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第8回  第一部 / 第四章 青春賦 ①
≪高村比呂希 著≫           (この小説に登場する人物・組織は全て架空であり、実在する人物・組織とは一切関係ありません。 編集部)              橘譲二、通称JTは1947年(昭和22年)7月、神戸市長田区に生を受けた。父親は日本郵船のエリート・サラリーマンだった。男兄弟の次男坊として生まれた譲二は、長兄とは8歳も離れていたから、幼い頃は兄からとても可愛がられて育った。  戦後間もない、世間一般が、貧しく食べること生きることに精一杯の時代。隣近所の子供達の身なりも食生活も似たり寄ったりで、特に不満を感じることなく遊びに夢中になっていた。  ある日、小学校に入学することになり、母親に連れられて行った学校は、家から歩いて30分以上も掛かる遠くの学校だった。今で言う越境入学だ。どうもこの学校は、自分達が育った下町の長田区とは別の世界の人種が多く通う所だった。  彼等は橘譲二の全く知らない「幼稚園」という学校を卒園しているらしく、団体生活にもいたって慣れていて、先生との会話も洗練されているのを幼な心に感じ取っていた。  長田区に「幼稚園」なんてあったんだろうか? 小学校入学の前の日まで毎日、朝から日が沈むまで泥だらけになって遊びまわっていた仲間は誰も「幼稚園」などに行っていないし、小学校に入るまでその存在すら知らなかった。  そこは、神戸ではレベルの高さで有名な川井小学校で、良いとこの子女が多く通っていたのだった。  そんな小学校時代の前半は、テキパキとそつなくこなすクラスメートに比べ、団体生活に慣れず勉強嫌いな橘は、気遅れもあって目立たない子と言える存在だった。  転機は小学校3年生の頃。時は若乃花・朝潮の時代。小学校でも大変な大相撲人気だった。若乃花に憧れる少年達は。少しの休み時間も惜しんで、校庭に丸い円を描いては相撲を取った。腕っ節だけは人一倍強かった橘少年は、相手が誰であろうとやっつけてしまう。1年上の上級生にも負けることがなかった。  そうなると世の中が違って見えてくる。彼の強さがクラス中で注目され、敬意が払われるようになったのだ。  それが彼の自信に繋がり、弱虫で喧嘩などしたこともなかった自分に、子分のような取り巻きが何人も集って来るのだった。小学校卒業の頃には、いわゆる「番を張る」存在になっていた。  彼は小学校五年生の頃から、草野球に夢中になり、土地柄から当然、熱狂的阪神ファンになって行く。野球チームのみんなが憧れるのは「牛若丸・ショート吉田」だ。橘は持ち前の腕力にものを言わせて、「1番・ショート」の定位置を奪い取る。  丸岡中学では3年間野球部の選手として、野球付けの毎日を送り、将来は本気でプロ野球選手になりたいと願っていた。  橘は高校受験勉強なるものを一切やらなかったため、志望校に行かせて貰えず、担任教諭の指導で、元女子高で何年か前に共学となったばかりの県立夢ヶ丘高校に入学させられたのだった。男子よりも女子の人数の方が圧倒的に多い高校だ。  中学では硬派の代表格の野球部で鉄拳制裁も含め徹底的に鍛えられた橘は、自分の気質は質実剛健、或いは、バンカラが最も合うと思っているのに、男子が肩身の狭い元女子高。彼はそれが嫌で、校外では絶対に母校の帽子を被らなかったと言う。  さて、高校に入学してからの橘はどんな若者であったのか。高校野球部と言えば甲子園。だが、この元女子高に野球部はあるにはあるが、甲子園を目指す学校とはまるで別の次元だ。同好会と言う方が相応しい。野球を楽しみたい人集れ、と言った感じ。  毎年、甲子園大会の地方予選にはエントリーするものの、緒戦で万一勝ったりしたら選手自身が大騒ぎという校風なのだ。橘は、他にやりたいスポーツもないので、「仕方ない軟弱な野球部にでも入ることにするか」と渋々入部した。  3年間厳しい中学野球部で特訓させられた橘は、2・3年生を差し置いて直ぐにホットコーナー(3塁手、長嶋茂雄の影響で3塁手の希望者多く激戦区)のレギュラーを獲得する。そして、その年に地方予選ベスト16まで勝ち抜くという奇跡を演じてしまった。  初戦・2回戦まではスタンドにも応援らしい応援も無く人影疎ら。だが兵庫県大会だけは2回戦を勝つと試合会場が甲子園になる。憧れの甲子園。選手もそうだが、母校の生徒も、まさか野球部が甲子園まで行くなどとは思ってもみなかったから、この快挙に3回戦からは大挙して在校生や関係者が詰め掛けたのだった。  随分後のことであるが、橘の息子が野球をはじめた頃、彼は息子に 「お父さんは甲子園に出たことがあるんだ」と言ったことがある。それを聞いた息子は「うちのパパは甲子園の選手だったんだぞ」 と、友達に威張っているのが耳に入って、さあお父さん大慌て。  本当は「甲子園で野球をやったことがある」の間違いだと子供に詫びて訂正したが、東京育ちの息子は、父の言う意味の違いがサッパリ分からない。仕方ないから 「もうお父さんの甲子園の話はほかでするな」 とだけ息子に命じた。息子は目を白黒させながらも黙って頷いた。  甲子園で2勝したあと優勝候補の一つと言われた神港高に敗れて、この年の兵庫県大会は終わってしまった。この相手高にはさすがに歯が立たなかった。  ナインの中には後の阪急ブレーブスの宮本投手と巨人の正捕手になる吉田がいたのだから、大敗を喫したのは仕方なかった。橘は宮本の投げるボールに一度もバットが当たらなかった。掠りさえしなかった。この時、橘は初めて上には上がいるもんだと心底思った。  プロ野球選手になるという夢が急速に遠のいて行くのを感じざるを得ない出来事だった。  だが、それでも、選手達は学校内ではヒーローとして迎えられた。元々が県下の優秀で可愛い女子高生が通う高校だ。彼女達により自然発生的にファンクラブのようなものが出来て行った。  同じ1年生でレギュラー選手だった仲間達にもいつの間にか彼女が出来ていた。  ご他聞に洩れず橘の前にもある女性が現れた。ファンクラブの1人で同学年の早乙女恭子だった。小柄ながら、大勢の女子生徒の中でも抜きん出たその美貌は、学内で大評判になっていた。             *   *   *  その日の練習を終えて橘は1人自転車で家路を急いでいた。既に日は落ちていて、商店街も店じまいしている店が多く薄暗い。人通りも少ない。いつものようにある角を左折しようとした時だった。路地から出てくる自転車と接触しそうになった。 「あっ!」 という女性の声を聞いたような気がするがそれどころでない。橘は咄嗟の判断で左折をやめて右にハンドルを切り、対向の自転車を避けるように大回りして左折しようとした。  そこでタイヤがスリップし、橘は自転車もろとも横倒しになってしまった。したたか左肘を地面にぶつけた。 「大丈夫ですか?」  若い女性がそういいながら、急いで橘に駆け寄って来たようだ。多分、相手の自転車に乗っていた人だろう。橘は、左肘の痛さと、自転車の下敷きになった左足くるぶしの痛さに顔をしかめながらも、 「はい大丈夫です。どうってことないですよ」  と答えながら、ゆっくりと立ち上がった。 「あらっ、橘君」 「え? あぁ、早乙女さんか」  その人は、クラスこそ違うが学年が一緒で、入学早々、「ミス夢が丘高」と噂されるほどの美貌の人、早乙女恭子だった。野球部ファンクラブのメンバーだし、野球部の先輩達が何かに付け噂する人なので、当然橘も知っていた。と言うより、正確に言えば、橘が秘かに憧れていた人だ。 「ごめんなさい。私、停止もしないで表通りに出ようとしちゃって」 「それはこっちも同じ。君に怪我がなくて良かった」 「あっ、血が出てる!」  彼女はそう言いながら、自分のハンカチーフを取り出して、彼の左肘を包帯状に巻いてくれたのだった。嬉しい筈なのに、その時の橘は心臓が高鳴り、息苦しい程だった。 「私の家は直ぐそこだから一緒に来て。ちゃんと手当てしなくちゃいけないから」  彼女は自分の自転車に戻り、そう言ってから、ハンドルを握って歩き出そうとした。でも、彼はこれ以上彼女と一緒にいると、それこそ窒息しそうで、早くこの場から逃げ出したかった。 「いや、大丈夫だよ。俺んちもそんなに遠くないから。じゃぁ、これで」 と誘いを断わり、そそくさと自分の自転車を引き起こした。 「ホントに? 酷くなる前に必ずお医者さんに診せてね」 「あぁ、そうするよ」  橘は遠ざかりながら、振り向くと彼女はまだずっとこちらを見ている。現金なもので、憧れの女性と初めて口を利いたからか、痛さなど何処かに吹き飛んでしまったかのようだ。 「早乙女さ~ん! ありがとう!」  彼は心の中で叫んだ。彼女が巻いてくれた左肘のハンカチに、そこはかとなく彼女の優しさを感じていた。  そして、彼女が視界から見えなくなった所で自転車を止め、前輪を股で挟み、転んだ弾みで斜めになってしまったハンドルを元通りに戻したのだった。  結局医者に行くことなく、怪我は治ってしまったのだが、あれから50年近く経った今も、橘の左肘にはこの時の怪我の痕が残っている。  数日後、橘は、ハンカチを返すという名目で早乙女恭子を初デートに誘った。彼女は断わるどころか、寧ろ、「橘君と港を見に行きたい」などと嬉しい逆提案をしてくれる程だった。  早速2人は神戸港の中突堤に向かって歩いたのだった。今日は2人とも自転車を家に置いて来ていた。2人が近付くキッカケを作ってくれた自転車ではあったけれど。  その後、練習の合間を縫って、2人は度々デートを重ねた。話をしていて楽しいのである。心が弾むのである。野球部のこと、クラスのこと、先輩のこと、勉強のこと、プロ野球のこと、映画のこと、話題なんか何でも良かった。話をする、ただそれだけで橘は幸せだった。まだ一度も手すら触ったことがない。  これが初恋と言うものか、初恋は片思いが多いと物の本には書いてあるが、自分達は幸せだね、相思相愛だから、などと言い合っていると楽しい時間はあっという間に過ぎて行った。  時には王子動物園や須磨水族館などに行って乗り物に乗ったり、2人でソフトクリームを食べながら散歩することはあっても、2人はまだ16歳、高校1年生なのだ。学校の食堂で一緒に食事したり、休みの日には大倉山図書館で一緒に勉強するといった可愛いデートが専らだった。  高2になり、再び夏の高校野球県予選。昨年まで1回戦などには誰も応援に来なかったが、今年は違う。大勢の女子生徒が押し掛けてくれていた。だが、それにも拘らず、この年は、以前と同じように1回戦で敗れ去ってしまったのだ。  こうなると、期待させて期待を裏切ったツケは大きく、活発だったファンクラブも潮が引くように自然解散となって行った。  橘はこの敗戦をもって野球部を退団することにした。最早、プロ野球選手になることを夢見る野球少年ではなかったし、橘自身、野球に対する情熱が急速に消え失せて行くのをどうすることも出来なかった。勿論、野球を辞めることについては、早乙女恭子にも相談している。 「私は、3塁手の橘君が大好きだったのよ。でも、弱いチームでもう1年続けるだけの目的とか理由が無くなってしまったのよね、きっと」 というのが彼女の理解だった。当たらずとも遠からず。勝てない野球なんて面白くない。  一方で、当時世界を席巻していたビートルズやストーンズに憧れを持ち始めていた。静かに流行り始めたカレッジ・フォークなどにも興味があった。家には兄のギターが置いてあったので、いたずらしたことはある。  残りの高校時代は、運動部とは対極のそういう音楽なんぞをやり、青春を謳歌したいというのがその時の本音だったのだが、さすがに恥ずかしくてそこまでは彼女に言えなかった。早乙女恭子の方は、それまで野球部のファンクラブで活躍していたので、特に他の部活はやっていないようだ。             *   *   *  橘は野球部に退部届けを出して、暫くは自宅でギターを独習していたが、どこからかそのことを知った同じ小・中校出身の唐沢剛が、高2の秋口に橘をマンドリン・クラブに誘った。唐沢は高1の時からそのサークルに所属し、この秋からは指揮者に指名されたという。  誘われて行ってみると、女子50~60人、男子も10人程度いる大所帯の楽団だ。女子は全員マンドリン担当で、男子は指揮者唐沢の他、マンドリン5人、ウッド・ベース1人、ギター3人といったところ。ギターは、云わば主役のマンドリン演奏を引き立てる伴奏役のようだ。 「僕が入ってギターは4人だが、幾ら引き立て役と言っても、人数が少ない分、寧ろ目立っちゃうんじゃないか?」  そう橘は思ったが、唐沢初めギターの3人が、熱心に橘に一緒にやろうと勧誘してくれるので、不安ながら橘はその場で入部することを決めた。  彼がマンドリン・クラブに入ったのは、毎年9月に行われる文化祭の後だった。文化祭の一環で、市民会館を借り切って音楽祭も並行して行われるのだが、例年、音楽祭を最後に3年生は退部して行くから、丁度、2年生が中心となって、来年の文化祭を目指してクラブ運営を始めたばかりの時期だった。そういう意味では、新入りとしては丁度キリが良かったと言えよう。  橘のギター特訓が始まった。最初は2つの問題にぶち当たり、四苦八苦。1つは楽譜が分からないこと。もう1つは左手の指がサッサと動かないこと。野球で鍛えた握力があるのにコツが分からないので、左指の弦の押さえ方が不十分で良い音が出ないのだ。唐沢に聞いた。 「こんな調子で来年の音楽祭までにギターを弾けるようになるんだろうか?」 「平気平気! ギターの3人の内2人は去年から始めたんだよ。それまでギターなんて触ったこともないみたいだったから、初めは今の君より手が動かなかったよ」 「ホント? 3人とも上手そうだけどな」 「本当だよ。3か月で見違えるようになるから、俺を信じろよ」  唐沢の励ましもあって、そして、彼が付きっ切りで面倒を見てくれたので、度々の挫折を何とか乗り越え、少しずつ上達して行った。  実は橘と唐沢とは小学校時代、一緒に野球をやった仲だった。橘はその頃はショートをメインに投手・捕手・内野手など外野以外は何でもやったが、唐沢は専らピッチャーだった。身体も大きく、彼の投げる球が速くて、橘もそうそう打てなかった記憶がある。  橘は、中学に行っても当然、唐沢とは一緒に野球をやるものと思っていた。だが、唐沢は野球部に入らなかった。彼が選んだのはバレーボール部だった。 「何故野球をやらないんだ?」  大きな疑問と半分非難がましい気持ちを抱いて、橘は唐沢を問い詰めた。 「そりゃ俺だってやりたいよ。でもやれないんだ」 「なんで?」 「言えない理由があるんだ」 「言えよ。じゃなきゃ、納得出来ないよ」 「勘弁してくれ。やっと野球を諦めたんだから」  遂に彼は理由を言わなかった。彼の深刻そうな表情を見て、橘はそこに深い訳があるらしいことを察してそれ以上の追及は出来なかったのだ。  その後、人々の噂話が耳に入って来た。唐沢剛の父親と本家筋との間に金銭トラブルが生じて裁判沙汰になっているらしい。その本家筋は唐沢の父親を勘当し縁を切った。その本家筋の息子が同じ中学の野球部にいて2年生の有力選手になっているという噂話。  橘は、野球部の2年生に「唐沢」姓はいないから、本家筋の苗字は違うのだろう、多分唐沢は、父親に本家筋の息子と一緒に野球をやるのを反対されたのではないか、と推測したのだった。  高校3年生になり、マンドリン・クラブの練習もかなりサマになって来て、町のイベントや老人ホームなどの慰問コンサートなどをやるようになって行った。橘も、その頃になるとギターが似合うようになり、早乙女恭子にも褒められた。 「橘君は野球のイメージしかなかったから、どうなるかと思ってたけど、ギターを弾く橘君も素敵よ」 「からかうなよ。こっちは冷や汗もんなんだから」 「そこがいいのよ。大きい身体を小さくしてサ。とっても可愛いの」 「よせやい」  7月からは9月の文化祭に向けた練習モードに突入して行った。この時、指揮者の唐沢剛から、ステージの途中で、ギター班だけの曲を1曲演奏して欲しいと言われた。ジャンルはクラシックでもポピュラーでもフォーク・ソングでも何でも良いから、と言われた。つまり、ギター班4人で何か1曲やれと言うのだ。  相談した結果、ブラザーズ・フォーの「遥かなるアラモ」(The Green Leaves Of Summer)をギターを弾きながら歌うことにした。当時、正にヒットしていた曲だった。  9月第2週の木曜日から土曜日までの3日間、高校の文化祭が開催された。文化祭では教師は殆ど見守る側で、全ては生徒会中心で、各サークルや各部が自主的に準備を進め、イベントのシナリオ・演出なども生徒が行う。マンドリン・クラブは土曜日の音楽祭で40分の時間を与えられた。  7月からの猛練習で当日を迎えるのだが、8月の夏休み中も何日か集まって練習が行われた。これも部員が自主的に決めた夏合宿であった。  いよいよ音楽祭当日。音楽祭は校内の音楽サークルが全部一堂に会して演奏会を行うものだ。室内楽部、吹奏楽部、軽音楽部、ハワイアン・サークル、それにマンドリン・クラブだ。  市民会館を借り切って行うこの音楽祭は、他校にも結構人気が高く、毎年出演者の父兄・同校の生徒・他校の生徒などで千名規模の会場が満員になる。  今年はマンドリン・クラブがトリを務めることになったが、彼等の前が吹奏楽部というのはあまり良い順番とは言えない。実は男女半々のこのブラスバンド、音楽祭の一番人気だからだ。それも彼等のステージ前半のマーチやクラシック音楽などの演奏に次いで行われる後半のフルバンドのジャズ演奏が音楽祭のハイライトなのだ。  昨年の音楽祭を橘も見ているが、フルバンドが演奏したグレン・ミラーの「イン・ザ・ムード」には強烈な印象を受けた。橘はそれがキッカケで音楽もいいなと思い始めたのかも知れない。  吹奏楽部フルバンドの今年の・ナンバーは、ジャズではなくラテンの曲だった。「ある恋の物語」と「闘牛士のマンボ」。フルバンドの指揮を執っているのも同級生なら、「闘牛士のマンボ」でサックス・ソロをやるのも同じクラスの仲間だったから、橘は無論応援しながらも、彼等の上手さに舌を巻く思いだった。 「まっ、仕方ない。自分達はベストを尽くすまでだ」  いよいよマンドリン・クラブの演奏が始まった。クラシックの曲や民謡・童謡など全員で演奏した。さすがに猛練習の甲斐あって、マンドリン・パートはほぼ完璧な出来栄えだった。曲によって別々のマンドリン奏者による長いソロもあるのだが、みんな大したものだ。堂々と演奏する。ギター班の伴奏もほぼノーミスだった、と橘は思った。  遂にギター4人組によるフォークソング演奏の時間が来た。司会者がその旨をアナウンスしている間に、4人以外は全員舞台から退席した。彼等は中央のマイクの前に立ってギターを抱えて唄い始めた。  この1曲に賭ける。そんなつもりで毎日練習して来た曲、「遥かなるアラモ」。4人が別々のパートを歌う必要があり、ギターの伴奏よりも何よりも、そのコーラスの練習がきつかった。8月の合宿でもかなり大きな声で歌ったので、その後1週間程度みんな声が擦れて困った経験を共有している。  1千人の前でたった4人で歌うのはさすがにビビるが、こんなに練習したんだ、絶対に成功させてやるという強い気持ちで唄い終わった。物凄い拍手。嬉しかった。  再び全員による後半の演奏。ラテン風の曲も加わり、その時はギター班がパーカッションも担当して予定の曲を全部終えた。舞台袖に退いてみんなで握手。ハイタッチ。だが、会場の拍手が鳴り止まない。若しかしてアンコール?  音楽祭に来てくれた人達からの儀礼的なアンコールなのか、本当にもう1曲所望されているのか? マンドリン・クラブがトリだから、音楽祭全体に対してのアンコールなのだろう。しかし、こんな状況は想定していなかったから、アンコール曲など全く用意してない。  指揮者の唐沢剛が 「お礼の挨拶だけしてくるわ」 と言って舞台に出て行った。 「ありがとうございます。皆様のお蔭で、今日はとても楽しく演奏することが出来ました。心から御礼申し上げます。ただ、私達、アンコール曲を用意してありませんので、もう一度「遥かなるアラモ」をお送りして、アンコール曲に代えたいと思います」  ギター班の四人は同時に「えっ!」と声を上げた。心臓が飛び出るほど驚きながらも橘は、マンドリンを主役としてその引き立て役のギター班に最後の花を持たせようという唐沢の気配りを感じたのであった。  4人は万雷の拍手の中を再び舞台中央に進み出たのだった。橘は二人とも、今は野球ではなく同じサークルで音楽をやっていることに、不思議な連帯を感じながら歌い終わった。  橘はお礼の気持ちもあって、楽屋裏で唐沢に言った。 「全然打ち合わせもなくアンコールの舞台に呼ばれたから、心臓に良くなかったよ」 「あぁ、そりゃ悪かったね」 「いや、正直言えばギター班にアンコールやらせて貰って嬉しかったのサ」 「中学の時、野球を辞めた俺を心配してくれたの、お前だけだったからな。少しはその時のお返し代わりにはなったかな?」    *   *   * ...more»
第7回  第一部 / 第三章 システム統合 ②
≪高村比呂希 著≫   大変面倒なことながら、この方針転換は相手社の中島取締役と合意しないといけない。橘は早速中島と連絡を取り、相手社に乗り込み緊急の会談となった。 「そちらのシステムに当社側の最低必要機能を移植開発して来ましたが、このまま続けていても新会社開設までに間に合わないことが明確です。あと5ヶ月もないことを考えれば、両社のシステムを両方稼動させて、現場を混乱させないことと、新会社として1つにしないといけない最低限の統合だけを行なって間に合わせるしかないと我々は思っています。その了解を頂きに来ました」 「ちょっと待って下さい。今のやり方で間に合わないなんて報告、私のところには一切来ていませんよ。現場責任者も当社側の作業に何の遅れもないと言っています」 「それは、著しい認識誤りじゃないですか? お宅のコンピューターの中に当社機能を移植開発していますが、システム環境やデータ形式・持ち方など良く分からず、苦戦しています。喩え開発が予定通り終わっても、本番で正しく動く保証がないと言っていますよ。更に言えば、御社の現場の人達も、その新しいシステムが稼動した時、どこにどういう問題が波及するか想像も出来ないと不安を訴えているそうですよ」 「そんな大事なこと、わ、わ、私の一存で決められるものではありません。統合実行委員会に諮りそこで決めて貰うのが筋でしょう」 「形式的にはそうしますが、もう今日からでも新方針で全力で当たらないと、それこそシステムが理由で合併が延期になりますよ。そうなったら私も貴方も重い責任が問われますよ。私の方は覚悟が決ってますが」 「旨く行かなくなったのはそちらの開発遅延が原因でしょう? こちらの責任ではない」 「何言ってるんですか。合併の日にシステムが間に合わないのを知りながら何の手も打たなかったら、中島さん、あなた役員失格となりますよ」 「余計なお世話というものです。橘さんの一方的な話だけで同意しろというのが、どだい無理な話しだし、失礼な話です」  埒が明かないとはこのこと。自分の守備範囲を狭く狭くして、自分には落ち度が無いと言いたいとの態度が見え見えだ。中島は取締役として両社のシステム統合全体を成功させる役割と責任があるにも拘わらずだ。橘は自分も同じ立場だが、少なくとも当社側の作業にだけ責任を持てば良いなどという狭い料簡ではない。  切羽詰った崖っぷちの危機感を共有出来ない中島を相手にしていては、それこそ方針転換しても間に合わなくなる。橘は、中島を無視して勝手に動くことに決めた。  苦渋の決断だったが、そう腹を固めた直後、橘は社長室に直行した。このシステム統合方針の大転換について、河瀬社長には何としてもOKして貰わないといけない。方針変更するにもその期限ぎりぎりに来ているし、変更も出来ずにずるずる行ったら、システムが理由で会社合併が出来なくなる。そうなれば河瀬社長の責任問題になってしまう。  そんな必死な思いで社長室を訪れたのだが、生憎河瀬は不在だった。秘書室長に聞くと昨日から九州に出張しており、今日の夕方の便で東京に戻るとのことだった。帰りのフライトの時刻を尋ねると羽田には3時間後に到着予定だ。  新宿本社から羽田には車でも電車でも1時間もあれば充分だったが、橘は気が急いて居ても立ってもいられず、羽田に向かった。河瀬社長がまだ福岡市内から福岡空港に向かってもいない筈の時間にも拘わらず。  橘は羽田空港でどう2時間を過ごしたのかさえ覚えていない。どんなに叱られようと、どんなに罵られようと、この方針変更は何が何でもOKして貰わないといけない。橘は河瀬社長に「分かった」と言って貰うまでは絶対に引き下がらないし、河瀬を家に帰さない、そんな決意だった。  福岡発ANA278便が到着し、到着ロビーに乗客達が現れた。橘は必死に河瀬を目で探した。いない。ぞろぞろぞろぞろ、既に大勢が出て来ているのに、河瀬社長の姿が見えない。  じりじりして待った。ファーストクラスやビジネスクラスの乗客は優先的に通されるのだから、もう出て来ていないとおかしい。社長はこの飛行機に乗らなかったのか、と不安が募ったところで、やっとあのいつもの社長の顔を見付けた。 「社長! お待ちしていました」 「おう、橘君か。何故わざわざ出迎えに来たんだ?」 「今日中に是非とも社長にご了解頂きたい事項が生じまして」 「そうか。待たしてしまったようで悪かったな、預けといたバッグがなかなか出て来なくてな・・・。だが、その話明日じゃダメなのか」 「はい。明日緊急に事務・システム統合委員会を開催して、大きな方針変更を決定しないといけなせんので」 「今は、俺も少し休みたいところなんだよ」 「すいません、お疲れのところを。でも、緊急を要する問題ですので、どうか・・・」 「仕方ない。車の中で聞こう」  車の中で、案の定、河瀬社長は不快感を顕にした。  もう10月末だぞ、そんな方針に変えて間に合うのか、橘が付いていながらこんな遅い時期まで引っ張ったのはどういう訳だ、一層のこと、事務もシステムも店舗も何も今のまま触らないで、合併だけしてお互い営業で競い合うという手もあるぞと、河瀬はありとあらゆる罵詈雑言を橘譲二に浴びせた。  河瀬が腹立ちまぐれに言った最後の話など、最初の何年かは何の統合効果も生まないのだから合併の意味もない。河瀬が「責任を取る」と言っているように橘には聞こえた。  橘は新方針について必死に説明し、元々、片寄せ方針で旨く行かなかった時のコンティンジェンシー・プランを考えてあり、それがこのやり方であること、五ヶ月あれば充分間に合うことを訴えた。 「勝手にしろ!」 「ハッ、ありがとうございます。明日早速その方向で動きます。2~3日中に社長のお出ましを願う場面にさせてみせます」  河瀬の「勝手にしろ!」「好きにしろ!」は不本意ながらOKという意味であることは長い付き合いの中で橘は良く解かっている。橘が言う「社長のお出ましの場面」とは、全ての周旋を終え、両社の最終結論を出しておきます、という意味だ。  2日後、両社の副社長主催の「統合実行委員会」を緊急開催して貰い、方針変更を提案した。この「統合実行委員会」と言うのは、合併の日まであと半年となった時、それまでの、両社社長が主導した合同経営会議で決めた各分野の枠組みや基本方針を受けて、残り半年間、各作業工程を済々と進める最高統括会議である。  座長は東都損保側は星野副社長、中央損保側は金井副社長である。金井副社長は当初事務部門の担当役員として、事務・システム小委にも出席していたが、7月の体制変更で副社長に昇格し同時に担当部門が営業推進本部と変わっていた。 「以上、この段階での方針転換により皆様に大変ご迷惑をお掛け致しますことを深くお詫び申し上げます。しかしながらことは緊急を要しますので、是非ともこの新方針をお認め頂きますよう、ご審議、宜しくお願い致します」  橘は深々と頭を下げた。東都損保の星野副社長が、 「中島取締役からは何か付け加えることはありませんか?」 と水を向けた。 「特にありませんが、我々の認識とは必ずしも一致していないということだけお伝えしておきます」 「ええと、それは、方針変更の必要はないとお考えだという意味ですか?」 「これからの頑張り次第では充分間に合せることが可能だと認識しています」  出席者の間でざわつきが起きた。  星野副社長は同席している兵頭一樹東都損保システム部長を見た。 「兵頭君、君は30年のシステム経験から見て、どう判断したのかね?」 「はい。今の危機状況を橘さんにお伝えしたのは私であります。開発作業のスケジュールという意味では殆どの工程はオン・スケジュールで、遅れがある工程でも1~2週間ですから、これは中島取締役の言われるとおり、今後の頑張りで充分追い着き可能です。  問題は、東都側で開発しているシステムが、中央側のシステムの中で本当に旨く稼動するのかという点なんです。来年4月1日の合併を控えて、もう5ヶ月を切りましたが、両社システム部門の現場では、確信を持っている者が1人もいません。つまり、東都も中央もなく、最終システム全体が今の延長線上で旨く行くと確信を持てている者がいないということです」 「兵頭君。システムの門外漢には良く分からんのだが、両社でこうしましょうと一致した青写真で仕事を進めて来たんじゃないのかね? 君の話を聞いていると、最初から確信もなく突き進んだと、とんでもないことのように聞こえるぞ。一方の中島さんは行けると言うし、一体どうなってるんだ! 分かるように説明しなさい!」 「お言葉ですが副社長! 最初から相手社のシステムを合わせて全体が全て分かっている人間なんて1人もいません。全体の半分はブラック・ボックスというのがスタート時点の与えられた条件なんです。ただ、一般的に、作業をしながらブラック・ボックスに切り込んで行って少しずつ分かって行くものなのです。従って半年ほど開発を進めれば、お互いかなりの理解が進み、軌道修正含めて、これで良いんだという確信に至るのが経験則でした。  残念ながら、今回はそうはならなかった。こんな事態に陥らせておいて、とても言えた義理ではないですが、30年間の経験から言わせて貰えれば、この時点で誰も確信が持てていないことは、必ず失敗します。大混乱に陥ります」 「橘さん、兵頭さん! 随分酷い提案ですね」  中央損保の金井副社長が、遂に口を挟んだ。 「大体これまで何の前触れもなく、いきなり当委員会でやり方を大きく変えたい、なんて、経営軽視も甚だしいですよ。何故前もってサウンドしてくれなかったのです。そうしてくれれば、中央損保側のシステム現場にヒヤリングを掛けることも出来た」  これには星野副社長が不思議そうに答えた。 「私は一昨日、聞いていますよ。だから、そりゃ大変だと今日の緊急委員会開催を金井さんにお願いした訳でして・・・」 「中島君! 何故私に知らせないのだ! こんな重大なことを」 「副社長、申し訳ありません。先日、橘さんがお見えになって、この件をお話になったのですが、その時は東都側の作業が遅れていて間に合うかどうか危ぶまれるとのことでしたので、頑張って貰うしかありませんとお伝えただけのことでした。副社長にお伝えするまでもないと・・・」  橘は公式の席でなかったら、中島の胸ぐらをつかんで張り倒したい衝動に駆られた。だが、今日は何があっても、方針変更案を承認して貰うことだけを優先しようと、ぐっと堪えた。代わりに兵頭が言い切った。 「中島さん。危機に直面しても危機だとも思わない責任者なんてあり得ませんよ。部下の方に聞いてみて下さい。『大丈夫、旨く行きますから』という人がいたらそれはシステムのプロじゃありません。中島さんに悪い情報が入らないようになっているなら、もっと危ない。私は、御社の現場責任者の方々や、そちら側の作業に当たっている協力会社からも見解を頂いています。御社側も含めて誰一人、中島さんのような楽観論者はいません!」  紛糾に紛糾を重ねた結果、やっと方針変更を認めて貰った。しかし、この方針変更は、相手社に疑心暗鬼を生み、双方の経営者・本社部門にはシステム統合の失敗と受け止められ、大騒ぎとなった。  橘と兵頭は様々な会議に連日出頭して、事情説明に追われた。両社合同の本社部門長会議では、橘はあたかも吊し上げ同然の非難の的となった。正に針の莚の心境だった。そういう場には決して中島取締役は顔を出さなかった。  しかしながら、両社のシステム部門はこの騒動を目の当たりにして、これを境に強烈な危機意識を共有し、初めて両軍を挙げた一致協力体制が出来上がり、新方針に基づく短期集中の詳細検討と、2交代制の24時間システム開発体制に突入して行った。  2001年4月1日の新会社発足にどうにかシステムは間に合った。橘はこれを置き土産にこの日、関東営業本部の新会社初代本部長に就任。得意の営業分野に戻って行った。  同じ日、中島は新会社の営業推進部の取締役部長に、兵頭は新会社の執行役員システム部長に就任した             *   *   *  入れ替わるように、その後任として前島仁が事務・システム本部の本部長として異動して来た。前島は橘と同じ入社年次だ。  新会社がスタートして1週間もしない内に、全国あちこちで事務の混乱が起き始めた。物流ネックやタイムラグ、システム不備、現地対応の不慣れなど様々な要因により事務が滞り、月末を乗り切れない事態に直面した。  再び事務システム部門は社内の厳しい目に晒された。そういう事務システムにして合併を迎えた当該部門に非難の目が向くのは当然だが、その同じ目は、既に本社を離れている前責任者の橘にも向けられた。  前島は本社各部より人材を集め、「緊急対策本部」を立ち上げ、事務混乱解決の専任プロジェクト体制を敷いた。  前島の素晴らしさは、4月最初の締切を迎えるまでに打つ対策と、それを乗り越えた後打つ手とに明確に分けて、且つ、全国の営業部門にキメ細かく的確な指示をして、更にその結果を部下に現地確認させたことだ。全国1店舗の対策漏れも許さない徹底の仕方である。事務正常化を自分の責任で是が非でも成し遂げるという強い姿勢を貫いたのだ。  その甲斐あって、事務混乱は約2ヶ月で収束に向かった。これは前島が全くの専門外である事務システム部門に異動して来て、たった2ヶ月で挙げた大きな功績だった。  その後、前島を責任者とする事務一元化プロジェクトがスタートした。その中身は、システムの一本化ではなく、二本立てになっている現場事務だけを兎に角一本化するというもので、システム片寄せではなかった。システムの並存解消にはもっと多くの時間と費用が掛かることから見合わされたのだった。  合併前から河瀬社長や他の経営陣も期待し、橘もこの合併に大きな夢を膨らませていたのは、2社が一緒になれば1社分のシステム費用で済むので、浮いた1社分の費用で「新幹線システム」(大手他社を凌ぐ競争力のある新システム)を作れるようになるという合併効果だった。  しかし、実際には、より現実的な問題解決が優先されたのだ。合併当初の事務混乱を収拾させてもなお、それだけ現場の事務ロードが重くこれを低減させることが喫緊の課題だったということだろう。  「新幹線システム」は先送りされたのか、はたまた、経営課題から落とされたのかは定かでなかったが、もう経営陣の誰もが「新幹線システム」を口にしなくなった。  自然消滅と見るべき状況に至り、橘は、合併効果として期待した、システム統合による新幹線システム開発資金捻出作戦は失敗に帰したと認めざるを得なかった。  当初の河瀬社長の思惑通り、「3J」が順番にシステム部門を経験した。その中で、最も重く厳しい役割を担ったのが橘であり、見事に失敗したのも橘であった。反対に前島と須賀は初体験のシステムで成功を収め彼等の経歴の中で燦然と輝くキャリアとなったのだった。  前島が指揮した事務一元化プロジェクトが約1年半掛けて目的を達成し、更に1年が過ぎた頃、河瀬社長が退任を発表した。東都損保時代から通算で6年という、慣例上の社長任期満了に近付いていたのだ。彼は次期社長に前島仁を指名した。  因みに、「3J」はその前年までに、既に専務になっていた前島が社長に就任して半年後、橘譲二が退職し、須賀次郎は専務に昇格した。橘の最終役職は常務取締役だった。  だが、前島新社長の盟友とも片腕とも目され、前島自身もそれを期待し、誰もがいよいよ「3J」の時代の到来を確信していた中での予想外の橘の退職は、このシステム統合の失敗が要素の1つであったとしても、必ずしも、決定的理由ではなかった。  この橘の「我が儘退社」の経緯、乃至、真相については後段で触れる。 ...more»
第6回  第一部 / 第三章 システム統合 ①
≪高村比呂希 著≫   社長の河瀬明夫は、専務だった時に、システム部門を担当したことがある。  彼が東都損保に入社してコンピューター・システムに関わるのはその時が初めてであったが、勘の良い河瀬は、自分が推し進める業務改革は、システムを用いて会社の仕組みを変えることが最も現実的で早いことを悟り、河瀬主導で中間事務を無くす新しい事務システムを開発し稼動させた。  社長に就任してから河瀬が考えたのは、これからの損保経営者はシステム部門の技術者を使いこなし、コンピューター・システムを経営目標に有効に生かすことが必須の素養だということだった。自らの経験に基く教訓であった。  そんな思いから、河瀬は将来を嘱望されている「3J」に順番にシステムを経験させようと考えた。  最初に須賀次郎。須賀は「3J」の中では最も若い。橘・前島よりも2歳年下である。ある日、須賀は営業部長をしていた広島から本社に転勤になった。  須賀は着任早々、河瀬社長に呼ばれ、「損保初のロードサービス」という新サービス戦略の実現を指示された。「ロードサービス」とは、車の事故・故障時、レッカー車を出動させ救援することだ。  須賀はその日から全国を駆け巡り、レッカー車を保有する業者に説明会を行ない、東都損保のロードサービスのネットワーク入りを促し、地元の東都損保の支店長にはネットワーク構築に向けた協力要請を精力的に行なって歩いて、物凄い勢いで全国ネットを構築して行った。  その一方で、システム部門に対しては膝詰め談判を行い、新時代のサービス戦略の重要性を何度も説明し、現場の契約者から連絡を受付けて、その地域のレッカー業者を手配し現地に差し向けるためのコールセンター・システム構築を急がせた。  システム部門も総力戦で昼夜を問わない突貫工事を行ない、たった数ヶ月でコールセンターのカット・オーバーに漕ぎ着け、晴れて損保全社に先駆けて東都損保の「ロード・サービス」がスタートしたのだった。             *   *   *  ロード・サービスが実施に移されて間もなく、橘譲二が事務部門とシステム部門を統括する執行役員として、名古屋の営業部長から本社に栄転して来たのだった。  橘は、河瀬社長から「会社合併もあり得る。その時は、事務とシステムが最大の難問になる、その時に備えてお前を事務システム統括部門に配置するのだからそのつもりで」と言われたことが鮮明に耳に残っている。  橘は、事務システムの統合は数ある統合作業の中でも最も難しいことは承知の上で、最も合併効果が出るのは事務システム統合だと理解していた。2社合わせたシステム投資額をシステム統合で半減させることも可能だし、浮いた分で業界に冠たる最新システムを作ることも出来る。  橘は新システムのことを「新幹線」と呼んだ。社長からこの夢のある仕事を与えられたことを意気に感じていた。  数ヵ月後の2000年3月、東都損保は中央損保と合併することが正式発表された。即日、会社全体が合併に向けて走り出した。橘は直属の部下であるシステム部の部長兵頭一樹と、これからの進め方について、本音で突っ込んだ意見交換を行なった。  兵頭は橘に言う。 「合併まで1年しかないということは、橘さん、正直、システム統合をやり切るのは相当難しいと思わないといけないです」 「そうだろうな。相手の事務もシステムも全く分からないのだから」 「そう。それを把握するだけで半年やそこら直ぐに過ぎてしまいます。そこで、この短期間にシステム統合をやり切るには、どちらかに寄せるしかないと思うんですよ」 「うん。兵頭君はどちらに寄せるのが良いと思ってる?」 「相手社のシステムに寄せるのが早いと思います。と言うのは、中央損保は当社にない特別のマーケットを持っていて、それがまた途轍もなく大きい。同社はそのマーケット向けの数多くのシステムを長年手掛けて来ているので、逆に寄せると当社にはそのシステムが無いから大問題になります」 「なるほど。当社側で同じシステムを作って間に合わせるという訳には行かないんだな?」 「1年ではとてもとても・・・」 「分かった。私もそれしかないと思う。その方針で行こう。但し、当社側の反発が大きいのは覚悟して掛かるとしよう」             *   *   *  数日後、橘は社長室にいた。そこには河瀬社長と日本システム・ソリューション(通称NSS)の副社長の大下、それと橘の3人がいる。  NSSは東都損保の大株主の日商銀グループの会社であり、兵頭達は過去30年に亘ってこことパートナーシップを結び東都損保のシステムを共同開発して来た。日商銀は昭和40年代初めに、日本で最初に銀行のオンライン・システムを成功させた輝かしい歴史を有するのだが、その技術者達が集まって別会社を作り、日商銀グループ会社として立ち上げた会社だ。システムの力は日本有数である。  この日はNSSの大下福社長が河瀬社長に、NSSが過去に手掛けたシステム統合事例をレクチャーする日だったのだ。大下が二つの事例を縷々説明し終え、河瀬に向かって言った。 「河瀬社長が仰るとおり、会社合併ではシステム統合が最大の問題です。それが旨く行くかどうかで合併の成否が決まると言って間違いありません。弊社も沢山の事例を経験していますから、是非弊社に今回のシステム統合を任せて貰えないでしょうか?」 「いや、会社合併に当たっては、まず当事者同士が主体的にやるものでしょう。NSSさんに当事者になって頂くつもりは全くありません」  河瀬は大下の申し出をピシャッと断わった。が、大下も粘る。 「それは分かりますが、私共も御社とは30年もの間一緒にやらせて頂きましたので、当事者の一人と考えて頂いても良いのではないかと思います。それに、システム統合となれば、橘さん達にとっては初めてのこと。私共には多くの経験とノウハウがございます」  橘には口を挟む余地が全く無い。  河瀬が言った。 「そういうことも承知した上で、私はこの橘にやらせたいのです。システム統合が旨く行くも行かないも全てこいつ次第と決めておりますので」  会談は終わった。NSSの大下は提案を引っ込めて帰って行った。河瀬は橘にただ「そういうことだ」とだけ言った。橘は己に課せられたミッションの大きさに改めて胸が震えた。「社長は俺を買いかぶり過ぎではないか?」「本当に俺に出来るのか?」、橘の脳裏には様々な自問自答が去来した。そして決意した。「やるっきゃない!」。             *   *   *  橘と兵頭は相手社(中央損保)の事務・システム責任者との第一回目の会合を持った。これは事務・システム小委員会と言い、合併協議の正式機関として立ち上げたものである。  先方は事務部門とシステム部門を担当する金井専務とシステム部長の中島取締役が出席した。当方は事務統括部長であると同時にシステム部門も担当する執行役員の橘と、単なる部長の兵頭の2人だから、肩書き上は全くバランスしていないが、業界ランキング上は東都損保の方が上位なのだから、これで勘弁して貰おう。  第一回目の小委。責任者同士の顔合わせと今後の進め方を決めるのが今日の目的だ。両者挨拶自己紹介のあと、進め方の議論に移った。  だが、双方まだ社長調整もしていない段階では具体的に何も決めることは出来ないので、1年しかない中で事務・システムの統合をするには、お互い細部を擦り合わせて下から積み上げるやり方で方針を決めるのでは間に合わないという認識で一致し、ある程度トップダウンに決めるべきだということだけ合意して、後はお互いの部門の第一線責任者達の顔合わせを明日からでもどんどん進め、次回の小委(1週間後)で、方針並びに作業部隊の編成を議論することにした。  ただこの時、相手社の中島取締役の態度が橘には堪らなく気に入らなかった。言葉の端々に、「当方は特別大きな日本産業という大企業マーケットを持っている。東都さんのシステムで果たして日本産業向けのシステム対応が出来ますかねぇ?」と匂わすのだ。  それが単にシステムのことだけに止まらず、「私はそこの経営者と20年来の付き合いがあるし、信頼されてもいるが、果たしてあなた方にそれが出来ますか?」と勝ち誇った態度に見えるからだ。  小委が終わった後、橘は早速兵頭に、 「あの中島って奴は去年システム部門に来るまで長いこと日本産業担当の営業だったんだよ。ただそれだけのことで中央損保の中でも大手を振って歩いてるという噂だ。俺も長いこと営業やってるから分かるけど、ああいう手合いはね、日本産業にはぺこぺこしてだよ、社内に向けては日本産業を傘に着て、ごり押しするタイプなんだ。うちにもそういう輩はいるけど、とても当社では役員にはなれないけどね。自分では何も出来ないし、しないんだから」 と、憤りを口にした。そして、兵頭と確認した相手社システム片寄せ方針に対しても、 「兵頭君、片寄じゃなくて、中央損保システムを日本産業向け専用にして、それ以外を全部当社システムにするって訳にはいかないかねぇ?」 と言い出す始末。 「あの中島って取締役が気に入らないのは分かりますけど、それはつまり2社のシステムをそっくり残すことだから、何の統合効果も生み出せないですよ」 「中央損保のシステムは日本産業向けに特化しても、そっくり残すことになっちゃうの?」 「審査から契約計上、商品システム、料金請求、保険金支払いシステムと、現在のシステムは一応全部ないといけませんからね」 「・・・、そうだよな。でも何かシャクだよね、あの中島の思う通りになるのがさぁ」 「でもここは、中島のことは目を瞑って、河瀬社長の夢の実現、その一点で突っ走りましょうよ」 「だな?」  そんな遣り取りがあって、次回小委までの間に、橘は河瀬社長と2度に亘って議論し、相手社システムへの片寄せ方針の内諾を得て、小委に臨んだ。  中央損保の金井専務が基本方針について「東都側の見解を先にどうぞ」、と譲ってくれたので、橘が、「中央損保システムに片寄せで行きたい」と答えその理由も述べた。  その途端、前回の不遜な態度に輪を掛けて中島が勝ち誇ったような笑顔になった。 「私達もそうするのが一番良いと思っていましたが、良くご決断されました。橘さんや兵頭さんのご英断を多とします」 と中島が発言した途端、橘の顔付きが変わった。 「中島さん! その不遜な態度、やめてくれません? あなたは私の上司じゃないんですよ。まだ同じ会社じゃないんだから。一体何様のつもりですか!」 「何様のつもりって、私はただお2人を称えたかっただけですよ」 「『多とする』は目下に向かって言う言葉でしょうが! 況して、上位社が下位会社のシステムに片寄せするなんてことはまずあり得ないんだ。それを、やっと正しい選択をしましたね、みたいな人の心を逆なでするような言い方は今後一切止めて貰います」 と、方針とは別な所で揉めたが、小委としての方針は決定した。これを両社合同経営会議に諮って最終決定する。二回目の小委では、夫々の事務局が作成した作業組織体制案が、一部を修正して決定された。  中央損保システムへの片寄せ方針を合同経営会議に諮り了承を得て、事務システムの統合作業を進めたが、案の定、東都損保本社内の反発は大きかった。だが橘と兵頭の2人は既定方針で強引に推し進めた。この時の橘の腕力は如何なく発揮され、当初の反発は諦めに変わって行ったかに見えた。  が、しかし、本社各部門はこの方針には総論已む無しだが、各論になると、これだけは譲れないと、ある機能については東都損保側のシステムを活かすべきとする方針を掲げるようになって行った。  橘がそのことに対しても必死に説得に当たり苦戦している丁度その頃、橘の耳には、経営企画部の担当役員から次のような話が伝わって来た。  中央損保社の取締役会で、ある副社長が次のように発言したそうである。 「他の分野は悉く東都損保に主導権を握られてしまったが、唯一、事務・システム分野は中央損保が主導権を握った。これは金井専務・中島取締役の手腕による賜物であり、当社にとって大きな成果である。取締役会として2人に拍手を送るべきことではないでしょうか」  満座の拍手の中、2人はお互いを持ち上げた。 「中島取締役の丁寧で粘り強い説明が功を奏し、先方が我が社のシステムの良さを理解したことが決め手でした。その意味で今回の成果は、中島取締役の働きによるものと思っております」 「いえ、私の働きなど微々たるもので、相手社のトップを説得してくれた金井専務の働き掛けがあってこその結果です。金井専務、本当にありがとうございます」  とんだ茶番だ。あの2人が何をしたというのだ。中央損保システムへの片寄せ方針は端から兵頭と俺で決めたんじゃないか。中島達が東都システム寄せだったのを、説得して中央システム寄せに変えさせたとでも言うつもりか。橘は胸くそ悪くなった。  だが兵頭は、 「だけど、彼等も喜んでいる場合じゃないですよ。仮に、本社の主張が通っちゃうと、中央損保システムの中に、我が社のシステム機能を移植するか、新規開発せざるを得なくなりますからねぇ」 と、そのことが余程心配といった様子だ。  東都損保本社の自社システム機能復活の声に対して、橘と兵頭が必死に抵抗したが、幾つかは頑として変らない。その1つが経理システムだ。悪いことに、経理部門の統合小委に両社システム部長の出席を求められた時、東都側経理部長から中島取締役への質問に対して、中島取締役の返答が東都側に火に油を注ぐこととなってしまったのだ。  東都損保経理部長はこう質問した。 「我が社では、代理店さん側のロードが最も掛からない精算方式として、経理システムでこういうやり方をしていますが、それをそちらのシステムの中に組み込めませんか?」  これに対して、中島取締役が、 「それはおかしいんじゃないですか? 合同経営会議の中で両社社長がご承認された片寄せ方針ですから、当然、全ての会社運営は弊社システムに合わせるべきです。両社の違いを言い立てて、それを全てシステムで埋めろというなら、片寄せなんか出来ません!」 と言ったからもう大変。同席していた兵頭一樹まで槍玉に挙げられ、 「兵頭! システムの片寄せが、会社運営全体を中央損保のやり方に変えろという意味なら、そういう説明をちゃんと社長にしたのか? 社長はそういう理解をした上で片寄せを決めたと言うのか?」  それに対して兵頭が答えようとする前に中島が言う。 「少なくても当社側は社長を含めそういう理解です」 「中島さん! それじゃあんた、騙し討ちだ。まっいい、今、あんたに聞いてるんじゃない。どうなんだ、兵頭!」 「今、存在する決定は飽くまで基本方針ですから、不都合な部分があれば、時間の許す範囲内で、それを対応することまで排除していないと思います」  兵頭は中島の無神経な発言に腹わたが煮え繰り返る思いながら、事態収拾のためそう言わざるを得なかった。橘が最初の小委で中島の本質を見抜いていたことを改めて凄いと思った。それに比べて自分は今日この場でやっと同じことが分かったのだから余りにも遅過ぎる。  中島は基本方針決定までに何の苦労もしていないばかりか、その後起きている東都損保側の対システム・ブーイングを宥めすかし、時には強引な説得を含めて基本方針に沿った形になるよう努力を続けているのに、それを一気に水泡に帰す彼の発言は許し難い。そうも行かないのは分かっているが、中島を折衝窓口に引き摺り出して、東都損保本社と直接システム交渉させたいくらいだ。  このことに勢いを得た本社部門が、その一件で、両社合同経営会議の了解を取り付けるに及び、不本意ながらシステム部門はその同じ機能を中央損保システムの中に作り込むことを了承せざるを得なくなった。  だが、この小さな敗北が、大敗北に繋がって行く。完全片寄せに比べるべくもなく、大変な統合作業となって行ったからだ。  中央損保システムの中に、東都システムのある機能を移植することを東都側が請け負うしかなかったのだが、それは、相手社はその機能について全く知識が無いからだ。だがそれは、良く分からない相手社のシステム環境やデータ環境の中でシステムの開発を行うことになり困難を極めた。  開発当事者達は不安を払拭できず、確信を持てないまま半年が過ぎ、遂に、このままでは間に合わないという非常に危険な事態に陥った。  この状況に直面して橘譲二は、片寄せ方針をご破算にし、夫々のシステムを並存させて、必要な機能は既存システムのまま使えるようにするしかないと悟った。そして新会社として最低限必要な機能だけ、両社のシステム間を繋げて統合する形に方針転換する以外、システム統合を間に合わせることが出来ないことも解っていた。2社合併・新会社発足まで僅か5ヶ月に迫っていた。             *   *   * ...more»
第5回  第一部 / 第二章 バブル時代 ②
≪高村比呂希 著≫   バブルに翳りが見え出した頃、橘は埼玉営業部の部長に栄転して行った。この地は東都損害保険会社のドル箱地域である。自動車保険の販売シェアで1位の地域だ。埼玉といえばゴルフ場のメッカであり、バブルの象徴として会員権が大暴騰して、天井を打つ頃であった。東京では小金井カントリーの会員権が3億円、埼玉では大京カントリーがオープンしてまもなく1億円といわれるほどの狂乱の時代である。ゴルフ会員権が3億円と聞いたアメリカ人が、てっきりそれは会員権でなくゴルフ場の買収価格と思ったという話が聞えていた。まだみんなが土地の神話を信じ、誰もバブル崩壊を唱えるものはいなかった。  橘が埼玉に着任してまもなく、大手の取引先の社長から、栃木インターから直ぐのところに建設中のゴルフ場があるので、東都損保にも法人会員になって貰いたいとの話が持ち込まれた。その社長の名は宇賀神信彦、55歳。宇賀神は一介の自動車整備士から身を起こし、いつしか小さいながらも自らの整備工場を持つようになり、今では埼玉県内では中堅の自動車整備工場と目されるまでになった人物である。  宇賀神はこのバブル期、従来からの自動車保険に加え、東都損保の個人年金を自社の顧客に売りに売りまくった人物であった。  彼はいつも、ダンヒルのライターをこれ見よがしにテーブルに勢い良く置くのだが、この日も橘を前にして、同じことをした。そして、これもまたいつものように、おもむろに、左肘をテーブルに着いて、左手指に挟んだタバコに火を着けた。それは癖というよりも、左手首の金のブレスレットとキャッツアイの指輪をさり気なく相手に見せるための工夫であった。  全くのプライベートだったら、橘はこの種の人間とは話しもしたくないところだが、何せ宇賀神は、損保業界の最大の激戦区の埼玉に於いて、東都損保の稼ぎ頭の保険代理店であった。  こういう人物には、橘が力のある部長であることをしっかり示しておかないと、後々嘗めて掛かってくること間違いないことは経験上良く分かっていた。  宇賀神信彦が橘にゴルフ会員権の話しを切り出したのは、タバコを一服した後、だった。  しかし、いくらバブル時代とは言え、2千万円の法人会員券を部長職で決済出来る筈もなく、直ぐさまゴルフ好きの担当役員にこの件を持ち込むと、さすがバブル時代、即決でOKが出た。  早速橘が宇賀神社長に快諾の返事をすると、彼は、そのゴルフ場の理事になれると大喜びしてくれた。橘にとっても当然そのコースの理事達と面識を得るチャンスであり、理事達の多くは一部上場企業の会長・社長級なので以降の営業展開にも大きなプラスとなる。2人は大宮「南銀」で祝杯ということになった。橘は埼玉でも上々のスタートを切ったかに見えた。  しかし、問題が発生した。「本社がこのゴルフ場会員権購入を承認しないので、已む無しだな」とあっさり担当役員から告げられたのだ。だが、宇賀神社長が「已む無し」で済む筈も無い。出入り禁止も「已む無し」との覚悟をしながら、埼玉での出足のつまずきを恐れた橘は一策を講じてみた。 「社長! 会社のOKが取れないので、私が代わりに買いますよ」  これがバブル時代の怖さであったかもしれない。提携ローンもあるようだし2千万円程度、何とかなるさ、と思った。だがこの頃のローン金利は8%という高利であった。今考えれば、一介のサラリーマンに何とか出来る金額ではない。考えられない馬鹿げた決断だった。宇賀神社長はそれでも許してくれない。 「東都損保の法人会員と橘部長の個人会員では重さが違い過ぎるんだよ! 個人なら4~5本揃えて貰わないと格好が付かないだろうが!」  怒気を含んだ宇賀神の声と表情に、橘も切れかける心をグッと抑えて、 「社長、電話を貸してください!」  橘はその場で手帳から、何本かの電話番号を書き出し電話を始めた。まず、大学同窓の出世頭に。 「橘譲二ですけど、こんにちわ~。 東都損保の埼玉支店で頑張ってます。ところで社長!、栃木にいいゴルフ場がオープンするんですけど、どうです? 私も買うんですけど、2千万は安い思います。一口乗りませんか?」 「譲二が買うんやったら、乗ってもええで~」 「ありがとうございます~。後日パンフレットを持って伺いますので」  何と橘は同じ話法で、バブル成金から親しい社長クラスまで、その場から6本の購入予約を取ってしまった。  自分の分を入れて合計1億4千万円の売り上げをわずか1時間程度で決めてしまったことになる。さすがに宇賀神社長はびっくりしたのと同時に、橘に対する信頼感は決定的なものとなった。  しかし、これが東京発のバブルであった。当時の橘の顧客である中小企業の社長連中は全てこのバブルの真ん中にはまっていたのだ。  10数年後、橘が名古屋の営業から東京に戻った頃には、その中小企業も社長さん達も全滅していた。  わずかに橘はサラリーマンとしてそのローンを持ちこたえたが、ローン残債は残っていた。そして、今年そのゴルフ場の償還期限になった。彼のところに来た通知は「理事会において償還は十年据え置きと決定いたしました。今後ともよろしく」とあった。10年後に償還など可能性は0%だが・・・・。  橘は当時の東京発の不動産バブルの入り口をその目で体験しつつ、その崩壊後の経済処理の仕方について,確信的疑問を抱いていた。金融機関のはしくれに身を置き、彼はその崩壊の日本の経済危機の頃を名古屋で五年間過すこととなったのだが、不思議な事に名古屋においては、その影響度が極めて軽微なことに気付く。  名古屋という地は基本的に現金主義が、伝統的に残っていた。一部金融機関とゴルフ場の関係にバブルの影響はあったとしても、一般経済には、同じ日本経済の中にありながらも、軽微であったように思うのだ。  従って、当時のバブルは、不動産バブルのように見えてもその実は明らかに金融バブルだったのだ。金融バブルの向かった先が不動産であり、地上げの頻発、不動産の高騰を招いたのだ。             *   *   *  そもそも日本にバブル経済をもたらした原点は、1985年のプラザ合意だと言われている。  ニューヨークのプラザホテルで行われた会議に、日本からは大蔵大臣と日銀総裁が出席した。その会議で米国が各国に要求した、ドル安円高誘導容認・内需拡大のための超低金利政策実施を日本だけが飲まされ、それがバブル発生の環境条件となった。  では、バブルを引き起こした実行犯、乃至、真犯人は一体誰なのか?   バブルが崩壊して日本が沈没した時、マスコミは盛んにそういった犯人探しの特集を組んでいた。ある人は地上げを繰り返す不動産屋だと言う。それを放置し無策を地で行く行政の責任だと言う人がいる。いや、バブルの真っ只中にあって何の危機感も持たない政治家だと言う人がいる。それらを許し、且つ、バブルに乗って儲けようという国民が悪いと言う人もいる。  だが橘は、一貫して、それらは全ては共犯ではあるが主犯ではないと見ていた。主犯は金融機関、特に銀行だと考えていた。銀行が産業や商業を育成する社会的役割を忘れ、あれほど慎重だった貸し出し審査基準も無視して、不動産を担保に金を貸しまくったからだ。銀行が儲け第一主義に走ったから、不動産の転売速度が加速し、短期間での不動産の暴騰を招いたのだ。銀行からじゃぶじゃぶ金を借りられなかったら、高い土地をそうそう買えるものではない。  そして、橘が最も腹立たしいと思ったのは、バブルがはじけ銀行に踊らされた不動産業や建設業がばたばたと倒れて行ったのに、銀行には公的資金が投入され国が銀行を救ったことだ。   橘が当時のバブル崩壊の経済規模の大きさに気付いたのは、その末期に彼の古い友人との会食の際であった。彼は当時、ある都銀の新橋支店の次長であったが、不正融資に絡み、本社への懲罰的転勤が決まっていた。 「うちの支店で抱える不良資産の額を、橘さんはどれくらいだと思いますか?」  橘は突然の友人の質問の意図が解らず、一瞬の戸惑いの後、 「さー、どうなんだろう?」と答えるしかなかった。  彼が言いたかったのは明らかに、日本経済の沈没が間近ですよと言いたかったのだ。それは金融マンとしての彼の責任意識と共に、遺言のようにも感じて怖くなったのを記憶している。 「1都銀の1支店の不良資産の実態が、100億円に近いんですよ!」 と彼は言うのである。  決して彼がオーバーな話をしているのではないことは、彼のその後を見れば解る。  友人はしばらくして、本社勤務を最後にあるサラ金業者への転出して行った。  その額はきっと今後もオープンにはならないだろうが、1支店の不良資産が100億であるならば、一体、日本の当時の不良資産の総額はいかほどであったのだろうか。  決してその全貌は明らかにされないまま、小泉、竹中改革まで放置されていたのである。  失われた10年とよく言われるが、金融機関発のバブル形成とその崩壊の責任を完全隠蔽する為には行政の不作為以外に、手はなかったというのが正しいのだ。  日本は公的資金注入までに10年の年月をかけて、小泉構造改革という名の下に銀行の不良債権の解決と日本経済の再生に向けて動き出し、大きな成果を生んだように見えるが、実はその成果を吹き飛ばす程の大不況が世界を覆おうとしていた。 ...more»
第4回  第一部 / 第二章 バブル時代 ①
≪高村比呂希 著≫   六本木の「アマンド」は橘譲二にとって思い出の場所であった。ここに来ると、時の流れに何かしら感慨を抱きつつも、あの時代が蘇えるのである。  橘は30歳代後半の頃、この六本木を中心的マーケットとする東都損保麻布支店長という重責を3年間務めている。当時は、日本が正にバブルに突入して行く前触れのような時代であった。  地下鉄駅誘致反対を唱えた麻布商店街の間違いは、「東京の田舎・麻布」に導いてしまったことだ。一方の六本木は、既に世界的繁華街として名が知られ、繁栄を極めていた。一つの短期的、且つ、短絡的視野による決定誤りが、その街の繁栄を30年遅らせていた。つまり、地元商店会は、外国人も多く来るような世界に開かれた街よりも、昔ながらの麻布を守り、そこに暮らす人々の絆を大事にする街を選択したのだ。その象徴が地下鉄駅誘致反対だった。  その後、六本木との決定的な対比に衝撃を受けた麻布商店街は、麻布復興に一丸として当たり、今では麻布に地下鉄が走り、六本木に迫り、追い越す勢いである。  その真ん中にある麻布自動車の本社用地が、坪5千万円で売られたという噂が広がり、それが日本バブルの象徴的出来事となった。麻布はその昔、日本のデトロイトとも言われ、周辺には自動車整備工場が多数参集していた。その多くは橘の取引先でもあった。  彼はその取引先に対して、 「もうこの地での工場経営は無理ですよ。マンションか事務所ビルに建て替えるべきです」 などと本音でアドバイスして、随分叱責を買った記憶がある。しかし、その後それほど時間を置かない内に、時代の波は彼ら自動車整備業者を呑み込んで行くのだが、その頃、そんなアドバイスをする損保の支店長はいなかったし、地域で評価される筈もなかった。  バブルの波は、今から見れば想像を絶する異常さであった。ある取引先の印刷工場が倒産した時、その土地を是非買いたいというデベロッパーが現れた。橘は、少しでも倒産した取引先が助かるよう、支店内の応接室で土地売買を仲介した。  橘は、当事者のほかにも銀行員と司法書士を同席させて、一気に売買成立を図ろうとした。彼が驚いたのは、話が決まった時、そのデベロッパーが何と現金で20億円を机の上に積み上げたことだった。そんな時代だった。  今、冷静に考えれば、もしあの時正規の仲介手数料を取ったとしたら、5%、1億円になっていたのにと思わないでもない。だが遠い過去のことである。  「アマンド」は、そんなバブル突入期の麻布支店での3年間を無事終えて、後任の支店長の須賀次郎との業務引継ぎに利用した喫茶店でもあった。橘譲二自身の次の転勤先は渋谷支店長だ。 「今座るこの下の底地は坪1億円。ハイ、これがこの地域の唯一の引継ぎ事項・・・」。  業務引継ぎは5分で終了し、あとは雑談だった。  次の年、橘と同期の前島仁(後に社長となる人物)が、地方の店から丸の内支店長に栄転して来た時、東京のバブルの現状を前島に教えてやった場所も、この同じ六本木の「アマンド」だった。  その後、バブルは益々狂乱の度合いを深めて行った。それに呼応するように、渋谷・麻布・丸の内の3支店長は共に業績を伸ばし、社内外から注目され、やり手の3支店長として一目置かれる存在となって行った。  前島仁。仁は正しくは「まさし」と読むが、人々はみんな「じん」と呼ぶので、本人もいちいち訂正しない。だから人々が前島仁・橘譲二・須賀次郎の3人の名前の頭文字をとって「3J」と呼ぶのにも違和感を持たない。  前島と橘は高校野球の球児だったし、会社でも野球部を率いる立場にある。そして須賀は高校・大学・社会人を通じてラグビーの選手だった。その意味では、単に、やり手支店長3人衆というだけでなく、3人とも体格も良く、筋金入りの体育会系スポーツマンだ。ただ、橘だけは体育系には珍しく、高校時代はスポーツではなく、音楽サークルでギターをやっていた時期があった。ともあれ3人は、バイタリティーに溢れ、押しの強さは超一流。飲むことは勿論、ゴルフに麻雀、遊びは大好きとの共通項を持っていた。  だから、若手営業マン達は「3J」に付いていくのが大変ではあったが、人気は絶大だった。彼らを目標にしていた社員も多かったようだ。若手営業マンの間では、この「3J」が別の意味で囁かれていた。彼等について行くのは「地獄の苦しみ、自殺行為、だが自慢出来ること」(Jigoku・Jisastu・Jiman)と。  この時、彼等「3J」を含め、東京都内の全支店長を束ねる「東京営業本部」の本部長は後に社長になる河瀬明夫であった。  「3J」は互いに遠慮のない物言いをするので、傍目には強烈なライバルと映るのだが、実は不思議な絆で結ばれているようなのだ。それは、互いに夫々の力を認めていることもあっただろうが、それ以上に、敬愛する共通の兄貴分の元で100%自分の力を発揮出来ているという充実感の方が大きかったようだ。「3J」の求心力となっていたその兄貴分とは、他ならぬ河瀬その人であった。年齢的には河瀬は「3J」より5~6歳年長であった。             *   *   *  金融庁のキャリア課長との「ひさご」での会談から数日後、保険代理店の金子順が橘譲二(JT)を訪ねて来た。彼の手には少額短期保険法の抜粋のペーパーがある。  金子はペーパーのとある箇所を指差しながら橘に言った。 「保険代理店も保険会社になれるということですよねぇ?」 「なるほど、保険代理店は保険会社を兼営出来そうだし、逆に保険会社も代理店を兼営出来るみたいだね・・・」  だが橘はその話に入る前に前回の続きの話をしたかった。 「あの後考えたんやけど、やっぱりあの法律の問題点は、売り上げの上限を低く決められていることだと思うんだ。それがネックとなって金融庁の要求する検査項目に耐えられる保険システムの開発コストが賄えないと思うね」 「そうすると認可される保険会社は出て来ないということになっちゃいますよ」 と金子は少々不満そう。 「いや、保険システムがそんなに大変だと気付いている共済会社は少ない筈だから、やっぱり申請は殺到すると思うよ。だって、大儲けしている無認可共済は現実に随分あるからな。でもきっと、認可後にそのコスト負担から彼等の利益も吹っ飛ぶことになるだろうとは思わないか?」  橘は意味ありげに笑いながら更に続けた。 「金子君、やるなら保険会社を新しく興して、同時に保険システムのASP事業を併設することだね」 「ASP??? 何ですかそれは?」 「綴りまでは分からないけど、アプリケーション・サービス・プロバイダーと言って、今流行のITビジネスらしいよ」 「橘さんが、保険システムは少額短期保険会社には無理、って言ったこととどう繋がるんですか?」 「そう、一社でやるのは無理がある。だから、一つの保険システムを作って何社かで利用すれば採算に合って来るんじゃないかな。どうもそういうシステムをウェブに乗せて共同利用させることをASPって言うみたいなんだ」 「へぇ、なるほどね。橘さんはシステムにも詳しいんですねぇ」 「昔、システムで痛い目に会ったからね。兎に角僕はその可能性にちょっと心当たりがあるので、君は金融庁ルートで無認可共済からの移行でなく、全く純粋に、新たに少額短期保険会社を立ち上げることが出来るのかどうか当たってみてくれないか?」 「分かりました。一週間ほどで結論を持って来れると思います。ついでに金融庁への無認可共済からの問い合わせ状況も確認しておきますね」  金子の目が輝いている。橘も漠然としていた夢が少しずつ形になって行くような気がした。 「それじゃ、一週間後にもう一度、このビジネス・プランの可能性について検討してみようや」  二人は、途方もない野望に胸膨らませて別れた。             *   *   *  橘譲二と金子順の出会いは、今から20年ほど前、橘が渋谷支店長に赴任して暫くの頃であった。  東都損害保険(株)では、新卒のリスク・マネージャー育成という大胆な販売戦略を立てていた。リスク・マネージャーとは、法人相手のリスク・コンサルティング・保険販売員のことである。その募集の網に掛かったのが金子だった。彼は早大新卒入社だったのである。  勿論、彼の保険論の理解度は一般の3倍速、おまけに販売研修においても、一ヶ月の実践訓練すら不必要なほどの成長力で、半年後には、ほぼ東都損保の誇る新戦力リスク・マネージャーとして自立できる技量を備えていた。時は渋谷にも不動産バブルの波が押し寄せていた。  彼は早大理工学部建築学科卒、この波を見事に利用して成長していく。当時銀行も金余り、企業は利益先送りの節税対策に必死というマーケット状況にあった。銀行とゼネコンと不動産をミックスすれば保険はたちまち金融商品として、一気に大型化していく。  銀行は名目の担保さえあれば、とにかく貸しまくった。その担保を創造するのが積み立て型の保険である。損害保険、個人年金保険、医療保険など全てが貯蓄型となり、利益繰り延べプランとして、高金利にも拘らずその保険料を担保に銀行は融資を推進する。まさにWIN=WIN=WINの関係が成立するのだ。  銀行各社は競ってこの手法を取り入れ、自ら見込み客を探し保険会社に斡旋して来る。見返りは協力預金となる。節税のための融資で定期預金が付いてくる。おまけに関連会社による保険手数料が大きい。こうして1万円単位の保険販売が、1千万円を超え、1億円を超え、やがて10億円超にまで膨らみ、遂には領収証の桁数が不足する始末であった。  金子も当然この戦線にいち早く参入して行く。すでに彼の後援者(顧客)として、銀行、ゼネコン、設計事務所、税理士などが揃っていた。考えれば、保険版サブプライムバブルであった。  保険屋たちのバブルはこうして始まった。そして沢山の保険屋が束の間の夢によって身を滅ぼし、消えていった者も多い。このような保険販売はバブル崩壊よりずっと前に金融当局からの規制が徹底された。精確な理由は不明なるも、当局にとって税収が減ることだけは間違いなかったからだろうか。  そういう中でも金子の読みは正しく、バブルに乗じて一気に自身の保険売上高を拡大したが、驕ることなく、浮かれることなく、それを自身の大型代理店化の足掛かりにしたのはさすがであった。  橘譲二が渋谷支店に着任してまもなく、その場所に東都損保の高層本社ビル建設計画が決定した。その昔、坪百万円ほどで購入した1千坪ほどの土地が、坪1億円と言われる程にまで暴騰していた。月当たり賃料は坪5万円程度というから、床面積2万坪になれば、年間ざっと百億円もの収入になるではないか。  当時、橘たち大勢の営業マンが全国で深夜まで営業に駈けずり廻っても会社の最終利益は年百億円に満たない時代である。保険業など解散して、不動産業に転業した方が良いと橘は密かに考えたりもしたものだ。  しかし、橘はそのビル建築前から竣工までの3年間、その高層ビル建設の責任者のような顔をしながらも、バブルに飲み込まれないよう自重して支店長職を全うしたのだった。             *   *   * ...more»
第3回  第一部 男の半生 / 第一章 ある会談
(1-1 ある会談)    2005年ゴ5月の夕刻。橘譲二は六本木の裏通りにある創作料理屋「ひさご」の一室で、金子順と共にある人物の到着を待っていた。橘57歳。金子38歳。  2人が雑談しながら待っている人物とは、金融庁官僚の阿久津紀夫(43歳)のことだ。阿久津は、庁内のエース級と目されるキャリア課長で、金子が主催するプライベート勉強会の仲間でもある。彼は、「保険業法の改定法案」を閣議決定まで持ち込み、その頃、やっと一息ついた状態であった。金子の気配りで、その保険業法改定に興味を持つ橘に、阿久津を引き合わせようとセッティングされた会談がもう直ぐ始まる。  通常、1つの法案制定作業は、例えそれが小さな改定であっても、優秀なキャリア官僚達が3ヶ月以上の徹夜作業で、関連法との調整、チェック、関係各省や与野党との政治的根回しを経て、漸く成案化される。  当然、霞ヶ関にタクシーが連夜並ぶことになるのは致し方ない。彼らには労働基準法の適用はなく、勿論残業代など、昨今の官に向けられてきている集中砲火の中では、申告出来る筈もない。  彼らがホッと出来る唯一の場所と時間は、ヒョッとしたら深夜の帰宅タクシーの中だけなのかも知れない。  橘は、その前年、ある後悔の念を持ちつつも、ある損害保険会社を突然辞めた。中堅損保2社が合併して業界4位となり、大手社の仲間入りを果たした後、様々な統合作業も一段落して、さあこれから攻勢に転じようという会社にとって極めて重要な時期であったにも拘らず、いわば勝手な我が儘で常務職を投げ打ったのだった。  金子順は、橘譲二が育てた保険代理店であり、保険屋としては珍しい早大理工学部出の、専業の生損保兼営代理店として大成功した人物だった。自他共に認めるプロ中のプロ代理店と目された人物である。現在は、保険代理店を経営する傍ら、あるIT企業の役員にも就任している。二人の興味と関心は、阿久津紀夫が起案したと言われる「百年の歴史を持つ保険業法の改定について」であった。  改定の目的が「少額短期保険事業者の特例」という保険業法により、「簡易保険事業の設立が可能になる」との情報が2人にもたらされ、そこに興味をそそられていたのだ。  長年、損保会社の役員として金融庁所管のこの法律に悩まされた橘には、この法改正が事実であれば、過去の保険業法改定の慎重過ぎる改定に比べ、あまりにも性急で乱暴ではないかとの想いがある。しかしその一方では、「この改定には大きなビジネス・ヒントが含まれているのではないか」との漠然たる期待もあった。  橘が今回、阿久津に是非会ってみたいと思ったのには幾つか理由がある。長い間、損保業界に籍を置いて来た身にとって、雲上人である監督官庁のキャリア官僚と会える機会はめったにないことなので、彼らは一体どんな人種なのか、彼らの思考スタイルはどういうものなのか、是非話をしてみたいという興味があった。  加えて、損保の常識からすれば、果たして、少額短期保険事業という簡易な保険会社などに、大きなコスト負担を伴う「事務」や「システム」、「不正契約の排除」や「消費者保護」のための様々な対応など、果たして可能だろうか。  実は、発表の事実以外に隠された当局の思惑があるのではなかろうか、などなど、俄か勉強とはいえ様々な疑問符が浮かぶのである。  橘は、金子から阿久津との会談を打診された時、一も二もなく即座にセッティングを頼んだ。    *   *   * 「いやー、遅くなってスイマセン。役所の会議が長引いてしまいまして」 と言いながら阿久津が現れた。 遅れたとは言うが、実際はたかだか7~8分の遅刻なのだが、2人に詫びる彼の態度に、橘は好印象を持った。  しかしながら、名刺交換、お互いの自己紹介、乾杯などを行なったものの、なかなか会話は打ち解けない。金子からの事前のアポイントの時も、橘が元保険会社の役員だと言うことへの多少の警戒心が働いていたのであろう。阿久津からは 「安い店で割り勘なら・・・」 とわざわざ念押しされていたくらいだ。  今日の食事会は、勿論プライベートという建前であり、割り勘で3千円見当の約束だった。そうは言っても、橘は大手損保会社を前年に退職したばかりで、金融庁のキャリア課長と対等の会食など到底考えられなかった。まして、プライベートと断っていてもこちらから呼び掛けた初対面の会談である。  橘は「ひさご」に対して事前に根回しをしていた。実際には料理は1人1万2千円だが、伝票には3人分で1万2千円と書いて持って来るようお願いしておいた。  なかなか会話が弾まないのは、熱心に橘を引き合わせたがっている友人の金子の願いを受け入れはしたものの、阿久津にとって、この会談の目的がいま一つ分かっていないこともあるかも知れない。  或いは、橘には阿久津に幾つか聞いてみたいことがあるのだが、それよりも、この会談が阿久津にとっても有意義なものになるために、損保第一線の長い経験から、彼の職務に役立つ何らかのアドバイスを送れないものかと、妙に肩に力が入っていたからかも知れない。会談の成り行きは全く分からなかった。  3千円の割り勘の店にしては、豪華過ぎる料理が運ばれて来た時、阿久津にそれを覚られないようにと、橘は熱を込めて話し出した。 「ところで阿久津さん。少額短期保険事業の認可は、無認可共済を厳格に審査の上、金融庁の行政下に収めることになると思うのですが、その無認可共済とやらは一体どれほどの数があり、どれほどの数が認可出来るものとお考えですか?」 「さあ。無認可共済だということは把握困難ということもありますから、正確に把握はしていませんが、電話帳あたりから類推してみたところでは7~8百程度でしょうか?」  阿久津の答えに橘は戸惑った。どんなに低く見積もっても一万近くはある筈だ。大きな認識の誤りだ。一桁違う認識に対してどう答えたものか。仕方ない。直截的に言ってしまおうと彼は決めた。 「阿久津さん、その認識では、おそらく金融庁は問い合わせ業務だけで麻痺してしまいますよ」 「そうですかね。悪質業者を排除する狙いからすれば、そう心配することも無いでしょう」 阿久津は橘の指摘に驚きもせず、あっけらかんと答えた上でこう言った。 「まず、少額短期保険事業者の登録を希望する共済は、全て特定保険事業者として受け付けて、こちらの管理下に置くつもりです。悪質業者は、その時点で自動的に排除されるでしょうから、この法律の狙いは生きる筈ですよ。どれくらいの数の業者が登録してきますかねぇ。いずれにしてもそれからですよ、正式認可される保険事業者の数の想定は」  なるほど、一理あるけど本当に数少ない金融庁職員で、混乱せずに進むのかな? 橘はその懸念を簡単に肩透かしされたと思いつつ、2つ目の疑問をぶつけてみることにした。 「少額で短期な保険に限るということのようですが、これを法整備で縛るといことは、被保険者1人当たりの加入限度額を常に管理しておくということですよね? 私の経験からして、今の保険業界でもコンピューターによる契約管理は出来ていても、事務面・コスト面から顧客管理はなかなか出来ないでいるようです。それが、売り上げ制限があり、且つ1千万円の資本金でも可能な保険会社に、果たして、コンピューター・システムの構築維持が可能でしょうか?」  橘は現役時代の後半に、金融再編の大波の中、合併実務を経験している。彼は合併作業の中でも、最も厄介とされるシステム統合を担当したのだ。相前後して、他の金融機関でも合併が相次いだが、旨くシステム統合が合併効果を生んだ事例は少ない。だが橘は、これこそが会社合併の意味を生み出す究極の仕事と意気に感じ、チャレンジし、見事に失敗した悪夢のような経験を持っていた。  その後、両社システムの暫定的な接合手術により、並存連結型システムとして稼動しているが、5年経過しても本格統合システムは実現していない。その大きな原因がコンピューター・システムの膨大な構築・維持コストであることを、橘は深く理解していた。  阿久津はこの指摘には大きく反応した。金融庁としては、コンプライアンス違反を取り締まる必要性を重々承知しているからだ。良い指摘を貰ったとでもいうように、阿久津は笑顔で答えた。 「顧客管理なくして、少額短期保険の法の精神は崩れます。当然システム対応は標準装備ということになりますね。通達で顧客管理とシステム装備を促しておきましょう」  橘はこの回答に不満だった。通達を出せば済むという話ではない。システム装備が不可欠だとすれば、売上高が制限されている少額短期保険会社には、小さい利益の中からそのコストを負担するのはとても無理ではないか? だとすれば、今回の保険業法の改定は、無認可共済を全部廃業させるためだけのもので、一つも新しい保険会社を作らせない法律だということになる。 「阿久津さん、売り上げは50億に制限されてますよね。資本金は1千万以上であれば良いんでしたねぇ。システム構築には一体幾ら位費用が掛かると思われますか? 私は以前システムを担当したことがあるのですが、膨大なランニング・コストが掛かる上に、更に費用を掛けて顧客管理システムを構築することは叶わず、大変苦労した経験があるのですが・・・」  阿久津が憮然とした表情に変わったのを察して、突然、金子順が会話に割って入った。 「ところで阿久津さん、この法律の狙いは、無認可で消費者への詐欺まがいの業者を取り締まるためでしたよね。善意の無認可共済であれば、保険事業認可は許容することになりますか?」  一見、大きく話題が変わってしまったかのように見えたが、阿久津は、橘が一番聞きたかったことを簡単明瞭に答えた。 「いえ、立法のスタンスに合わないものは認可しない訳ですから、結果認可すべき事業者が出なくても、それはそれで法の趣旨は生きるんですよ。要は無認可共済というジャンルの事業が無くなれば、この法律の趣旨は生きることになります」  さすが、キャリア官僚の自信に満ちた答えは明快であった。法律によって金融庁が無認可共済という、一万もの事業者が存在する事業ジャンルを統括することによって、この新しい分野の官僚支配が完成して行くのだ。その結果、認可される事業者が仮にゼロであったとしても、不法業者を締め出すことが出来るのだから、有意義な法改定だと阿久津は胸を張る。 「その際、善意の無認可共済の顧客はどうなりますかね?」  金子は心持ち小声で訊ねた。 「金子さん、消費者保護は結果なのです。行政マンは必要だと思われる法律を起案し、上程すればいいのですよ。現にこの法律による保険事業は、経営責任と消費者責任を前提としており、保険業法上の保護機構(セーフティー・ネット)は存在しないんですよ。顧客はそのことを承知して、この保険に入ることが原則なのです。ついでに言えば、正式には金融庁認可ではなく、届出制という行政手続きなのです」  2時間があっという間に経過していた。実に真剣な議論になった。脱線する余裕もなく、阿久津紀夫の束の間の安らぎには程遠い「仕事」そのものになってしまったかも知れない。  仲居が請求書を持って来た。予定通り、そこには1万2千円と記入されていた。金子はその請求書を二人に確認させた。 「すいません。4千円通しになってしまいましたけど、いいですか?」 「いいですよ。案外リーズナブルな値段ですね」と阿久津が言う。 「またいつかやりましょう」。 橘が応じる。  3人は一緒に店の外に出た。阿久津は直ぐにタクシーを止め、「それでは失礼します」と言って乗り込んで行った。そのタクシーが視界から消えたのを確認して、金子は「ひさご」にとって帰し、残金の2万4千円を届けてから、橘が一足先に行っている「アマンド」に向かった。    *   *   *  俄か反省会となった。 「いやぁたいしたもんよ。あれが行政にいながら立法を司る官僚の精神だな」 と、橘は感想を口にした。 「でも、消費者無視も甚だしいと言えませんかね?」。  金子は少々不満そうであったが、兎に角も最後は円満に別れられてホッとしている風だった。 「いや、あれでいいんだよ。きっとあの法律は生きるだろう。でも認可を得られる事業者はほんの一握りとなるんだろうけど、世に無認可共済という事業者が消えることだけは間違いなさそうだね。結果、彼が言ってるように、長い目で見れば消費者は守られて行くんだろうし・・・」 「彼、最後に言ってましたけど、他の部門への異動が決まってたんですね。あの法案は完全に彼の手から離れたってことですよね? だからあそこまで踏み込んで僕らに話してくれたんですかね?」 「そうかも知れんね。先方さんはどうか分からないけど、こっちは凄く面白かったよ。こういう機会を作ってくれてありがとう」 「いえ。ところで、阿久津さんの異動先の検査部門って、金融庁の中ではどういう力関係なんですか?」 「それは分からないけど、金融機関からすれば泣く子も黙る金融庁検査部というからね。金融機関に何か問題があればどういう指導や措置を示達するか、それを決するところだから、相当な権限を持つ強面の部署だよ。阿久津さんはやっぱり金融庁のエースなんだろうね」 ...more»
第2回  主な登場人物  /  目次 
          主な登場人物 橘譲二                主人公。学生時代は全共闘。損保役員を中途で辞任、企業の再生ビジネスを展開。ラストランへ 早乙女恭子              評判の美人女学生。学生時代の恋人。全共闘運動に身を投じる。後に「日本革新党」党首 佐々木雅子             同じ会社の後輩。その美貌と明るい性格と仕事振りとで社内で評判の女性。橘譲二の妻となる 橘和馬                橘譲二の息子。後に経済産業省のキャリア。父とは意見が合わず、親子喧嘩から確執・断絶へ 橘純太郎               橘譲二の兄の長男(甥)が転職を橘譲二に相談。譲二は「辞めるな」と言い、自分は辞職を決意 橘洋二郎               橘譲二が損保を辞めて、最初の企業再生事業を一緒に頑張った人間。橘譲二の兄の次男(甥) 金子順                橘譲二が代理店研修生として育成した人物。後に「日本SIS」社長。橘と共に日本再生PJT推進 阿久津紀夫              金融庁キャリア官僚。無認可共済一掃を図るための法案を作成し国会での可決を策した当事者 前島仁                同じ損保会社に於ける橘譲二の盟友。後に同社社長となる 須賀次郎               同じ損保会社に於ける橘譲二の盟友。後に同社専務取締役となる 河瀬明夫               橘譲二が師とも仰ぎ、自身の目標ともした人物。同損保の社長。後に会長 宇賀神信彦              橘譲二が赴任した埼玉支店の取引先の自動車整備工場の社長。橘に高額なゴルフ会員権を売る 兵頭一樹               合併時の橘譲二の部下。システム統合の実務責任者。後に橘と共に日本再生PJT推進 金井専務               合併相手社の事務システム統合責任者。後に副社長 中島肇取締役             合併相手社のシステム統合責任者。後の常務取締役 星野副社長              副社長。河瀬社長に次期社長として、次期社長候補の噂ある星野ではなく盟友の前島を推薦 唐沢剛                高校時代のマンドリン・クラブの指揮者。小学校の時の野球仲間。長じて商社マンとなる 滝田秋雄教授             阪大教授。安田講堂陥落降全共闘運動も急激に衰退。目標を失った早乙女恭子が頼った人物 青柳慶子               滝田秋雄教授の紹介で、早乙女恭子が新たな第一歩を踏み出すキッカケを与えてくれた議員 末松営推部長             橘譲二の嘗ての部下。橘が会社の営業方針を巡って、中島常務と論争した時に同席 奈良橋幸太郎             経済産業省のキャリア。後に次官。同省に入省した和馬は学生時代、息子幸司の家庭教師だった 奈良橋幸司              橘和馬が家庭教師をした相手。当時中学生。父幸太郎は息子にも官僚の道を望むも、商社マン 松本輝彦               経済産業省内で、官の改革を進めようと思いを一にする橘和馬の同志、後輩 黒川憲章               天才ソフトウェア技術者。特別のソフトを引っ提げて日本上陸。金遣いの荒さが祟って失脚 安田克彦               元神奈川県議。ある生協の創設者。現在は市民活動家。後に橘と共に日本再生PJTを推進 三浦孝弘               橘譲二が立ち上げる新設保険会社の大口出資者。「有機野菜を守る会」の会長 箱崎綾                元「ウォール・ストリート・ジャーナル」記者。日本に戻りテレビ等で経済コメンテーター。PJT参加       目  次    プロローグ  第一部  男の半生    第一章 ある会談    第二章 バブル時代    第三章 システム統合    第四章 青春賦 第二部  夫々の闘い    第一章 顧客第一主義    第二章 家族    第三章 女闘士    第四章 父子の断絶    第五章 我が儘退社    第六章 改革派官僚 第三部  ラストラン     第一章 起業    第二章 回帰    第三章 プロジェクト5    第四章 提言七ヵ条    第五章 出馬 エピローグ ...more»
第1回  プロローグ
「皆さん、私が新社長の前島です。どうか宜しく。例年、新年度のスタートに当たって、1年間の経営目標を定め、全社員の意思統一を図る場である、支店長会議を開催していますが、本日はこれを拡大して、全国の支社長・営業課長の皆さんにもお集まり頂きました。それは、本日スタートを切った新経営陣の決意を皆様に伝えると共に、全社員が一丸となってこの会社を勢いのある会社に変え、お客様により安心・安全なサービスをサポートする、真に顧客に役立つ保険会社にして行くことを、全員で誓い合う場としたかったからです。 我が社は東都損保と中央損保が合併をして3年が経ちました。前社長の河瀬新会長のご指導の下、合併という大事業を成し遂げ業界四位という大手損保の地位を確保し固めることが出来ました。 しかしながら、会社合併からの3年間は、皆さんも良くご存知の通り、日本経済の低迷を受けて、減収減益との闘いを強いられましたが、社員全員が一致結束してコスト・セーブに努力した結果、遂に黒字を出せる会社になりました。このことは、即ち、我が社は3年を掛けて、収益構造を確立・獲得出来たということを意味します。 しかし我が社は、残念ながら合併時よりも収入保険料の規模が縮小したままの状態が続いております。規模縮小は衰退に他なりません。 新社長としての私の使命の第一は、何としても増収構造を確立して成長軌道に乗せることと認識しております。どうか営業の皆さんは、もう一度、『増収こそ命』を胸に刻んでください。営業の使命は何と言っても増収を確保することであります。 本社部門には、営業第一線が増収出来るよう、その一点であらゆる施策を考え実施して貰いたい・・・」 2004年4月1日、この日新社長に就任した前島仁は全国の営業本部長・支店長、並びに、その傘下の営業課長・支社長全員を都内の某ホールに集めて、社長就任のお披露目を兼ねた、新体制による初めての支店長会議を開催した。全国から約1千名の役職者が一堂に会した盛大な会議となった。 常務取締役関東営業本部長の橘譲二は、友人であり、営業マンとしても良きライバルであった前島仁の晴れ舞台の演説を、大きな感慨をもってひな壇の上で聞いていた。但し、一点だけ、少しばかりの違和感を感じながら。 橘譲二(JT)と前島仁(JM)は入社が同期で、且つ若い時から2人とも営業で際立った成績を上げ、その名が知られる存在だった。彼等の2年後輩にも2人に比肩する営業マンがいた。名を須賀次郎(JS)と言った。3人が揃って支店長になった頃、人は彼等を「3J」と呼ぶようになっていた。 橘の感慨は、本日、盟友の前島が遂に社長になったということ、そして前島の社長姿が直ぐ目の前にあるということだった。 事前に前社長の河瀬から、「橘のごく個人的な考えで良いのだが、次の社長には誰が相応しいと思うか?」と聞かれ即座に「それは前島でしょう」と答えた場面がつい昨日のように蘇えった。それは単なる参考意見であって、最終的には河瀬前社長自身の決断だったにしても、橘には盟友前島の擁立に少しでも関われたことが嬉しかった。 そして、前島の社長就任はまた、「3J」の過去の業績が花開いたことを意味し、橘は、これで思い残すことなく会社を去れると思った。 一方、新社長演説に対して感じた違和感というのは、前島が増収第一主義を大々的に宣言したことだった。橘自身は、日本経済が右肩上がりの時代だった頃のような成長路線は最早過去の遺物であり、今は会社全体を、数字さえ挙げていれば少々のことは目を瞑るといった過去からの悪しき風習を完全に断ち、無駄のない筋肉質の会社にして、顧客にとって最も使い勝手の良い会社を目指すべきだと思っている。 橘はやはり辞める決意をして良かったと思った。このまま自分が会社に残ったら。遠からず前島と意見対立をする場面が来るかも知れないと感じたからだ。 橘はこの後、前島新社長に辞表を提出する。新社長として盟友の橘を他の誰よりも頼りにし、期待していた前島が、橘の突然の辞表提出に、驚きこそすれその理由を理解出来る筈もないから、なかなか辞表を受理しない。 「本当にあんたには手子摺るよ。俺は橘をずっと盟友だと思って来たし、今もそう思ってる。だが、お前はそうは思っていなかった・・・?」 「いや、それは違う。俺にとっても前島は今でも盟友中の盟友だよ」 「だったらなんで、俺がこれほど頼んでるのに断わるんだ? お前が社長じゃなく、俺が社長になったからか? 喩えお前の方が社長になったとしても、俺は喜んで協力しこそすれ会社を辞めるなんてあり得ない」 「そういうことじゃないんだ。河瀬さんの社長退任と共に、俺の役割は完全に終わったと悟ったのよ」 「分からん。河瀬さんだって、後は3Jに託したと思ってる筈だって。俺には敵前逃亡としか思えない」 「分からんでもいい。盟友と思ってくれているなら、俺の最初で最後の我が儘を聞いてくれ」 半年間、2人が揉めに揉めた挙句、9月末日、橘は会社を去った。 誰にも理解されない退社だったが、これが橘にとって新たな人生の幕明けを告げる号砲となった。それからの橘の人生は大転回して行く。人は彼を称して、3つの人生を生きた人と言う。 一つは、この世に生を受けてから22歳で就職するまでの人格形成期。特に、野球・音楽・恋愛・学生運動などを中心とする青春時代は、後の橘譲治を形作る上で重要な期間だった。 2つ目の人生はサラリーマンとして全力疾走した35年間である。彼が他に比べて特別に働き者だった訳ではない。その彼が、「3J」と称され若手支店長の代表格に擬せられたのは、常に仕事を通じて改革者の道を歩み、それを潰そうとする一派からの圧力にも、決してぶれることなく貫いたからだろう。結果は常に後から付いて来た。2つ目の人生の最後は、社長の盟友という誉を得て退職することが出来た。 そして、3つ目が退職後の人生だ。そこには、橘自身も想定し得なかった劇的な人生が待っていたのだ。 普通、サラリーマンの定年退職後の人生は「余生」という言葉に代表されるような、表舞台から降りた後の、のどかなおまけの人生を想定する。 だが、橘の場合は、その対極の行き方を選ぶ。それは、日本の経済恐慌、もっと言えば、日本を沈没から救うため、日本再生に向けた命がけの戦いとなったのだった・・・ ...more»
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