(1-1 ある会談)
2005年ゴ5月の夕刻。橘譲二は六本木の裏通りにある創作料理屋「ひさご」の一室で、金子順と共にある人物の到着を待っていた。橘57歳。金子38歳。
2人が雑談しながら待っている人物とは、金融庁官僚の阿久津紀夫(43歳)のことだ。阿久津は、庁内のエース級と目されるキャリア課長で、金子が主催するプライベート勉強会の仲間でもある。彼は、「保険業法の改定法案」を閣議決定まで持ち込み、その頃、やっと一息ついた状態であった。金子の気配りで、その保険業法改定に興味を持つ橘に、阿久津を引き合わせようとセッティングされた会談がもう直ぐ始まる。
通常、1つの法案制定作業は、例えそれが小さな改定であっても、優秀なキャリア官僚達が3ヶ月以上の徹夜作業で、関連法との調整、チェック、関係各省や与野党との政治的根回しを経て、漸く成案化される。
当然、霞ヶ関にタクシーが連夜並ぶことになるのは致し方ない。彼らには労働基準法の適用はなく、勿論残業代など、昨今の官に向けられてきている集中砲火の中では、申告出来る筈もない。
彼らがホッと出来る唯一の場所と時間は、ヒョッとしたら深夜の帰宅タクシーの中だけなのかも知れない。
橘は、その前年、ある後悔の念を持ちつつも、ある損害保険会社を突然辞めた。中堅損保2社が合併して業界4位となり、大手社の仲間入りを果たした後、様々な統合作業も一段落して、さあこれから攻勢に転じようという会社にとって極めて重要な時期であったにも拘らず、いわば勝手な我が儘で常務職を投げ打ったのだった。
金子順は、橘譲二が育てた保険代理店であり、保険屋としては珍しい早大理工学部出の、専業の生損保兼営代理店として大成功した人物だった。自他共に認めるプロ中のプロ代理店と目された人物である。現在は、保険代理店を経営する傍ら、あるIT企業の役員にも就任している。二人の興味と関心は、阿久津紀夫が起案したと言われる「百年の歴史を持つ保険業法の改定について」であった。
改定の目的が「少額短期保険事業者の特例」という保険業法により、「簡易保険事業の設立が可能になる」との情報が2人にもたらされ、そこに興味をそそられていたのだ。
長年、損保会社の役員として金融庁所管のこの法律に悩まされた橘には、この法改正が事実であれば、過去の保険業法改定の慎重過ぎる改定に比べ、あまりにも性急で乱暴ではないかとの想いがある。しかしその一方では、「この改定には大きなビジネス・ヒントが含まれているのではないか」との漠然たる期待もあった。
橘が今回、阿久津に是非会ってみたいと思ったのには幾つか理由がある。長い間、損保業界に籍を置いて来た身にとって、雲上人である監督官庁のキャリア官僚と会える機会はめったにないことなので、彼らは一体どんな人種なのか、彼らの思考スタイルはどういうものなのか、是非話をしてみたいという興味があった。
加えて、損保の常識からすれば、果たして、少額短期保険事業という簡易な保険会社などに、大きなコスト負担を伴う「事務」や「システム」、「不正契約の排除」や「消費者保護」のための様々な対応など、果たして可能だろうか。
実は、発表の事実以外に隠された当局の思惑があるのではなかろうか、などなど、俄か勉強とはいえ様々な疑問符が浮かぶのである。
橘は、金子から阿久津との会談を打診された時、一も二もなく即座にセッティングを頼んだ。
* * *
「いやー、遅くなってスイマセン。役所の会議が長引いてしまいまして」
と言いながら阿久津が現れた。
遅れたとは言うが、実際はたかだか7~8分の遅刻なのだが、2人に詫びる彼の態度に、橘は好印象を持った。
しかしながら、名刺交換、お互いの自己紹介、乾杯などを行なったものの、なかなか会話は打ち解けない。金子からの事前のアポイントの時も、橘が元保険会社の役員だと言うことへの多少の警戒心が働いていたのであろう。阿久津からは
「安い店で割り勘なら・・・」
とわざわざ念押しされていたくらいだ。
今日の食事会は、勿論プライベートという建前であり、割り勘で3千円見当の約束だった。そうは言っても、橘は大手損保会社を前年に退職したばかりで、金融庁のキャリア課長と対等の会食など到底考えられなかった。まして、プライベートと断っていてもこちらから呼び掛けた初対面の会談である。
橘は「ひさご」に対して事前に根回しをしていた。実際には料理は1人1万2千円だが、伝票には3人分で1万2千円と書いて持って来るようお願いしておいた。
なかなか会話が弾まないのは、熱心に橘を引き合わせたがっている友人の金子の願いを受け入れはしたものの、阿久津にとって、この会談の目的がいま一つ分かっていないこともあるかも知れない。
或いは、橘には阿久津に幾つか聞いてみたいことがあるのだが、それよりも、この会談が阿久津にとっても有意義なものになるために、損保第一線の長い経験から、彼の職務に役立つ何らかのアドバイスを送れないものかと、妙に肩に力が入っていたからかも知れない。会談の成り行きは全く分からなかった。
3千円の割り勘の店にしては、豪華過ぎる料理が運ばれて来た時、阿久津にそれを覚られないようにと、橘は熱を込めて話し出した。
「ところで阿久津さん。少額短期保険事業の認可は、無認可共済を厳格に審査の上、金融庁の行政下に収めることになると思うのですが、その無認可共済とやらは一体どれほどの数があり、どれほどの数が認可出来るものとお考えですか?」
「さあ。無認可共済だということは把握困難ということもありますから、正確に把握はしていませんが、電話帳あたりから類推してみたところでは7~8百程度でしょうか?」
阿久津の答えに橘は戸惑った。どんなに低く見積もっても一万近くはある筈だ。大きな認識の誤りだ。一桁違う認識に対してどう答えたものか。仕方ない。直截的に言ってしまおうと彼は決めた。
「阿久津さん、その認識では、おそらく金融庁は問い合わせ業務だけで麻痺してしまいますよ」
「そうですかね。悪質業者を排除する狙いからすれば、そう心配することも無いでしょう」
阿久津は橘の指摘に驚きもせず、あっけらかんと答えた上でこう言った。
「まず、少額短期保険事業者の登録を希望する共済は、全て特定保険事業者として受け付けて、こちらの管理下に置くつもりです。悪質業者は、その時点で自動的に排除されるでしょうから、この法律の狙いは生きる筈ですよ。どれくらいの数の業者が登録してきますかねぇ。いずれにしてもそれからですよ、正式認可される保険事業者の数の想定は」
なるほど、一理あるけど本当に数少ない金融庁職員で、混乱せずに進むのかな? 橘はその懸念を簡単に肩透かしされたと思いつつ、2つ目の疑問をぶつけてみることにした。
「少額で短期な保険に限るということのようですが、これを法整備で縛るといことは、被保険者1人当たりの加入限度額を常に管理しておくということですよね? 私の経験からして、今の保険業界でもコンピューターによる契約管理は出来ていても、事務面・コスト面から顧客管理はなかなか出来ないでいるようです。それが、売り上げ制限があり、且つ1千万円の資本金でも可能な保険会社に、果たして、コンピューター・システムの構築維持が可能でしょうか?」
橘は現役時代の後半に、金融再編の大波の中、合併実務を経験している。彼は合併作業の中でも、最も厄介とされるシステム統合を担当したのだ。相前後して、他の金融機関でも合併が相次いだが、旨くシステム統合が合併効果を生んだ事例は少ない。だが橘は、これこそが会社合併の意味を生み出す究極の仕事と意気に感じ、チャレンジし、見事に失敗した悪夢のような経験を持っていた。
その後、両社システムの暫定的な接合手術により、並存連結型システムとして稼動しているが、5年経過しても本格統合システムは実現していない。その大きな原因がコンピューター・システムの膨大な構築・維持コストであることを、橘は深く理解していた。
阿久津はこの指摘には大きく反応した。金融庁としては、コンプライアンス違反を取り締まる必要性を重々承知しているからだ。良い指摘を貰ったとでもいうように、阿久津は笑顔で答えた。
「顧客管理なくして、少額短期保険の法の精神は崩れます。当然システム対応は標準装備ということになりますね。通達で顧客管理とシステム装備を促しておきましょう」
橘はこの回答に不満だった。通達を出せば済むという話ではない。システム装備が不可欠だとすれば、売上高が制限されている少額短期保険会社には、小さい利益の中からそのコストを負担するのはとても無理ではないか? だとすれば、今回の保険業法の改定は、無認可共済を全部廃業させるためだけのもので、一つも新しい保険会社を作らせない法律だということになる。
「阿久津さん、売り上げは50億に制限されてますよね。資本金は1千万以上であれば良いんでしたねぇ。システム構築には一体幾ら位費用が掛かると思われますか? 私は以前システムを担当したことがあるのですが、膨大なランニング・コストが掛かる上に、更に費用を掛けて顧客管理システムを構築することは叶わず、大変苦労した経験があるのですが・・・」
阿久津が憮然とした表情に変わったのを察して、突然、金子順が会話に割って入った。
「ところで阿久津さん、この法律の狙いは、無認可で消費者への詐欺まがいの業者を取り締まるためでしたよね。善意の無認可共済であれば、保険事業認可は許容することになりますか?」
一見、大きく話題が変わってしまったかのように見えたが、阿久津は、橘が一番聞きたかったことを簡単明瞭に答えた。
「いえ、立法のスタンスに合わないものは認可しない訳ですから、結果認可すべき事業者が出なくても、それはそれで法の趣旨は生きるんですよ。要は無認可共済というジャンルの事業が無くなれば、この法律の趣旨は生きることになります」
さすが、キャリア官僚の自信に満ちた答えは明快であった。法律によって金融庁が無認可共済という、一万もの事業者が存在する事業ジャンルを統括することによって、この新しい分野の官僚支配が完成して行くのだ。その結果、認可される事業者が仮にゼロであったとしても、不法業者を締め出すことが出来るのだから、有意義な法改定だと阿久津は胸を張る。
「その際、善意の無認可共済の顧客はどうなりますかね?」
金子は心持ち小声で訊ねた。
「金子さん、消費者保護は結果なのです。行政マンは必要だと思われる法律を起案し、上程すればいいのですよ。現にこの法律による保険事業は、経営責任と消費者責任を前提としており、保険業法上の保護機構(セーフティー・ネット)は存在しないんですよ。顧客はそのことを承知して、この保険に入ることが原則なのです。ついでに言えば、正式には金融庁認可ではなく、届出制という行政手続きなのです」
2時間があっという間に経過していた。実に真剣な議論になった。脱線する余裕もなく、阿久津紀夫の束の間の安らぎには程遠い「仕事」そのものになってしまったかも知れない。
仲居が請求書を持って来た。予定通り、そこには1万2千円と記入されていた。金子はその請求書を二人に確認させた。
「すいません。4千円通しになってしまいましたけど、いいですか?」
「いいですよ。案外リーズナブルな値段ですね」と阿久津が言う。
「またいつかやりましょう」。
橘が応じる。
3人は一緒に店の外に出た。阿久津は直ぐにタクシーを止め、「それでは失礼します」と言って乗り込んで行った。そのタクシーが視界から消えたのを確認して、金子は「ひさご」にとって帰し、残金の2万4千円を届けてから、橘が一足先に行っている「アマンド」に向かった。
* * *
俄か反省会となった。
「いやぁたいしたもんよ。あれが行政にいながら立法を司る官僚の精神だな」
と、橘は感想を口にした。
「でも、消費者無視も甚だしいと言えませんかね?」。
金子は少々不満そうであったが、兎に角も最後は円満に別れられてホッとしている風だった。
「いや、あれでいいんだよ。きっとあの法律は生きるだろう。でも認可を得られる事業者はほんの一握りとなるんだろうけど、世に無認可共済という事業者が消えることだけは間違いなさそうだね。結果、彼が言ってるように、長い目で見れば消費者は守られて行くんだろうし・・・」
「彼、最後に言ってましたけど、他の部門への異動が決まってたんですね。あの法案は完全に彼の手から離れたってことですよね? だからあそこまで踏み込んで僕らに話してくれたんですかね?」
「そうかも知れんね。先方さんはどうか分からないけど、こっちは凄く面白かったよ。こういう機会を作ってくれてありがとう」
「いえ。ところで、阿久津さんの異動先の検査部門って、金融庁の中ではどういう力関係なんですか?」
「それは分からないけど、金融機関からすれば泣く子も黙る金融庁検査部というからね。金融機関に何か問題があればどういう指導や措置を示達するか、それを決するところだから、相当な権限を持つ強面の部署だよ。阿久津さんはやっぱり金融庁のエースなんだろうね」

