガーリードも必ず残す。
しかし、そこに「落とし穴」があった。
2007年7月。
窓辺のコンポからは、バーバラ・ストライサンドの「ウィズ・ア・ソング・イン・マイ・ハート」の軽やかな歌が流れている。
ここは、ニューヨーク、ハドソン川の畔。箱崎綾が暮らす個人マンションの一室。
NBCの最も親しい友人経済記者のインタビューに応えている綾の声には、自信が満ち溢れていた。
「私が23時間不眠で記したこのレポートが、明後日の『ウォール・ストリート・ジャーナル』に掲載されれば、世界の金融界を一気に震撼させるでしょう。私には迷いはありません。遂にこの時が来たのです」
「過去1年に亘り、法スレスレの、ハッカーまがいの調査までしてきたこの事件は、いまや間違いのない真実となったのです。勿論、裏付けも取りました」
「金融閣僚と一部金融界上層部の画策によるITバブルや住宅バブルの発生。それによりもたらされる金融ビジネスの活性化と巨大な利益」
「まるでマフィアかと思わせるマネーロンダリング。政府官僚の裏工作および金融閣僚への汚職。かくも国際金融の実態は凄まじい様相に変貌していたのか?」
「振り返れば、現在の金融至上主義には分刻みで事が起こり、今、アメリカは、否、世界は崩壊に向かっています」
「まるで映画のようです。もっとも映画と違って、身の危険を感じつつ、徹底的に調査し、事実のみを記述して行く私には、脚本がありませんが・・・。」
「だから想像を交えないで、事実のみを記しました。明後日の発売を楽しみにしてください」
突如として起こった「ウォール・ストリート・ジャーナル」の前日発売中止事件。
この鮮烈なスクープ記事とA・Hakozakiに対する独占インタビューは、全米のマスコミ界のみか世界の金融界をアッと言わせるほどのインパクトがある筈であった。
金融工学のカラクリを暴き、1年後の世界金融恐慌を、当時既に予測していた記事は、しかし、アメリカ財務省と金融界の影のフィクサー達や、何よりも「ウォール・ストリート・ジャーナル」社のトップの判断により、この記事の「抹殺」が画され、記事掲載雑誌の発売までもが前夜になり急遽中止された。
当然、若き編集長と箱崎綾はこの業界から消された。
あのNBCインタビューは、暴かれたくない側がグルで行った最終確認だったろう。
彼女の書いた記事内容と共に、どこまで知られたかを彼女自身に語らせる必要があったのだ。
しかし、発売中止、放送中止にも拘らず、一部の若手経済記者達には、その記事のコピーは出回った。
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≪高村比呂希 著≫
【橘】「憲法9条は日本が世界に誇れる平和憲法である。戦争を放棄し世界平和に貢献して行くことをもっともっと世界にアピールして、世界をそういう方向に導く先導役を果たすためにも改正すべきでない」
【安田】「9条を改正して普通の国になり、戦争も出来る国として世界と渡り合おうという輩がいる。そういうグループの野望を挫き、9条を死守すべし」
【兵頭】「憲法9条さえ守れば平和が守れると考えるのは、極めて幼稚なメンタリティだ。日本の憲法でいくら不戦を誓っても、攻め込んで来る敵がいれば、戦うのだし、政府見解と称する9条解釈で、持たない筈の軍隊は持つわ、自衛隊海外派遣(派兵)はするわ。最近では集団的自衛権も9条はOKしてるなんて言ってるよ。それじゃまるで9条で放棄したのは戦争ではなくて、平和憲法だ」
【金子】「そうですよ。今の9条はただの空文。抜け殻。お題目。実際の自衛隊はきつい訓練に耐えながら、日本を守るために頑張っているのに、9条のために世間の風は自衛隊を私生児扱いだ。何で国を守る人間達に肩身の狭い思いをさせなきゃいけないんですかね?」
【安田】「それは歴代政府が悪いんだよ。明らかに憲法9条に違反してるのに、米国に言われて自衛隊作っちゃったから。金子君には悪いけど、自衛隊は違憲なんだから、即刻解散すべきなのだ」
【金子】「それはないでしょう。人的国際貢献とか何とか言われて、自衛隊はアフガンにもイラクにも危険を押して行ったんですよ。みんなが国内でのうのうとしている時にね。インド洋での給油だとか、ソマリアの海賊排斥とか。世界から感謝されて。自衛隊が日本の外交を一手に引き受けているようなものです」
【兵頭】「憲法は国民みんなのものです。中学生にも理解出来る憲法であるべきです。国際紛争の解決手段として戦争も軍備も永久に放棄すると謳っているのに軍隊がある。可笑しいでしょう。日本領海内の防衛戦だけは認めると言うならそういう風に条文を改めるべきです」
【橘】「日本人数百万人の血と大量のアジア人の血が作り上げた憲法9条は、あの悲惨な過ちを2度としてはならないという強い決意を示すもの。それは決して変えてはならないのも」
【兵頭】「不戦の決意の核心は、2度と他国に侵入する戦争はしませんということじゃないんですか? それならそういう侵略戦争は永久にしない条文に改めれば宜しい。その逆の、侵入された時の戦いも禁止するなら、国は国民を守らない世界唯一の国となってしまいますよ。国家の体を成さないように規定する憲法なんて、あり得ません」
【安田】「兵頭君や金子君は9条と現実が正反対になってしまっていると言うが、それでも9条が日本の暴走を抑止していると思う。多くの人が現実は、米国一辺倒の政府が米国の意向を受け入れた結果だと知っている。現実が憲法違反だと言うこともね」
【金子】「だったら、国民投票で民意を問うべきですよ。国民に聞くべきです」
【兵頭】「過去60年間も、また今後もずっと国民投票を避け続けるのは、与野党政治家の心のどこかに、一般大衆を愚民視する、思い上がりを感じますね」
議論はどこまで行っても終わらないのであった・・・・・・・。
しかし、まあ、その頃は、何の責任もない気楽なディベートだったし、そんな激論を戦わせながら酒を飲むのが何より楽しみな連中だった。
だが、何年かすると、本当に世界経済は酷い状況に陥り夫々のメンバーの実務にも悪影響が出始めると、前のように気楽に議論するだけでは収まらなくなって行った。
* * *
2007年の夏、米国発のサブプライム・ローンの焦げ付きが膨大な額に及ぶことが徐々に明らかになり、その証券化商品を大量に購入していた欧州の主要銀行で一気に経営悪化が表面化したことが報じられた。
21世紀に入って米国は住宅バブルと言われるほど、住宅販売が好況を呈していた。しかしそれも、年収から見て購入可能顧客への販売が一巡すると、住宅バブルははじける運命にある。バブルがはじけてしまうと、米国は再び経済が落ち込むなで、不動産業界も金融機関も住宅バブルを維持しようとした。それが低所得者層への住宅ローンの貸付けだったのだ。
悪いことに、最初の何年かは返済額をぐっと抑え込んだ仕組みだったから、低所得者層も返済出来、問題は表面化しなかった。だが、その期間が過ぎると、それまでの何倍かの返済を迫られる。当然彼等には支払い能力はない。サブプライム・ローンの殆どが焦げ付くのは時間の問題だったし、焦げ付きは一気にやって来る。それが2007年の夏だったと言う訳だ。
焦げ付き額は、今後1年以上に亘って増え続け、最終的には数兆ドル(日本円して数百兆円)に達するとみられている。日本のバブル崩壊で出来た銀行の不良債権は150兆円というから、その規模の深刻さが分かろうというもの。
日本経済も、銀行への公的資金導入などにより、やっと不良債権を始末し、バブル崩壊から10数年振りに明るい兆しが見えて来たのも束の間、再び株価の下落と共に、不況に逆戻りの様相となった。
更に酷いことに、小泉首相の後を受けて1年前の2006年9月に首相になった安倍普三が、世界不況に対するしっかりした経済対策も打たないで政権を投げ出した。続く福田首相も悪化する経済をどうすることも出来ず、麻生太郎に首相を禅譲した時は、「リーマン・ブラザーズ」倒産で一気に世界恐慌に突入、日本はあの失われた10年よりももっと酷い経済状況に立ち至ったのだった。その麻生政権も解散総選挙で敗れ、1年持たなかった。日本経済が過去最悪に陥っているのに、全く政治が当てにならないのだから何をか言わんやである。
何のリーダー・シップも取れず、何も出来ないと悟ると1年で政権を簡単に投げ出してしまうこういう日本の政権を見てPJJは、「無責任政権」「危機に逃げ出す政権」「国民を守らない政権」と言い合った。
そしてメンバーは、2008年の1年間を使った米国大統領選をつぶさに見、2009年2月のオバマ新大統領の就任演説を聴くに付け、日本のナンバー・ワン指導者との資質の違いを思わずにはいられなかった。みんなの思いは、「何故これほど違うのか?」といった今更ながらの疑問で一致したのだった。
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≪高村比呂希 著≫
(この小説に登場する人物・組織は全て架空であり、実在する人物・組織とは一切関係ありません。 編集部)
最初、それは、橘と親しい人間が集まり、中小零細企業の再生事業をスタートさせた橘を精神的に応援するような会だった。いわゆる「橘を励ます会」というようなものだった。橘が、損保会社を辞めて1年以上が過ぎた頃、自然発生的に始まったものだ。当初は、橘の現役時代の損保会社の仲間や部下達、退職後知り合った人達などが入り乱れていた。あの金子順も当初からメンバーだった。
その後、橘の関心が団塊世代の役割や活かし方という、ある種の日本の問題に移って行くと、「NPO地域主義ネットワーク」から安田克彦が参加したいと言い出した。橘はこれまでの会を整理・再スタートさせる必要を感じるようになった。
橘の結論は、元の出身会社の仲間や同僚・部下達で、純粋に橘を慕ったり応援したりしてくれる人達からなる会として、現役の彼等の息抜きと親睦を兼ねた、ゴルフ会や研修会、飲み会を定例開催することと、今後の日本の問題を話しながらNPOの活動に繋げるブレーン・ストーミングを趣旨とする会に分けた。前者を「賢衆会」、後者を「プロジェクトJ」(通称PJJ)と名付けた。「賢衆会」の方は遊びが趣旨であるから、メンバーは50人を超える。但し、その後の人事異動などで地方に転勤した者なども増え、常時その半数くらいの出席になる。
PJJという会の方は、全くの少数精鋭。先々どういう会になるか誰にも分からないことから、当時NHKでヒットしていた「プロジェクトX」と橘のニックネーム「JT」にあやかって、「プロジェクトJ」と名付けられた。メンバーは次の四人でスタートした。
① 橘譲二(会の発足時58歳)
大手損保会社の常務取締役を投げ打って退職。独立して事業を起こし、2年目。
② 金子順(同38歳)
橘に育てられた元保険代理店。現在はセキュリティー・システム会社の若き
社長である。
③ 安田克彦(同66歳)
某生協創始者で元革新党県議。現在は社会活動家。
④ 兵頭一樹(同57歳)
元損保会社役員で現在はシステム会社社長。システム統合では橘の下で
二人三脚で戦うも大苦戦した経験を共有する。
最初のうちは、団塊の世代がリタイアを迎えると、この日本の社会はどうなるかといったことをテーマに、アルコールを潤滑油にして大いに議論したものだ。
何せ団塊世代は必ず節目節目で、それまでの社会制度や校舎などの器を全て変えてしまったし、彼等の生存競争の激しさは他の世代の比ではなかった。それだけに、この大きな塊が退職を迎えると(60歳に到達すると)、何がどう変わるか、議論としては尽きることがなかった。
年金など社会制度は、それまでの方式で持つ訳ないから、必ず給付額は減額、給付開始時期は先延ばしにしないといけないだろう、とか、そんな大きな集団が社会の扶養家族になったら、若者達の負担は今までの何倍にもなり、やる気を失うのではないか、そうなると、日本経済は構造的に活力を失い、本当に衰退して行くのではないか。とやや深刻な議論が多かった。
PJJがこんな議論をしていると、マスメディアも漸く「2007年問題」を取上げるようになった。だがその論調は企業側から見た論調が殆どだった。即ち、団塊世代が一斉退職すると、彼等のノウハウが会社から一気に消失するので会社運営に大きな支障を来たすといったものだったり、金を持った「毎日が日曜日」人口の爆発により新たなビジネス・チャンスが到来する、というトーンだった。
PJJは、それらは「07年問題」のほんの一端を論じているだけだと、断じた。最大の問題は、あと5年、10年は働ける元気な60歳には、社会の扶養家族に成り下がって貰うのではなく、会社生活40年で身に付けた貴重なノウハウをどのように社会や地域に還元して貰うかであると考えていた。換言すれば、団塊世代の働き場所の創出と社会貢献の場作りが「07年問題」の本質的課題である筈だという点で一致していた。
このような議論の中から誕生した、PJJの最初の成果としては「プレミアムエイジ」というPJJメンバーによるブログを開始し、世に問うことだった。「プレミアムエイジ」は橘による命名だ。その意味するところは、現役時代に培った貴重な知識・技術・ノウハウをもって社会貢献する、価値ある団塊の世代のことなのである。メンバー達が「プレミアムエイジ」というウェブ・サイト上に、夫々のタイトルを持って、自由にブログを書き続け、もう何年も続いているサイトなのだ。
次に、PJJの発足の当時、小泉改革の「本丸」と言われた郵政民営化が騒がしい時期でもあったから、PJJでは小泉改革についての是非論が戦わされた。それこそ賛否両論の激しい議論になった。
賛成派は、小泉は全ての特権的制度を建設的破壊しようとしている、小泉の実行力は過去のどの首相をも凌ぐ、彼は失われた10年を本気で終わらせようとしているといったトーン。
反対派は、小泉・竹中の目指すところは、全て米国基準の市場主義社会、あのマネー・ゲームの米国を模倣しようとしている、日本の良き風土や人の心を荒廃させる、米国の矛盾を日本に持ち込む愚を冒そうとしている等など。
ただし、4人が皆、徹頭徹尾賛成派・反対派という風に固まっているのではなく、小泉の政策毎に賛成か反対かを決めて議論するのだ。
最も、激しくぶつかり合ったのが、憲法改正問題だ。2006年9月に、日本の首相が小泉から安倍に変わって、安倍が集団的自衛権が認めれるように、憲法改正を進めようとしていることが伝わった時だった。
PJJの4人の意見は真っ二つに割れたのだ。憲法9条を巡って、改正反対は、橘譲二と安田克彦。改正して自衛隊の存在など、矛盾と曖昧さを払拭すべきだと言うのは、金子順と兵頭一樹。 ...more»
≪高村比呂希 著≫
少額短期保険会社は、年間売上げ50億円以下に抑えられる小さな保険会社だ。考えてみれば、既存の生損保会社と比べると、象と蟻ほどに違う小さな零細保険会社だ。
これはここ数年やって来た、中小零細企業の再生事業と同じではないか。その世界では業種の如何を問わず立ち向かって来た筈ではないか。
更に言えば、六本木「ひさご」での金融庁キャリアの阿久津紀夫との会食で、無認可共済撤廃・少額短期保険会社の設立に関する情報に接した時、いずれは自分がそれを立ち上げることになるかも知れない、という予感めいたものを感じたのではなかったか。
橘はこうして気持ちの整理を付け、自分の心のどこかにある、完全燃焼出来なかった保険の世界へのリベンジの気持ちに、遂に、気付いたのである。
橘にとっては保険事業への回帰に他ならないが、この会社を一人前にすることを、自分の人生の最終章、ラストランとすることに定めたのだ。
その後、紆余曲折を経て、橘が社長を務める「共感ネットワーク少額短期保険会社」がスタートした。
2008年4月には準備会社を作り、夏前から3ヶ月間の当局との折衝の後、認可が降り、2008年11月、無事営業開始に漕ぎ着けたのであった。
この会社の出資会社(株主)は、「有機野菜を守る会」のほか、3生協等となっている。従って当面のマーケットは「守る会」と「生協」の会員ということになる。資本金7千万円でのスタートだった。
保険商品は医療保険であるが、特約に生命保険と損害保険を組み合わせた日本初の保険商品である。保険料は、既存生損保・外資系、どこと比べても最も廉価な保険である。それは、マーケットが生協ルートに限定されているため、会員顧客層が良質であるからに他ならない。
社員は10名でスタートした。うち60歳以上の社員3名、60歳目前の人4名、それと40歳代3名という構成だ。
前者7名はいずれも橘と同じ出身会社で夫々の道のベテラン揃いだ。
これはコストを思い切って抑えるという必要に沿ったということもあるが、寧ろ橘の持論である、団塊世代の現役卒業組みは、培ったノウハウを何かで活かすべきとの方針から、平均年齢の極めて高い会社が出来たのである。
橘は、少額短期保険会社の限度額である、売上高50億円を2年で達成して少額短期保険会社から脱し、生保と損保両方の保険を扱える日本で初めての正規の保険会社になることを旗印とした。
社長を引き受けるに当って橘は、それまで手掛けて来た再生事業の片手間に出来る仕事ではないと、これまで手掛けた全ての事業から手を引いた。個人出資は続けるが、経営者のポストを生え抜きの信頼の置ける者に譲り、また、一部の会社については完全売却して整理した。
但し、「日本SIS」については、金子社長の断っての願いで、会長職に止まった。「日本SIS」は既に東証二部上場を果たし、優良企業として、株式の初値は出資額の時価総額は10倍以上となり、その後も、市場の評価は高く、順調に株価を上げていた。今や、システム関係の雑誌などだけでなく、経済紙は勿論、テレビ番組などにも、ベンチャー成功企業として、取上げられることが多くなった。必然的に、会長・社長のマスコミへの露出度も高くなっていたが、今後のマスコミへの登場は一切金子に任せることにして、田代はこの新設の保険会社の経営に集中することにした。
橘61歳。兎にも角にも橘の最後の大勝負、ラストランの幕が切って落とされた。
* * *
しかし、その頃、世界経済も日本経済も惨憺たる状況に悪化していた。
橘の「共感ネットワーク少額短期保険会社」が設立される前年の夏には、米国のサブプライム・ローンのバブル崩壊から世界が不況になり、2ヵ月前には、米国の「リーマン・ブラザーズ」が倒産して、世界経済は不況から一気に「恐慌」へギアチェンジしたかの様相を呈した。
日本で毎年毎年空前の利益を挙げていたあの「AIG」が、サブプライム・ローンの保証業務を幅広く行なっていたため、それらの焦げ付きによる膨大な支払いが「AIG」を襲い、倒産不可避の状況となった。
だが、「リーマン・ブラザーズ」を倒産させて世界恐慌の引き金を引いた米国政府としては、「AIG」までも倒産させたら、それこそ世界中を予測不能のパニックに陥れるとして、公的資金の投入で問題の発生を局所化・極小化する努力をしている。しかし、専門家達は、
「その投入額では焼け石に水で、多分、その30倍程度の投入をしないと、世界パニックは避けられない」
と警告する。
日本は、15年に亘る長い長いデフレ経済から漸く脱出し、やっと明るい兆しが見えたかなと思ったら、またも奈落に突き落とされたようなもの。
おまけに、麻生内閣のぶれにぶれた経済政策が後手に回るから、サブプライム・ローン問題を起こした米国よりももっと酷い経済状態と社会不安に陥ったのである。
橘の船は、そんな最悪の経済状況の中を、出航したのだった。あたかも、荒れ狂う海に小船で乗り出すが如くに。
そして、明くる年の2月、アメリカでは全国民の圧倒的支持を受けてオバマ大統領が誕生し、同じ年の9月、日本では旋風どころか未曾有の地すべり的な衆院選結果により、自民党が下野して、民主党鳩山総裁が誕生した。 ...more»
≪高村比呂希 著≫
早速翌週、安田克彦は橘譲二を伴って、「有機野菜を守る会」の会長、三浦孝弘に会いに行ってくれた。
彼は無農薬有機栽培の農家を束ねて、全国の都市部に住む家庭に美味しくて安全な農作物を届けるビジネスを行なっている。生協にも産直で卸していることもあって、安田と三浦は旧知の仲とのこと。
三浦の「有機野菜を守る会」は、生産者にも会員にも、生協系の共済を勧めて来た経緯があって、今回の共済消滅に際して危機感を持っているようだ。
三浦が言った。
「橘さん。いろいろな生協の責任者と話をしていますが、まだまだ認識不足の生協が多いみたいです。生協の責任者達を集めて、一度、共済の保険移行について講演会をやって頂けませんか?」
彼等もこう言った話を筋道立って聞く機会は余りないのかも知れないと思い、承諾することにした。
「はい、安田さんからも同じことを言われております。私なんかで宜しいのであれば、是非とも協力させて頂きます」
「それはありがとうございます。宜しくお願い致します。
それからもう一点。安田さんからも、お聞きしていますが、もし、共済の受け皿会社を立ち上げられるなら、私共も精一杯協力させて貰いますよ」
「いやー、その件はまだ決った話ではありませんが、そうなった時は何卒宜しくお願いします」
と頭を下げたのだった。
虎ノ門のある会議室で行われた講演会には、「有機野菜を守る会」や、五つの別々の生協が参加した。どの生協も危機感を強めたせいか、夫々から10名程度の参加があり、結構な人数の講演会となった。
橘は次の五点に絞って、約1時間半に亘る講演を行なった。
一、米国の圧力によって、損保・損保のマーケットへの新規参入を有利な条件で無事果たし終わった外資の、次の
ターゲットが共済マーケットであること
二、厚労省所管の共済と、金融庁所管の保険とでは、役所のスタンスが大きく違うこと
三、無認可共済は既に全面禁止となったこと。早い所では、既に少額短期保険会社の設立準備に入っているところが
あること
四、少額短期保険の中身、特に既存生損保との違い。
五、保険事業と生協事業の間にはファイアー・ウォールが設けられるので、これまでのように共済の利益を組み込め
なくなり、生協事業の経営そのものが厳しい状態に陥りかねないこと。
関心度は橘が想像していた以上で、質疑応答だけでも小一時間掛かった程の熱の入れようだった。いよいよ、何かが動き出すことを橘は肌で感じた。
講演会終了後、橘は安田の紹介で、各生協の組合長や連合会の理事長と名刺を交換させて貰った。その後は解散するものとばかり思っていたら、隣の部屋に食事の用意があるというので、安田に連れられ部屋に入った。今、名刺交換したばかりの生協の責任者が全員揃っていた。「有機野菜を守る会」の三浦会長も着席している。
安田が全員を代表して橘に礼を言った。
「橘さん。本日は大変有意義なお話をありがとうございました。これまで、耳にはしていましても、どこか遠くのことのように思っておりましたが、もううかうかしていられない事態だということが良く分かりました。今日は心ばかりの用意しか出来ませんでしたが、どうぞ召上って頂いて、その後、橘さんにも入って貰って、ここにいる責任者の皆さんと一緒に、今後のことなど、少し話し合いをさせて頂けましたら、嬉しいです」
全員が橘に
「どうもありがとうございました」
と口々に礼を言って、用意された高級弁当を開いた。
安田は今日、少額短期保険会社設立の話をするつもりだな、と橘は理解した。案の定、安田克彦が食事の後、少額短期保険会社設立について提案した。
各生協が個別に立ち上げるのではなく、損保会社の常務取締役までやって、保険に詳しい橘に任せて共同で1つの会社を立ち上げたいとの趣旨だった。
直ぐに三浦孝弘が、
「前々から生産者にも会員にも共済のような助け合いの仕組みが要ると考えていたので、もし少額短期保険会社を立ち上げるなら、出資を含めて、是非とも協力させて貰いたい」
とのフォローの発言をした。
その他にも何人かの生協組合長の趣旨賛同の発言があったが、出資となると、生協としては正式に機関決定が必要なので、後日態度表明をしたいというところが多かったが、当然ながら反対意見は皆無だった。
ただ、橘自身はまだ安田に、「俺がやる」とは一言も伝えていなかったので、新会社の社長を自らがやる前提で話が進むことに戸惑いがあった。35年勤めた損保会社を辞めた時、保険の世界からは完全に足を洗ったつもりだったし、独立後、中小零細企業の再生事業に自分の役割を見出したからだ。
だが、橘が新会社の社長をやることに、激しい拒否の気持ちが湧いて来ないのもまた事実だった。
最後に橘が発言した。
「今日は、共済を巡る現在の状況や問題点についてお話させて頂き、少しでも皆様の今後の共済事業の足しになればと思っておりましたが、先程は新会社設立で私の名前が出されまして、大変驚いているところです。
ここにおられる生協組合長様達と同じく、私にも現在進行形の事業もありますし、相談する相手もおりますので、少し時間を頂いてから自分の気持ちをお伝えしたいと思います」
とは言うものの、実はそう話し終えた時、橘の気持ちは固まっていた。 ...more»
≪高村比呂希 著≫
(この小説に登場する人物・組織は全て架空であり、実在する人物・組織とは一切関係ありません。 編集部)
2006年の暮れが近付く頃、安田が橘に共済の話を切り出した。
「生協には共済があって、橘さんがいた保険会社と良く似た商品を売っているのはご存知ですよねぇ?」
「ええ、知ってます」
「その共済が近い内に消えて行く運命にあるということは?」
「はい、国から認可を受けていない、いわゆる無認可共済は、近々、全面禁止になり、少額短期保険会社に移行しなければいけないんですよね。去年、金融庁の課長さんから聞いております」
橘は、昨年の金融庁の阿久津課長との会談を思い出しながら言った。
「良くご存知ですねぇ。私はそれを生協の窓口の厚労省の役人から聞きました。橘さんが言う通り、当初は無認可共済だけだったのが、今や認可された制度共済も、いずれは保険会社に移行しなければならないと言うのですよ」
「制度共済も無くすんですか? ああ、それは知りませんでした」
「そこでですね。保険のプロの目で、今の共済のまま保険に移行出来るものなのか、問題があるとすればどういう問題を乗り越えなければいけないのか、直接診て貰いたいんですよ。それに何より、厚労省が指導してきた共済と、金融庁の指導する保険の何が違うのかも教えて頂ければ有難いんですが」
「分かりました。暫く調査の時間を下さい」
と言ってその場は別れた。
その後の調査で、生協他の制度共済(認可共済)にも保険業法が準用されることが判り、安田の言ったことが裏付けられた。また、無認可共済は販売禁止・少額短期保険事業への移行が義務付けられたのは言うまでもない。即ち、共済という概念は完全に消滅して、全てが保険の範疇によって販売される法改正が既になされていることが判明したのだ。
そもそも、共済潰しに見えるこの法改正は、米国の保険会社「AIG」(会長グリーンバーグ)が米政府を動かして日本に圧力を加えたものらしいということも判った。
橘は、何故外資系がこれ程までになりふり構わず日本に圧力を掛けるのか、そして何故日本側はそれを飲むのかを考えてみた。
橘には次のことが透けて見えた。
長い間、医療保険は、外資系保険会社にのみ先行独占販売が許されていた分野だったが、その後、国内生損保会社にも開放され、この高収益マーケットが激しいシェア争奪戦の場に変わってしまい、外資系のシェアが相対的に落ち始めた。
そこで、外資系は新たなマーケットを狙う必要に迫られ、共済マーケットに目を付けた。共済は国内生損保とは異なり、当初から何の制約もなく、一斉に医療共済を販売し既に大きなシェアと高い収益を獲得していたから、それを奪い取る作戦に出たと見る。
多分「AIG」は、共済がコンプライアンス・コスト無しに参入していることにクレームを申し立て、イコール・フッティングを盾に、日本政府に対して法規制を申し入れたのではないか。
一方、国内生損保も同様に共済がこれほど高収益マーケットに成長していることに気付かぬ筈がない。目立った動きはしないものの、当然、外資系の主張には賛同している。
行政もまたしかりで、省庁再編で独立した金融庁も新たな権益確保は至上命題であったから、共済分野が金融庁管轄下に入ることはウェルカムであったろうことは想像に難くない。
つまりは外資・国内生損保・監督官庁の利害が一致、3者協同で共済マーケットを奪おうとしている。これが今回の生協法の改定の真相であろうし、そうである以上、共済は全て保険と化し終焉を迎える運命にある。
この法改正はまた、生協本体のも深刻な影響が出るのではないかと橘は危惧した。それは、次の理由による。
1990年代の半ばに、大きく保険自由化へ舵を切った日本政府・金融庁は、バブル経済の崩壊に続く深刻な金融不安も重なって、従来の方針を180度変更し、育成指導型から検査摘発型に、業界保護から消費者保護に舵を大きく切った。
その結果、保険事業は、以前にも増して、金融庁による極めて厳しい縛りの中で運営されるようになった。
金融庁は各保険会社に「コンプライアンス」を厳しく求め、それが保険会社にとって、事務面・人員面・コスト面で、極めて大きな重荷になっていることも橘は体験している。
同じことが共済(少額短期保険会社)に求められるとすれば、その負荷に耐えられる共済は極めて少ないに違いないと思った。そうなると、中には、共済の利益抜きでは成り立たない生協もあるから、事業全体が赤字転落してしまうところも出て来る、という懸念である。
「安田さんのおっしゃった通りでした。残念ながら厚労省は、共済を全て金融庁に明け渡すつもりのようですよ。まだ厚労省における既得権が守られると思っている方がおられるかも知れませんが、5年以内に間違いなく、認可・無認可の別無く共済は全て保険となり、所管は金融庁に移ります」
橘は言い切った。
「そういうことなんでしょうねぇ。共済が最終的に全て保険事業になって行くのは不本意ですが、そうならそうで我々も良く考えなければいけません」
「先ず急ぐべきは生協内にある無認可の共済です。これを何とかしないといけません」
「無認可共済が違法になってしまった以上、生協陣営に金融庁の検査が入って来ることにもなりかねませんね」
「おっしゃる通りです」
「今の内に少額短期保険の認可を取って、保険実務の勉強と金融庁行政の何たるかを勉強しておく方が、よっぽど生協の今後にもプラスになりますよね?」
「はい。私もそう思います」
「橘さん、この際、少額短期保険事業の立ち上げを一緒に検討してみませんか?」
橘は相槌を打ちながら、実は、金子順と一緒に阿久津紀夫の話を「ひさご」で聞いて以来ずっと、少額短期保険会社設立の可能性が頭から離れない自分を意識していた。
この時の安田の「一緒に検討しよう」という誘いの言葉に橘の心は大きく動いた。
* * *
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≪高村比呂希 著≫
橘はその前の年に、成り行き上、「退職者福祉団体」という組織の幹事を引き受けることになった。
それは、自らが団塊世代の第1期生であることから、団塊世代の退職後(60歳到達後)の世界を大いに心配していたからでもある。大集団がリタイアすることの社会的・地域的・思想的準備がまるで出来ていないと思ったからだった。
当時、「07年問題」としてマスコミなどに取上げられた主たるトーンは、「一斉退職で彼等のノウハウが会社から消失してしまうといった会社側の危機意識」か、「セカンド・ライフ人口の爆発による新たなビジネス・チャンスの到来」といった新マーケットの隆起期待のどちらかだった。
橘は、そうではなく、今後リタイアしていく人々の巨大な塊が、社会の扶養家族になってしまったら、この国は果たして持つのか? という危機感だ。
自らを振り返っても、体力的にもまだまだ5年・10年は働けるし、何と言っても会社生活40年で身に付けたノウハウは、社会や地域にとって大変貴重なものである。従って、世代のテーマは、団塊世代の働き場所の創出と社会貢献の場作りとなる。
橘が「退職者福祉団体」の幹事を引き受けて1年ほど経った頃、人伝てに、団塊世代の活躍の場を作るための新しい「NPO法人・地域主義ネットワーク」の設立に当たり、その支援の要請を受けたのだ。
橘は志を同じくするこのNPOの立ち上げに積極的に協力しようと、理事長に就任予定の安田克彦という人物と面会した。会って直ぐに彼のひととなりにいたく感激してしまうのである。
60代後半ながら、その精力的活動と、中でも、ある「生協」を立ち上げ、急成長を遂げたのに、52歳の若さで早々に退任し、その後、1期だけだったが、神奈川県の革新党県議を務め、以降社会活動家として忙しく走り回っている安田の生き方に触れ、そこに己の人生の手本を見た思いがしたのだった。今後、橘の事業の方向性や考え方に対して、様々な影響を与える人物となる。
安田克彦は、橘が協力を表明してくれたことにいたく喜び、大歓迎してくれた。両NPOに共通するのは、退職後の団塊世代の生き方や、そのパワーの再結集の意義などだから、当然、2人の話は大いに盛り上がった。
橘は全面協力を約束し、その機関誌の発行を事業再生で繋がりのある印刷会社で格安で引き受けることなどがその時決ったのだった。
「地域主義ネットワーク」には、全国の様々な地域NPOが参加表明をしているし、「連合」という大きな労働者団体も参画を決めている。
また、安田克彦の創設した生協陣営からも幾つかの生協が参画を決めている。スポンサー企業も何社かある。正に全国をネットワークする壮大なNPOが発足しようとしているらしいことが理解出来た。
しかし、引き受けた印刷業務は、結局のところ、予定部数の5分の1にも届かず、赤字に終わった。名目上の会員数ではなく、実質の人数は名目会員数の10分の1程度と分かり、これ以上の印刷継続は事業として成り立たないと判断して、このNPO法人からの撤退を余儀なくされた。これも失敗例のひとつになった。
だが、橘はこの赤字分を先行投資と考えることにした。安田克彦と知り合いになれたことは絶対に今後に生きる、そう橘は確信したからだ。
橘はその後、名を成した人物にも会い、何人かとは会食をするようになるが、その殆どは安田のお膳立てで実現して行く。その中には、次のような人物がいる。
安田が理事長を務める「NPO法人・地域主義ネットワーク」の代表者で、無党派から出馬して当選した元県知事。ある大都市の革新派市長。元政府諮問会議委員で評論家で一時期、時の人としてマスコミに脚光を浴びた人物。昔一世を風靡したミュージシャンなどである。
有名人と知り合いになることにそれ程の意味はないが、結果的に彼等に繋がる人達と知り合えることで、橘の活動の幅が広がったり、ビジネスに結び付いたりした。
橘自身、前の会社にいた時とは比べ物にならないくらい、速いスピードで世界が広がって行くのを感じた。橘譲治は、自分を買ってくれている安田克彦に心から感謝した。
* * *
同じ頃、日本の首相が小泉純一郎から安倍に変わった。小泉は支持率が高いまま任期を全うしたが、その後格差の拡大が明確になり、その原因を小泉改革にあるとする論調が目立って来て、今では小泉改革を批判する専門家が圧倒的に多いようだ。
だが、会社経営という立場から橘が小泉を見る時、反対を押し切って次々と改革を成し遂げる突破力と、問題を真正面から受け止め堂々と解決していく小泉の姿こそ経営者が見習うべきものと映る。
道路四公団や特殊法人の民営化を初め、郵政民営化など(官から民へ)大改革を果断に実施し、三位一体改革(中央から地方へ)を進め、銀行への大胆な公的資金導入により150兆円にも及ぶと言われた不良債権を迅速に処理、首相自ら北朝鮮に渡り、不十分とは言え初めての人質解放に繋げるなど、そのリーダーシップは、歴代首相の中でも1、2に傑出していると橘は思う。
昨今、小泉改革の功罪がマスコミ上誠にかまびすしいのだが、それだけ小泉は仕事をしたという証拠である。何も成さなければ、結果に対する賞賛も批判も、しようがないのだから。
「しかしながら」、と橘は思うのである。
小泉のケースは個人の資質に負うところ大であり、歴史的にはそういう首相は例外であると。首相に祭り上げられているだけで、何もしない首相の方が圧倒的多数という日本の不幸の歴史を終わらせる手立てはないものか、そんなことを漠然と考える橘がいた。 ...more»
≪高村比呂希 著≫
丁度この頃、世情では、ITで儲け、マネーゲームで稼いだ若者が、既存企業の買収騒動を惹き起こしていた。ホリエモンによる「にっぽん放送」買収、楽天三木谷社長による「TBS」買収、村上世彰による「阪神電鉄」株大量保有などである。
マスメディアは総じて彼等若者に好意的で、新興勢力による旧秩序への挑戦だとか、日本経済の新潮流だとか、兎に角、彼等をニュー・ヒーローに持ち上げていた。
だが、橘の目には、彼等は一攫千金を夢見た黒川憲章と同じような人種に見えた。
黒川のIT事業を、金子と2人で、もっと地道な会社へ転換するために走り回った側から見て、ホリエモン達の無思想・無節操・金儲け至上主義を苦々しく思いながらテレビ・ニュースを眺めていた。
* * *
橘の中小零細事業再生の仕事は、偶然という形でしばしば向こうからやって来る。
ある日、保険代理店の再生事業の話も向こうから飛び込んで来た。
昔、橘自身が育てた保険代理店が、株や不動産投資に手を出し、立ち行かなくなって、このままだと、大事な大口顧客も他の保険会社に乗り換えかねないという話が幾つか持ち込まれ、その頃偶然橘の後を追って中途退職した元部下がおり、彼を代理店の中核に据えて保険代理店の吸収再編を一気に進めて大型化し、顧客の信頼を取り戻したという事業もそのひとつである。
ただ、橘が、研修生時代から一緒にマーケット開拓に飛び回り、1人前の代理店に育てた筈だったのに、その彼等の没落を目の当たりにするのは、橘にとって辛く堪え難いことであった。
* * *
世の中は「郵政民営化」の是非を巡って、小泉総理が敢然と衆院を解散したので、総選挙に突入した。自民党内の反対派は、公認を外され、同じ選挙区に自民党公認の新人候補が送られ、彼等はマスコミから「刺客」と称されて反対派との選挙の戦いが連日ニュースで特集されたのだった。
本当は人々の暮らしに不安を与えている、年金制度の問題や社会保障の見直し、或いは、少子化を少しでも改善させるための子育て支援、失業率を改善させるための経済政策など、それらを国民に問う選挙であるべきであるのに、「郵政民営化」一色になってしまった。
マスコミの関心も、各党のそれらの主張の違いを広く知らしめ、判断材料にして貰うなどという気は更々なく、専ら小泉と元自民党反対派の争いとして報道されたから、野党は脇に置かれたため、選挙結果は小泉1人勝ち、自民圧勝となったのである。
刺客の1人として、あのホリエモンが出馬し、センセーショナルな話題となったが、彼は見事に敗れ去り、それをキッカケにするかのように、彼の「ライブドア」が摘発され、時代の寵児も世の中から消えて行くことになる。
* * *
橘の中小零細企業再生ビジネスには、勿論、失敗例もある。
あるとき、印刷業の零細事業の再生・整理を頼まれた。
この印刷会社、どう見ても自立再生は不可能なことから、社長には降りて貰い、この不景気にも関わらず業績を伸ばしている、かねてから知り合いの中堅印刷会社に支援を依頼した。
5人の職人を引き取って貰い、旧式の大きな印刷機は簿価で買取って貰った。その金額を負債の返済に充てたが、しかし、それでも足りず、結局、大きな傷を被ってしまう。
ここで橘はある教訓を得た。即ち、最後まで頑張って、果敢に「損切り」さえ断行すれば、従業員の職場だけは確保出来る、である。
「倒産責任は社長だけが負うべきもの、決して従業員を巻き込んではならない」が橘の経営哲学になって行った。
橘が手掛けた企業再生は10社を遥かに超えている。だが全てが全て旨く行くことはあり得ない。彼の言葉を借りれば1勝1敗の繰り返しだったと言うが、再生事業を通じて、橘は、いろいろな傑出した人物と出会うという副産物が得られた。保険会社を辞めてからの方が、幅広く各界の人物と出会う機会に数多く恵まれたのだった。
冒頭の、割烹料理屋「ひさご」で会った金融庁の高級官僚、阿久津紀夫もその1人だろう。
しかし、これからの物語に欠かすことの出来ない人物、安田克彦(当時66歳)に巡り会ったことが橘の人生をも変えることになる。 ...more»
≪高村比呂希 著≫
橘が次に手掛けたのは、あるITベンチャー企業の再生である。
そのベンチャー企業、名を「日本セキュア・インテリジェンス・サポート」(通称SIS)と言う。
10年ほど前、ITベンチャー・ブームに乗って、アメリカ国籍の日本人天才起業家、黒川憲章が日本に逆上陸し、立ち上げた会社だ。アメリカで彼は、「インターネット・セキュリティー・ソフトウェア」を発明・開発して大成功を収め、日本でもそのソフトを企業に売り込むために、日本進出を企んだのだ。
黒川は、慶応大学を主席で卒業し、某企業を経てMITのMBAをこれもトップの成績で取得、起業した伝説の人物である。
彼の作ったソフトは、IT技術史上、「マイクロソフト」や「インテル」に匹敵し、黒川氏はビル・ゲイツや孫正義を越えるかも知れないと業界筋では囁かれていた。
それが証拠に、証券系・生保系・損保系など、日本の一流ベンチャー・キャピタルが挙って投資しているのだ。黒川は来日後、ずっと帝国ホテルのVIPルームを根城として会社を興し、既に、スタッフも東大組やMIT組を10数名揃えた精鋭部隊になっている。
この会社に、ストック・オプション付きの厚遇で経営陣の一角に迎えられたのが、昔、橘が代理店研修生として採用し、その後保険代理店として大成功していた金子順である。
本書冒頭、六本木の割烹料理屋「ひさご」で金融庁キャリア官僚と橘の会談をセットしてくれた、あの金子である。「ひさご」での話は、金子が黒川に迎えられて3年ほど経った頃だった。
さて、金子は「日本SIS」の役員就任後、銀行を中心に黒川の作ったセキュリティー・ソフトを売り込んで行った。
さすがに信用第一の銀行である。金子のプレゼンが正鵠を射えていたこともあり、インターネット上での際立った安全性保障のレベルを正しく理解し、まず地銀が銀行間通信でこのソフトを使うことが決った。
更に、日本のあるコンピューター・メーカーが推奨ソフトにすることを約束、このセキュリティー・ソフトの実力は日本でも評価されるようになって行った。
だが、一方で、黒川の尋常でない荒い金遣いが目立ち、徐々に金子の気持ちを重くして行く。
日本で集めた資金の一部を「米国SIS」に逆送金していた事実もあるらしい。
黒川に、会社の金と自分の金との区別が付いているのか疑わしいほど荒っぽい、黒川のそんな経営の仕方に嫌気が差し、辞めて行く優秀なスタッフも後を絶たなかった。
当然、金子もそんな黒川に見切りを付けて、保険代理店専業に戻るかどうか迷った。
橘に相談したら、丁度、橘が退職を決意していた時期で、「日本SIS」は諦めて、自分が立ち上げる事業のパートナーになってくれないかと要請されたのだった。
金子にしても、もう一度橘と組んで仕事が出来るのは嬉しい限りだ。金子は即座に、今の会社を辞め、橘と一緒にやりたいと答えた。
しかし、そこに予期せぬドラマが待っていた。
金子がメイン投資家の野上証券ベンチャー・キャピタル社(野上証券VC)から「日本SIS」の社長就任を要請されたのだ。
野上証券VCは、現社長の黒川を場合によっては背任で訴追することも辞さずというから、相当な決意で、金子体制を作り上げたいらしい。
野上証券VCの直近の市場調査に於いても、また、この会社に投資してくれている他のVCの調査でも、このセキュリティー・ソフトは依然最強であり、その技術力は本物という結果が出ている。
要は黒川憲章が天才技術者ではあっても、経営者失格なのだ。おそらく彼の浪費体質さえ無くなれば、「日本SIS」は充分立ち行く筈だ。
橘は金子に、野上証券からの要請は絶対に受けるべきだと伝えた。
しかし、その後、金子が経営状況を精査すればするほど、問題の深刻さが明らかになった。即ち、10数億円にも及ぶ膨大な資本金(10社以上のベンチャー・キャピタルからの投資資金))が底をついていたのだ。
優秀な人間を集めたツケは膨大な人件費となったのと、黒川前社長の放漫経営の結果である。顧客からの安定した売上げは確保していたものの、明らかな資金不足であった。
橘は既に会社を辞め、自由な立場になっていたから、金子と共に野上証券VCを訪れることにした。筆頭株主に「2つの了解」を貰うのが目的だ。
1つは90%減資プランの了解を貰うこと。
もう1つは、その後の増資によって、金子サイドが支配株主になることの了解である。これ以外には整理・清算の道しかないのだ。
このことを中心に再建策を野上証券に説明した。
特に90%減資に対しては、担当者が良い顔をする筈もない。だが、彼等が保有する株式は企業が生きてこそ意味があるが、今はただの紙屑でしかない。
何よりも彼等大金融資本から見れば、放置しておいて減損処理さえすれば消してしまうことが出来る資産ではないか。
そう開き直り、粘り強く交渉した結果、野上証券VCは、金子を社長に担ぎ出した当事者だったこともあり、橘達の提案を飲んだ。
後は、それ以外のベンチャー・キャピタル十数社の説得工作だ。筆頭株主の野上証券が了解したことが功を奏し、他社も渋々ながら応じた。
その間、高々2ヵ月余りの集中折衝で全投資会社の了解を取り付けることが出来たのだった。
だが、一方では、支配株主になるためには、金子・橘連合軍の資金集めが急を要する課題である。
金子も橘も夫々1千万円を超える個人出資は勿論するが、広く出資者を集めないと必要額に達しない。
そこで、橘は自分の独立を応援してくれる人達に小口出資をお願いし、出資組合を作ってこの問題をクリアして行った。
さて、もう1つ、どうしても了解を取っておくべき人物がいた。
既に帰国して米国で同業を再スタートさせている前オーナー黒川憲章の同意を取っておかなければならない点であった。それは次の3点である。
第一点、黒川憲章の「日本SIS」への出資金の現在価値はその10分の1であること
第二点、日本に於ける彼のセキュリティー・ソフトウェアの著作権と販売マージンは認められること
第三点、但し、日本上陸後の彼の放漫経営により消えて行った資金分、膨大な費用の黒田憲章個人の費消分、
及び米国送金分との相殺で、第一点・第二点に相当する金額は黒川氏へ支払済みと見做すこと
橘と金子は、野上証券のリーガル・アポイントを引っ提げて、ニューヨーク経由ボストンまで黒川に会いに向かった。
ボストンのホテルで3時間の交渉の末、黒川は素直にこの条件を飲んだのだった。黒川憲章に嘗ての天才企業家の面影は既に無かった。
最後は精彩のない1人の初老の男が、静かに確認書にサインしただけだった。
一泊三日の強行軍ではあったが、これで全て解決することが出来た。
全ての環境が整い、様々な法的手続きに則って、無事金子は「日本SIS」の社長となった。金子のたっての願いで、橘は形ばかりの会長(代表権なしの非常勤取締役会長)を引き受けた。
皮肉にも、橘カンパニーの実力専務予定者を失うことにはなったが、金子の会社はその後も紆余曲折はあったものの順調に業績を伸ばし、優良企業として専門誌などにも注目されるようになって行った。
そして、「日本SIS」のセキュリティー・ソフトが各方面から認知されるに及び、銀行・証券・商社・自動車産業など大手企業が次々に採用を決めた。コンピュータ・メーカー各社も、メーカー推奨ソフトにこれを加えて行った。天才肌の黒川憲章が開発したセキュリティー・ソフトは、黒川の手を離れてから花開いたのである。
専門紙誌には、橘会長や金子社長のインタビュー記事なども掲載されるようになって行き、ソフト業界ではメジャーになりつつあった。
そんなある日、「日本SIS」の取締役会に於いて、金子社長が、東証二部への上場に向けて具体手続きに入ることを提案し、全員の賛同を得て正式決定した。
橘はその場面に居合わせた幸運を感じていた。何より、保険代理店研修生から、二部とは言え上場企業の社長に上り詰めようとする金子の成功を感激の面持ちで眺めていた。
損保会社を辞めてから、一度も顔を出さなかった四谷の「Bフラット」に、橘の姿があった。
「随分前に、唐沢さんが見えて、橘さんが会社辞めたようだと仰ってたし、それ以来全然お姿見せてくれないし、随分心配してたんですよ」
とママが言う。
「今、零細企業の経営建て直しなんぞを必死でやってるから、貧乏暇なしでねぇ。とても、こんな高級クラブには来れませんよ」
と橘。
「高級クラブなんてとんでもありません。零細バーもいいところですよ。橘さん、ここも建て直しして頂けません?」
「ああ、いいですよ。手始めに1曲歌で応援しますよ」
「どうぞ、どうぞ。久し振りに橘さんのサウンド・オブ・サイレンス聞きたいな」
「ママ、他の曲も大分出来るようになったんだけど」
「そうなんだ。じゃぁ、それは後でということにして、まずはいつもの曲をお願いします。じゃなきゃ橘さんが戻って来てくれたように思えませんもの」
「良かった。ホントはね、他の曲出来るっての嘘だったの。へへへ、じゃぁ、やるね」
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≪ご挨拶≫
皆様、新年明けましておめでとうございます。 皆様にとりまして、実り多い年となりますようお祈り申し上げます。
さて、皆様のお目を煩わせております拙文 「ラストラン」 も、今日より第三部、最終章に突入致します。どうか今暫く、ご辛抱を戴き、最後までお付き合い戴ければ、これに勝る喜びはございません。
本年もどうぞ宜しくお願い申し上げます。 まずは、新年のご挨拶まで。
高村比呂希
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(この小説に登場する人物・組織は全て架空であり、実在する人物・組織とは一切関係ありません。 編集部)
橘譲二は、2004年9月末に、34年半勤めた損保会社を辞めた。それも、新社長の盟友であり、一部上場企業の常務取締役という、誰もが羨む社会的地位を投げ捨てて。
8月末に漸く橘の退社が公表されてから、社内の先輩・同僚・同期の友人・各地に散っている部下達が 口々に辞めないでくれと大合唱を始めたのだ。
「敵前逃亡だ」と本気で怒る者。
「橘さんにはお世話になりながら何も返せていないから、もう少し留まってくれ」と懇願する者。
「スパッとやめてしまう橘は一人格好良過ぎる」となじる者。
「新社長とは親友の筈。何故支えてやらないんだ」と迫る者。
最後の仕事となった関東営業本部で、一緒に改革に汗した部下達が口々に言う。
「これで当社の改革は完全に止まる」
「ここで橘さんが辞めてしまったら、それこそこの3年間の努力が何にもならなくなります。改革の成果を次に活かすのは橘さんあってのこと」
「もう橘さんを頼れなくなるって、とても辛いです」
橘は正直嬉しく思ったのだが、一方で、自分が退社することを知った人々の、橘譲二という人間を誇大に虚像化した言葉だとも理解していた。
最早、それらの期待に答えられるだけの余力も能力も残っていないことが、紛れもない事実であり、それが橘譲二の実像だった。それは、橘には充分過ぎるほど分かっていた。
彼は本当に親しい者に、この時の心境を吐露している。
「今辞めないと、社長の親友というだけでポストにしがみ付き、老害をさらす存在になって行くと思う。それは自分が最も忌み嫌っていることだ」
しかし、彼は会社を辞めた後、何をするかは何も決めていなかった。唯一決めていたのは、1ヶ月間のリハビリ海外旅行だけだったと言う。
退職金を元手に何か仕事を始めるだろうとは漠然と考えていたが、退職金の額さえ調べていない、無計画中途退職もいいところだ。
退職が正式に認められて、あと残すところ20日余りとなった頃、ある話が橘の下に舞い込んで来た。
60年以上の歴史を持つ中小企業が、「多少の資金と良い経営者がいれば会社を譲りたい」との話だった。
その会社は、学校の食堂や社員食堂を委嘱されて運営し、自らも横浜でレストランを経営する飲食業である。
橘の経歴、即ち、損保の営業と経営とは何の繋がりもない業種だったので、その道で経験の長い甥っ子(橘の兄の次男)橘洋二郎に検討を委ねておいたら、たった1日で返事が返って来た。
財務諸表をチェックしてみたが、とても手が着けられる内容ではないから辞退した方が良いとのことである。さもありなん。そんなにタイミング良く退職後のおあつらえ向きの仕事が転がり込んで来る訳もない。
ただ、これまでの「現場主義」の癖で、
「現場調査はしたのか?」
と確認したところ、
「この財務内容では、現場を見るに値しないと考えて調査していない」
との答え。
「無駄かも知れないけど、一度お前の目で直接見て来てくれないか」
橘は洋二郎に頼んだ。それから数日後の退職当日(9月30日)、彼から会社に電話が掛かって来た。
「叔父さん。俺が是非ともやってみたい会社だった」
あれ程否定的だった洋二郎が真逆の反応に変わっていた。
「但しね、こっちが引き受けるには、明日(10月1日)中に5百万円の現金が必要なんだよ」
甥っ子の洋二郎はそう言って橘に工面を頼んで来た。
みっともないとは思ったが、人事部に電話して、退職金の振込み日を確認した。
「本日をもって退職しますが、退職金の振込みはいつになりますか?」
「間違いなく10月1日です。着金時間は午前中」と教えて貰う始末。
そして何とか手形決済手続きを済ませてぎりぎりセーフ。
橘は晴れて海外へ卒業旅行に出掛けた。但し、夢の1ヶ月間リハビリ旅行は、期間も距離も短縮され、5日間の「割安グアム」旅行に格下げとなってしまった。
それでもゴルフ三昧の中で、今後の事業プランを練ることは出来た。
格好良く、「中小零細企業専門の企業再生ビジネス」をメイン業務とすることを決めた。
その最初の試金石が、図らずも資金投入してしまったこの社員食堂受託企業の再生という訳だ。
* * *
再生支援決定1週間後には本社移転を行い、甥っ子を専務として、全権限を集中移管して貰った。但し、1年間はそれまでの会長・社長の無償残留をお願いした。
橘の見るところ、この会社売上が極端に落ちて来た訳ではない。
ここ何年か対前年マイナスの売り上げが続いてはいるが、なだらかなマイナス曲線を描いているだけなのだ。では経営悪化の原因は仕入れか? これもノーである。世の中デフレ経済だったのだから、仕入れ価格が高騰して利益を圧迫したのではないのは明らかだった。
後は、人件費と役員報酬、それに管理費等という経費が、売上のマイナスに比例して減っていないのだ。
そういう意味では、規模縮小のデフレ経済の時代に、支出側が何も対応出来ていなかったということだと橘は結論付けた。
甥っ子と2人で短期再生プランを作り上げた。
その概要は、従業員の人件費半減、経費半減、役員報酬の全面カットだ。役員とは言っても会長(父親)・社長(長男)・専務(長男の嫁)の3人だけだった。
専務にはお引取り願って、代わりに甥っ子が就任している。その意味では役員全員、再生の目途が付くまでボランティアで働くことにした。
また、経営者が好きに使えた経費は完全にその利用を禁じた。
実はこの経営者に掛かる役員報酬や各種費用を限りなくゼロにするだけで、収支は水面下ではあってもかなりの改善になった。それほど経営者のコスト比率が大きかったのだ。
さて、問題は従業員だ。彼等は仮にリストラされてしまうと、もうどこにも行く場所が無い。
大企業では役員も社員もその殆どに再就職の道が開けているが、中小零細の悲惨さは世間にはまだまだ認識されていない。
後に、派遣切りに遭った契約社員ですら、テレビや・新聞で特集され、社会問題として取り上げられて、派遣村など仮設住宅に期限限定ではあるが住むことも出来るように対策がなされた。
これに対して中小・零細企業の従業員はリストラされたら、即、青テント暮らしか、生活保護世帯となってしまう。これが日本の実情なのだ。
だから零細企業の経営者は苦しくても何とか彼等の賃金を減らさないで雇い続けようとする。それが結果的に、もうどうにもならぬ事態にまで行ってしまうのだ。
経営者は、身動き出来ないほどの借金を作り、涙ながらに従業員を解雇した後、夜逃げか自殺かという究極の選択をすることになる。
だが、この社員食堂受託会社は、取引先の学校や会社の食堂の数が減っている訳ではなく、値下げ要請受け入れが経営を圧迫しているだけのようだ。
橘は従業員を集めて、経営者の報酬ゼロ決定を伝えた上で、
「この会社を倒産から守るためには、皆さんの賃金を当面の間、半額にしないと立ち直れません。このことを是非理解し了解して貰いたい」
と訴えた。それまで何も聞かされていなかった従業員は寝耳に水、怒り出すのも無理はない。
「社長達が会社を左前にしたのに、何故俺達にツケを回すんだよ」
「経営者がこの会社を左前にしたんじゃありません。売上高が毎年マイナスになって来たのは、今の日本の大不況のせいです。食堂メニューの単価値下げ圧力の強さは、寧ろ皆さんの方が現場で感じてるんじゃないですか?」
「もう何年も賃上げなんてないんだから、俺達だって生活が苦しいんだよ。それを半分にするなんてとんでもない話だ」
「それは非常に良く分かります。ですが、この会社が潰れてしまえば、それすら貰えなくなってしまいますよ」
「それは、脅しかよ。そっちがそう言うんなら、こっちにも覚悟がある」
「お辞めになるということですか?」
「そんなことを今言う必要はない。こっちにも覚悟があるということよ」
激しい遣り取りがあった後、橘は事態を見守ることにした。数日して、五月雨式に、従業員が個別に橘の前に現れ、「給料半分でもいいからこのまま働かせてくれ」と言って来た。橘に突っかかった従業員もまた同様だった。
辞めると言って来たのは、腕のいいコックと評判の男1人だけだった。他の者は、
職安(ハローワーク)を訪れても彼等を採用してくれる所がないことを確認したのだろう。或いは、友人の伝で何とかなると思っていたのが、現実はそう甘くない、大変厳しい状況だったということかも知れない。
兎も角もこんな経緯で、社員食堂運営企業の再生に乗り出した橘は、次の決算ではV字回復をやってのけた。
それから2年後、従業員の給与は減額前の8割程度に回復した。
この成功体験を基に、橘は本格的に中小零細企業の再生ビジネスに乗り出して行った。
* * * ...more»


