JAZZYな生活

プレミアムエイジ ジョインブログ

ジャズ的トリビア(8)  ~ Yes We Can ~

TAGS: None

オバマ氏が、1月20日アメリカ合衆国第44代大統領に就任した。政治的、社会的意義付けなどは各種メディアにまかせて、トリビア的側面からあつめた、話題を紹介しておきましょう。

選挙中から多くのアーティスト達や有名人、例えば、俳優の「ロバート・デニーロ」や「トム・ハンクス」、女優の「スカーレット・ヨハンソン」や「ハル・ベリー」、人気テレビ司会者の「オプラ・ウィンフリー」らがオバマ氏を支持していることはNEWSで伝えられ、ご承知の通りである。そういえば、ターミネータ「アーノルド・シュワルツエネッガー」カリフォルニア州知事も、共和党ですが、オバマ支持を表明していましたね。

選挙戦が最高潮に達した10月16日には、「ブルース・スプリングスティーン」や「ビリー・ジョエル」らが企画し、選挙資金集めを目的としたコンサートが行われました。また、「JAY-Z」による有権者登録手続きを促すフリー・ライヴも行われた。多分これらのライブ・アルバムなどは、まもなく発売されることは間違いないでしょう。

現在、日本でベストセラーを記録しているのは、オバマ氏のCD付き演説集。漢字クイズで時間と税金を浪費する日本の国会、政治家と違って、国民に向かって直接語りかけられる質の高い演説、言葉。圧倒的な演説の力、論理の力、言葉の力、声の力、その表情。それによって政治家が全人格的に評価され、国民が揺り動かされ、政治を信頼してみようとする。今回の選挙戦のオバマの演説ではそれが際立っていたように思う。
ラップに代表されるように、英語という言語が持っている、シンプル・フレーズのもつコンセプトの明快さ、リズム的抑揚、反復フレーズのもつ昂揚感。英語はきわめて音楽的な言語で、それゆえにアジテーションに向いた言語であり、「言霊」という日本ではもう死語になったかもしれない言葉すら演説に感じてしまう。

生声CD付き [対訳] オバマ演説集

CNN English Express編 / 朝日出版社


生声CD付き [対訳] オバマ大統領就任演説

CNN English Express編 / 朝日出版社


そして、2008年11月4日、オバマ氏が米国初の黒人大統領に選出された直後に発売されたCDがあります。人種問題、イラク戦争問題、減税公約など、彼の思想に賛同し支持する豪華有名ミュージシャンたちが参加したコンピレーション・アルバム。タイトルもズバリ「Yes We Can」。
収録に参加したアーティストには、「ライオネル・リッチー」、「スティーヴィー・ワンダー」、「ジャクソン・ブラウン」、「シェリル・クロウ」、「ジョン・レジェンド」といったPOPS界のビッグ・ネームが並び、オバマ氏のスピーチを使用した“Exclusive Obamaversion”や、マーティン・ルーサー・キング・ジュニア氏のスピーチを使用した曲を多数収録している。勿論、就任演説では使われなかったが、あの超有名フレーズとなった、「Yes We Can」も・・・。
先の「ビヨンセ」も含め、このうちの何人かは大統領就任式やそのイベントに招待されていましたね。この辺の感覚も日本とはだいぶ違うと思いますね。たとえば、自民党総裁選などで、SMAPが特定候補の支持を表明し、就任の党大会で「ライオン・ハート」を歌うなんて考えられますかね??・・・・。

イエス・ウィー・キャン:ヴォイセズ・オブ・ア・グラスルーツ・ムーヴメント

オムニバス / ビクターエンタテインメント


そして就任式の夜は、お祝いのダンスパーティがワシントン各所で行なわれたという。オバマ大統領は、ミシェル夫人を伴って10箇所のダンスパーティをはしごしたとも伝えられる。そのうちのひとつのパーティで、「ビヨンセ」の歌う歌にのって踊る夫妻の姿がTVに映し出されていた。
「ビヨンセ」の歌ったその歌は、スタンダードの美しいラブ・バラード「At Last」。まったくその場にふさわしい選曲にすっかり感心してしまった。

「At Last」、JAZZのスタンダードであるが、オバマに倣って、JAZZ外の分野の歌手と新人を取り上げてみた。まず、「シンディローパー」初のカヴァーアルバムで、スタンダードナンバーを集めた「At Last」。取り上げている曲は、エディット・ピアフ、バート・バカラック / ハル・デヴィッド、スモーキー・ロビンソンの名曲。奇抜なファッションを一時売りにしていたこともある彼女だが、ピアノ、チェロなどのシンプルな音をバックに、「Unchained Melody」、「Don’t Let Me Be Misunderstood」、「Walk on by」、「La Vian Rose」などをこれほど情感込めて聴かせるとは、彼女のボーカリストの力量が並々ならぬことを認めざるを得ない。

アット・ラスト
シンディ・ローパー / ソニーミュージックエンタテインメント
ISBN : B0000CD863
スコア選択:

「マレン・モーテンセン」。北欧デンマーク発、大注目の女性シンガー・ソングライターの日本デビュー・アルバム。ソングライターとしての才能を感じさせる美しくメロディアスなオリジナル曲に加え、ジョニ・ミッチェル、アニタ・ベイカーといったカバー曲の選曲にもセンスの良さが光る、都会的で洗練されたテイストの溢れる女性ヴォーカル。ジャケ買いしたアルバムであるが、ジョニ・ミッチェルをほうふつとさせる歌声で大当たり!

デイト・ウィズ・ア・ドリーム

マレン・モーテンセン / コロムビアミュージックエンタテインメント

就任式、晩餐会などでのミシェル夫人のファッションも大変話題になっているようです。過去のファーストレディのようにアメリカを代表するデザイナーのものではなく、新進デザイナーの洋服を彼女は選んだようである。就任式では、「イザベル・トレド(キューバ出身)」のデザイナーの「希望」を意味する黄色のドレスを選び、ダンスパーティーで選んだワン・ショルダーのアイボリーのドレスは、新進気鋭でまだデザイナーになってたった3年の無名と言っていい、台湾系デザイナー、26歳の「ジェイソン・ウー」の作品だそうだ。ファーストレディとして、誰のデザインによる、どのようなドレスを着るのかについても注目が集まること自体が、日本では考えにくいことである。元来ファッションとはそういう側面を持っているのであるが、洋服の選択にまで「メッセージ」をこめなくてはならないのも、ちょっとしんどいことではある・・・。

 

我が青春のジャズ・グラフィティ(6) ~ 続・大人の眼差し ~

TAGS: None

(前回からの続き)
MTさんの風貌はといえば、黒ぶち眼鏡にきちっと七三に別けた髪型。いつも物静かで、そのまなざしはおだやか。グリルのマスターというより、一見すれば、銀行員と言ってもおかしくない程スクエアーな感じの人であった。そんなMTさんがよくかけていて、いまだに私の愛聴盤となっているアルバムを更にいくつかあげましょう。まず、名盤中の名盤「フォア・フレッシュメン&ファイヴ・トロンボーンズ」である。50年以上前の録音なのでレトロな味わいであるが、男声コーラスとトロンボーンのハーモニーがこれほど、美しかったのかと、目からうろこの当時聴いたときの感想であった。

フォア・フレッシュメン&5トロンボーンズ
フォア・フレッシュメン / 東芝EMI
ISBN : B00000JZNP
スコア選択:

そして、リラックスしてくると、日本の女性JAZZシンガーの草分けで、絶対に営業中にはかけない「沢たまき」の「ベッドで煙草をすわないで」や、「このひといいよ」といって、デビュー当時の和田アキ子の「ボーイ・アンド・ガール」をよくかけてくれたのも懐かしい。

「ルー・ドナルドソン/アリゲータ・ブーガルー」。ジャズ・ロック・ブーム、ゴーゴー・ダンス・ブームにのって大ヒットしたダンサブルな曲。タイトル曲は67年にビルボードのシングル・チャートの93位にランクされた。ジャズがヒットチャート入りするなんてことは、めったにないことで、ブルーノートにとっては、「リー・モーガン」の「ザ・サイドワインダー」以来の快挙であったそうだ。

アリゲイター・ブーガルー

ルー・ドナルドソン / TOSHIBA-EMI LIMITED(TO)(M)


バロック・ジャズを教えてもらったのもこの店であった。バッハの名曲の数々をピアノ・トリオ・ジャズで演奏し1960年代にセンセーションを巻き起こした「ジャック・ルーシェ」の記念すべき第1作がリリースされたのは1959年。その後「プレイ・バッハ#5」までリリースされ、「プレイ・バッハ」の冠がつくシリーズ6作目の「プレイ・バッハ シャンゼリゼ劇場LIVE」が発売されたのは、1965年の大学入学した年であった。スウィングするバッハに驚愕したものである。これがきっかけとなって、後にヨーロッパJAZZ、とりわけピアノ・トリオに魅せられていく原点はここにあったのだ。そして、ジャックルーシェと並んで人気を博したのが、スキャット、例の「ダバダバ・・・・」いうスキャットで一世を風靡した「スイングル・シンガ-ズ」の1963年のデビュー・アルバム「ジャズ・セバスチャン・バッハ」も、彼のお気に入りであった。

プレイ・バッハ(1)
ジャック・ルーシェ / ユニバーサル ミュージック クラシック

耽美派でないハードバップ色の強い「ビル・エバンス」、それと対称的に、ハードバップでなく叙情的な「マイルス・デイビス」を知った。「ビル・エバンス/インタープレイ」の「あなたと夜と音楽と」、「マイルス・ディビス/スケッチ・オブ・スペイン」の延々16分余りにわたって演奏される「アランフェス協奏曲」も忘れられない。「スケッチ・オブ・スペイン」は、ギル・エバンスとのコラボにより、正面からスペイン音楽に取りくんだアルバムで、「アランフェス協奏曲」は、スペインの盲目の作曲家ロドリーゴの作品であまりにも有名。

Sketches of Spain
Miles Davis Gil Evans / Columbia/Legacy
ISBN : B000002AH7
スコア選択:

そしてCTIシリーズ。まずは、なんといっても大ヒットしたジャズギタリスト「ウェス・モンゴメリー/ア・デイ・イン・ザ・ライフ」か。ドンセベスキーが編曲し、ストリングスをフューチャーしたナンバー、とりわけビートルズの曲であるタイトル曲を取り上げたことが話題となった。イージーリスニング路線になったといった批判もあったが、ハービーハンコック、ロンカーター等の名プレイヤーが参加しており、紛れもないジャズアルバムである。卒業後もCTIシリーズは何枚も買って聴いたほど好きになった。

ア・デイ・イン・ザ・ライフ

ウェス・モンゴメリー / ユニバーサル ミュージック クラシック


そして、当時の日本にボサノバのリズムと雰囲気を伝え、大ヒットさせ、「ボサノバ」が、メジャーな音楽になったのはなんといっても「セルジオ・メンデス&ブラジル’66/マシュ・ケ・ナダ」からであろう。このアルバムもエキサイティングであった。

マシュ・ケ・ナーダ

セルジオ・メンデス&ブラジル’66 / ユニバーサル インターナショナル


ジャズ、ジャズコーラス、ボサノバ、フュージョン、バロックジャズ、ムード歌謡、ソウル・・・・。これほど多彩で豊かな音楽を聴く楽しみを私に教えてくれたMTさんに感謝!!献杯!!

わが青春のジャズ・グラフィティ/MTさんトリビュート編は、
39)フォア・フレッシュメン;フォア・フレッシュメン&5トロンボーン
40)沢たまき;ベッドで煙草をすわないで  
41)和田アキ子;ボーイ・アンド・ガール  収録のアルバム「フリー・ソウル」
42)ルー・ドナルドソン;アリゲータ・ブーガルー
43)ジャック・ルーシェ;プレイ・バッハ(1)
44)スウィングル・シンガ-ズ;ジャズ・セバスチャン・バッハ
45)ビル・エバンス;インタープレイ
46)マイルス・ディビス;スケッチ・オブ・スペイン
47)ウェス・モンゴメリー;ロードソング
48)ウェス・モンゴメリー;ア・デイ・イン・ザ・ライフ 
49)タンバ4;二人と海
50)セルジオ・メンデス&ブラジル’66;マシュ・ケ・ナダ
51)ヒューバート・ロウズ;春の祭典

b0102572_23152431.jpg

そして最後は、モダンでしゃれたジャケットがまぶしかったCTIシリーズから。時代はすこし後、1971年にリリースされた「ヒューバート・ロウズ/春の祭典」のジャケットを挙げておきましょう。

サバンナを疾走する一頭の豹。
全速力で駆け抜けた我が青春に重なる・・・・。

我が青春のジャズ・グラフィティ(5)  ~ 大人の眼差し ~

TAGS: None

b0102572_2123380.jpg
サバンナを駆ける一頭のキリン。まるでアートな写真のよう。「アントニオ・カルロス・ジョビン/WAVE」のジャケットです。こんな素敵なジャケットを持つ、レコード・シリーズがJAZZファンの心をつかんで大ヒットした時代があります。CTIレコード。クリード・テイラー(Creed Taylor)が、1967年にA&Mレコード内にCTIレコード(Creed Taylor Issue)を発足、やがて1970年に独立し、正式名称を「Creed Taylor Incorporated」に変更したレーベルです。
テイラーのジャズの大衆化を図るという狙いは見事にあたり、イージー・リスニング・ジャズ、あるいはクロスオーバー(フュージョンの前身)のブームを作ったのである。しかし、一部の硬派のJAZZファンからは「商業的過ぎる」という批判や顰蹙をかった事も事実。また、アントニオ・カルロス・ジョビンやアストラッド・ジルベルト等ブラジルのミュージシャンを起用し、ボサノヴァをアメリカで普及させた立役者でもあった。

当時、一杯30円の学食のうどんと下宿の飯で過ごしていた貧乏学生にとって、150円のサービスランチが大変美味しいので、家からの仕送りや、バイト(バンド)の収入があると、よく行っていたグリルが仙台にありました。CTIのJAZZを知ったのは、そのグリル「B軒」だったのです。ちょうどその頃40歳くらいだったでしょうか、そこの支配人のMTさんがJAZZ好きで、店内にもJAZZYな曲が流れていました。やがて、月1日か2日の定休日の前日の閉店後の店には、若い人が集まるようになり、いつからか店がサロンと化していきました。

普段なら店では流さないような曲をすこしボリュームを上げて流し、一杯の水割りを手にしながら、音楽を楽しみ、和気藹々、わいわいがやがやと時を過ごしたのです。MTさんはといえば、話には加わるのですが、説教じみたことは一切なく、ただニコニコしながら我々若造たちを脇からじっと見守っていたような気がします。ジャズ喫茶の作法に従い、少し深刻ぶってJAZZを聴いていた私をジャズ喫茶から解放してくれたのは、まさにこの店であり、MTさんが、その後の私の音楽の嗜好に大きな影響を与えた人だった。

「ハード・バップ」一辺倒から脱皮して、ボサ・ノバやフュージョン、バロック・ジャズ、R&Dなど多様な音楽を楽しむ姿勢が自然に身についていったと思う。
私が始めて逢った「尊敬できる大人」で、「あんな大人になれたら」と当時私を思わせしめた、そのMTさんが、若くして旅立ってしまったという悲報が届いたのは卒業して10年ほど経ったころであったろうか・・・・。

ソフト・サンバ
ゲイリー・マクファーランド ジミー・クリーヴランド セルダン・パウエル アントニオ・カルロス・ジョビン ケニー・バレル ウィリー・ボボ / ユニバーサルクラシック
ISBN : B000EMH8PE
スコア選択:

MTさんのお気に入りは、当時、全盛だった「ビートルズ」を取り上げ、JAZZYなボサノバにアレンジして聴かせる、アレンジャーの名手で、ビブラフォンプレイヤーの「ゲイリー・マクファーランド/Soft Samba」。40年ぐらい前に、彼らの曲をこんなに粋にボサノバにアレンジしてるなんて信じられないくらい。そのセンスにびっくりした一枚でもある。

テイク・テン
ポール・デスモンド ジム・ホール ジーン・チェリコ ジーン・ライト コニー・ケイ / BMG JAPAN
ISBN : B000ALIZVU
スコア選択:

そしてもう一枚のお気に入りは、「Paul Desmond/Take Ten」。デイブ・ブルーベック・カルテットのSAX「ポール・デスモンド」とギターの「ジム・ホール」がフィーチャーされたアルバム。アルバム・タイトルは大ヒット作、5/4拍子で演奏される「Take Five」の兄弟編。「Alone Togather」のほか、「エル・プリンス」、「埠頭」、「黒いオルフェ/カーニバルの朝」「オルフェのサンバ」など。軽やかであるが、哀愁漂う名演がいっぱい。40年間聴いてもなお飽きない名盤。

ボサノバをしったのも、この店。私の最初のミューズは、「Astrud Gilberto」であった。たまたまNYに出張した折、JAZZクラブに出演していた彼女を聴きにいったほどの「我が初恋のミューズ」であった。もとは「Joao Gilberto」の奥さんで、専業主婦。彼女がキッチンか何かで、鼻歌を口ずさんでいるのを、夫のジョアンがきいて、「これはいける」というんで歌手になったということが、当時のライナーノーツにかいてあったような気がします。

おいしい水
アストラッド・ジルベルト アントニオ・カルロス・ジョビン ジョアン・ドナート / ユニバーサルクラシック
ISBN : B00008KKT0
スコア選択:

そしてもう一人は、ボサノバの創始者、「アントニオ・カルロス・ジョビン」の1963年録音の代表作「イパネマの娘」。ジョビンが奏でるクールなピアノとクラウス・オガーマンのアレンジが魅力的で大ヒットしたインスツルメンタル・ジョビン・スタンダード集。そして、CTIの「WAVE」は、いまだに名盤。驚異的なギターテクニックに魅せられたのは、「バーデン・パウエル」。

イパネマの娘
アントニオ・カルロス・ジョビン / / ユニバーサルクラシック
スコア選択:

我が青春のJAZZグラフィティ/B軒編は、

33)ゲイリー・マクファーランド;ソフトサンバ
34)ポール・デスモンド:テイク・テン
35)アストラッド・ジルベルト;おいしい水
36)アントニオ・カルロス・ジョビン;イパネマから来た娘
37)アントニオ・カルロス・ジョビン;WAVE
38)バーデン・パウエル;ポエマ・オン・ギター

(次回へ続く)

我が青春のジャズ・グラフィティ(4)  ~ジャズ喫茶の作法~

TAGS: None

DSCN0141.JPG
学生エレキバンドの活動をつづける傍らで、JAZZへの憧れをつのらせていた私は、自然に「JAZZ喫茶」へ出入りするようになっていった。当時、仙台にはJAZZ喫茶がいくつかあったと思うが、たしか「ad’(アド)」、「ブルー・ノート」などというジャズ喫茶に通っていたように思う。この「JAZZ喫茶」というもの、多分日本独特のものであろうと思われる。コーヒーを飲んで、ただひたすらにJAZZレコードを聴く「JAZZ喫茶」、私はアメリカでもヨーロッパでも、中国ですら見たことがない。ライブ演奏を聴きながら酒を飲むJAZZクラブが普通である。
店内の音楽は、主にオーナーが所蔵するレコードによるジャズであり(ボサノヴァやフュージョンを含む)、客からのリクエストに応じるのが普通であった。基本的にはコーヒーがメイン・メニューだが、軽食や夜間は酒を出す店もあった。そんなジャズ喫茶の経営者、マスターは、大抵変わり者で頑固な名物オヤジと言うのが相場であった。作家「村上春樹」が、かってジャズ喫茶のオヤジであったのは有名な話である。

勿論、当時の日本のあちこちに、そんなJAZZ喫茶が多く出来た理由はいくつかあるのである。
当時、JAZZを演奏するミュージシャンは少なく、まして本場アメリカの人気プレイヤーの生演奏に接する機会など、高チャージのJAZZコンサート以外には殆どなかったからである。だから、レコードではあるが、本場の人気JAZZプレイヤーの音楽が聴けるJAZZ喫茶が流行ったのであろう。今でこそ、JAZZクラブがあちこちにあり、JAZZの生演奏を楽しむ場所も機会も増えたが、日本の場合、NYあたりのJAZZクラブに比べても、その料金はかなり高いと言わざるを得ない。

ザ・サイドワインダー+1

リー・モーガン / EMIミュージック・ジャパン


2番目の理由は、オーディオ装置が、かなり高価であったこと。さらに大音量で聴ける住空間など当時の一般の家では望むべくもなかった。普通の家庭では、なかなか揃えることのできない高価なオーディオシステムを装備しているのが通常であり、音質の良さもジャズ喫茶の売りの一つであった。 

ソング・フォー・マイ・ファーザー+4

ホレス・シルヴァー / EMIミュージック・ジャパン


そして、LPレコードもかなり高価であったのも大きな理由。私の初任給が確か3万円であったころ、LPは1500円位していたであろうか、ましてJAZZの輸入盤ともなれば3000円位したのである。輸入盤のジャズLPはびっくりするくらい高価であったが、コーヒー一杯で本場のジャズのレコードを聴くことができ、リクエストも受け付けてくれるジャズ喫茶はアマチュア・ミュージシャンの溜まり場ともなった。私が、最もよく通っていた時期は、3年生から4年生の前半だったであろうか。
私がよくリクエストしていたのは、、「リー・モーガン/サイド・ワインダー」、「バド・パウエル/クレオパトラの夢」、「ソニー・ロリンズ/アルフィー」、「ホレス・シルバー/ソング・フォー・マイ・ファーザー」、「ブルー・ミッチェル/ダウン・ウィズ・イット」、「マル・ウォルドロン/レフト・アローン」などのファンキー、ハード・バップ系のJAZZであった。

ダウン・ウィズ・イット(紙ジャケット仕様)

ブルー・ミッチェル / EMIミュージック・ジャパン


やがて、地方都市仙台でも70年安保を前に学生運動が次第に盛んとなり、デモなども行なわれるようになっていった。参加していた連中が、運動へのエネルギーの源泉や仲間との連帯を求め、また差別や抑圧への抵抗の歴史から生まれたJAZZへの思い入れからか、ジャズ喫茶に集まってきた。そんな中で、「ジョン・コルトレーン」、「チャーリー・ミンガス」、「アルバート・アイラー」などの反体制的な前衛JAZZやフリージャズが、JAZZ喫茶ではよくリクエストされるようになっていた。ノンポリで、就職も決定し、大学4年を迎えていた私は、連日徹夜の卒業実験・論文、卒業設計を仕上げるための忙しさに加え、「店内での会話の禁止」、「楽しんではいけないかのような禁欲的な鑑賞スタイル」といったジャズ喫茶特有の作法や、どうしてもなじめない「フリージャズ」などが理由で、ジャズ喫茶に次第に窮屈さを感じ、遠ざかっていったと思う。

直立猿人

チャールス・ミンガス / Warner Music Japan =music=

いまは、聴くだけだったら、居酒屋でも、蕎麦屋でも、レストランでもどこでもJAZZが流れている時代である。しかし、あの頃は窮屈さを感じていたが、若者たちの時代のエネルギーを間違いなく内包していた「JAZZ喫茶」が、豊かな日本になっていくに従って、だんだんとマニアのための前世紀の遺物と化していったのと平行して、JAZZを聴きたいという当時の若者達の熱気や、JAZZやロックと結びついていた反体制・反骨精神、時代の矛盾に対する反発心なども今では失われてしまったように思う。

そして、「団塊の世代」を強く性格づけるような出来事、全学共闘会議(全共闘)が占拠していた東京大学本郷キャンパスを警視庁が封鎖解除を行った、いわゆる東大安田講堂事件が起こるのは、卒業を目前にした1969年(昭和44年)1月18日、19日のことであった。

我が青春のジャズ・グラフィティ/ジャズ喫茶編は、沢山ありすぎて困るのだが、

14)リー・モーガン;サイドワインダー
15)バド・パウエル;クレオパトラの夢 (アルバム「ザ・シーン・チェンジズ」)
16)ソニー・ロリンズ;モリタート (アルバム「サキソフォン・コロッサス」)
17)ソニー・ロリンズ;アルフィー
18)ホレス・シルバー;ソング・フォー・マイ・ファーザー
19)トミー・フラナガン;オーバー・シーズ
20)マイルス・デヴィス;ラウンド・ミッドナイト
21)ソニー・クラーク;クール・ストラッティン
22)コールマン・ホーキンス;ジェリコの戦い
23)ジョン・コルトレーン;ブルートレイン
24)ジョン・コルトレーン;バラード
25)ジョン・コルトレーン;至上の愛
26)マイルス・デイヴィス;カインド・オブ・ブルー
27)セロニアス・モンク;ソロ・モンク
28)ブルー・ミッチェル;ダウン・ウィズ・イット
29)マル・ウォルドロン;レフト・アローン

30)チャーリー・ミンガス;直立猿人
31)ジョン・コルトレーン;ライブ・アット・ザ・ビレッジ・バンガード・アゲイン
32)アルバー・アイラー;グリニッチ・ヴィレッジのアルバート・アイラー

この記事を書くきっかけのひとつでもあった、ハードボイルド作家「原尞(はら りょう)」氏の自伝的エッセイ「ミステリオーソ」は「セロニアス・モンク」のアルバム・タイトルであったことを、不意に思い出した。「ソロ・モンク」と並んで、ジャケットのイラストが好きな一枚でもあった・・・。

ミステリオーソ+2

セロニアス・モンク / ユニバーサル ミュージック クラシック

我が青春のジャズ・グラフィティ(3)  ~我が愛しの異邦人~

TAGS: None

P1010653.JPG
(写真は1967年大学3年生の時行ったバンドのリサイタルのパンフレット、表紙の稚拙なイラストは私が描いたもの)

1年の浪人を経験したあと1965年に大学に進学し、仙台で生活することになって、始めて本格的に音楽に目覚めたといえる。当時の学生達が異性と出会う場といえば、各学生クラブが資金稼ぎのためにこぞって主宰する「ダンス・パーティ」であった。略して「ダンパー」での人気学生バンドは、JAZZクインテット「ファイヴ・スポッツ」とハワイヤン・バンド「カウラナ・アイランダース」。「ファイヴ・スポッツ」はニューヨークにある有名なJAZZクラブ「5 Spot」をバンド名とし、そのテーマ曲は「Five Spot After Dark」。ダンパーのオープニングでこの曲を聴くともうそれだけでぞくぞくしたものだ。受験などで封印されていたJAZZや音楽への憧れが一気に解き放たれたのである。そして「カウラナ・アイランダース」の十八番に「熱風」と言う和製ハワイアンではあるが、すごくJAZZYな曲があり、いまでもお気に入りの曲となっている。

「カーティス・フラー」のトロンボーンと、「ベニー・ゴルソン」のサックスの出だしのユニゾンが一世を風靡した「5 Spot After Dark」は、ジャズ喫茶で必ずといっていいほどかかっていた人気盤「ブルースエット」に収録。

ブルースエット
カーティス・フラー / コロムビアミュージックエンタテインメント
ISBN : B000AHQF52
スコア選択:

自分の音楽をハワイアンと定義されるのが嫌いだったらしく、「ハワイアン楽器を使ったポピュラー音楽であり、JAZZをやっているんだ」と自分の音楽を語っていた大橋節夫氏。今聞いても軽快でスウイングするJAZZYな曲「熱風」も忘れられない一曲である。

ハワイアン・ルネッサンス
大橋節夫 ハニーアイランダース / コロムビアミュージックエンタテインメント
ISBN : B00005EPHW
スコア選択:

やがて軽音楽部に入部し、「The Strangers」という名のエレキバンドを結成するまでにそう時間はかからなかった。その頃、ギター部に所属していた、Si君(リードギター)、このブログメンバーの神童覇道君(ドラムス)と私(ベース)を核に、O君(サイドG)、A君(SAX)が加わり、5人でスタートした。当時エレキといえば「不良」の代名詞。それはともかくとして、大音量のため、とにかく困ったのは練習場所。練習場所は、迷惑にならない場所にあった学生食堂を、何とか拝み倒して、営業時間後の夜と休日に借りて練習したように思う。指にたこができ、指紋が無くなり、声が出なくなるほど、本当によく練習した。そして、バンドがデビューしたのは1966年、大学2年生のときであった。しばらくたって、サイドGのO君がサイドG/キーボードのH君に代わり、マネージャーとしてSa君も参加してくれたので、メンバー編成だけを見ると、「ブルー・コメッツ」と同じ編成であったし、事実、ブルコメが、「ブルーシャトー」でレコード大賞をとった後の仙台コンサートで前座をつとめたなんて想い出もある。Si君、O君は残念なことに鬼籍に入ってしまった。

やがて、ダンス・パーティなどから出演依頼が来て、だんだん人気が出てくるにつれ、ちょっとJAZZYなエレキバンドといったカラーにまとまっていったかな。バンド活動は、就職活動が始まる4年生前半までの約2年間ちょっと。工学部は私一人だったので、その両立も大変であったが、何とか卒業できた。女子学生の後援会なんてものも出来、また生意気なことに、3年の時には、リサイタルなんてものも開かせてもらい、まさに全速力で駆け抜けた青春だった。

「ジミー・スミス;ザ・キャット」。我々がJAZZらしきものにチャレンジした記念すべきナンバー。ルネ・クレマン監督「危険がいっぱい(1964)」という当時人気絶頂の「アラン・ドロン」、「ジェーン・フォンダ」主演のフランス映画の主題曲である。、「TVスパイ大作戦(ミッション・インポッシブル)」「燃えよドラゴン」のテーマでおなじみの「ラロ・シフリン」のアレンジによるゴージャスなオーケストラをバックに、ジミーのオルガンが冴え渡る曲。JAZZバンドならいざ知らず、これをレパートリーとする学生エレキバンドは、ほかには皆無であったろうが、我がバンドに新しいJAZZYなキャラクターを付け加えるレパートリーだった。

The Cat
Jimmy Smith / Verve
ISBN : B0000069NA
スコア選択:

そして、当時のダンスパーティでは「モンキーダンス」、「ゴーゴー」が主流であったか。そんな時代を反映して、そのころ「ラムゼイ・ルイス・トリオ」のソウルフルな演奏の「ジ・イン・クラウド(1965)」が、フュージョン(当時はジャズロックといった)ブームを巻き起こしていた。
そんなフュージョンのさきがけともいえる「ハービー・マン/カミン・ホーム・ベイビー」をレパートリーに入れたのもこのころ。マンの天衣無縫なフルートが自在に舞う、「カミン・ホーム・ベイビー」は、1961年に大ヒットしたジャズで、アルバム「ハービーマン/ヴィレッジ・ゲイトのハービー・マン」に収録。

ヴィレッジ・ゲイトのハービー・マン(完全生産限定盤)

ハービー・マン / ワーナーミュージック・ジャパン


そして、当時、われわれがコピーした「ベンチャーズ」の演奏のほうが、たぶん有名であった「デューク・エリントン/キャラバン」もJAZZからのナンバー。
’60ごろに人気があったアメリカの私立探偵を主人公にしたTVドラマシリーズのテーマで、SAXのソロが売りのヘンリーマンシーニ作曲「ピ-ター・ガン」。ウエストコースト派のクールジャズ、こんなJAZZYな曲をよく取り込んだものだ。A君のSAXの腕は相当なものだった。

我々のバンドのメンバーは誰一人としてプロへ進もうなどとは思わなかったが、当時の仙台で活動していたアマチュア・ミュージシャンには、やがてプロの道へすすんで行った「青葉城恋唄」の「さとう宗幸(1949年生まれ)」、TVドラマ「時間ですよ」のお涼さん役、「篠ひろ子」などがいた。たしか「篠ひろ子(1948年生まれ、旧姓沼澤博子)」は、現役の東北学院大学の女子大生で、東北放送のテレビ番組「ホリデー・イン・仙台」のアシスタントとして出演していた。170cmちかい長身で、際立ってオーラがあったのを覚えている。
そして、当時、工学部建築学科に、のちに「オフコース」を結成する「小田和正(1947年生まれ)」がいたはずであるが、音楽活動をしていたかは不明である。

青春のJAZZグラフィティ/バンド編は、
7)カーティス・フラー・クインテット;5 Spot After Dark (アルバム「Blues ette」)
8)大橋節夫とハニー・アイランダース;熱風
9)ジミー・スミス;ザ・キャット
10)ハービー・マン;カミン・ホーム・ベイビー (アルバム「ヴィレッジ・ゲイトのハービー・マン」)
11)ラムゼイ・ルイス;ジ・イン・クラウド
12)ヘンリー・マンシーニ;ピーター・ガンのテーマ
13)デューク・エリントン;キャラバン

60歳過ぎたら聴きたい歌(29) ~ いくつかの場面 ~

TAGS: None

shin15-1.jpg
(写真は西宮市消防局HPより)

1995年(平成7年)1月17日午前5時46分52秒、淡路島北部(北緯34度35.9分、東経135度2.1分、深さ16km)を震源として発生したM7.3の阪神淡路大地震は、淡路島や阪神間、あるいは、東播磨地方などの兵庫県を中心に6000名を超える死者、30万人を越える避難者、全半壊家屋の合計約25万棟(約46万世帯)という大きな被害をもたらした。特に、神戸市市街地は壊滅状態に陥り、未曾有の悲劇、混乱が発生。そして、その後の復興には長い時間を要した。

いま西宮から神戸あたりを訪ねると表面上は復興したように見える。しかしそのま新しい建物、新しいきれいな道路、区画整理された空間・避難緑地が、あの時そこが全壊した場所であったということを物語っている。さらに多くの人の心に与えた悲しみ、絶望、孤独などの傷みはいまなお癒えないという。そんな大震災の直後、被災者を励ますために訪れたミュージシャンが何人もいたが、その中に家族をつれて被災地で歌をうたっていた歌手がいた。「河島 英五」。その後も毎年神戸でチャリティ・コンサート「復興の詩」を開いていた。

河島 英五(かわしま えいご、1952年4月23日 – 2001年4月16日)は日本のシンガー・ソング・ライター、俳優。代表曲は「酒と泪と男と女」、「野風増」、「時代おくれ」など。「時代おくれ」は、現在も多くのおやじ世代にカラオケで歌われている。2001年4月16日肝臓疾患のため、死去した。48歳だった。自身のヒット曲「野風増」の歌詞には、息子が20歳になれば2人で酒を酌み交わしたいという内容があったが、皮肉にも河島本人は息子と杯を交わすことは叶わなかった。

幸いにも、我が家には大きな被害こそ無かったが、あの地震の揺れ、地鳴り、恐怖はいまなお体に染み付いている。そして、1月17日、14回目のその日をがやってくる。

1月9日、NHK-BS2で「沢田研二」が6時間、80曲を歌いきったコンサート「人間60年 ジュリー祭り」の熱唱ぶりを1時間半のダイジェスト版で放映していた。その熱唱のなかで印象に残った曲が「いくつかの場面」。私は、この歌が河島の作詞作曲とはしらなかった。    

沢田研二が熱唱した『いくつかの場面』は、アルバムのタイトルにもなって、1975年12月にポリドール (現ユニバーサルミュージック)からLP盤でリリースされた。その後CD化されたが、これも名曲「時の過ぎゆくままに」を冒頭に据え、話題になったアルバムである。後に河島本人もこの歌を自身のアルバムに収録している。

「いくつかの場面」   作詞作曲;河島英五

歌詞はこちら。

 

震災から14年、被災者たちの身にそれぞれ訪れた「いくつかの場面」はどんなものであったのだろうか? 記憶の風化も伝えられるが、あの震災を忘れることは決して無いだろうし、まして癒えることも無いのかもしれない。
震災の被災者らが暮す兵庫県内の災害復興住宅は、現在もなお292箇所あるが、入居者の高齢化が進む中で、ここで誰にも看取られずに亡くなった一人暮らしの独居死者が、2008年は前年より14人少ない46人であったと新聞は伝える。

いくつかの場面

沢田研二 / ユニバーサルミュージック

 

 

自選集

河島英五 / ソニーレコード

我が青春のジャズ・グラフィティ(2)  ~ 最初は映画から始まった ~

TAGS: None

P1010682.JPG
最初にジャズに触れたのは、ルイ・マル監督「死刑台のエレベータ」。1961年に入学した高校は、かなり自由な気風で、確か映画館へ入るのは自由であったし、高校自身が「名画鑑賞会」なるものをよくやっていたと思う。フランス映画「死刑台のエレベータ(1958年制作)」はそんな鑑賞会で観た映画であった。高校に入学してぱっと開けた映画の世界。当時はハリウッド映画よりフランス、イタリアなどヨーロッパ映画が全盛で、すっかり夢中になってしまった。「死刑台のエレベータ」は、映画自体のストーリーが面白く、JAZZと言う言葉を知らず、不思議な音楽という印象はあったが、JAZZに夢中になるということはなかった。はっきりJAZZを意識して聴いたのは、多分ラジオで知ったのであろう、これまたフランス映画で、ラクロの有名な心理小説をロジェ・ヴァディム監督が映画化(1959年)した「危険な関係」のテーマ曲である。映画は「18歳未満禁止」のストーリーであったので見ることはなかったが(勿論ほどなくして小説で読んだが・・・)、「アート・ブレイキーとジャズ・メッセンジャーズ」の演奏するそのテーマ曲は16歳の私に強烈な印象を与えたのである。

ちょうどその頃、ラジオ少年でもあった私は普及し始めた「ステレオ」が再生できる手製のアンプとスピーカー・ボックスで、「ナット・キング・コール」、「プラターズ」、「ポール・アンカ」、「パーシー・フェイス、「リカルド・サントス」、「ニニ・ロッソ」などのポピュラー音楽を楽しんでいた時代でもあったのだ。そうそう「ソノシート」なんてものもあったっけ。

危険な関係(サントラ)

アート・ブレイキー&ザ・ジャズ・メッセンジャーズ / マーキュリー・ミュージックエンタテインメント


そして、乏しい小遣いの中から買った45回転のEP盤。A面が「危険な関係のブルース」 B面が「危険な関係のサンバ」が収録されていたが、いきなり強烈なマイナーの旋律がコンボで演奏され、ドラムが繰り拡げる派手なセッションに、わけも分からず「これがJAZZか・・・」とすっかり魅了されてしまった。

映画の音楽担当が、「セロニアス・モンク」であり、テーマ曲「危険な関係のブルース」が「デューク・ジョーダン」の作品であることは、アーティストの名前も含めて、相当後になって知ったことであるが、「アート・ブレイキーとジャズ・メッセンジャーズ」の名前は、しっかりとその時インプットされた。後に大学時代、実家に帰省したとき「ジャズ・メッセンジャーズ」のコンサートが松本であり、始めて聴く、そのJAZZライブのスイング感、ブレーキーとジョージ川口のドラム合戦の大迫力に圧倒された思い出もある。そして、しばらくたってから買ったJAZZレコード第2弾は「モーニン」のEP盤。いわゆる「ファンキー」とよばれる黒人のJAZZに心を奪われたのである。ちなみに「モーニン/Moanin’(嘆く、呻く)」、朝なのにずいぶん暗い曲だなとずっと勘違いしていたのもこの時期の笑い話である。

普通に貧乏なサラリーマン家庭だったので、レコードを買う小遣いもままならず(当時EP盤が約300円、25~30cmのLP盤が約1500~3000円と高価であった)、ましてJAZZコンサートやJAZZ喫茶などない田舎の小都市。「ワークソング」などラジオから時たま流れるJAZZに耳を澄ます程度で、とてものめりこむというような情況ではなかったが、「聴きたい」というJAZZへの憧れが胸にあった。その一方でやっと買ってもらったガット・ギターに夢中で、クラシックギター教則本を友達と練習する一方で、日本中の若者達を「テケテケテケ・・・」フィーバーに巻き込んだベンチャーズに代表されるエレキギターの音色やビートも確実に私に影響を与えていた。

そんな高校1年生の生活を送っていたが、クラスで文集を出そうと言う話になり、美術クラブに所属していた太田君が、今で言う「アートディレクター」となり「歌う風」なる文集が発行された。
その文集に載っていた太田君の一文にびっくりしたのである。そこには「やっぱり、JAZZはウエストコースト派だね。デイブ・ブルーベックのテイク・ファイヴが一番さ・・・。」 JAZZ好きのお兄さんに影響されたらしく、こんな早熟なジャズ評論らしき一文が載っていたのである。「ウエストコースト派」も「デイブ・ブルーベック」も勿論まったく知らなかった私は「世の中にはすごい高校1年生もいるもんだ」と感心したことを覚えている。

タイム・アウト

デイヴ・ブルーベック / ソニーレコード


この太田君、東京教育大から大手化粧品会社の広告宣伝部門に就職、その後山下洋輔のアルバムのアートディレクターも手がけたり、現在は「居酒屋評論家」として、TV番組『ニッポン居酒屋紀行』出演やいくつかの著作も出版されている「太田和彦」氏である。「居酒屋で聴くジャズ」などのJAZZアルバムの監修も手がけ、いまだに高校時代と変わらず面目躍如と言うところである。

我が青春JAZZグラフィティは、
1)アート・ブレイキー&ザ・ジャズ・メッセンジャーズ ;危険な関係のブルース
2)アート・ブレイキー&アフロ・キューバン・ボーイズ ;危険な関係のサンバ
3)アート・ブレイキー&ザ・ジャズ・メッセンジャーズ ;モーニン/Moanin’
4)デイブ・ブルーベック・カルテット;テイク ファイヴ/Take Five (アルバム「タイム・アウト」)
5)ナット・アダレイ;ワーク・ソング/Work Song
6)マイルス・デイビス;死刑台のエレベーター

60歳過ぎたら聴きたい歌(28)  ~人生の扉~

TAGS: None

今日は成人式。今年はこの閉塞的な社会状況を反映してもっと荒れるかと思ったが、予想に反し、一時期全国であった「荒れる成人式」はすっかり影を潜めたようだ。先行きの見えない厳しい現実に直面して、おびえながらも、とにかく自活していくために馬鹿やっていられないという醒めた覚悟を固めざるを得なかったからかもしれないが・・・。

私の二十歳、成人式には出席しなかった。大人になるということも、どういうことなのかまったくわからなかった。今考えると、受験から解放され、目の前の学生生活をただ楽しんでいただけだったと思う。就職し、結婚して、子供ができ、その子供たちにどうにか親の責任を果たしたとき、やっと「大人」を自覚できた。それは、そんな昔ではない最近のことである。今年の新成人も、そうやって、ひとつひとつ扉を開けていきながら「大人」へとたどりつくのであろう。

去年は、大人の歌手の活躍が目立った年であった。沢田研二、小田和正、稲垣潤一、矢沢永吉、井上陽水、和田アキ子、加藤登紀子、高橋真梨子、竹内まりやなど・・・。
節目のコンサート・ツアー、ベスト・アルバム、カバー集リリースなど。そんなベテラン歌手たちの活動をこのブログでも紹介してきた。リリースされたアルバムのなかで、共感できる曲を今年第一弾の「聴きたい歌」として紹介しておきましょう。

シンガーソングライターとして数々のヒット曲を生み、また他の歌手に提供もしてきた「竹内まりや」の「人生の扉」。青春を抱き続ける大人たちへのポップスを歌える唯一の女性シンガーといっても過言ではないでしょう。

「(50歳を超え、)この年齢になったからこそ書ける歌がある。デニムというキーワードも、年を重ねるって悪くないなという自然な気持ちから思いついた。褪せていくことの素晴らしさだったり、デニムのように老若男女に愛される音楽でありたい。」と語る彼女。

新春に贈る、年を重ねることを、デニムに喩えた、決して暗くはない、元気の出る軽快なワルツに乗せたバラード「人生の扉」。

Denim (通常盤)

竹内まりや / ワーナーミュージック・ジャパン

「人生の扉」   作詞・作曲;竹内まりや

 

 

歌詞はこちら。

「稲垣潤一」が「徳永英明」の向こうを張って女性シンガーの曲を中心としたカバー・アルバムをリリース。小柳ゆき、辛島美登里、大貫妙子、中森明菜など実力派女性シンガーと、歌ごとにデュエットを組む意欲作。白鳥英美子&白鳥マイカとのデュエットで歌う「人生の扉」は「男と女-TWO HEARTS TWO VOICES-」に収録されている。恋の歌の中に、たった1曲だけ恋の歌ではないこの歌を入れたところに、稲垣の想いが感じ取れる。

1989年(平成元年)に生まれた若者達がまた新しく「扉」をひとつづつ開けていこうと歩み始めた。その扉の先の世界をわれわれは用意できているのだろうか?
1989年(平成元年)は、欧州ではベルリンの壁が崩壊し、中国では天安門事件、日本ではバブルの絶頂期の最中、昭和天皇が崩御し、パーティなどきらびやかな行事は一切自粛させられた年であった・・・。

男と女-TWO HEARTS TWO VOICES-

稲垣潤一 / UNIVERSAL INTERNATIONAL(P)(M)

もしもピアノが弾けたなら(19)   ~ たどり着いた一里塚から ~

TAGS: None

「ジャック・ルーシェ」に触発され、「ヨーロピアン・ジャズ・トリオ」を聴いてから、魅入られたジャズ・ピアノの世界。このシリーズで、ずっと書き綴ってきたジャズ・ピアニストたち。そして、たどり着いた一里塚・マイルストーンは、「ジョバンニ・ミラバッシ」であった。
現在のヨーロッパのジャズシーンを代表するピアニストであり、日本で絶大な人気を得る「澤野レーベル」の看板ピアニスト。1970年イタリア・ペルージャ生まれ。ピアニスト、アルド・チッコリーニ(クラシック界で有名なフランス在住のイタリア人ピアニスト)と衝撃的な出会いを経て、92年パリに移住後、96年アヴィニョン・フェスティヴァルで大賞を受賞したという経歴。

彼をどう評したらいいだろうか。私がJAZZピアノに望むすべてのものを持っていると言ったらいいだろうか。寺嶋氏のいう「哀愁とガッツ」は勿論、それに加えて心の奥にせまってくる熱く力強い思い、豊かな詩情、ロマンチシズム、気品と典雅・・・・・。小難しい曲をとりあげたり、超絶技巧を用いるわけではない。きらびやかに音数を多く重ねる訳でもない。 和声の響きを大切にしながら、ただひたすら曲の持つ情感を美しさへと高める演奏を展開させるだけである。

その特長はピアノ・ソロによく表われている。傑作、ミラバッシ入魂のソロ・ピアノ・アルバムである「Avanti!」。2000年11月録音。このアルバムに収録された美しい詩情溢れる曲は、実はすべて革命歌であり、反戦歌である。そのことを知って、私は驚くと同時に、革命歌をこれほどまでに情感込めて歌い上げられるピアニストを初めて知った。
CDに添付されている分厚いブックレットには、20世紀の重要な政治的メッセージに満ちた写真と共にミラバッシ自身のコメントが記されている。しかし、これはライナーノーツや解説などではない。あのチェ・ゲバラも写っているように、これは、革命を希求し、そして倒れていった多くの戦士たちへの鎮魂歌&写真集である。
冒頭の甘美このうえない曲は、「El Pueblo Unido Jamas Sera Vencido」。この曲はチリの圧政に対して抵抗したレジスタンスのリーダー「Sergio Ortega」によって1973年に書かれた歌。「The United People Will Never Be Defeated/団結した民衆は決して負けない」という英訳タイトルであることが記されている。もともとアメリカの黒人にルーツを持ち、抑圧と差別の歴史の中で市民権を得ていったJAZZを、ミラバッシは、あらためて近代世界史のなかで抑圧や暴力に対する抵抗・解放の普遍的なメッセージとして位置づけているように思えるのだ。その意図は、ダコタ・アパートの前で逝った「ジョン・レノン」の「Imagine」を取り上げていることでも読み取れる。
そしてラストの曲は「ポーリュシュカ・ポーレ」。ノンポリ学生であった私であるが、当時の学生運動に参加した友人やデモに参加した思い出が、かすかな傷みとともに甦る。
この哀切に満ちた情感をこめて、ミラバッシにより演奏される抵抗の歌々が見事なピアノ・ソロに昇華しているアルバムである。アルバム・タイトル「Avanti!」とは、たしか「私の世界にようこそ!」という意味の言葉であったか・・・。

Avanti!

Giovanni Mirabassi / Sketch


ベースの「Daniele Mencarelli」、ドラムの「Louis Moutin」をくわえてのピアノ・トリオのライブ・アルバム。いずれもオリジナルな曲であるが、ラストの曲は、やはりあの甘美極まりない「El Pueblo Unido Jamas Sera Vencido」。トリオになってもその情感豊かなピアノは変わらないミラバッシの屈指のピアノ・トリオ・ライブ。

Dal Vivo!

Giovanni Mirabassi / Sketch


トリオのメンバーを一新して臨んだ澤野リリースのミラバッシ最新作、「Terra Furiosa」。入水して果てたアルゼンチンの女流詩人「アルフォンシーナ・ストルニ」を偲ぶA・ラミレス作曲、フェリックス・ルーナの作詞、メルセデス・ソーサの歌によって知られ、サンバの最高傑作といわれる「アルフォンシーナと海」からこのアルバムは始まる。このアルバムは、痛みを知り、傷を抱く者たちへの、妙なる救済の調べであるというコピーは、これら収録曲のタイトルからも窺える。

Terra Furiosa

Giovanni Mirabassi / Discograph


以上のアルバムは、いずれも澤野工房からリリースされている。

書き綴ってきたこの「もしもピアノが弾けたなら」シリーズ、「ジョバンニ・ミラバッシ」というマイルストーンにたどりつたところで、いったん筆をおこうとおもう。そして、すべてのジャズ・ピアノ・トリオの祖といっていい「ビル・エヴァンス」へ遡る旅をいつかはじめたいと思う。
ジャズ・ピアノ・トリオの祖、「ビル・エヴァンス」の至高のアルバムから1枚あげておこう。「ワルツ フォー デビー」。

ワルツ・フォー・デビイ+4
ビル・エヴァンス / / ユニバーサル ミュージック クラシック
スコア選択:

「彼岸の薄明かり」とは、ピアニスト「南博」氏が「ビル・エヴァンス」の音楽を評した言葉。彼に彼岸の先にある何かを見せるために彼の廻りの人々が命を断っていたのでは・・・という。たしかにエバンスの晩年の演奏の中には、長い苦悩や不幸な体験を経て、彼岸を感じさせるような危ない哀愁、美感が漂っていると感じるのは思い入れが過ぎるだろうか・・・・。

「クラウス・ヴァイス」急逝の報に接して・・・

TAGS: None

澤野工房のHPを観ていたら、信じられないニュースが眼に入った。ドイツを代表するJAZZドラマーであり、澤野レーベルの重鎮アーティストでもある「クラウス・ヴァイス」が急逝したという。

「ロバート・ラカトシュ」や「ティティアン・ヨースト」を世に送り出し、自身も最新アルバムを出したばかりである。なんという・・・。
7月のロバート・ラカトシュのコンサートでは、サインをもらい、握手をしてもらったばかりなのに・・・。決して派手ではないが、その職人的なドラミングや英語の出来ないラカトシュの代わりにMCを務めたその人柄が眼に浮かぶ。

澤野からの逝去の報を告げるHPはこちらをクリックしてください。

そして、かれのリーダー・アルバム「GREENSLEEVES」をもって哀悼の意を表しよう。

004_s.jpg
AS004
GREENSLEEVES
クラウス・ヴァイス・トリオ

合掌・・・・・・。



© 2009 JAZZYな生活. All Rights Reserved.

This blog is powered by the Wordpress platform and to just Go Beach Rental.