JAZZYな生活

プレミアムエイジ ジョインブログ

我が青春のジャズ・グラフィティ(9) ~銀のフルート~

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『片隅に眠っていた銀のフルート
 そっとほこりを払って唇をあててみる
 青春の挫折が一瞬聴こえたような気がした』

学生バンドはずっとベースだった。
何か優しいメロディを奏でる楽器をやってみたかった。
キラキラとまぶしい輝きを持つ銀のフルートを手に入れた。
おもちゃを貰った子供みたいにうれしかった。
簡単なメロディくらいは吹けるようになった。
でもそれだけだった。

「ヒューバート・ロウズ」、「ソウル・フルート」と一緒に、よく聴いていたアルバムは、「ハービーマン/メンフィス・アンダーグラウンド」。なんといっても、「Hold On,I’m Comin’」が最高にいい。「ハービー・マン」のフルート、最初からいきなりフルスロットルで飛ばし、そして、ラリー・コリエルのギター、ロイ・エアーズのバイブ、そしてソニー・シャーロックのなんともアナーキーなギターソロへと続く。

メンフィス・アンダーグラウンド

ハービー・マン / Warner Music Japan =music=


85)ハービー・マン;メンフィス・アンダーグラウンド

我が家の歳時記  ~今年の観梅は・・・~

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春近し。我が家の花の歳時記は、いつも「観梅」からスタートします。これからまた次の冬の時期まで色々な花が楽しめる四季と自然に恵まれている日本の風土、外国に比べこのことには本当に感謝したくなります。

今年の観梅は手近な梅の名所、隣町、宝塚市の中山寺の梅林からスタートしました。
「中山寺」。寺伝では聖徳太子が建立したとされる日本最初の観音霊場。現在の本堂(1603年再建)や阿弥陀堂は豊臣秀頼が片桐且元に命じて再建したという。中山寺は安産の寺としても関西ではよく知られており、豊臣秀吉が中山寺に祈願して秀頼を授かり、また、幕末期には中山一位局が明治天皇を出産する時、安産祈願して無事出産したことに由来するという。毎月の戌(いぬ)の日には、日本各地から多くの参詣者が訪れます。

現世のご利益で結構繁盛しているらしく、新築の伽藍が立ち並ぶ境内を抜け、奥の院へ通じる参道の入口近くにある梅林が今回の観梅のお目当て。約1000本の豊後と摩耶など6種類の紅梅、白梅が植えられており、梅林の小高い斜面からは宝塚市街地を見渡すことが出来ます。まだ5分咲き位であったが、梅林は可憐な花と香りで一杯。訪れる人もちらほらでゆっくりと観梅を楽しめました。少し肌寒かったので、境内の喫茶でぜんざいを頂き、参道の店で、朝餉の友にと名物「昆布の佃煮」を求めました。

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そして次は、二駅先の「清荒神清澄寺(きよしこうじん せいちょうじ)」へ。ここでのお目当ては「鉄斎美術館」の『鉄斎の器玩 -匠との共演-』展。 
「清荒神清澄寺」は、真言三宝宗の大本山。896年に宇多天皇の勅願寺として建てられたという。本尊は国の重要文化財に指定されている大日如来。鎮守社として三宝荒神社があり、竃の神の荒神などを祀る神仏習合から「清荒神清澄寺」の名称がある。創建後およそ三百年の後、源平の兵火により灰燼に帰しましたが、勅命により建久四年(1193)源頼朝によって再興され、さらに四百年の後の伊丹合戦で再び炎上しましたが、荒神社のみは、いづれの火災にも難を免れています。その故事により、近隣地域では、「荒神さん」と呼び慣わされ、霊験あらたかな火の神、火防の神、かまど神の一種としての信仰が根付いているとのこと。

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阪急電車宝塚線の清荒神駅から北へ約1km、ゆるやかな坂道を登っていくと、両側には屋台を含め200近い飲食店や土産物店が軒を並べ、昔ながらの門前町の懐かしい風情をかもし出しています。この参道が実にいいのです。近畿地方にはこんな嬉しくなるような門前町が結構多いのです。山門に近づくにつれ、清流の音が聞こえ、木の香りが漂い、鳥のさえずりが聞こえてくるので、絶好の散歩道としても愛されているようです。運がよければ、近くに宝塚音楽学校があるので、生徒さんにあえるかもしれませんよ。

山内には画家「富岡鉄斎」の作品を集めた、今日のお目当て「鉄斎美術館」があります。
「鉄斎美術館」は、第三十七世法主 光浄和上の、「名物といえば歌劇しかなかった宝塚に、宗教と芸術文化の花を咲かせる理想の聖域を創造したい」という意志を継承して、永年にわたって蒐集されてきた「富岡鉄斎」の作品を広く公開展示するために昭和50年(1975)に設立されました。そして、いつのころからか清荒神清澄寺は、「鉄斎寺」として世界的に知られるようになったという。

「富岡 鉄斎(とみおか てっさい 1837年(天保7)- 1924年(大正13))」は、明治・大正期の日本の文人画家、儒学者。鉄斎の絵は、いわゆる文人画のジャンルに入りますが、極めて創造的な独自性を持っている。
時には繊細に、時には大胆に、何ものにもとらわれない自由闊達さが、縦横に発揮され見るものをひきつけてやまないという。主題は中国や日本の歴史、故事、逸話などから引いた物語や人物、或いは東洋画に伝統的な山水画。鉄斎の作品は、この鉄斎美術館と、西宮市の辰馬考古資料館に多くの作品が収蔵されている。

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『鉄斎の器玩 -匠との共演-』。前々から見たいと思っていた鉄斎に触れることが出来ました。今回の展示は、絵画よりむしろ「器玩」と呼ばれる工芸品の分野での展示。「器玩」とは一般に身辺に置いて賞翫し日々愛でる器や工芸品を指すそうだ。陶工浅見五郎介、清水六兵衞、指物師中島菊斎など当時の名工、匠との合作が多く展示されている。煎茶碗、香合、花器、あるいは器局、炉屏、盆等の匠の技と、そこに描かれた絵や書、賛などの鉄斎独自の感性とが見事に調和し、コラボする世界を創り出しています。初めて触れる鉄斎の世界に、すっかり魅せられてしまった。
自由闊達、おおらか、伸びやか、墨の幽玄、独特の味わいの書体 ・・・・。次回の展示、「鉄斎-先賢を画く-」は、3月~5月に開かれる予定。境内の櫻が満開になる頃、またぜひ来て見よう。

かって大阪市内のマンションに住んでいたときは、勤めが忙しいためもあったかもしれないが、四季折々の自然や花、木々などを楽しむ心のゆとりもなかったように思う。この地に引っ越してきて、春の花が、5月の山の緑が、こんなにも鮮やかで美しいかったのかとあらためて気がついた。
私は信州の出身、子供の頃は当たり前のように見聞きし、親しんでいた自然の風景を、長い間の都会の生活の中で、いつしか忘れてしまっていたのだ。

「♪ 季節の花がこれほど美しいことに  歳をとるまで少しも気付かなかった ・・・・ ♪」と「さだまさし」の曲「人生の贈り物」を歌う「沢知恵」。私の経験にも重なる歌。

わたしが一番きれいだったとき
沢知恵 / / コスモスレコーズ
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わが愛しのロリータ・ボイス ~さようなら、ブロッサム・ディアリー~

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キュートなウィスパリング・ヴォイスで人気のシンガー、ピアニスト、「ブロッサム・ディアリー」が2月7日にマンハッタンの自宅にて亡くなりました。享年82歳。

かって我が愛しのミューズの一人だった「ブロッサム・ディアリー」。「ジャネット・サイデル」、「ステイシー・ケント」、「ダイアナ・クラール」に続いてのミューズでした。ちなみに5人目は日本人枠と言うことで、暫定的に「伊藤君子」がなっています。しかし、ブロッサムは、お年のためコンテンポラリーな歌手活動をしていないこともあって、「カサンドラ・ウィルソン」に代わってもらった経緯があります。

1926年4月28日ニューヨーク州イースト・ダーハム生まれ。一時フランスに渡り活動、その後の活動は、米国とヨーロッパで行なっており、N.Y.で自らダフォディル・レーベルを設立するなどの意欲的な活動をした。

ピアノ弾き語りの女性ボーカルというスタイルの先駆者。そして「風邪をひいたような声」と称された、いまではウィスパリング・ボイス、或いはロリータ・ボイスとよばれる「鼻にかかったような甘い声」の歌唱スタイルの先駆者でもある。こんな声で歌う女の子が近くにいれば、私はたちまち胸キュンになってしまっただろう。ちなみに、「ブロッサム」と言う名前、本名で彼女が生まれたとき、お兄さんが父親のもとへ満開の桃の花を持ってきたことにちなんでなづけられたとか。ちょっといいエピソードですね。

頬杖をつく愛らしい姿が似合う彼女らしいジャケットも小粋な、1958年録音のアルバム。彼女のささやくような胸キュンボイスでうたう歌が粋なジャズを作り上げる。

ワンス・アポン・ア・サマータイム

ブロッサム・ディアリー / ユニバーサル ミュージック クラシック


メガネを掛けたディアリーは小学校の先生のようだが、声は、一聴してすぐ彼女と分かるロリータ・ボイス。ジャズの名門レーベル・ヴァーヴに残した名盤である。

ブロッサム・ディアリー+3

ブロッサム・ディアリー / ユニバーサル ミュージック クラシック


これから、「ブロッサム」を聞いてみようという方には、29曲収録された次のベスト盤がおすすめ。スタンダードのほか、ボサノバなども収録されています。「Yesterday When I Was Young」、「Tea For Two」など胸キュン・ボイスの本領発揮のアルバム。

ブロッサム・ディアリー・フォー・カフェ・アプレミディ

ブロッサム・ディアリー / ユニバーサル ミュージック クラシック


そしてブロッサム同様、ピアノを弾き語り歌う、我がミューズ「ジャネット・サイデル」がブロッサムに捧げたアルバムを献じ、わが永遠の名誉ミューズとしようではないか。
さようなら、ブロッサム・ディアリー・・・・。

ディア・ブロッサム

ジャネット・サイデル / インディペンデントレーベル

早春のいもたこなんきん

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手作りのカーディガンとカレンダー)

別に文句が出たわけではありませんが、私の思い出話ばかりが続いたので、久し振りの「いもたこなんきん」。

昨年末に次男が結婚し、ここ2年の間に子供達がすべて巣立って行ったので、やっと夫婦二人きりの生活がスタート。そして、妻にとって、極端に家事に費やす時間が減り、自分のために自由に使える時間が、かなり増えました。息子がおいていった、今まで聞いていたものより、数段音質のいいオーディオをリビングに移し、編み物やクラフトに精を出しながら聴いています。写真は、友達と寄り合いながら楽しんでいる趣味の成果です。

そして、2階の部屋がまるまる空いたので、一部屋は早々に我が音楽部屋、ブログ部屋として確保しましたが、妻の趣味のための部屋として、日当たりの良い二階に一部屋をしつらえようと準備に取り掛っています。
春近し、そんな編み物や折り紙細工、クラフトをしながら、最近聴いているアルバムは、「伊東ゆかり」のカバー集、「Touch Me Lightly」。

「伊東ゆかり」というと、昔、中尾ミエ・園マリとあわせて「3人娘」とよばれ、ポップスを唄っている「ナツメロ歌手」というイメージか、あるいは「小指の思い出」、「恋のしずく」を歌った歌手という認識しかないかもしれません。私は、「3人娘」時代から派手な歌唱力はないが、歌のうまさでは一番ではないかと思っていました。
1947年4月生まれの61歳。彼女の歌の上手さは承知していたが、60を超えて円熟期を迎え、最近は、女優としても活躍しているようである。

このカバー・アルバム、「卒業写真」、「 いい日旅立ち」、「百万本のバラ」、「セカンド・ラブ」 などユーミン、谷村新司、松田聖子、中森明菜らの昭和のヒットソングを、ピアニストたちとコラボレーションしたアルバム。彼女のナチュラルな声の響きとピアノの響きを大事にしたアレンジが聴いていてゆったりとした気持ちにさせてくれる。昔と変わらない声の質、無理のないナチュラルな響き、決して熱唱するわけでもないのに心に響いてくる。「荒井由実/卒業写真」は、オリジナルや今までの他の歌手のカバーより、かなりスローなテンポでうたわれ、このテンポがこの歌を、彼女にとって最も表現しやすいテンポなんだと実感するし、「さだまさし」の歌はどれもストーリー性があるが、このアルバムの「無縁坂」も映画のように情景がこころに浮かんでくる。

休日の朝などに、ろくでもないニュース満載の新聞を拡げながら、コーヒーとともこのアルバムを聴けば、すさむ心を少しは中和してくれるに違いない。
アルバム・タイトルのように・・・・。

Touch Me Lightly

伊東ゆかり / ユニバーサル インターナショナル

我が青春のジャズ・グラフィティ(8) ~33回転の青春~

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(写真;今も懐かしい世界に住んでいる友より)

会社生活になじんでいくにつれ、内外で気の合う友達や知り合いが出来、ライブハウスやJAZZ喫茶などへも行くようになっていった。

キタの旧・関テレ近くにあったJAZZ喫茶「インタープレイ8」(いまも元気で営業しているらしい・・)、当時大流行のゴーゴー・クラブ「アストロ・メカニクール」。ミナミの外人のベーシストがマスターのJazz Bar「ケント・クラブ」、西田佐知子、和田アキ子、沢田研二などを輩出した、かの有名なジャズ喫茶「ナンバ1番」。神戸はトア・ロードのJAZZバー「サント・ノーレ」、大丸裏のC&W喫茶「ロスト・シティ」、今もある、ライブが聴けた中山手のピザ・ハウス「ピノッキオ」。京大、同志社大、立命館大の近くにあったため、当時学生運動の闘士のたまり場で、二十歳で自らの命を絶った高野悦子著『二十歳の原点』でも知られる、京都・荒神口の伝説のJAZZ喫茶「しあんくれーる」。もうそのころは、「JAZZ喫茶の作法」に耐性も免疫もできていた。たしか、仏語「Champ Clair」という名前は、「思案に暮れる」のしゃれだと聞いたが、ひらがな名前が新鮮だった・・。そんな店の多くは、もうなくなってしまっただろう。

現在も、リーガ・ロイヤルホテルの地下にあり、ピアノ・トリオのJAZZを聴かせた「セラー・バー」、今は無き中之島の「プレイボーイ・クラブ」。勿論、こんな場所は、安月給のサラリーマンではとてもいけないので知り合いなどに連れて行ってもらったのだが。濃いブルーのベルベットのステージドレスで歌う、ブレイク前の「阿川泰子」にすっかり虜にもなった。これが、女性JAZZボーカルへの開眼の瞬間だったのだろうか。

「阿川泰子」、JAZZ歌謡とかいろいろの評価はあるけど、美人を売りにして、一気にホワイトカラー族をJAZZファン、女性ボーカルファンに引き込んだその功績は、まさに女性ボーカルの王道でいいじゃないか、JAZZ功労者に値すると思う。1980年発表の「JOURNEY」は、30万枚を発売したと言うからすごい。
JOURNEY
阿川泰子 / ビクターエンタテインメント
ISBN : B0000561AS
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そして、ある日ラジオから流れてきた歌声が、決定的に私を女性JAZZボーカル・ファンにしてしまった。「バン・バン(Bang Bang)」を歌う「アン・バートン」であった。遅咲きのデビューながら、淡々とした歌い方の中に、彼女の人生からにじみ出る、えもいわれぬ情感が漂う。いまでも愛聴盤になっている「バラード&バートン」。
バラード&バートン
アン・バートン ジャック・スコルズ ルイス・ヴァン・ダイク ジョン・エンゲルス ルディ・ブリンク / ソニーミュージックエンタテインメント
ISBN : B00005G4A4
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昨年末、開館50年目をもって建替えのため一時休館となった「大阪フェスティバル・ホール」も思い出の音楽スポット。伝説の「越路吹雪/日生劇場ライブ」のLPに魅かれ、コンサートを聴きに行った。最上階の一番後ろの席だったが、「人生は過ぎ行く」のエンディングで「捨てないで!」と絞るように歌う暗転のシーンは、いまでも鮮やかに目に焼きついている。日生劇場のライブ盤は今は廃盤なので、ベスト盤からしか聴くことが出来ないが、「人生」という「心の旅路」を歌うことが出来る最高の歌唱力を持った歌手であった。
愛の讃歌
越路吹雪 / 東芝EMI
ISBN : B00007GRD2
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「モダン・ジャズ・カルテット(MJQ)」を聞いたのも、この「フェス」であった。MJQは「ジャンゴ・ラインハルト」から影響を大きく受けたといわれ、その最高傑作といわれるアルバムは、パリのコンコルド広場をテーマにした「Concorde」。1955年の録音というから、第二次世界大戦の10年後のこの時期に、もうMJQはクラシックとJAZZの融合のハシリともいえる、このアルバムをリリースしていたんですね。B軒で聴いていたMJQを聴けるというんで、もう有頂天になっていたと思う。
Concorde
The Modern Jazz Quartet / Prestige/OJC
ISBN : B000000XZU
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そんな気ままで気楽な生活を楽しんでいた私に転機が訪れたのである。友人の結婚式の受付で、たまたま知り合った女性がいまの妻。そこから横浜-大阪間の遠距離交際が始まるのである。入社間もない新人の身では、東京出張などなく、自前で東京へ行っていたため、いつも素寒貧。映画もコンサートも二人で行ったことは無かった。そんな彼女の最初のプレゼントが、「セルジオ・メンデス」らのカヴァーで世界的に大ヒットした「マシュ・ケ・ナーダ」の作者「ジョルジ・ベン」の1963年のデビュー・アルバム「サンバ・エスケーマ・ノーヴォ」だった。「マシュ・ケ・ナーダ」、「シャヴィ・シューヴァ(コンスタントレイン)」などが収録されたカセット・テープである。すぐお気に入りのアルバムになったが、ブラジル帰りの知り合いに貰ったとかいうブラジル製のカセット・テープ。所詮、品質が悪く、ほどなく破損してしまった。

サンバ・エスケーマ・ノーヴォ

ジョルジ・ベン / ユニバーサル インターナショナル


さらに二枚のJAZZのLPレコードをもらった。バリバリのハード・バップ「レッドガーランド/グルーヴィー」、ビリー・ホリディの死を悼んだ悲痛な叫びの「マルウォルドロン/レフト・アローン」。当時JAZZなどにまったく興味も知識もなかった彼女が、何故それらを選んだのかを、後になって聞いてみたが、本人もそれを贈った記憶すらなく、今もってわからない謎である。

グルーヴィー

レッド・ガーランド / ユニバーサル ミュージック クラシック


女性ボーカルへの傾斜がきっかけとなったのか、はたまた、妻との交際がきっかけとなったのか、トランペッターにして恋歌唄い「チェット・ベイカー」も聴くようになった。ジャンキーで、生涯ドラッグのスキャンダルから抜け出すことは出来ず、最後は1988年5月、滞在中のアムステルダムのホテルの窓から謎の転落死をした。享年59歳。毒を放つ典型的な破滅型のイケメンJAZZプレイヤー。甘くハスキーな高音でささやくように口説くように歌うその魅力と魔力にあやかろうとしたのかも知れない・・・。
Chet Baker Sings
Chet Baker / Pacific Jazz
ISBN : B000005GW2
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やがて、結婚をし、子供が出来、裕福ではないが、平凡な生活をおくっていた。ところがある日事件が起こった。かねてから、いたくレコード・プレイヤーに興味を持っていた長男(当時2、3歳だったか?)にピック・アップ・アームを折られてしまったのである。そうして、私の「33回転の青春」は突然終わった・・・。

ソニーから最初のCD(コンパクト・ディスク)プレーヤーとCDソフトが発売されたの発売開始は1982年10月。そして販売枚数でCDがLPを追い抜くのは1986年。次期音楽メディアの主流はCDだ、いやDATだと論議が起こっていて、迷っている私は仕方が無いので、バックアップとして録音してあったカセットで聴いていた。勝負があって、CDが普及し始めたのを機会にCDに切り替え、LPはもう聴かなくなっていった。我が青春のBGMであった150枚ほどのLPもやがて人に譲ってしまい、気がつくと、そのころは身も心も、もうすっかり「オジサン」になっていた・・・。

いまはもう手元に無い33回転の青春。アナログで、非効率ではあるが、どこかのどかで暖かい音のするあのLPレコードと青春を懐かしがっている私がいる・・・。

我が青春のジャズ・グラフィティ/33回転の青春編は、

76)阿川泰子;JOURNEY
77)アンバートン;バラード&バートン
78)アンバートン;ブルー・バートン
79)越路吹雪;愛の賛歌   「日生劇場リサイタル」(廃盤)のため  
80)モダン・ジャズ・カルテット;Concorde
81)モダン・ジャズ・カルテット;Django
82)ジョルジ・ベン;サンバ・エスケーマ・ノーヴォ
83)レッド・ガーランド;グルーヴィー
84)チェットベイカー;Chet Baker Sings
29)マル・ウォルドロン;レフト・アローン   (再掲)

我が青春のジャズ・グラフィティ(7) ~ 青春の光と影 ~

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(写真はわがブログを見て友人が送ってくれた現在のB軒、当時の懐かしいレコードジャケットが飾ってある)

1969年に卒業し、関西の電機メーカーに就職をした。その年、日本中の大学は全共闘による学内占拠やストライキで大荒れに荒れ、その一方で彼らの闘争の対象のアメリカは、アポロ11号による人類初の月面着陸を成し遂げた。また、日本中が沸きかえった大阪万博が開催されるちょうど一年前であった。関西出身の友人はいたが、親戚などの頼れる先はなく、言葉や習慣に戸惑いながらも、スタートした社会人生活であった。自衛隊や禅寺での研修や営業・工場実習を経て、研究所への配属が決まり、とにもかくにも仕事が始まったのは6月半ばであった。当初は大阪の東部の山ろくにある会社の寮から通勤。しかも前年の不祥事?から大の男の二人部屋。期待はまったく裏切られ、音楽を聴く環境ではなかったので、1年後には、1Kの公団住宅へ早々に引っ越していったのである。
そして、ボーナスで安価であるが、やっと買えてうれしかったAudioセットで、「JAZZが聴ける生活」を手に入れることが出来た。その頃よく聞いていたのは、学生時代からの趣向をそのままひきずっていた「CTI」シリーズであったと思う。このシリーズ、今見ても、やはり素晴らしいデザインのジャケットだと思う。

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ソウル・フルート;トラスト・イン・ミー
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マーティー・バトラー;ジョーンズ嬢に会ったかい?
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ナット・アダレイ;You,Baby

新入社員としての研究所づとめ。見習いみたいなもので、まだお客さん扱い、5時には仕事は終了して退社。その上、週休二日制をいち早く導入した企業だったので、週末もやたら暇。ないのはお金ばかりであった。
最初は会社の軽音楽バンドに所属していたが、そのうち、誘われたヨットに熱中になり、週末は、練習のため艇庫のある西宮の浜で過ごすようになっていった。その時期と前後して、一時的にJAZZから離れ、POPS、ブラス・ロック、シンガーソングライター、フォーク、R&Bなどに夢中になった時期があったが、それは、学生時代からひきずってきたものを断ち切りたいという「覚悟」、あるいは「焦燥感」の現れだったかもしれない。 

長谷川きよし、ジョニ・ミッチェル、キャロル・キング、カーリー・サイモン、サイモン&ガーファンクル、チェイス、ブラッド・スウェット・アンド・ティアーズ、カーぺンターズ、バート・バカラック、リッキー・リー・ジョーンズ、トム・ウェイツ、ダイアナ・ロス、ティナ・ターナー、オーティス・レディング、ビートルズ、サンタナなど手当たり次第、脈絡もなにもなく、酒をあおりながら、ただやみくもに聴きまくったのだ。
孤高のシンガー・ソングライター「ジョニ・ミッチェル」。「ブルー」とならんで「青春の光と影」は若者達に圧倒的な支持を受けた。最近「ハービー・ハンコック」が彼女へのトリビュート・アルバム「リヴァー~ジョニ・ミッチェルへのオマージュ」を出したことにより、彼女への再評価の動きがあるようだ。

青春の光と影

ジョニ・ミッチェル / ワーナーミュージック・ジャパン


そして「酔いどれ詩人」こと「トム・ウェイツ」。しゃがれたかすれ声、ジャズ的なピアノ演奏、しがない人々の心情をユーモラスに描きながらも温かい視線で見つめる独特な歌詞世界。その後あまたのアーティストに影響を与え、カバーもされている。

土曜日の夜

トム・ウェイツ / イーストウエスト・ジャパン


「シカゴ」、「チェイス」と並んで、そのホーン・セクションが奏でるブラス・ロックのかっこよさに痺れた「BS&T」。のちの「MJQ(マンハッタン・ジャズ・クインテット)」のトランペッター「ルー・ソロフ」が参加していたのも特筆。

血と汗と涙

ブラッド・スウェット&ティアーズ / ソニーレコード


1969年8月、ウッドストック・フェスティバルに出演し、「悪魔に魂を売ったのでは」とまで言われ、すすり泣くようなギターが、プレスリーからビートルズにいたるロックの系譜を変えたといわれた「カルロス・サンタナ」。「ブラック・マジック・ウーマン」は、サイケデリックなジャケットのアルバムとともに一世を風靡した。そして、アルバム「アミーゴ」に収録された、インスツルメンタルの「哀愁のヨーロッパ」は、JAZZギタリストがこぞってアルバムで取り上げる定番ともなっている。

天の守護神

サンタナ / ソニーレコード


ベトナム戦争の最中、平和と愛を願うために51万人近くが集ったといわれる「ウッドストック・フェスティバル」は、1969年8月15日(金)から17日(日)までの3日間、アメリカ合衆国ニューヨーク州サリバン郡で開かれた。「ジミ・ヘンドリックス」が最終日のトリを務めたほか、ジョーン・バエズ、ジャニス・ジョプリン、クリーデンス・クリアウォーター・リバイバル 、ザ・フー、ジェファーソン・エアプレイン、ジョー・コッカー、ブラッド・スウェット・アンド・ティアーズなどそうそうたるメンバーが約30組出演したという。「ビートルズ」は出演を辞退したが、1970年の解散後のジョン・レノン(その妻のオノ・ヨーコ)も)は、アメリカにおいてベトナム反戦活動を行い、若者への影響力が強かったため、アメリカ政府から国外退去を命じられるほどであった。その後アメリカは、1973年1月にパリ協定締結、3月にはアメリカ軍がベトナムから撤兵完了し、1975年4月のサイゴン陥落をもってベトナム戦争は終結する。

そして、今から考えれば、何かの陰謀ではないかとも思えるのだが、米軍撤退と軌を一にして、「石油は枯渇する」というプロパガンダが、「ローマ・クラブ」によって世界中に流され、それに呼応するかの様に、1973年第4次中東戦争勃発、OPECによる石油減産、価格引き上げによる「第一次石油ショック」によって、万博のお祭り騒ぎの余韻も束の間、日本中が狂乱の渦に巻き込まれるのはもう間近に迫っていた。

我が青春の(ジャズ)グラフィティ/新入社員時代編は、
52)ソウル・フルート;Trust In Me
53)アーティー・バトラー;Have You Met Miss Jones?
54)ナット・アダレイ;You,Baby
55)ミルト・ジャクソン;サンフラワー
56)デオダード;ツァラトゥストラはかく語りき
57)ジム・ホール;アランフェス協奏曲

58)長谷川きよし;別れのサンバ  一人ぼっちの詩 より
59)ジョニ・ミッチェル;ブルー
60)ジョニ・ミッチェル;青春の光と影
61)キャロル・キング;つづれおり
62)カーリー・サイモン;Carly Simon
63)サイモン&ガーファンクル;明日に架ける橋
64)チェイス;追跡
65)ブラッド・スウェット・アンド・ティアーズ;血と汗と涙
66)カーぺンターズ;ナウ・アンド・ゼン
67)バート・バカラック
68)リッキー・リー・ジョーンズ;浪漫
69)トム・ウェイツ;土曜の夜
70)ティナ・ターナー;プラウド・メアリー
71)オーティス・レディング;ドック・オブ・ザ・ベイ  リスペクト ~ヴェリー・ベスト・オブ・オーティス・レディング より 
72)ジミ・ヘンドリクス;パープル・へイズ エクスペリエンス・ヘンドリックスより
73)ビートルズ;レット・イット・ビー
74)サンタナ;天の守護神
75)サンタナ;アミーゴ

社会人になったとはいえ、研究所勤務のためか、なかなか学生気分が抜けきれず、熱中と挫折を繰り返す、誰もが一度は通るまさに「青き時代」でもあった。

おん眼の雫・・・・ ~奈良・西ノ京を歩く~ 

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春の日差しを一杯に浴びたところで、平城宮址を後にして、西ノ京へ。

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(写真;死の2ヶ月前に制作されたといわれる国宝・鑑真和上座像。文芸ジャンキー・パラダイス http://kajipon.com より借用)

「唐招提寺」。南都六宗の一つである律宗の総本山である。本尊は廬舎那仏、開基は鑑真和上(688-763)。井上靖の小説『天平の甍』で広く知られ           るようになった中国・唐出身の僧・鑑真が晩年を過ごした寺。和上は、上海の北、長江河口の揚州江陽県の生まれ。14歳で出家し、律宗・天台宗を学ぶ。日本での律宗の受戒のため、日本から唐に渡った僧栄叡、普照らから戒律を日本へ伝えるよう懇請された。そこで鑑真自ら渡日することを決意し、日本への渡海を5回にわたり試みたがことごとく失敗し、視力も失った。752年、6回目の渡航で薩摩坊津に無事到着し、実に10年の歳月を経て仏舎利を携えた鑑真は宿願の渡日を果たすことができた。

日本で肖像彫刻をされた最初の人物で、その肖像彫刻は、松尾芭蕉が、「若葉して おん眼の雫 ぬぐはばや」と詠じた像でもある。なんというお顔であろうか。人生が凝縮されたこのお顔は見る人に感動を与える。その和上を偲んで、境内のかしこに中国は杭州からつたわったという、中国で古くから愛されてきた金木犀「桂花」が植えられ、春になるとピンクの花と心地よい香りに境内は包まれる。

なんといっても、井上靖「天平の甍」は誰しも一度は読んだことのある名作。
天平の昔、荒れ狂う大海を越えて唐に留学した若い僧たちがあった。故国の便りもなく、無事な生還も期しがたい彼ら。在唐二十年、放浪の果て、高僧鑑真を伴って普照はただひとり故国の土を踏んだ・・・・。
そして、「天平の甍」は、我が母校の先輩、熊井啓監督で映画化された。 普照を「中村嘉葎雄」、栄叡を「大門正明」、鑑真は「田村高廣」が演じていた。

天平の甍 (新潮文庫)

井上 靖 / 新潮社


国宝・金堂の平成の大修理を行っている唐招提寺を後に、平城京時代からの古道と思われる道を南へ薬師寺へと向かう。この道はもう何回も訪れた道。道すがら、運よく開いていた和布はぎれのクラフトの店「はぎれ屋」で、妻はちょっとオシャレで可愛い眼鏡ホルダーとアクセサリーを求めた。店主の女性は、客そっちのけで店の前で地中深く張った木の根と格闘中。こんな気取らない古都奈良に暮す人たちと会うも魅力の一つ。

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写真は、東塔(国宝)。現在寺に残る建築のうち、天平年間にさかのぼる唯一のもの。明治時代に訪れたフェノロサが、この塔を指して「凍れる音楽」と表現したとされる。

薬師寺は、南都七大寺のひとつに数えられる寺院であり、興福寺とともに法相宗の大本山である。本尊は薬師如来、開基は天武天皇である。『日本書紀』によれば、天武天皇9年(680年)、天武天皇が後の持統天皇である鵜野讃良(うののさらら)皇后の病気平癒を祈願し、飛鳥の地に創建したのが薬師寺であるとされる。その後、和銅3年(710年)の平城京への遷都に際して、薬師寺は飛鳥から平城京の六条大路に面した現在地に移転した。1998年にはユネスコにより世界遺産に登録されている。

奈良時代の仏教彫刻の最高傑作の1つとされる本尊「薬師三尊像」を安置し、1976年の再建の金堂。 2003年の再建の大講堂、1981年に伝統様式・技法で再建された西塔などあまたの伽藍が再建された。これらの再建には、国は当てに出来ないと自らの力で資金調達をするため、写経勧進や全国を回る講演をした高田好胤元管主の力が大きいという。私も入社時の研修に始まり、何回も高田管主の講演を聞いたことがある。

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金堂には、中尊は薬師如来、脇侍に日光菩薩と月光菩薩を配した国宝・銅造薬師三尊像を安置。同じく、奈良時代の金銅仏の代表作の1つである国宝・銅造聖観音立像、それを安置した鎌倉時代・弘安8年(1285年)の建築の国宝・東院堂など国宝、重文を あまた見ることが出来る。また伽藍の北側に建てられた「玄奘三蔵院」には、日本画家・平山郁夫が30年をかけて制作した、縦2.2メートル、長さが49メートル、13枚からなる「大唐西域壁画」があり、何年か前の完成公開で訪れた折は大変な賑わいであった。

その「玄奘三蔵院」に通ずる小道の紅白の梅は、もう満開・・・・・。そして、東大寺二月堂で始まる「修二会(しゅにえ、お水取り)」ももう間近。
 
秋篠寺に始まる古都奈良の「修学旅行」的な一日でした。こんな日は、「Beleza/ベレーザ」の代表作のこの2枚があれば おやじの遠足、春のドライブはもうご機嫌。ささやくような、くすぐるような、シルキー・タッチの歌声、その容姿とあいまって世のオジサンたちの心をつかんだ「Beleza」の歌姫、「ガブリエル・アンダース」。
ボサノヴァ、ジャズ、ポップス、サルサ、レゲエ、ファンクなど多くのジャンルをミックス・ブレンドし、彼女独自のボサノヴァ・カラーに染め上げてしまうのが特長で、「SONIA」などに代表されるいわゆる「フェイク・ボサノヴァ」の元祖として、根強い人気をもっている。「ジョビン・トリビュート・アルバム」はジョビン誕生80周年の去年、待望の再リリースがされた。

ジョビンに捧ぐ

ベレーザ / アルファレコード


ファンタジア

ベレーザ / アルファレコード

青によし奈良の都に・・・・ ~平城宮跡を歩く~

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40年ほど前に入社したての頃、奈良に遊びに来たことがある。近鉄電車が西大寺の駅に着く直前、車窓にとでつもない広大な原っぱが広がり、何なんだと訝ったことがある。それが、土地を取得したが、未整備の平城宮跡地であったのだ。その強烈な印象はいまだに脳裏に焼き付いている。その後、朱雀門、東院庭園、遺構展示館、平城宮跡資料館などの整備がすこしずつ進み、現在は来年の遷都1300年に向けて、第一次大極殿の復元が進んでいる。

早春の暖かい日差しのなか、秋篠寺を後にし、世界遺産・平城宮跡へと向かった。

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710年、藤原京から移された都・平城京は、途中、恭仁京や紫香楽宮へ遷都された時期を除くと、784年の長岡京遷都にいたるまで、日本の政治の中心であった。平城宮は、平城京の北端に置かれ、広さは120万平方メートル余、甲子園球場約30個分の広さ。天皇の住まいである内裏と、儀式を行う朝堂院、役人が執務を行う官衙から成り、 周囲は5m程度の大垣が張り巡らされ、朱雀門はじめ豪族の氏名にちなんだ12の門が設置されていた。 東端には、東院庭園がおかれ、宴などが催された。 また、この東院庭園は今日の日本庭園の原型とされている。
これらの復元遺構や資料館などはすべて無料で見学できる。

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(写真は平城宮第ニ次大極殿跡地。背景に見えるのは遷都1300年に向けて復元建造中の第一次大極殿。)

794年の平安京遷都後は放棄され、農地となっていたが、明治時代に建築史家、関野貞が田んぼの中にある小高い芝地が大極殿(第二次)の基壇であることを発見、以後保存運動が起こり、1921年には、平城宮跡の中心部分が民間の寄金によって買い取られ、国に寄付された。その後、平城宮址は、1922年に国の史跡に指定された。1960年代に私鉄電車の検車庫問題と国道建設問題に対する二度の国民的保存運動がおこった。その結果、現在は、ほぼ本来の平城宮跡地が指定され、奈良市のほぼ中央に位置しているにも関わらず、広々とした野原として保たれている。

まず第二次大極殿址に立ってみる。暖かい日差しのせいもあるだろうが、そのどこまでも広く、伸びやかな景観に、心が実にゆったりとなる。東は若草山、そのふもとの二月堂、東大寺、南は朱雀門、その彼方の二上山、南東には大阪・河内平野を象徴する生駒山が一望の下に見渡せる。明日香の狭い地に築かれた藤原京を離れ、この広い奈良盆地に都を築いた当時の人々の感慨が伝わってくる。

そして遺構展示館へ。発掘調査で見つかった遺構をそのまま見ることができるほか、第一次大極殿や内裏の復元模型を展示している。建築技術、木材加工技術、土木技術など当時の都づくりを支えていたその技術に驚嘆した。これらの技術はすべて半島からの渡来した技術によるものであると言う。技術だけが伝播してくるわけではなく、当然人の往来があったのだ。政治、文化、宗教、工芸、建築などのあらゆる面で知識や技術を持つ半島からの大量の渡来人が政治の中枢、或いはテクノクラートとして行政のトップに位置していたことは容易に推測できる。したがって古代日本において、朝鮮半島の政治情勢が色濃く影をおとしていたと考えれば、かなり納得できる歴史の部分もある。例えば「壬申の乱」。672年に百済系の天智天皇の子、大友皇子に対し、異母弟である新羅系の大海人皇子(のちの天武天皇)がおこした日本古代史最大の内乱であるが、一説に言われるように、百済vs新羅の影が尾を引く、政権争奪の戦いと考えれば理解も可能であろうし、日本国中に地名や文化、風習などでこれだけ古代朝鮮の痕跡が窺えることも説明がつく。
遺構展示館で、ボランティアで説明をしてくれた方は、70歳半ばを超えてもなお、かくしゃくとした百済の血を引くという在日朝鮮人の方。その歴史への情熱には感嘆。

そして平城宮跡資料館へ。794年、京都に遷都されて以後、百年も経ないうちに田畑となり、その下に奈良時代の遺構・遺物が地中に取り残された。奈良市で一番低い地形が幸いして水位が高く、土中にある木簡などが風化せず墨跡もあざやかなまま保存されたという。木簡が平城宮跡で最初に発見されたのは1961年。その時出土した39点の木簡は2003年3月に重要文化財指定を受け、それから全国で22万点を越える木簡が見つかり、そのうちの7万点が平城宮跡で見つかったという。続日本紀などの古記録に書かれている記述が木簡で裏打ちされたり、木簡抜きには古代史の解明はここまで進まなかったというのが実状です。
この木簡などが「埋蔵文化財」ということで1998年に奈良市の東大寺・興福寺・春日奥山・正倉院などとともに世界遺産に指定されました。

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(写真は東院庭園)
平城宮跡の西のはしにある資料館では、これまでの発掘調査・研究の成果をもとに、平城宮をわかりやすく展示しています。ここでも思いをこめて説明してくれた方は75歳のボランティアの方。シニアの方の情熱や思いが文化財の保護に、一役も二役もかっているのである。なんと素敵なことだろうか。

「わっしょい」という言葉が古代朝鮮語の「ワッソ」。「なら(奈良)」という言葉そのものが「国」と言う意味だとか、狛(こま)犬は高麗(こま)犬であるなどと言うことを知ったのは、日本古代史学に疑問を呈した歴史紀行シリーズ、金達寿著「日本の中の朝鮮文化シリーズ」であった。高麗氏族による祖先の祭りを起源とする祗園祭。新羅から渡来した、太泰・広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像。関西は、著者の想像をはるかにうわまわる濃厚・濃密な古代朝鮮文化の宝庫だった・・・。
 

日本の中の朝鮮文化―山城・摂津・和泉・河内 (講談社学術文庫)

金 達寿 / 講談社


司馬遼太郎の人気シリーズ「街道をゆく」。第2巻は、初の海外紀行で、訪ねる地域は、朝鮮半島。司馬氏は、加羅、新羅、百済の旧跡をたずね、日本と韓国の交流の歴史を読み解いている。書かれたのは1971年で、日本の植民地支配に対する恨みの感情が根強く残る日韓関係の暗黒の時代。その時代に司馬は、民族的には同じルーツを持つ日韓関係をよりよくしたいという願いがよく分かる。

街道をゆく (2) (朝日文芸文庫)

司馬 遼太郎 / 朝日新聞社


称徳天皇は、東院庭園に「東院玉殿」を建て、宴会や儀式を催したという。池、橋、築山、石組中の島、小石を敷き詰めた汀。この日本庭園の原型となる庭園の館で催されていた宴にはきっと雅楽が演奏されていたのでしょう。

雅楽〈天・地・空)~千年の悠雅~
東儀秀樹 / / 東芝EMI
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天女の印 ~ 早春の秋篠寺を訪ねて ~

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あまりにも暖かでいい天気なので、帰省してきた息子を奈良までおくる用事の後、西大寺、西ノ京あたりを散策しようということになりました。我が家から、車で小一時間、息子を送ってから、まず訪れたのは「秋篠寺」。「伎藝天」で知られたお寺ですね。かって30年ほど前に訪れていたがお堂の佇まいなどは、もうすっかり忘れていました。

「秋篠寺」の草創は、光仁天皇の勅願とか秋篠氏の氏寺であったなどと言われていて、はっきりしないらしいが、宗派は創建当初の法相宗から現在は単立宗となっている。 「東塔・西塔」などを備えた伽藍規模からも、官寺並みの大寺院だったらしいが、平安時代に兵火により、伽藍の大半を失い、創建当時の大寺の面影は残念ながら今は偲ぶことができず、小ぢんまりながら静かな佇まいの寺となっている。

平成2年のご結婚後、陛下から皇室ゆかりの地名に因んだ宮号を賜った「秋篠宮」様。その妃殿下である「紀子さま」の横顔が、「伎芸天像」に似ておられるという評判から、ある時期多くの人が秋篠寺に訪れたそうである。またこの「伎芸天像」、女性、特にキャリアーウーマンには大変な人気なんだそうです。

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写真は仏像net HPより

駐車場から東門を抜け、 苔の翠がそれは鮮やかな木立を抜けると、すぐに国宝の本堂(創建時は講堂)。その中に諸仏と並んで、伎芸天はひっそりと安置されていました。 

「伎芸天(技芸天とも)」は、仏教守護の天部のひとつ。容姿端麗で伎芸の才に優れた天で、仏典などによれば、大自在天(=シヴァ神)が天界で器楽に興じている時、その髪の生え際から誕生した天女。そのため、芸道の上達を目指す人々の信仰は厚いそうだが、梵語名は不詳で謎の天女であるという。そして、わが国に現存する像は秋篠寺の天女像ただ一像のみであるという。
現存の像は、頭部のみが平安時代の造立当時のもので、首以下は鎌倉時代の補作によるものであり、造立当時のお姿は不明。「経軌」という「仏像の形マニュアル」によれば、左手に一天華を持ち、右手は下に下ろし衣を捻ると記述されており、現在の姿とは大きく異なっているため、「伎芸天」でない可能性もあるそうだ。しかし、秋篠寺を訪れた人々は、そんなことはどうでもよく、すっかり伎芸天のとりこになってしまうらしく、広隆寺の弥勒菩薩像などと同様、熱狂的なファンが多いようである。

本堂内、末座の位置に伎芸天はひっそりと安置されていた。仏教守護の天部の一人であるから、末座に安置されているのは当たり前なのだ。中央に「薬師如来」、向かって左右に「月光・日光菩薩」、さらに左右に「薬師12神将」、さらに左右に「地蔵菩薩・不動明王」。そして「薬師如来」から最も遠い左端の末座に「伎芸天」、右は「帝釈天」。

伎芸天、結構大きし、肉付きも豊かであられる。真っ先に気がつくのは、そのうつむき加減の優しい目線。「俵万智」が魅せられたあの角度の目線だ。笑みをかすかにたたえ、見上げながら、向き合う人をごく自然に安らかな気持ちに導くようだ。

  見上げれば同じ角度に見下ろせる 伎芸天女その深き微笑み  (俵 万智)

そして、その指先。豊かな感情が、人差し指と小指を立てたままで、さりげなく内側に軽く曲げられた中指・薬指の指先からあふれ出てくるようである。右手は上に曲げられ、左手は掌を内側に自然に垂らされている。「しな(科)」と呼ぶにはあまりにも上品なその形、まさに「伎芸天」と呼ばれる由縁か。

  秋篠の伎芸天女の印むすぶ指  細々と空に定まる   (鈴木光子)

さらにかすかな腰のひねりによって、その上品な「しな」は、完璧に完成される。この微かな捻りにほのかな色気を感じる人が多いようだ。

  贅肉(あまりじし)なき肉置きのたおやかに み面もみ腰もただうつつなし  (吉野秀雄)

作造年代が違う首から上と下とをあわせた像であるがそんなことはまったく感じさせない。むしろつなぎ合わせた無名の仏師によって完璧で絶妙なバランスを持つ像が誕生したといっていい。
この美しい立ち姿の像・・・。これは本当に信仰の対象としての仏像として造られたのだろうか。無名の仏師の作造の思いはなんだったのであろうか。一篇の物語が出来そうである。そんなことを感じさせるくらいこの像は美しい。

  伎芸天女寒きしじまの夕にすら 匂ひこぼれて立たせ給へり  (松山千代)
  一燭に春寧からむ伎芸天   (青畝)

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つかの間の陶酔から覚めて、寺のすぐ近くに目立たずひっそりと構えられた「秋篠窯」にむかう。応対に出てこられた奥様に聞くと、先代が土を求めてこの地に窯を開き作陶を始めたとのこと。木立の中の苔の翠を思わせるような青磁の皿と茶碗を、日用使いにと求めた。そして秋篠を後に、来年遷都1300年を迎える平城京址へと向かった。

秋篠寺といえば思い出す小説がある。朝鮮半島の出自の作家「立原正秋」の「春の鐘」。
古陶磁器の美を探求する妻に裏切られた美術館長と夫に離縁された女が、大和路の四季をバックに織りなす恋愛小説で、主人公たちが人目を忍んで借りた一軒家が、ここ「秋篠の里」である。どろどろの不倫小説なのに、いつもの「立原正秋」特有の爽やかな印象と清潔感に満ちていて救われる。またこの小説は、蔵原惟繕監督によって映画化され、主人公の鳴海と多恵は、北大路欣也、古手川祐子が演じている。(VHSのみ)

春の鐘 (上巻) (新潮文庫)

立原 正秋 / 新潮社

「伎藝天」に強いてなぞらえるつもりはないが、我がミューズ「カサンドラ・ウィルソン/ニュー・ムーン・ドーター」をあげてみたい。もう何の説明も不必要はくらい、超有名なアルバム。彼女自身のセミヌードの姿も話題になった。冒頭あのビリー・ホリディの「奇妙な果実/Strange Fruits」から始まり、今まで聞いたことのない不思議なアレンジの「Moon River」でおわる「New Moon Daughter」。96年度スイングジャーナル誌選定ジャズディスク大賞ボーカル賞受賞の文句なしカサンドラ・ウィルソン最高傑作アルバム。

ニュー・ムーン・ドーター
カサンドラ・ウィルソン / 東芝EMI
ISBN : B00005GKDL
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この期に及んでもなお懲りない・・・・

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こんな記事が新聞にのっていた。

「米格付け会社ムーディーズ・インベスターズ・サービスは6日、トヨタ自動車の長期債務格付けを最上位の「Aaa」から「Aa1」に、米スタンダード&プアーズも同日、最上位の「AAA」から「AA+」に1段階引き下げた。」(2/7 朝日新聞)

米国の行き過ぎた投機資本主義、強欲資本主義が世界中の経済を危機的な情況に追い込んだと言うのに、まだこんな短期業績による評価付けをしている。これら格付け会社は、今回の経済危機の発端となったアメリカの金融会社にどういうランキングを与えてきたのか・・・。

かって、グローバル化の掛け声の下に導入された、会計制度改革、四半期決算とその迅速化、ROA、ROE、キャッシュフロー、株式時価会計、企業収益動向を即座に雇用調整に反映するための製造業への派遣解禁、株式交換でM&Aを可能にする三角トレード、分社化とホールディング会社化による効率化経営、貯金、簡易保険など総額350兆円とも言われる郵政資産の流動化を狙った郵政民営化、官から民への中で行われた大学や研究機関までもの民営化 ・・・・。これら足早に行われた経済制度改革=構造改革は、実のところ日本国民の利益やサービスのアップのためではなく、格付け会社や、米国の投資家や投機家のため、まさに「会社は株主のもの」を具現化するための政策であった事は、この米国発の経済危機ではっきりしたといえる。もちろん、働き方の多様化、経営指標の透明化、情報公開等メリットは多々あるにせよ、短期利益だけを追いもとめれば、米国のような超格差社会化が急速に進み、実体経済をはるかに凌ぐほど投機経済が膨張し、もし暴走してしまえば、国の在り様まで変えてしまうかも知れないこれらの改革を、市場経済を是とするも、視点を変えて今一度見直さなくてはならないだろう。まだ日本は暴走はしていないのだから・・・。

そして、これらの改革は、米国が毎年日本に突きつけてくる「年次改革要望書」に沿って行われたことを、関岡英之氏の著書(2004年発行)で知り、慄然とせざるを得ない。

拒否できない日本 アメリカの日本改造が進んでいる (文春新書)

関岡 英之 / 文藝春秋


寺島実郎氏も看破しているが、「時価会計制度は、将来利益を前倒しで取り込み、それを企業の付加価値として膨らませ、短期の利益を極大化させる側面がある。わかりやすくいえば、短期で経営に向き合っている人が、自分の在任期間に大きく前倒しで利益を取り込み、持ち株の付加価値を膨らませ、自分の収入を増やして去っていくというゲームなのだ。このように、すべて前倒しでレバレッジを効かせ、利益をより大きくして取り込もうとするメカニズムを、次から次へと考え出す人たちが存在する。・・・・・・・・
これまでのグローバル化は、米国への過剰依存を前提にし、米国を世界秩序の核として、世界の米国化を「グローバル化」と言い換えていたにすぎなかったのかもしれない。・・・・・」と。(コラム;寺島実郎の『環境経済の核心』より

米国と同一の価値基準に気づかないうちに組み込まれ、その結果、やがて米国と同じようなすさまじい格差社会が必然的に到来する懸念を感じてならない。この危機はアメリカが作り出したもの、しかしこの後に及んでまだ懲りないアメリカがある。オバマ大統領のすすめるであろう政策と「自由経済」の名の下に、投機資本主義をまだ継続したいとおもう勢力との長く果てしない暗闘がこれから始まるのかもしれない。

そして、米国発の経済危機で日本がこうむった大不況の影響が、もろに非正規雇用の人たちを直撃している。
私の現役時代の経験からすれば、派遣コストについては、人件費ではなく試験研究費、事務用品費などの変動費科目へ繰り込まれ、その存在が希薄化され人間として見えにくいという側面があることも事実である。正規社員の60%程度の人的コストで済み、特に製造業への派遣は、景気や需要に合わせた雇用調整が効く「雇用のJIT(Just In Time)」であるため、一連の改革で、株主利益を最大にすることを求められた企業サイドとしては、中国などのコストに対抗するため、こぞってこの制度を利用したといえる。その意味では、雇用に寄与したという面もあるのである。従って、派遣社員を中心として起こっている、いわゆる「派遣切り」を企業だけの責めに負わすのは一方的とも言える。すべては改革政策がもたらす最悪ケース、負の面をイメージできず、それをカバー、フォローする対策を同時に考えずに、楽観的に進めてきた政治に第一の責任があると思う。

それにしても、いま国家破綻寸前のアイスランドの経済政策を激賞して「日本も金融立国にすべし、政府はアイスランドを見習え」とまでTVで声高に主張していた講演料が1回200万円を超えると言われた人気No1の評論家竹村健一氏は、いま何も語らず、「改革がまだ中途半端だったから」と主張し、結果としての政策の失敗を認めない竹中平蔵元大臣。そして当の小泉元総理も早々と世襲引退声明をしたが、このことについては、やはり黙して語らず、しかも再登場の待望論までが聞こえてくるとは・・・・。
そして、小泉人気を煽ったマスコミ、かってはバブルを演出し、その後、失われた十年とやらで、投資(=投機)資本主義の到来をのぞみ、改革政策実現に加担した経済学者、金融業界からの弁や論が聞こえて来ないのも不思議ではある。

この国のこれからの在り様を定めなくてはいけないこの大事な時期に・・・・・・。



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