≪高村比呂希 著≫
(この小説に登場する人物・組織は全て架空であり、実在する人物・組織とは一切関係ありません。 編集部)
親父と喧嘩して、橘和馬が家を飛び出したのは大学3年の3月だった。以来親父とは14年間、没交渉だ。和馬が就職した時、母親を介して親父が「就職祝いをやるから家に顔を出せ」と言って来た時も何かを口実に断わってしまった。親父の生き方を批判して家を飛び出した以上、自分のやり方で結果を出すまでは、意地でも帰らぬつもりだったからだ。
ただ、母親とは電話連絡していたから、親父が会社を辞め、中小零細企業の再生事業を始めたのも知っている。親父を励ましたい気持ちが無いではないが、ここまで長いこと、没交渉を貫いてしまうと、親父に会うには相当のキッカケが無いと非常に難しいと思うのだ。
それは、自分の結婚の時だろうということは、よく分かっている。付き合っている女性がいない訳でもないのだが、何故か結婚するという現実感がない。相手も結婚という自分を縛るような形は望んでいないようなのだ。母親には申し訳ないが、必然的に、親父と相まみえるのはもっと先にしようとなる。
橘和馬は、その頃、経済産業省入省13年目を迎えていた。20代の頃の「官の中からの改革」に燃えた青雲の心は、いつしか小さくしぼみ、目の前の仕事に忙殺されるようになって行った。
何かの法案を作るとなれば、それこそ、毎日深夜となる。帰宅しまた出勤する時間すらもったいなくなり、遂には省内のソファーに仮眠して朝を迎えることも少なくない。
省内の仕事のメインは、日本の産業をどのように発展させて行くか、そのための政策立案、法案作成、予算取り、上記の関連部門並びに大臣や政治家への調整根回しなどであり、それらをこなそうとすれば、それこそ体が幾つ有っても足りないくらいなのだ。
若い頃、若手で議論すれば、日本の将来のために、役所はもっと大胆に発想し、もっと大胆に変わらないといけないと、改革の必要性と意気込みで一致出来たものが、30歳を過ぎる辺りから、夫々のセクションで、ホープと目される人間が多くなり、そんなことより実務でより多くの期待が掛かり責任も重くなる。
入省間もない頃、今の自分達のような多くの先輩がいて、彼等は何故役所の改革のために立ち上がらないのか、ある種怒りの目で彼等を見ていたのを思い出す。
和馬はその年齢に差し掛かって初めて分かった。一番自由時間の取れぬ世代が30代であることを。それを抜け40代・50代となれば次官という最高位を目指したレースが待っており、敗れた者達は天下り先にしか興味がなくなるというシステムが大昔から出来上がっているのだ。
日本の政・官・財が揃って無策を貫き発生させた1980年代後半のバブル、その崩壊から始まった「失われた10年」の無為無策。そのツケが和馬達団塊ジュニア世代に降りかかっていることに、大きな怒りを感じていた和馬。
そのことが、和馬から見れば親の世代、即ち団塊世代への強い批判と反発になっていたのだった。和馬の大学の友人達の共通の考え方は「団塊の世代は自分達だけの幸せしか考えなかった世代。次の世代のためにとは誰も考えなかった身勝手な世代」と言うものであった。
確かに団塊世代の20代、30代は日本の高度成長期であり、毎年確実に給料手取りが増えて行った。20%・30%賃上げなど当たり前の時代だった。10代の頃までの貧困の日本が、急速に豊かさを享受出来る社会に変貌し、みんなが自信に満ちた不安感のない時代を過ごした団塊の世代には、現代の若者達の閉塞感や諦観が真に理解出来ない。
和馬が父親と口論になり、喧嘩別れになったのも、正にこの点だったし、和馬が役人の道を選んだのも、「大人達は全く当てにならない。ならば自分達の力で日本を変えなければならない。その一番の近道が官だ」と考えた結果だった。
しかし、現実はそんなに甘くないということを、35歳になった和馬は嫌というほど感じていた。和馬はあることに気付き始めた。それは、親父達の世代がみんな無責任に過ごしたのではなく、何とかしようとしても、個人の努力ではどうにもならない日本の仕組みの悪さに阻まれたのかも知れない、という点だ。自分が官の中で改革しようにも、実務に追われて、とても個人的にその時間もパワーも生み出せないのと同じように。
この点では忸怩たるものを感じる和馬ではあったが、実務面では、ストレートな物言い、エネルギッシュな活動、時間を厭わない折衝力・交渉力とその粘り強さから、「省内に橘和馬あり」と目されるまでになっていた。丁度その頃、奈良橋幸太郎が経済産業省の次官に就任したから、益々その関係を知る人間達からは和馬の一層の活躍が予測出来たらしい。
奈良橋幸太郎は、和馬が学生の時家庭教師をやっていた中学生の父親だった。因みに子供の名前は奈良橋幸司。彼はその後、東大経済学部に進み卒業後は、父親や和馬の選んだ官僚の道ではなく総合商社に就職していた。
和馬は最近良く考え込む。日本の成長は戦後の焼け野原から、朝鮮戦争特需をキッカケに以降経済成長を続け、1964年の東京オリンピックに照準を合わせた急成長シナリオが成功し、日本は先進国の仲間入りを果たした。
その後も高度成長を続け、30%賃上げの時代を経て国民1人当たりの所得で遂に米国に並び世界2位の経済大国となった。その後2度に亘るオイル・ショックなどを克服して、1980年代後半のバブル景気を絶頂期として、後は衰退の一途を辿っている。
何故だ、何故なのだ、と和馬は思う。政治主導か、官僚主導か、はたまた財界主導かは問わない。彼等は、1950年代から35~40年間は、間違いなく日本を豊かな国に導いた。なのに何故、バブル以降は混迷するばかりで、誰も、日本の向かうべき未来像やビジョンを指し示さない。何故なのか?
いや、最近、1人だけいた。小泉純一郎という人物だ。彼だけは、「改革なくして成長なし」を旗印に、強引とも言える手法でブルドーザーの如く様々な改革を推し進めた。だがそれは、たまたま小泉の変人といわれるキャラクターの成せる技、例外的な出来事だったと思わざるを得ない。何故なら、小泉の行なった改革は4合目くらいまでで残りはまだ沢山改革テーマが残っていたのに、その後の安倍も福田も麻生も小泉のようには何も推進出来なかったのだから。
だが待てよ。小泉が幾ら個人の資質で行ったにしても、小泉1人で政・官・財の強く大きい反対勢力をねじ伏せることは出来ない。やはり国民の大多数が小泉を支持したから、反対勢力も已む無く引き下がる図だったのだろう。
敗戦で全てを失った後の成長戦略実行には、それを反対する者などいない。だから、みんなが豊かさを求めて一致して必死に働いて世界2位の経済大国を築いたのだ。
だが、これからの日本の繁栄を考える時、豊かになった日本社会には、方々に、利権を持った集団、商権を持った企業、権利を主張して譲らない団体、などがいて簡単でない。
新しい成長戦略を描くには、その足かせとなるものは1度壊さないと始まらない。これが改革なのだが、壊される側は、そのことが自分に不利になると分かった途端、徹底抗戦するから、結局、この20年間は、日本はもがきながら落ちて行く過程を辿ったのだ。
「利権と権利に覆われ、決定打の筈の政策も妥協の末中途半端なものとなり、結局、日本の衰退を止められなかったこの20年。この歴史に終止符を打ち、今の日本を再び蘇えらせるには、国民から高い支持を受けた強力なリーダーを誕生させるしかない。それを実現するには、これまでの議院内閣制をやめ、米国型の大統領直接選挙制に移行しなければならない」
これが和馬の結論だった。
だが、言うは易し、行うは難しだ。和馬にはこれを進める具体的な方策は何も思い付かない。このジレンマがまた和馬の心を暗くしていた。
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