≪高村比呂希 著≫
2つ目のエピソードは、支社開設で見せた橘の顧客重視の店作りだ。
城北支店での営業活動が認められ、橘は麻布支社開設の責任者に任命された。店舗新設を、まだ係長の橘に託す異例の人事だった。橘33歳。
生保業界で「支社」と言えば、大勢の部下と大勢の外務員を抱える拠点責任者で、支社長ともなれば地域でもステータスが高い存在である。黒塗りの車と運転手付き、会社によっては役員クラスもいる。
損保の場合は、基幹店舗である「支店」の傘下に「支社」が置かれる営業組織(課と同じ位置付け)なのだ。だから役員や部長クラスでない係長の橘が支社長になれた。但し、係長の支社長就任は全く初めてという訳ではないものの、異例中の異例人事であることには違いない。
店舗の物件探しから、必要備品の購入、人事部への女子社員異動候補者要請等など全て1人でやらざるを得なかった。テリトリー内の企業や商店との商談では、支社長の名刺を出すと、殆どの相手がもう一度彼の風体を確認するように眺めて感心してくれる。「その若さで支社長とは凄い」といった目で。
社内や代理店には全く威力を発揮しない「支社長」という肩書きが、これほど一般社会で効果があるということを体験して、橘は、肩書きも店舗も、全ては顧客のためにあることを確信した。やはり支社にとって最も大事な対象は代理店や他の募集チャネルではなくその先にある保険の顧客や見込み客であることを再確認したのだった。
最初の店は電気店の2階で、予算の関係から大人4人が席を並べると一杯という狭さだったから、他店から移管されて麻布支店所属になる代理店の来社時の机も置けなかった。だが、開設準備の最初の数ヶ月は仕方ないと橘は割り切った。
この間、橘が最大エネルギーを費やしたのは、城北支店で経験した、代理店研修生の大量採用大量育成であった。橘の得意技だ。今度は一国一城の主として、麻布支社の強力な保険募集軍団の構築である。自ずと入れ込み方が違って来る。
研修生候補者と頻繁に会い、橘の熱っぽさに感服して、大多数の者はその場で転職を決意したのだった。橘は多い時で1日に10名の候補者と会って説明・説得に当ったと言う。
橘は、それこそ土日もなく昼夜の別なく、寝食を忘れてそれら諸々の準備作業を進めて半年後、広い店舗に移転した。橘は顧客第一主義の店作りを徹底するために、一階は営業店舗だが、二階は、地域に開かれた営業店舗を謳い文句に、会議室、兼、市民への開放スペースとしたのだった。
そして、いよいよ正式に麻布支社としてのお披露目のパーティーを行うことになった。従来、お披露目には取引先代理店をご招待して、会社の役員が挨拶するのが東都損保の決まり相場だったが、代理店にも了解を取り付けて、お披露目は顧客向け講演会に変更した。当然ながら、講演会に客を集めることを代理店研修生の担当とし、テリトリー内飛び込み営業の実践研修の場としても仕掛けたのだった。
おそらく、市民への開放スペースを設けたことと顧客向けセミナーを支社レベルで実施したのは、東都損保では勿論のこと、損保業界としても初めての試みではなかったか。どちらも今では当たり前になっているが、外務員や代理店の先にいる顧客への直接サービスの考え方は業界にはまだ存在しないと言って良かった。
講師はNTTの的場英氏にお願いすることにした。彼はその後ある事件で失脚する運命を辿るが、当時はマスコミ等に引っ張りだこの、正に「時の人」であり、今日で言うところの「IT社会の生みの親」とも言える人物である。
ある人脈を使い無理なスケジュールの中、何とかOKを貰ったまでは良かったが、何とお披露目パーティーの当日、大問題が出来した。東京に未曾有の大雪が降って、電車は止まる、車は走れず大渋滞、支社の玄関にも入れないほどの雪が積もってしまったのだ。午前中には本社から女子社員に帰宅命令が出される始末だ。講演会は中止にするか否か、みんなで雪かきをしながら思案を重ねた。
講師に頼んだ的場氏は、前日大阪出張の筈であるが連絡が取れない。交通状況を確認すると新幹線も飛行機も止まっている。これでは的場氏も、講演会に間に合わないだろうと已む無く中止の判断をしようとしたその矢先、ご本人から連絡が入った。
「予定通りで宜しいですか?」
「え? 今大阪ではないんですか?」
「いえ、昨日から飛行機が飛ばず、大阪には行けませんでした。今、東京の自宅ですから、早めに出掛ければこちらは大丈夫なのですが」
「はっ、はい。予定通りやりたいと思いますので、どうか宜しくお願い致します」
橘は受話器を耳に当てながら、深々と一礼していた。よし!
だが、今度は客足が心配になる。多分マスコミも取材に来るだろう。研修生達には再度自分の顧客に出席確認の電話をさせた。
しかし案ずるより産むが易しであった。蓋を開けてみれば、会場は満員(と言っても支社の大会議室だから定員百名)となった。満員になったのは、何といっても彼が「時の人」だったからであろう。
橘にしてみれば、この日は人生で最も長い1日となった。
因みに、この日集ってくれた顧客は港区にある会社の社長、または、その代理人、商店会役員、ロータスクラブ会員等々、テリトリー内の有力者などが多かった。後々これらの人達や組織が、東都損保の団体保険の顧客になり、麻布支社の支援者になって行ってくれるのである。
橘支社長のもと、顧客第一主義に染め抜かれた研修生達がこれら有力顧客の紹介等、大きな支援を得て、急速に戦力化して行ったこともあり、立ち上がったばかりの麻布支社は、2年で支店昇格を果たし、橘は東京のど真ん中で東都損保で最も若い支店長となった。これも過去に例のない早さだった。
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≪高村比呂希 著≫
(この小説に登場する人物・組織は全て架空であり、実在する人物・組織とは一切関係ありません。 編集部)
橘譲二は東都損保に入社して、研修後は営業係として城北支店に配属となった。以来、橘は退社するまで約35年間を主に営業分野に従事することになる。
東都損保のメイン・チャネルは保険代理店だ。従って、新米営業係としては、支店に所属する代理店に出向き、彼等に顔と名前を覚えて貰い、コミュニケーションを蜜にすることから仕事を覚えて行かなければならない。
最初は先輩の営業係が引き回してくれたが、2回目からは、自分1人で出向かなければならない。ぎこちない訪問が、徐々に様になって行った頃、つまり、代理店からすれば、お客さん扱いの時期を過ぎた頃、代理店の橘に対する態度は実に様々であることが良く分かって来た。
契約高の低い代理店は丁寧に応対してくれるが、契約高が高い代理店ほど、橘に対してはあからさまに偉そうに振舞う。それは多分、東都の社員を食わせてやってるのは俺だ、1件も保険契約を集めていない新人のお前はそのところをよくよく弁えろ、といった気分なのだろう。
支店の先輩達を見ていても、大きな代理店に対しては下にも置かない気の使いようなのが分かる。「お客様第一」という標語も店内に張り出されているが、「支店にとってのお客様とは、代理店さんのことである」と明言する先輩も多い。
入社早々橘が感じたのは、正にこの点がおかしいということだった。東都損保にとって、お客様は保険の契約者しかいない筈。他業界では代理店の役割は会社の営業マンの仕事だ。営業マンが会社の中で、あれ程鷹揚に振舞うことが許される世界なんてあり得ないのではないか、と思ったのだ。
この疑問は、やがて橘を革新的人物という評価を定着させて行く上で極めて重要な問題認識となる。
橘の営業マン人生は「代理店が東都損保のお客様」という社内の常識を否定し、「契約者こそ東都損保の唯一のお客様」という考え方と仕事のやり方を確立させる闘いだったと言っても過言でない。そのことを象徴するエピソードが3つある。
* * *
先ずは最初の配属先城北支店時代。当時損保会社は契約高のシェア競争をしていた。そのために、各社とも増収のための施策を次々に繰り出していた時期だ。
代理店をメイン・チャネルとする東都損保は、代理店の数を増やすことが最大の増収施策だった。優秀代理店を効率良く、且つ、数多く作るにはそれまでのやり方を変えて、代理店研修生制度というものをスタートさせた。
金がなく、学歴もない人でも、在庫を持たず、貸し倒れリスクもない保険代理店事業を、3年間保障付きで、社員としてやれるのだ。橘は、新しい仕事を探している若い人が一生の生業にするには持って来いの良い制度だと確信した。
そして、自分が見出した代理店候補者達と一緒に汗を流し、彼等を戦力化することに全力を挙げようと考えた。既に大きな規模になっているが成長力では高原状態の横柄な既存代理店ではなく、新しい戦力構築で勝負しようと思ったのは橘ならではなかったか。
橘は営業担当者として全国で一番多い代理店研修生を採用した。若い研修生達は、自分の一生が掛かっているだけに真剣な態度で研修を受け、保険募集活動に当たり、徐々に成果を生み始め、遂には城北支店全体の増収に貢献するに至った。
その頃、会社は土曜半ドンから土曜日は休みに変わった。だが、成果を上げつつあるとは言え、研修生達は3年間の内に(研修損保障期間)食べて行けるだけの契約募集を達成しなければ行けない。みんな必死だ。彼等は土曜日を休んでいられる身分ではないのだ。橘は、自分がこの世界に誘い込んだ責任もあり、土曜日も出社日と決め、彼等の相談に乗り、一緒に顧客への提案内容を固めたりもした。
彼等が支店の一大戦力となって行くに連れ、既存代理店達も刺激を受け、支店全体が活性化して行った。この代理店研修生制度を打ち出した本社の所管部門も、この城北支店の取り組みを大変好ましい事例として、全社に紹介するなど広報したこともあって、当時、橘は平社員ながら「時の人」となったのだった。
既存代理店頼りでは、支店全体の成長力にならないことを見抜き、新興勢力を作り彼等と一緒に顧客に向かって汗を流した橘を一躍有名にした最初の業績だった。
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≪高村比呂希 著≫
京都に戻った橘は、立川での藤本と早乙女恭子の2つの残像から、それまで読みたいとも思わなかったマルクスやレーニンの本を読み漁るようになって行った。
何故彼等は他を全て捨ててまで、あのように己の信念に忠実に生きることが出来るのか、その秘密を探ろうとしたのかも知れない。自分に足りないものを埋めようとしたのかも知れない。
だが、マルクスの本質は理解出来ないまま、心情的左派の色合いだけが強まって行く。期を同じくして、学内も70年安保を控えて、いわゆる一般学生をも巻き込みつつ益々左傾化を強めつつあった。
大学3年生になった橘は、新聞部の執行部内で重要ポストの1つである、報道局長に選ばれた。未消化ながら「マルクス主義」の論調を張り、「唯物史観」を語る橘譲二を執行部の先輩達が選んだのだ。
このことが、後に橘を大いに悩ますことになる。
その年の秋、関西学院大の学内は学生ストライキに突入して行く。新聞部の執行部にも学生自治会のメンバーを兼ねている者が多いので、当然、この闘争には新聞部が挙って闘争委員会を支援すべきであるとの意見誘導がなされる。
だが、橘は、報道局(学内新聞の取材記者グループ)のメンバーを、指示や命令で闘争委員会本部の支援要員にすることは出来ない。それは、理論上、留年や就職放棄を覚悟することであり、そんな重い決断をメンバーに迫る権限や義務を、学生である1報道局長が持っている筈はないと思った。
橘は執行部の面々を前に、
「闘争委員会本部に行くかどうかは、自分のところは、メンバーの自主判断としたい」
と発言した。この発言を巡って、橘が予想した通り会議は荒れに荒れた。
「ことここに及んでまで、橘は軟弱に過ぎるのではないか」
「橘が日頃唱えていることと、いざとなった時の行動が違い過ぎる」
「新聞部は学内のオピニオン・リーダーであるべきだ。それは、今回のストに際しては先頭に立つということだ。橘にその認識があるのか」
「そういう重要な場面で自主判断とは日和見と言われても仕方ないのではないか」
先輩達の糾弾は留まる所を知らない激しさだった。橘はそれにじっと耐え、最後にこう言った。
「闘争委員会の本部に入るかどうかというのは、自分の将来を決めてしまうかもしれない大きな決断となる。それを誰かが勝手に決めることなんて絶対に許されない。自分自身で重大な覚悟を持って決めること以外ない。私は当然のことを言っているのであって、日和見などでは決してない」
「じゃぁ、橘自身はどうすんだ?」
「勿論私は参加する」
「分かった」
こんな遣り取りでその場は何とか収まった。橘自身の参加は、40年経った今でも、未だに本心だったかどうか不明なのだ。行き掛かり上、その場を収めるにはそう言うしかなかったとも言えるし、自分の信条に忠実に言ったとも言えるからだ。
1969年(昭和44年)、70年安保改定阻止に向けて、学生運動は大きな転換期を迎えていた。
全国殆どの大学は機能麻痺状態となり、「東大安田講堂事件」と同様の学生による学内籠城事件は、全国で同時発生的に展開されて行った。
東大安田講堂事件の陰に隠れて全国版のニュースにはならなかったが、橘のいた関西学院大も同じようにかなり過激だった。
今思えば、1970年を目前にして、学生運動の鎮圧に乗り出した大きな国家権力の前に、一般学生を巻き込んだ大衆運動の限界に来ていた。
安田講堂陥落のその同じ日に、関西学院大にも、機動隊がロックアウト解除のために入って来ることが知らされた。筋金入りの活動家と、心情左派的一般学生によって、機動隊乱入阻止の闘いが始まる。
徹夜で座り込む2千人程度の一般学生と、徹底抗戦の準備のため、コンクリートなどを持ち込んで籠城を準備する活動家達。橘にとっても「人生最大の決断」の時であった。闘争本部の支援要員としては、間違いなく刑務所送りを覚悟し、家族も、友達も全てを捨てて籠城側(活動家の役割)に回らざるを得ない。
その時、闘争委員会の活動家に橘を含めた十数名が呼び出された。
「君達には、これから一般学生を無事学外に脱出させる任務を負って貰う」
と告げられた。
「これは、闘争委員会としての指令である」
と言う。
本来命令される理由(いわれ)は何もないのだが、その口調から、橘たちの揺れる気持ちを既に見透かしていたものと思われる柔らかいものだった。脱出経路を示される中で、橘は心からホッとしたのを覚えている。
進路は体育会系の猛者達に塞がれていたが、その使命感からと言うより、籠城戦から逃れられたという恐怖心からの開放感は、いとも簡単に彼等のピケを打ち破り、安全地帯までみんなを誘導することが出来たのだった。
解散後、橘は、そのまま友人の下宿に辿り着くやいなや、疲れと興奮の中、濡れ雑巾のように深い眠りに落ちて行った。
10時間以上も眠っただろうか。翌日、転がり込んだ下宿の友人が教えてくれた。関西学院大の籠城戦は安田講堂よりも激しく、陥落までに6時間以上も要した後、籠城者全員が逮捕されたと言う。橘の友人達は、中にいる筈の橘を追い駆けて、そのまま拘留先の警察まで釈放を求めに行ってくれたとのことである。
ふと、阪大の籠城戦はどうだったのだろう、早乙女恭子は活動家として逮捕されてしまったのだろうかと思った。そして、もしそうなら、籠城戦から逃げ出した負い目も加わって、己の中途半端さ加減に今更ながら落ち込む思いであった。
学内は何事もなかったが如く平和が戻り、大衆に裏切られた形の活動家は已む無く、より孤立を深め、一気に先鋭化する以外の道を閉ざされて行く。
この日を境にして70年安保闘争と大衆左派運動は転げ落ちるように壊滅に向かう。超過激派を作り出すことによって、労働運動を含め全ての左派運動の論理破綻を演出した「時の権力」のシナリオが、後の高度成長の日本を生み出したと言っても過言でない。
大変な国家戦略であったとも言える。ただ、その後の「よど号事件」「浅間山荘事件」「日本赤軍」など、超過激暴力集団を創出してしまったのは、そのシナリオの副作用だったのだろうか。
大学四年生になった橘は、メンバーが入れ替わって何とか存続した新聞部とも完全に関係を断ち、就職活動とアルバイトの他は、専ら麻雀・パチンコ・競馬に映画と、過去3年間とは全く違った堕落した生活になって行った。それは、過去3年分の遊びを取り戻すかのような集中ぶりで、直ぐにプロ級の腕前になった。
この1年間は、橘にとって、学生運動の中核に近いところで過ごしたにも拘らず、最大の戦いの場面で逃亡したことの心の負い目と、恋人が突然目の前から消えてしまった心の空洞を埋めるために必要な時間であったのかも知れない。
その頃、彼を下宿に訪ねた友人は、以前なら深夜まで、国家権力やアメリカの横暴などをテーマに議論して大いに盛り上がったものなのに、もう橘はその手の話しは一切しなくなり、寧ろ、「俺のギターの弾き語りを聴いてくれ」などと言いながらサイモンとガーファンクルなどを歌うのでとても驚いたと証言する。
橘は、中堅損保の東都損保から内定を貰い、翌1970年(昭和45年)4月、様々な思いを振り切って、サラリーマンとして、これまでとは全く違う人生の第一歩を踏み出したのであった。 ...more»
≪高村比呂希 著≫
翌朝、早乙女恭子が、午後には大阪に戻りたいと言うので2日目も海で遊ぶものとばっかり思っていた橘は、急遽、宿の時刻表を調べて、午後1時に新大阪駅に着くバスがあることが分かり、2人はそれに乗って帰った。
「橘君、海水浴に付き合ってくれてありがとう。絶対に忘れられない旅行になったわ」
「いや、それは俺も同じだよ」
「橘君、これからも新聞部やるつもりなんでしょ?」
「うん、そのつもりだけどね」
「新聞部で頑張ってね。だけど、自治会活動なんかはしない方がいいと思うよ」
「そこまではどうも俺には無理だと思ってる」
「ならいいけど」
これが早乙女恭子との最後の会話となろうとは、この時まだ橘譲二は知る由もなかった。
海水浴から帰って橘は1人下宿の部屋で、ギター片手に「サウンド・オブ・サイレンス」を歌えるように練習に励んでいた。早乙女恭子からは一切連絡がなかった。四日目、橘は恭子に連絡しようといつものように阪大女子寮に電話した。
「はい、清心寮です」
「早乙女恭子さん、お願いします」
「あのう、早乙女さんは先週寮を出られましたが・・・」
「寮を出たというのは、引越ししたということでしょうか?」
「はい、そうです」
「えっ、そ、そうなんですかぁ。引越し先、分かりますか?」
「いいえ」
「先週というのは具体的には何日でした?」
電話の相手は海水浴に行く前日を告げたのだった。
「引越したこと、何故一言も言わないんだ!」
橘は怒りにも似た感情を恭子にぶつけたかった。まっいいや。そのうち連絡して来るだろう、と一旦は矛を収めたのだが、数日後、彼の下宿に早乙女恭子からの手紙が来るに及んで、橘はただならぬ事態を悟らされた。
手紙は淡々と次のように書かれていた。
前略
先日は、突然の提案にも拘わらず、小旅行にお付き合い頂いてありがとうございました。あの日のことは私の一生の思い出にさせて頂きます。
橘さんは、突然私が姿を消したことを怒っていらっしゃるかも知れませんね。でも、私はもうこれ以上橘さんと一緒にいることは許されないので、辛く胸が張り裂ける思いですが貴方と別れることを決意しました。
私は既に、志を共にする同士と行動を共にすることを誓っています。ベトナム戦争反対、米帝打倒、安保条約破棄を勝ち取るために一身を捧げることを選びました。原爆で一瞬のうちにこの世から抹殺されてしまった私の親戚の人々や広島・長崎の人々の無念を思う時、私が何もしないでいる罪悪感は払拭しようがないのです。
橘さんとの幸せな人生を選ぶか、自分の信念に生きるか、悩みに悩み抜きました。はたまた、その両立の道は無いかとも、必死に考えましたが、それは貴方に迷惑が掛かるだけで、下手したら貴方の将来を私が潰すことにもなり兼ねません。
お察しの通り、私は大阪大学全共闘のメンバーの一員として国家権力と戦う道を選びました。これからは、彼等と四六時中行動を共にするつもりです。
橘さんには心から感謝しております。私の青春をかけがえのないものにしてくださいました。しかし、もうこれ以上貴方に甘える訳には行きません。
このような手紙で一方的にお別れを言う私をどうかお許し下さい。そして、私をどうかお忘れ下さい。私をどうか探さないで下さい。
草々
橘譲二様
早乙女恭子
橘は金鎚で脳を叩かれた程のショックを受けた。自分の前から彼女が去って行くなどと考えたこともないことが突然起きたのだ。信じられない。もう一度読み返してみても、本当に恭子が書いたのかと疑いすらした。
そして、彼女の言葉に間違いないと認めざるを得なくなった時、悔しさが湧き上がった。
新聞部の記者として一般学生より何倍も問題意識を持って活動して来た自負はあるものの、関学学生自治会のプロ活動家達には大きな距離感を感じ、橘自身、自分の優柔不断さをよくわきまえており、彼等のようにある覚悟に基く信念と行動の一致は、自分には到底無理だと思っていたからだ。
なのに自分の恋人がそういう覚悟の出来る人間だったのを知り、橘は今更ながら自分の小ささをひしひしと感じていた。もう一人の自分が橘を責める。
「橘、お前はそれでも男か! 彼女の方がよっぽど潔いしその決断は男らしい」
不覚にも橘の目には涙が溢れ、手紙の上に落ちた。
「このまま、俺は本当に恭子を失ってしまうのか」
現実感がなかった。そう簡単にこの現実を受け止められる筈もなかった。
その後、橘は阪大の学生課に行って高校の同級生と告げて、早乙女恭子の現住所を聞き出したりもした。だが、その住所は神戸市の実家になっていた。万が一にも、本当に実家から通っているということはないだろうかと祈るような気持ちで、だが反対に実家に戻っている筈がないことを分かっていながらも、橘はその足で神戸の実家に帰り、翌日早乙女の実家を訪ねてみた。
母親が応対してくれた。
「あら、橘さん。いつも恭子がお世話になっています。珍しいですね、橘さんが訪ねてくれるなんて」
「久し振りに実家に帰ったので寄ってみました。もしかして恭子さんも実家に帰っているかなと思いまして」
「7月に一度戻って来たけど、夏休みは帰れないって言っておりましたねぇ」
「あっ、そうですか。じゃぁ、向こうに帰ってから彼女に連絡してみます。お邪魔しました」
恭子の家族もまだ彼女の行動を全く掴んでいないようだ。
暫くして彼女の母親が、娘と連絡が付かなくなったと橘を下宿に訪ねて来たことがあったが、橘は恭子から来た自分宛の最後の手紙を母親に見せてやることしか出来なかった。
* * *
しかし、一瞬だけ橘が早乙女恭子を目撃したことがあった。それは、ある日関西学院大新聞部記者として京都市で行われた大規模なベトナム反戦街頭デモの取材中に、東京で大規模な反戦デモが予定されており、全国の大学にデモ参加が呼び掛けられているというものだった。
それは、学生達が主催する立川米軍基地に近い砂川での全国規模の決起集会のようだ。
橘は、新聞部同学年で報道カメラマン志望の宮本という男と2人で新幹線に飛び乗り、早速東京に向かった。
彼等は東京駅に着くと休む間もなく中央線に飛び乗って国鉄立川駅に向かった。最初の取材は立川駅に集ってくる学生活動家達の大学名とその人数を出来るだけ沢山聞き出すことだ。立川駅に降り立つと既に大勢の若者がヘルメットを手に集って来ていた。橘は早速取材を始めた。
「どちらから来ましたか?」
「神奈川」
「大学はどちらですか?」
「横国」
「何人くらいが横国から来ていますか」
「ざっと50人と言ったところかな」
こんな調子で、橘は次々に聞いて行った。学生達が駅前の広場に無統制に思えるように屯しているのは、どうやら立川駅前を各大学の集合場所にしているかららしい。また、新手の一団が駅から吐き出されて来た。大阪弁の集団だ。
橘はその中に早乙女恭子に良く似た女性を認めた。そして橘は彼女に釘付けになった。恭子に間違いない。彼女は仲間と話しながら橘の直ぐ近くまでやって来たので、まだ橘の存在に気が付いていない。橘は覚悟を決めた。恭子に質問することにした。
「大阪からですか?」
橘の質問に振り向いた恭子は、大きな目を見張った。かなり驚いているらしく、声が出ない。
「皆さん、大阪から来られたんですよねぇ?」
橘はもう一度恭子に尋ねた。
「いいえ」
これが恭子の答えだった。
「阪大の皆さんじゃないんですか?」
彼は更に畳み掛けた。その時、近くにいた仲間の男子学生が、
「何を聞いてまんのや。いややゆうてるやろ。あっち行けや。オイみんな」
と言うなり、恭子の周りを大勢の男子学生が取り巻き彼女を守るようにして砂川に向かって行った。
橘はずっと恭子を見つめていた。彼女は一度だけ橘を振り返っただけだった。
何故か駅前のどこか近くの店から「サウンド・オブ・サイレンス」が聞こえていた。あの時浜辺で聴いたあの曲が。
こんな所で彼女に会えるとは。凄く驚いたが、再会出来た喜びなど全くなかった。寧ろ、橘は、自分の恋はこれで完全に終わったことを悟った。恭子とのことは過去のことと、心の決着を着ける時だと自分に言い聞かせていた。だから、同行したカメラ担当の宮本が、「お知り合い?」と質問したのも橘の耳には入らなかった。
橘は立川市砂川で行われたこの大規模なベトナム戦争反対のデモを取材する中で、中央のステージで、ある男がリーダーとしてアジテーションを行っている場面を目撃した。橘は演説の中身ではなく、その男の声と姿に魅せられたのだった。
それが、歌手加藤登紀子の旦那になった今は亡き藤本氏であったことを後で知る。
* * * ...more»
≪高村比呂希 著≫
さぁ、文化祭も終わり、3年生はいよいよ受験モードに突入する時期を迎える。だが生来の勉強嫌いの橘はなかなかその気になれない。10月のある日、早乙女恭子はそんな橘を心配した。
「受験、どの大学にするの?」
「まだ何にも考えてないんだ。受験しなくても入れてくれる所どっかないかな?」
「スポーツ推薦というのがあるけど、橘君、野球やめちゃったしねぇ。でもまだ4~5ヶ月あるから、今から頑張れば間に合うわよ」
「受験勉強なんて、やりたくね~なぁ」
「橘君にもあの大学がいいとか、憧れみたいなとこ、全然無い?」
「そりゃあるよ。親父と兄貴が共に関学(関西学院大)を出てるから、俺も入れるならそこに入りたいんだけどな・・・」
「ふ~ん。じゃあ、次の日曜日その大学見に行かない?」、
「え? 君が一緒に行ってくれるの?」
「うん。自分の目で見れば本当に行きたくなって受験勉強頑張れるかもよ。それに・・・、たまにはね、2人で電車のデートもしてみたいじゃん?」
「分かった。じゃそうしよう。ところで君の志望校は決ってんの?」
「一応はね」
「どこ?」
「言って落っこちちゃうと恥ずかしいから言いたくないけど」
「どこ? どこ?」
「橘君だから言っちゃおうかな。大阪大学の法学部か大阪外大」
「へぇ、凄いな。早乙女は勉強出来るからな」
「誰にも言わないで」
「言わない、言わない」
大学なんてあまり興味を持ったことが無く、親父と兄が同じ大学だったから、橘も漠然と関西学院が良いと思っていただけだったが、2人で訪れたその大学の緑と時計台の佇まいは、橘の想像以上に素晴らしい独特の雰囲気があり、彼を魅了して止まなかった。
何としてもここに入りたい。橘が大学に行きたいと本気で思ったのはこの時が生まれて初めてだった。ここを2人で訪れようと提案してくれた彼女に感謝した。
そして、こんな別世界を恭子と2人で散歩出来る幸せを噛み締めていた。行き交う男子学生が自分達2人を注目する視線も気にならなかった。否、正しくはその視線は恭子に集中するのだが、寧ろそれが誇らしかった。
この3年間で、少女から少しずつ大人びた女性へと変わりつつある恭子は、大学生になったらどれだけその美しさと輝きが増すのだろうか? そんな想像をついついしてしまう橘であった。
この時の特別な雰囲気がそうさせたのかどうか、帰り道のとある公園を散歩しながら、早乙女恭子は自分の生い立ちについて、訥々と語り出した。
「実はね、うちの本当の故郷と言うかルーツみたい所は神戸じゃないの。広島なの」
「へぇ。広島生まれか!」
「ううん。生まれは神戸だけどね。両親が2人とも広島市の出身なの。ただ、それは小さい時から聞かされていたから知ってたんだけど」
「・・・」
「3年前の高校受験の手続きの時、分かったことなんだけど、両親は私の生まれる2年前までずっと広島にいたの。だから今も本籍は広島市」
「そう」
「母に聞いたら、仕事の関係で神戸に引っ越したみたい。その後私が生まれたって訳。私ね、小さかった頃、近所の友達にはお爺さんとかお婆さんがいて、沢山の従兄弟もいて、お正月なんか賑やかで、とても羨ましかったの」
「早乙女にはご両親と弟さんがいるじゃないか?」
「そうなの。私にはそれ以外の親戚がいないのよ」
「えっ?」
「私もね、何故なの? ってしつこいくらいに母や父に聞いたんだけど、お前が高校に入ったら教えるって言われてて、高校1年の時遂に父が教えてくれたの・・・。
親戚は原爆でみんな死んじゃったんだって。 唯一父の弟が戦地に行っていて原爆は免れたんだけど、終戦後戦死の報が来て・・・。遠い遠い親戚はいるのかも知れないけど、父方も母方もみんな死んじゃったんだって」
2人は初めて神戸から電車で西宮に来たのだから、もっと浮き浮きして歩いていても不思議はないのに、彼女はこの告白で気が晴れるどころか、益々気持ちが沈んで行くらしく、うつむき加減に歩いている。橘譲二は何か言わなければと思いながら、どう慰めてよいか分からない。
吐いた言葉は、
「原爆かぁ。酷いもんだね。中学の時、学校で広島に行って平和記念館を見たけど、ぞっとしたのを覚えてる」
だった。
「橘君には内緒で、去年私もそこに行って来たの。展示されていた写真、死体もあれば、全身火傷を負ってベッドで寝かされている人もいる。爪がただれている手だとか、もう見てられなかった。全部私の親戚の人に思えちゃって・・・」
「1人で行ったんだね?」
「うん、ゴメンね。私ね、思ったの。そういう写真を見ながら、もしかしたらあれは父や母だったのかもって。そうだったら私は生まれて来ていない筈だし、こうして橘君とも会えなかったなって。両親が神戸に越したのは原爆の半年前だったんだもの。」
橘は何故か急に彼女が愛おしくなった。彼女に巡り会えた奇跡を感じた。運命を感じたのかも知れない。
橘は立ち止まり、彼女の正面から自分の両手を彼女の両肩に乗せ、瞳を見つめた。
恭子も彼の意図が分かったのか、そっと目を閉じた。高鳴る鼓動に息苦しさを覚えながらも、橘は勇気を奮い立たせるように彼女の唇に口づけしたのだった。
恭子はそのまま橘の懐深く抱かれて行った。橘にとってこれが初めての口付けだった。2人は暫くそのままの姿勢でいたが、やがて恭子の嗚咽が洩れた。
橘は「この娘(こ)は必ず俺が守る」本気でそう誓った。高校3年の秋だった。
* * *
この関西学院大訪問以降、橘譲二は人が変わったように受験勉強に打ち込み、念願どおり関西学院大学商学部に合格、入学した。
橘は神戸の家から通えば通えるが、一旦親元を離れ西宮市内に下宿することを選んだ。早乙女恭子も阪大法学部に見事受かり、希望通り進学した。そして、心配する両親を説き伏せて大阪市内の大学の女子寮に入った。
2人の距離は少し離れたが高校時代と違って時間は有り余るくらいに出来たから何の問題もなかった。大学1年の内は毎週必ず会って、大阪や、たまに京都まで足を伸ばしたりして、様々な場所でデートを楽しんだものだ。
橘がサークルとして選んだのは「関西学院大新聞」総部だった。関西でも伝統あるクラブだ。親父も兄も、かってはそこに所属していた。先輩たちには大手新聞社の社長以下錚々たるジャーナリストがいる。
彼は希望して、いわゆる「報道部」を担当することになった。時あたかも「授業料値上げ反対」の運動が、急速に全学を包むように広がって行った時期だ。「報道部」は、そういう運動の主催者を掴まえて話を聞いたり、大学側の窓口に取材したりするのだ。
それを記事にすることが役割だから、学内に限られるものの、行動は一般紙のそれと異なるところがない。勿論、運動部のいろいろなリーグ戦での戦いや、絵画部やオーケストラの展示会・演奏会などにも顔を出して、記事にする。
しかし、すぐに紙面の半分は当時の全国各地での学園紛争や世論の安保反対記事で占められるようになる。
終章につながるこの物語の原点はこの大学時代の「報道部」の活動にあることを記しておこう。
恭子の方は女子寮に自治会があり、その会計係をやらされていると言うが、当時の国立大学の寮の自治会は、学生運動の拠点だったりするのだが、さすがに女子寮はそういうことはないと恭子は言う。
ところが、いつものデートのある日、恭子が橘に、
「アメリカは一体アジアをどう思ってるのだろう?」ときつい調子で橘に疑問を投げ掛けたことがあった。
「どういう意味?」
橘は聞き返した。
「ベトナムであんな激しい無差別攻撃を平気で行うアメリカの神経が分からないの」
早乙女恭子の言う無差別攻撃とは、アメリカ軍による北ベトナム絨毯爆撃(北爆)のことだ。ジョンソン大統領の米国は、ベトナムがソ連の陣営に組み込まれてしまえば、周辺アジアはドミノ倒しのように次々とソ連化してしまうという「ドミノ理論」で危機を煽り、ベトナムを死守する名目で戦渦を拡大する米国に対して、国際的非難の高まりが見られた時期である。
「君の親戚が原爆で一瞬のうちに消えてしまったのだから、君のアンチ・アメリカは良く理解出来るよ」
「そんなことじゃないの。日本に平気で原爆を落とせたり、北ベトナムを平気で絨毯爆撃出来るアメリカは、アジア人を同じ人間とは思ってないんじゃじゃないかしら」
「確かに。人種差別の要素もあるかもねぇ」
「日本も戦前にはとても酷いことしたけど、今この瞬間、これほど酷いことしてるのは世界中でアメリカだけでしょ。なのに何故、日本政府はアメリカに何も言えないの? 何故、国民は見て見ぬふりするの?」
ベトナムの模様は毎日のようにニュースで報じられていたが、この日本でベトナム戦争反対の街頭デモが起きたという話は聞いたことがないと橘は思った。大学新聞の記者としては「授業料値上げ反対」というレベルの運動を取材している程度で、日本の政治や世界政治への問題意識での新聞作りは「まだこれからかな」と早乙女恭子の指摘に頷かざるを得なかった。
2人は大学2年になった。お互い以前ほど時間が取れなくなり、デートの頻度は減って行った。
あちこちの大学で紛争が頻発し、学内も騒然とした感じになって行く。学生運動も、それまでの学生自治会内で新しい勢力が台頭し「全学連」は遥か昔に死語になり「全共闘」が勢いを増して行く。学生も盛んに街に出てデモを繰り広げるようになって行った。
この頃になると、学内新聞の論調も客観的立場の取材記事というよりも、打倒米帝国主義、ベトナム戦争反対、日米安保条約破棄の論説が紙面を覆うようになる。
橘の所属する新聞部の編集会議は毎日のように開かれ、3・4年生の先輩部員達が長時間議論を戦わせる世界政治討論会の趣になって行く。学内新聞は、この路線を一気に強め、全学の先頭に立つべきだという急進派と、学内世論の両方を客観的に伝える従来路線で行くべきだという穏健派に分かれて連日論争が繰り返された。
2年生の橘にはまだこの論争に口を挟むだけの考えが纏まっていないこともあり、専ら彼等の遣り取りを聞いている他なかった。だが、橘は恋人の早乙女恭子の影響もあり、心情的には急進派の言うことにより頷ける部分が多いと感じてはいた。
原爆で一瞬の内にこの地上から消されてしまった早乙女恭子の親族の無念や、同じように今、ベトナムで一般人が大勢殺されている事実を思い、橘の心も奥は「反米」となって行ったのである。
そして、橘と同じように、1・2生の新聞部員達の多くも急進派支持に傾いて行き、ある日、穏健派の先輩達は全員が席を蹴るようにして退室して行ったのだった。遂に2派による闘争に決着が着いたのである。
それ以降の大学新聞は、正にアジテーション一色の、学内闘争を指揮する学生自治会の機関紙、乃至、宣伝ビラ・アジビラに化して行った。それに嫌気して辞めて行く橘の同級生や後輩も数多く出たが、橘は、徐々に戦闘集団化して行く新聞部の執行部にある種の危険を感じ取りながら、更に、自分は決して執行部の人達のようには過激になれないことを自覚しながらも、退部しようとはしなかった。
自らの「日本はアメリカと手を結ぶべきでない」という考えに忠実であろうとしていたのかも知れない。
* * *
大学2年生の夏。久し振りに会った早乙女恭子は、橘譲二に一泊二日で海水浴に行くことを提案した。
橘は戸惑った。2人はまだキスをする以上の行為には発展していない。それが2人で泊り込みの小旅行などして良いものかどうか。それを見透かしたように恭子は橘に言った。
「勿論、部屋は別々に取ってね。それに民宿だったら学生も大勢泊まってるから変な目で見られないし」
「あ、あ、そうだよな。よし行こう」
その翌週、橘は丁度アルバイトで入ったお金を全額持って、恭子と共に大阪からバスに飛び乗り、2時間強を掛けて日本海側の野田海水浴場に着いた。観光案内によればこの辺りはリアス式海岸で、入江は変化に富んだ風景が一番の特色だという。海水浴シーズン以外の時は人も疎らな漁村ではないかと思われるが、今は8月初め、あちこち大勢の海水浴客で賑わっている。
予約しておいた民宿は、海に面した道路沿いの売店や小さな旅館などの家屋が立ち並ぶ一帯のはずれにあった。
橘は今日からの2日間は、大学の紛争のことも新聞部のことも全て忘れて、早乙女恭子と一緒に海水浴場にいられることをとことん楽しもうと考えていた。
通された部屋は海が正面に広がる絶景の部屋だ。並びの2部屋が橘達に当てがわれた。民宿のおかみさんが言うには、今日は天気が良いので海に沈んで行く綺麗な日没が見られるそうだ。
今、午後2時だ。2人は早速水着に着替えて海に繰り出した。浜辺の海の家からは大きなボリュームで「サウンド・オブ・サイレンス」が流れている。サイモンとガーファンクルが歌う、映画「卒業」のテーマ曲。橘の大好きな曲だった。
考えてみれば、水着姿で2人でデートするなんてこと今まで一度もなかったし、高校時代の体育の時間でも、夏の水泳教室は男女別々の授業だったから、橘が早乙女恭子の水着姿を見るのはこれが初めて。彼女のビキニに近いツーピースの水着と顕わになった曲線美。眩しい。
橘はこの時、妙に恭子を女として意識した。それはそうだ。橘も恭子も共に20歳の夏を迎えていたのだから。
民宿から借りた浮き輪とマットで、2人は波と戯れた。周囲にも大勢の人々が歓声を上げながら泳いでいるが、橘は彼女と手を繋いで波に揺れながら、2人だけの世界になって行くのを感じる。ベトナム戦争も、日米安保条約も、今は遥か遠くの世界のことのように思えた。このまま2人だけの時間が永遠に続けばいいと本心で思った。
ふと、恭子も同じように思ってるだろうか、と橘はそれを確認したい衝動に駆られたが、焼けるような太陽の下ではそんな会話は相応しくないと思い直した。夕方にでもなったら、自分の今の気持ちを伝え、恭子の気持ちを聞いてみようと。
宿に戻り、シャワーを浴び、1階の食堂で他の宿泊客と一緒の夕食となった。
食堂に行ってみると、家族連れが2組、男女の大学生と思われるグループが2組、橘達と同じような若いカップル3組が既に食事をしていた。どうやら一番最後に橘達がテーブルに着いたようだった。民宿のおかみさんによればこれで満室なのだそうだ。宿のご主人がその日に獲った魚を大きな皿に刺身として出してくれる。煮魚もある。兎に角新鮮で美味しい。
そう言えば、民宿の料理は安くて美味しいのだと誰かが言っていたっけ。本当だ。食事が終わると家族連れやカップルは部屋に引き上げて行くが、大学生のグループはどちらも食堂に残り、飲み会を続けるようだ。言葉や話の内容から、大阪の大学生と名古屋の大学生のグループのようだが、既に両者の交流が始まっている。
橘と恭子は、彼等を残して部屋に戻った。時刻は午後6時40分前後だった。おかみさんが事前に「日没は午後7時ぐらい。浜辺や自分の部屋から見ると良い」と教えてくれていたから、他の人達も早めに食事を終えて戻って行ったのだろう。
2人は橘の部屋から日没を拝むことにした。既に太陽は西の水平線の直ぐ上にあり、その辺りから手前まで、太陽が波に反射して、キラキラした光の帯がこちらに向かって伸びている。
黄金の輝きとは正にこのこと。昼間真上にあった太陽は白色だったが、今はその時より大きく赤い。いよいよ太陽の下弦が水平線と接触する。波の音以外何も聞こえず、海は赤に近い金色。幻想的だ。
橘も恭子もじっと見入っていた。太陽は僅かに残す上弦を海に沈めることを躊躇するかのように、最後に強い輝きを放った瞬間、視界から消えて行った。
橘は我に返って恭子を見た。恭子はそれより前から、ずっと橘を見つめていたようなのだ。
言葉は要らなかった。
2人は立ったままきつく抱きしめ合った。恭子は橘の胸の中で、小さな声で呟いた。
「このまま橘君と2人だけでいたい」
「俺もだよ」
橘が確認するまでもなかった。恭子も同じ気持ちだったのだ。橘は胸が一杯になった。
だが同時に、恭子が急に海水浴に行こうと言い出した時の唐突感が、今また「何故?」という疑問形で頭をもたげようとしていたが、「いや、今この瞬間が大切なんだ。理由なんかいらない」と思い直し、疑問を無理やり頭の片隅に押し込めた。
辺りは夜の帳が降り始めていた。静かだ。海は既に煌めきを止め、黒い海に変わりつつある。空は西の方が僅かに赤く残照に染まっているだけで他は暗くなり始めていた。
橘は無性に彼女の唇を求めた。彼女も素直に応じたのだった。橘は昼間見た恭子の水着姿が脳裏に蘇えり、もう我慢が出来なくなって、恭子を畳に押し倒そうとした。
だが、
「待って」
と恭子が言う。仕方なく橘は両手を離した。
「布団を敷くから橘君は、外を見てて」
言うが早いか押入れの襖を開けて、布団を取り出そうとする。
「いいよ、俺がやるから」
「いやよ。橘君は海を見てて!」
「分かった、分かった」
橘は心臓の鼓動の音が一段と大きくなるのを感じながら窓の外を見ていた。背後では彼女が布団を敷く音がする。ファスナーの音がする。布が擦れ合う音がする。
「もういいよ」
恭子の声。橘は振り向いたが部屋の中は真っ暗だ。それでも恭子が布団に仰向けに寝ているのは分かる。
「恭子!」
彼も隣に横になり彼女を抱きしめた。彼女は身に何も着けていなかった。橘も大慌てで着ていたものを全て脱ぎ捨てた。
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