JAZZYな生活

プレミアムエイジ ジョインブログ

炭焼き小屋から(2) 灯りを落として

Tags:

P1040112

 

この儚げで美しい灯りは「燈明(とうみょう)」です。燈明皿に入れた椿油に木綿でつくった芯を浸し、暗闇の中で灯してみました。

燈明とは、元来神仏に供える灯火をいい、仏教においては、サンスクリット語の「ディーパ」の訳で、闇(無明)を照らす智慧の光とされ、重要な供養のひとつとされる。江戸時代になって、和ろうそくが庶民に普及するまでは、この灯明を灯りに使っていたようである。

昔の人は、この燈明やそれを入れた行灯などの明かりで生活をしていたのですね。闇と灯りのコントラスト、読書や作業するためには、とても明るさは足らないが、お互いの顔が見える距離まで近づいて、会話をしたくなるような柔らかな灯りですね。

P1040117

 

この燈明に使った椿油は、公園内のやぶ椿の実を、秋に採集し、先日の炭焼きの合間に、搾ったものです。もと油メーカーで仕事をし、現在は椿を中心に色々な油を手搾りしているクラブの先輩の指導で行いました。工程は比較的簡単で、まず実を潰し、殻と身に分けます。身(果肉)を細かく粉砕し、熱と搾りに耐えうる強靭な繊維でできた袋につめ、25~30分ほど蒸します。その後、油圧ジャッキを利用した手作りの圧搾器で1t近い圧力を懸け、じんわりと搾り、和紙あるいは工業用濾紙(ろし)で濾過すれば、きれいで透明な椿油が得られます。

P1040122

 

工程は簡単ですが、道具やその材料の選定、製作などに指導していただいたプロの方のアイデアが活用されており、感心をしました。素人の力だけでは、なかなかこうは行きません。殻と身が半々、その身から半分の量の油が搾れますので、収穫した椿の実の約1/4の量の油がとれるそうです。「続日本紀」には、宝亀8年(777年)5月、渤海国使が帰るときに海石榴(つばき)油を所望したので贈った、との記述があるそうで、当時は中国にもなかった貴重な油であったようです。椿油の効用は、髪油(鬢付け油)、スキンオイルなどによく用いられ、そのほか家具の艶出し、酸化しにくいので刃物類の錆止めなどに最適といわれています。

「椿」という字は、「木」偏に「春」と書く日本の特産樹で、古来より春を迎え、邪気や災いをはらう木、不老長寿の霊木とされてきました。もう1ヵ月半もすれば、椿の咲く季節。その椿の油が灯す燈明の明かり、もう春がそこまで近づいているように感じられませんか?

それでは、「灯り」がタイトルになっている曲をいくつか・・・・。どのアルバムもメロウでアコースティック、灯りを少し落として、春の宵の一時を過ごすには最高の女性ボーカルです。

最初は「ドアーズ/The Doors」の1967年のヒット曲「ハートに火をつけて/Light My Fire」のカバーから。癒し系の女性Jazz歌手2人の歌う趣の違った「Light My Fire」を ・・・。

ストックホルム出身、女優としても活躍しているという、スエディッシュ・ビューティ「リーサ/Lisa」のデビュー・アルバム「エンブレイサブル/Embraceable」。新人にも関わらず、「クリス・ボッティ」など大物がサポートしているマイルドでメロウなアルバム。



エンブレイサブル

リーサ / スパイス・オブ・ライフ

このブログではおなじみ、シンガポール出身のアジアの癒し姫「ジャシンサ/Jacjntha」。「ジュリー・ロンドン/Julie London」に捧げたバラード中心のこのアルバムはジャジーでブルージー、夜の帳が下りてからゆったりと聴くといい雰囲気に満ちている。


Jacintha Is Her Name

Jacintha / Groove Note

スタンダードの名曲「When The Light Low/灯りを落として」。 「♪ 灯りを落として、メロウなチェロを流して 私たちこんなに近くにいるのね ・・・」。歌うはニューヨーク出身「カラブリア・フォーティー/Calabria Foti」。これはまた見た目肉食系の美人だ。しかし歌唱力は都会的感覚の本格派。アルバム・タイトルはずばり「恋に過ごせし宵/A Lovely Way To Spend An Evening」。

恋に過ごせし宵

カラブリア・フォーティー / キングレコード

 

 
 
 

 

 

 

 

60歳過ぎたら聴きたい歌(55) 終わりなき闇 ~チェット・ベイカー/My Funny Valentine ~

Tags:

P1040025

 

1988年5月21日カリフォルニア州イングルウッド
その日、いつもはひとけのないイングルウッド公園墓地には、葬儀に集まった人々の姿が点々と散らばっていた。 ・・・・・ それより二日前、オランダから到着した旅客機が、50年代にはハンサムなトランペット奏者として知られていた男の、無惨に腐乱した死体を運んできた。チェット・ベイカーは13日の金曜日、麻薬漬けの日々の果てにアムステルダムで謎の死を遂げた。 ・・・・ 彼の母国アメリカではその死を悼む声はそれほど高まらなかった。 ・・・・ 葬儀の日時が〈ロサンゼルス・タイムズ〉紙や〈ハリウッド・レポーター〉で告知されたにもかかわらず、集まったのはわずか35人である。 ・・・・・・

そんなシーンの描写で始まる本がある。「終わりなき闇 ~チェット・ベイカーのすべて~」(河出書房新社)。「ジェイムズ・ギャビン/James Gavin」著、「鈴木玲子」訳で、2段組、504ページにものぼる大作である。原題は「Deep in a Dream The Long Night of Chet Baker」。この原題のように、ついに現実に目覚めることなく、悪夢の淵に沈んだまま、アムステルダムのホテルの窓から転落死したJAZZトランペッター「チェット・ベイカー」の伝記である。米・西海岸のジャズシーンに颯爽と現れ、アンニュイな雰囲気で人々を魅了した男。ドラッグにおぼれ孤独な死に至るまで、今まで語られてこなかった彼のすべてを語った決定版評伝である。

終わりなき闇 チェット・ベイカーのすべて

ジェイムズ・ギャビン / 河出書房新社

 ジャズ、女、麻薬、それがすべて。異例のスピードでジャズ界のスターとなってから世界一有名なジャンキーへと成り下がった男、チェット。麻薬が欲しいから演奏していたのか、演奏するために麻薬が必要だったのか、彼のトランペットから流れ出た悲哀の正体はなんだったのか。
正真正銘の「ワル」。今まで伝え聞いていた以上にその「ワル」ぶりが描かれているが、「徹底した落伍者の眼の色と声質は、ときに神性さえおびる」と「辺見庸」が評したように、その声は人を泣かす。

P1040023
(写真はいずれも「終わりなき闇」から)

「…あまりにも長年、麻薬漬けのジャンキーだったために、魂の抜け殻になっていたのね。かろうじて彼にも魂が残っていると感じたのは、音楽を演奏するときだけだった。そこには、はっきりとした二面性があったわ。素顔の彼は、まるで悪魔の化身のように冷酷だった。その彼のどこから、あんな美しい音楽が出てくるのか、理解に苦しんだほどよ。」

「天からの才能を授かっただけの、単なるろくでなし。」 

「天使のような顔をしながら、心は悪魔なのです。」 

「素顔の彼は恐ろしい人だったと思います。自分の手には負えないものを抱えて、運が尽きたんじゃないでしょうか。」 ・・・・・・・

バレンタインの日が近づくとよく聴く曲、「My Funny Valentine」。「チェット・ベイカー」の代表作として多くの人が真っ先にあげる曲でもある。トランペッターだったチェットが歌うようになったのは50年代はじめのこと。そして歌手としての名声を確立したのが、「My Funny Valentine」が収録されているアルバム「Chet Baker Sings」だった。

1954年2月、ハリウッドで10インチのLPレコードを録音した。それが、「Chet Baker Sings」。さほど歌が上手くないチェットの音程をはずさないように苦労して録音され、どの曲とも100テイクくらい録ったため、レコーディング時間は、予定を大幅にオーバーしてしまったという。そして、専門家の評は、「まるで女のみたい!」、「ぞっとする」、「底知れぬ欠陥のあるボーカル」など散々なものであった。しかし、ヒットしたのだ。どんなクラブで演奏するときも、ボビーソックスにローファーを履いた女性ファンが客席を埋め尽くしたのだ。貴公子然としたハンサムな彼が客席にむかって、「君は僕ごのみの芸術品なんだ」と囁くように歌うと、女性達はいっせいにため息を漏らした。究極の「たらし歌」とされる由縁である。
アルバム「Chet Baker Sings」。曲はおなじみのスタンダードばかり。しかしチェットが歌うと、そこに彼独特の世界が広がり、聴く者はついついその世界に引き込まれてしまう。そういう意味で、まるで耳元で囁くようなチェットの独特の歌と演奏には、麻薬的な魅力が潜んでいるようである。
 

Chet Baker Sings

Chet BakerPacific Jazz

 チェットの死後、製作公開された彼の生涯を描いたドキュメンタリー映画がある。チェットにほれ込んだファッション・カメラマンとしても有名な写真家「ブルース・ウェーバー」が私費を投じ、自ら監督・製作したドキュメンタリー映画、「LET’S GET LOST」 (1988年製作、89年公開)。この映画の関係者へのインタビューが、「終わりなき闇」でも頻繁に引用されているし、チェットに振り回された撮影の様子も描かれている。デビュー当時から最近までのベイカーの写真をモンタージュしながら、レコーディング・セッションする彼の姿を捉え、またインタビューによって彼の私生活にまで立ち入り、アーティストとして、また人間としてのチェット・ベイカーの姿を浮き彫りにしようとした。チェットがホテルの窓から落ちて死ぬ直前のツアーに同行したスタッフが撮った映像は、彼や友人のインタビューを交えながら鮮烈な世界を紡いでいく。
残念ながら、この映画、日本ではかってVHSのみがリリースされ、DVD化はされてない。従って、フィルムでも、VHS・DVDでも観ていないので、私にとっては垂涎の幻の映画となっています。ぜひDVD化が望まれるところ。
【レッツ・ゲット・ロスト(字幕スーパー) [VHS] コロムビアミュージックエンタテインメント】

 しかし、CDがリリースされています。この映画のサントラという体裁をとっていますが、実質的に最後のスタジオ・アルバムといえる「Let’S Get Lost」。
 

Let’S Get Lost

Chet Baker / RCA Victor Europe

  
晩年のチェットが闇の中から囁く「My Funny Valentine」。 死ぬ1年前の1987年東京、昭和女子大学人見記念講堂でのライブから。

この歌は、1937年に、ロレンツ・ハート作詞、リチャード・ロジャース作曲で、ミュージカル「ベイブズ・イン・マイ・アームズ」のために作られた。2年後に映画化されたが、そこでは「ジュディ・ガーランド」が歌った。もともとは女性が歌う歌なのだが、男性歌手のバージョンも多い人気スタンダード曲である。

【 My Funny Valentine 】  Words and Music by R. Rodgers and L. Hart

「♪ My funny Valentine,                私のおかしなバレンタイン、
   sweet comic Valentine             可愛くて面白いバレンタイン   
   You make me smile with my heart    あなたといると心から笑顔になる
   Your looks are laughable,           ルックスは笑えるけど、
   unphotographable                写真向きじゃない
   Yet you’re fav’rite work of art        でもあなたは大好きな芸術作品なの

   Is your figure less than Greek?           ギリシャ彫刻には到底およばないし
   Is your mouth a little weak?              口元もちょっとだらしないし
   When you open it to speak, are you smart?  口を開くと、あまり賢そうとも思えない

   But don’t change a hair for me         でも、髪の毛一本も変えないでね、私の為に
   Not if you care for me                もしわたしを大事に思っているならね
   Stay little Valentine, stay!             ずっとそのままでいてね、ずっと
   Each day is Valentine’s day          そうしたら毎日がバレンタインデイになるから ♪」

(注)バレンタイン:ハンサムでない男の名前

このブログでも何回か書いたが、未だにチェットの持つ毒が私から抜け切れていないのだ。(参照男唄に男が惚れて(1)~チェット・ベイカー 無頼派への憧れ~」、「60歳過ぎたら聴きたい歌(41)~I’m A Fool To Want You~」など) そのことは、チェットの歌を聴くたびに、心の深いところが妖しく疼くことが何よりの証拠である。

「俺はチェットが好きだ」といって、ライブの合間にいつも彼のDVDを流していた「北京CD爵士倶楽部」のマスターのことを思い出した。シャイで暗い顔をしていた彼もまた毒されたひとりだったのか ・・・。 

(注)爵士;中国語でJAZZのこと。私のブログネームでもある。

 

 

炭焼き小屋から(1) 炭焼き体験

Tags:

P1040114

 

炭焼きをはじめました。近くのダム湖のほとりにある「一庫(ひとくら)公園」で、炭焼き体験を募集していたので、それに参加し、すっかりはまってしまい、炭焼きを主催しているクラブ、里山を維持し、炭焼き技術を伝承していくことを活動の目的としているクラブに入会してしまった。入会の動機としては、里山や炭焼きに関心があったこと、環境の最前線で何かを体験していれば、何か見えるものがあるかもしれない、まあ、こんな動機です。

私が焼いている炭は、備長炭のような直接木を燃焼させて作る「白炭」ではなく、木を熱分解、乾留、いわば燻製してつくる「黒炭」。私が住んでいる北摂地域は、かっては「一庫炭」、「池田炭」に代表されるような「黒炭」の一大生産地で、寛永14年(1634年)の「毛吹草」という俳諧の書の諸国名産のところに「一倉(庫)炭」とでているそうである。また、「川西史話」には、延宝7年(1679年)の検地帳には、慶長年間(1596~1614年)には、一庫村に炭窯が四つあり、当時の代官「片桐且元」は豊臣秀吉に茶の湯用の炭を献上する代わりに炭窯のある土地の年貢を免除していたと記されている。隣の池田市にある古刹・久安寺では秀吉が大規模な茶会を催したといわれ、このとき用いられたこの地域で産する「黒炭」が、茶の湯ではやがてブランドになっていったようです。一庫炭(池田炭)は、切り口がみかん状、菊花状で美しく、火付き、火持ち、香りもよく、最高級の炭として茶の湯で愛用されている。しかし、生活様式の変化などによる需要減により、炭焼き農家が減り、現在では川西市では今西さんという方、たった一軒だけになってしまっている。 

280px-Chimyo-ko

 

さて、黒炭の材料には「クヌギ(橡、椚)」が最高であるとされる。現在でも、この地域は大部分の里山がクヌギ林というのが特長で、いたるところで台場クヌギが採れたが、猪名川流域における洪水対策と関西圏への上水道の供給を目的に、一庫ダムが1983年に完成した時、里山が湖底に没してしまった。そして、ダム湖である知明湖と残された周辺の森林の環境保全、自然観察を目的として一庫公園が1998年(平成10年)10月に整備され、自然観察の森が2002年(平成14年)に開園され、その開園前後のワークショップに参加していた人達が中心となって、里山、クヌギ林の利用・保全、炭焼き技術の伝承などのために2年後の平成16年に会が設立されたのがクラブの発足であるという。
P1040086

さて、黒炭に話を戻しますが、炭づくりの基本的な原理は、「木-煙=黒炭(炭素)」。そして、「煙=水蒸気、セルロース、リグニン ・・・」。したがって、窯の中で、クヌギを主とする窯木の木成分を熱分解させて作るのが「黒炭」ですが、そのための「窯」が必要で、窯まで持って活動しているクラブはなかなかないようです。写真の窯は、先述の今西さんの手により作られたもの。炭焼きの工程を簡単に述べると、1)炭の材料となるクヌギを窯のサイズにあわせて切り出す「窯木作り」。2)それを、窯の近くまで運びおろす「窯木おろし」。3)クヌギを窯の中に隙間なく並べ、その上に「バイタ」よばれる雑木を詰め、窯木と窯口をトタンで仕切って、予備乾燥をする「窯木入れと予備乾燥」。4)焚き口に柴や薪を入れ開始する「火入れ・窯焚き」。このときの火は、古式に則り「火打ち石」で火をおこします。8~10時間窯焚きを行い、窯全体が7~800度になるように窯の中の温度を上げていく。このときの火力、酸素の供給調節が重要なポイントとなります。ここまでが3日の工程。5)その後、排煙口と空気調節口を完全に閉じ、窯口を土で覆って密閉し空気を断って、蒸し焼きにします。これを「クド差し」といい、このタイミングを計ることが最も重要だといわれます。つまり早すぎると生焼けになり、遅すぎると炭材が灰になってしまうからで、これが窯に応じたノウハウとなっているようです。6)そうやって「クド差し」をした後、自然に窯が冷却するのを待ち、窯口を覆ったレンガや土を取り除き、いよいよ炭を取り出す「窯(炭)出し」です。我々の場合は2週間後でした。

P1030894

P1040121

 

 

 

 

 

                          左;窯木作り~窯木おろし              右;予備乾燥~窯焚き
P1040001

P1040015

 

 

 

 

         

    左;窯焚き(空気調節中)          右;クド差し後
          P1040083P1040087

 

 

 

 

 

                      窯出し後の炭

色々な工程の作業をこなし、ようやく昨日釜出しまで漕ぎ付けました。先輩方の指導がよかったためか、けっこうしっかりした炭が大量に焼き上がり、出来がいいものを頂いて、早速妻手編みの蔓籠にいれて、我が家に飾った。作業中、窯焚きの燃え盛る炎をじっとみていると、何かしら安堵感に似た感情が心に湧き上がってきて、長いこと経験していなかった、それは懐かしい感覚だった。「材木を切る」、「薪を焚く」、「熾(お)きを掻く」などという忘れていた作業や、窯木の組み方、窯の温度コントロールこそが伝承すべき炭焼きノウハウであり、経験しなくては分からないことである。真っ黒くなりながらも窯をあけ、炭が出てきたときのうれしさなど初めての経験でした。これからは月の何日かは、里山で過ごすことになりそうです。

釜焚きの炎を見つめながら思ったのですが、焼き物などもそうですが、「火」、「炎」というものに宿る、ある種不思議な根源的な力を感じてしまうのは、すこし体と心が自然に馴染んできたのかもしれない。自らを「山人」と称し、吉野でその生を全うした歌人「前登志夫」。エッセイ集「存在の秋」にこんな一節があった。

「・・・ 古代人の燃えあがらせる火のあざやかさも、記紀歌謡にこめられた情念の純一なはげしさも、古代人の生の充実をほかにしては考えられないでしょう。たとえば、はげしい彼らの労働や、けものとの戦いなどです。もう現代のどこをさがしても古代人の労働が持っていたような質の、心のつよさ、生の充実につながる仕事はありますまい。この疎外の克服は、存在するもの、つまり自然との接触をほかにしては考えられません。」  
 



存在の秋 (講談社文芸文庫)

前 登志夫 / 講談社

煙いが、全身に染み付いた煙や炭のにおいも、すぐに気にならなくなるどころか、むしろ好ましくなっていた。好きなピアニストの一人であった故・「エディ・ヒギンズ」が、泣かせのSAXの名手「スコット・ハミルトン」と共演した一枚「煙が目にしみる」。どうもジャケットは自然とは程遠いようですが・・・。



煙が目にしみる(紙)

エディ・ヒギンズ&スコット・ハミルトン / ヴィーナス・レコード

60歳過ぎても観たい恋愛映画

Tags:

私は、心の初々しさや色気を失わないためにも、結構「恋愛映画」を見ますが、シニアの皆さんにも、照れずに見ることを、ぜひお薦めします。映画館ではシニア料金は1,000円、夫婦どちらかが50歳以上であれば、夫婦で2000円の「夫婦50割引」サービス。レンタルビデオ店では、旧作DVDを半額のシニアサービス、または100円キャンペーンなどで手軽に楽しめるからです。

さて、退職してからは、「義理チョコ」などまったく縁がなくなった「バレンタイン・ディ」が近づいてきました。そんなバレンタインの時期だからこそ、シニアの皆さんにお薦めしたい恋愛映画があります。お薦めするのは、すこし遠回りかもしれないが、ひたむきさを貫く一途な愛、そんな東洋的な情感に彩られた恋愛映画、私が好きな「泣ける」アジア系恋愛映画です。

最初は、北京オリンピックの開会式・閉会式の総監督を手がけた「チャン・イーモウ/張芸謀」監督が、「グリーン・デスティニー」、「HERO」、「SAYURI」、「女帝」などのいまや中国を代表する人気女優「チャン・ツィイー/章子怡」の初主演で描いたラブストーリー「初恋のきた道」(1999年)。都会から来た若い教師に恋心を抱いた村の少女は、なんとかその想いを手作り料理に込めて、教師に伝えようとするが…。  
 


初恋のきた道 [DVD]

ソニー・ピクチャーズエンタテインメント

香港ラブストーリの名匠「ピーター・チャン/陳可辛」監督の代表作「ラヴソング」(1997年)。「チャン・ツィイー」と並んで「HERO」にも出演していた香港映画を代表する女優「マギー・チャン/張曼玉」、「花の生涯〜梅蘭芳〜」の「レオン・ライ/黎明」が織りなす10年の恋を描く。夢を抱いて中国大陸から香港に渡って来たばかりの、純朴で優しい青年シウクワン(レオン・ライ)、同じ大陸出身者ながらも器用にたくましく社会にとけ込んで働くレイキウ(マギー・チャン)。一見対照的な二人の出会い、別れ、そして再会するまでを、返還直前の香港を舞台に、この映画のキーワードにもなっている「テレサ・テン/鄧麗君」のヒット曲に乗せて描く、切なくも暖かい10年の恋物語。映画中、主題歌や挿入歌として、中国のカラオケでは大人気の、テレサ・テンの歌う「甜蜜蜜」、「涙的小雨(長崎は今日も雨だった)」「再見!我的愛人(グッド・バイ・マイ・ラブ)」、「月亮代表我的心」などが流れる。
 

ラヴソング [DVD]

ワーナー・ホーム・ビデオ

中国のカラオケ・バーなどに行くと、日本人の駐在員が必ずといっていいほど歌っている歌が、「甜蜜蜜」、「月亮代表我的心」。語学習得にも、カラオケ・バー嬢とのコミュニケーションにも絶大なる威力を発揮するらしいテレサの歌が聴けるアルバムは「テレサ・テンエッセンシャル・ベスト」。中国・台湾へ訪問の予定のある方は、中国語の歌の練習にどうぞ・・・。

注)甜蜜蜜;蜜のように甘い 君の笑顔はとても甘い まるで春風にゆれる花のように ・・・
  月亮代表我的心; ・・・・私の愛は本物なの 月が私の心を表しているわ ・・・


テレサ・テンエッセンシャル・ベスト

テレサ・テン / ユニバーサル ミュージック

韓国は「イ・ジェハン」監督の「私の頭の中の消しゴム」(2004年)。建設会社の社長の娘スジン。彼女は妻ある男性と不倫の関係にあったが、ついに破局を迎える。その夜、傷心のまま彷徨っていた街で一人の男性チョルスと出会う。やがて再会した2人は、ほどなく恋に落ち、幸せの中結婚するが ・・・・。記憶を失う難病に冒された妻とその夫の愛を描くラブストーリー。
 

私の頭の中の消しゴム [DVD]

 ジェネオン エンタテインメント

これら映画が描くのは、あまりにも純粋な恋愛の世界、もはや日本の現実とはかけ離れていて、日本の俳優ではもう演じられないかも知れない。そして、恐らくは経済的成長が著しい中国や韓国の社会でも急速に失われつつある純粋さであるかも知れない。物質的には恵まれないが、どこまでも純情で真っ直ぐな人々が生きていけたかっての社会。この映画はそんなもう失なわれてしまったかもしれない、人が持つ純粋な想いや感情に、心をつかの間向けさせてくれる映画である。

さあ照れずに、ご夫婦?で観て、色気も恋心もたっぷりとあった、あの頃の時代に一瞬でも帰ってみましょうか ・・・。

  

匠を支えた道具たち・竹中大工道具館  諏訪山公園界隈(2)

Tags:

houryuuji

 

(続き)

現存する会社で、世界最古の会社はどんな会社で、どこにあるか? そしていつから続いているのか? その答えは、大阪にある「金剛組」という建築会社(いわゆるゼネコン)で、創業西暦578年、なんと飛鳥時代から1400年以上も続いているのである。その時代から寺や神社を建て続けてきた。593年に難波(なにわ)に四天王寺を完成させたのが、そもそもの仕事始めだったとか言うからすごい。そして、スーパー・ゼネコンの竹中工務店も1610年創業である。1610年といえば、1600年が関が原の戦い、1603年江戸幕府が開かれた年、ガリレオ・ガリレイが木星を観測し月以外の衛星をはじめて発見した年が1610年である。織田信長の元家臣であった初代竹中藤兵衛正高が、江戸時代初期に尾張国名古屋にて創業。寺社仏閣の造営に携わったのが始まりとされる。今年で創業400年を迎えるから、これまたすごい。勿論、経営力という面もあるが、結局のところ、名も無き職人達の技術集団の技術力、その技の伝承が会社を支えて来たのだ。

dougu

 

(写真はいずれも竹中大工道具館HPより)

相楽園の日本庭園でしばしの憩いを得た後、次に向かったのは、本日の街歩きのメインのお目当てで、相楽園のすぐ近くにある「竹中大工道具館」。竹中大工道具館は、竹中工務店創立85周年の記念事業として昭和59年(1984)7月、神戸市中央区中山手に開館した。神戸のこの地は、明治32年(1899)に竹中藤右衛門が創業の地・名古屋を離れ、竹中工務店を創立した地だという。

日本の建築を支えた職人たちの技、それを生み出した大工道具24,000 余点が蒐集されている。大工道具は、品質のよいものほど、摩耗するまで長く使われ、やがては消滅するという厳しい宿命をもっている。これを民族遺産として収集・保存し、さらに研究・展示を通じて後世に伝えていくことを目的に、企業博物館としてスタートしたという。何かの本や記事でこの博物館の存在を知り、かって多少ビル建築に関わっていた私としては、ぜひとも見たかった博物館である。10数年前、ビジネスでお付き合いのあった米国人のトップの趣味が、古い大工道具の蒐集であると聞いて、来日したときに連れて行く計画をしたが、運悪く台風の襲来で中止をしたことを思い出す。見学はそれ以来の念願でもあったのだ。

co_title-2

 

ただ「美しい」の一言に尽きる。それも絵画や美術品のような美しさではなく、千年を超える伝統や歴史や職人の汗と涙が機能美となって、鍛冶屋の手から道具に凝縮され、それがまた見事に使い込まれている。機能美という合理的な理由から生まれた美しさだ。斧(おの)、鋸(のこぎり)、鉋(かんな)、鑿(のみ)、錐(きり)、槌(つち)、墨壺(すみつぼ)、曲尺(さしがね)、罫引(けびき) ・・・・・。かって大工はひとりで179点もの道具を所持していたという。木をねじ伏せるための道具ではない。ひたすら木と対話し、手なずけるために進化してきた道具である。大工道具にかかわらず、無から有をうみだす道具を古来の職人は神聖視し、最大の注意と敬意とをはらってきたのだ。この博物館の展示物や映像テキストなどをみれば、わが国でどの様に建物が建てられたかよく分かる。それは、技術を超えて、文化であり、歴史であり、国民的遺産とすらいえるのだ。

sumitubo

 

この博物館には、建築関係者や職人もよく訪れるようで、ある時、「ここの研ぎ下手やなあ」という大工らしい来館者の声が職員の耳に入った。館は急遽「名人」に依頼をして研ぎ直しをしてもらったという。研ぎの拙さを見抜いたというその話は、現代にもその技や心意気は、伝承されていることを感じさせる話であるし、館も展示物に手抜きをしていないのだ。

近代になり、コンクリート、鉄、プラスティックなど意匠、強度、安全などの理由で使われる建材は多様化し、効率を求めるため、工法や道具も変化し、電動工具を始めとする色々な道具や機械が登場してきた。かって人が、職人が命をこめた大工道具たち、古代の石斧の時代から、原理的には変わっていないこれらの大工道具たち、すべての技術の原点であるように思える・・・。

「安土城をつくった大工と道具―映画『火天の城』協賛展―」。岡部又右衛門とその一門が安土城築城に挑む姿を描いた「火天の城」(東映)公開にあわせ、中世末から近世初の大工道具(復元品)、映画に登場する大工道具と映画のシーンを合わせて紹介する企画展も開催されたようである。
 

火天の城 [DVD](2010年2月21日発売予定)

TOEI COMPANY,LTD.(TOE)(D)

 この博物館に収蔵されている日本の木の文化を支えてきた大工道具とその歴史。道具を握る人の手の温かさと、道具に込められた工夫の数々を、水彩画と文章で伝える好著。  
 

水彩画で綴る大工道具物語―竹中大工道具館収蔵品

竹中大工道具館 / 朝倉書店

 神戸の街歩きの最後は例によって、神戸から良質な音楽を発信し続けている栄町通りにある「ディスク・デシネ/Disques Dessinee」( www.disquesdessinee.com )でCDを求めた。南米は仏領ギニア在住のジャズマンたちによって、1986年に録音されたという「ヴィクトール・サバス・カルテット/Victor Sabas」の「ア・プー・ゾット/A Pou Zot」。ラテンの陽気さと哀愁が、JAZZはもうすっかり世界音楽になったことを感じさせる。
 
 

ア・プー・ゾット

ヴィクトール・サバス・カルテット / フ゜ロタ゛クションテ゛シネ

浪漫のなごり・金星台へ ・・・  神戸・諏訪山公園界隈(1)

Tags:

P1040039

天文学のファンならご存知のことかもしれませんが、今から136年も前の1874(明治7)年12月9日、金星の太陽面通過が起こりました。太陽面通過とは地球の内側をまわっている惑星が太陽の前を横切る現象です。月なら日蝕となるのと同じ現象ですが、小さな黒球が太陽を横切るだけのようです。金星の場合、一度起こると8年後にまた見ることが出来るのですが、その次は100年以上待たないといけない珍しい現象だそうです。この1874年の金星太陽面通過の時、日本は全ての過程を日中に見ることが出来る観測の最適地となりました。そして、明治維新後の間もない時期なのに、アメリカ、フランス、メキシコから観測隊が来訪して、長崎、神戸、横浜でそれぞれ観測を行いました。神戸にはフランスから「J.ジャンセン」が来訪。彼らは諏訪山に拠点を設けて観測を実施し、見事に成果を収めました。写真はそのときの様子を写したもの。これを記念して名付けられたのが、諏訪山公園の「金星台」です。そしてここに記念碑が建てられ、表面にフランス語、裏面に日本語で「金星過日測檢之處」と刻まれています。(詳しく知りたい方は参照してください。ブログ「神戸の街のこんな星・中央区」 )

P1040045

 

こんな、浪漫に満ちた話を知り、ぜひ行ってみたくなった。というわけで、今回の「おやじの遠足」は、神戸・諏訪山公園界隈。ハーバーランドに車を置き、六甲山山裾をめざしで北へと歩き出す。JR東海道本線高架をくぐり、花隈公園、相楽園脇の緩やかな坂を上ってゆく。街に根ざし、地域に溶け込んだお洒落な花屋、デリカッセン、カフェ、リストランテなどを通り過ぎ、山本通りから急な坂をあがるとそこが「金星台」である。神戸港を見渡すことができる展望広場の中央にはお目当ての「金星観測記念碑」と、NHK大河ドラマ「龍馬伝」ゆかりの「勝海舟」が創った「神戸海軍塾」の碑が建てられている。「金星過日測檢之處」の碑には、 表面の最上部には太陽面を通過する金星とその経路を示した図が描かれている。

明治維新から間もない激動の時期にも関わらず、はるか東洋の島国まで天体観測のためにやってきたその浪漫、冒険心、探究心に敬意を表さずにはいられない。神戸・横浜・長崎はいずれも下関、函館を加えた幕末の五開港地の三つであり、日本を代表する異国情緒漂う港町が観測地となったのは、大変興味深い。まさに外国への開かれた窓であったのだ。

P1040049

 

 

一休みして、金星台から諏訪山展望台へと再び歩き出す。遊歩道の途中、再度山ドライブウェイをまたぎ、金星台と展望台を繋ぐ螺旋形の優雅な歩道橋。この螺旋橋の愛称は「ヴィーナス・ブリッジ」と呼ばれ、もちろん金星(ヴィーナス)台にちなんだ命名。ここからの夜景が見事で、神戸市街を見下ろす展望スポットとして知られているが、季節がよくなり、夕闇が迫る頃は、カップルで鈴なりとなり、一般の人は近寄りがたいとも聞いています。そういえば、はるかな昔、友人の恋の成就のため、デート場所としてここを演出したことがありました。私はただドライバーとして駐車場で待っていただけですが・・・。そのことはさておき、昼間ですが、神戸を見下ろす見事な景観を楽しみながら、展望台脇の仏レストラン「トウール・ドール/tour dor」でお茶とおいしいケーキを味わった。遅い朝食だったので、食事は取らなかったが、素晴らしい景観と雰囲気、今度は夜景を見ながらのディナーを妻から約束させられてしまった。

 
kyusya

 

来た道を下り、さっき脇を通ってきた相楽園へと向かう。相楽園は、元神戸市長小寺謙吉氏の先代小寺泰次郎氏の本邸に造られた庭園で、明治末期に完成したものです。昭和16年以降神戸市の所有となり、中国の古書『易経』の一節にある「和悦相楽(わしてよろこびあいたのしむ)」からとって「相楽園」と名付けられ、一般に公開されるようになりました。2万㎡の敷地の中にある庭園は、池泉回遊式日本庭園、そのほか蘇鉄園(そてつえん)や樹齢500年と伝えられる大クスノキが見事。
また、重厚な正門と写真の欧風建築の旧小寺家厩舎(重文)、なんと厩舎ですぞ、保存のために移築された船屋形(重文)、旧ハッサム住宅(重文)のほか、茶室浣心亭(かんしんてい)が庭園の景観と調和している。冬空に大枝を広げ、羽ばたくようにすっくと立つ大くすのきがすがすがしかった。

P1040071

 

(続く ・・・)

我が青春のシネマ・グラフィティ(16) ~ エルケ・ソマー ~

Tags:

sommer2o

 

若い頃の私にとってのセックス・シンボル的女優は誰だったであろうか? 最初は、「007は殺しの番号 ドクター・ノオ(1962)」の初代ボンドガール、「ウルスラ・アンドレス/Ursula Andress」であった。(参照「青春のシネマ・グラフィティ(4)~007危機一発/ダニエラ・ビアンキ~」) そのつぎは、「エルケ・ソマー/Elke Sommer」であったような気がする。ドイツ風の名前をもつ女優、しかしながら、その出演映画を殆ど記憶していない。名前は鮮明に覚えているが、映画を観た記憶がないのだ。しらべてみて分かった。それもそのはず、初期の作品は成人映画が多かったためである。当時はまじめな高校生、だから観た記憶がないのだ。ハリウッドへ移ってからも、いくつかは観たような記憶もある所謂B級アクション映画に「お色気女優」として欠かせない存在であったようである。例えば、「キッスは殺しのサイン/Deadlier Than the Male(1967年)」、 「ラスベガス強奪作戦/They Came to Rob Las Vegas(1968年)」、「サイレンサー破壊部隊/The Wrecking Crew(1969年)」など。

1940年11月、ベルリンで生まれ、父はルター派の牧師だったが、彼女が14歳の時に亡くなっている。その後、イギリスのロンドンへ行き、メイドをして働きながら英語をマスターした。休暇で訪れたイタリアでミス・ヴィアレッジョに選ばれ、それから、映画監督「ヴィットリオ・デ・シーカ」に見出され、1958年にイタリア映画の端役でデビュー。翌1959年、本国の旧西ドイツ映画『死の船』で「ホルスト・ブッフホルツ」の相手役にキャスティングされ、以降、本格的な女優の道を歩む。1963年からはハリウッドにも進出し、均整のとれたプロポーションでグラマー女優として注目を集めた。

彼女のフィルモグラフィを見ていて、1964年のピンク・パンサーシリーズ「暗闇でドッキリ/A Shot in the Dark」(ピーター・セラーズ共演)、アガサ・クリスティの推理小説を映画化した「そして誰もいなくなった/Ten Little Indians」(1974年)は観たことがあることを思い出したが、どんな役で出ていたかは、ついぞ思い出せなかったのである。なにしろ超弩級屈指のナイス・ボディ。当時は、成人映画で観ることが出来なかったので、多分ポスターか映画雑誌のグラビアでの印象を強烈に覚えているのでしょう。

いまのAVなどとその表現や質において、まったく違うのですが、初期の出演していた成人映画は、「ラブ・ハント講座/Don’t Bother to Knock(1960年)」、「甘い暴力/Douce violence(1961年)」、「誘惑の海/Verführung am Meer(1963年)」、「銭の罠/The Money Trap(1965年)」、「おフロの女王さま/Boy, Did I Get a Wrong Number!(1966年)」、「 彼女の不道徳な夢/The Wicked Dreams of Paula Schultz(1968年) 」など・・・。こんな魅力的なタイトルで封切られたようです。 

「エルケ・ソマー」、その超弩級ダイナマイト・ボディを武器にして、19歳~23歳の瞬く間に、メイドからハリウッド・スターの道を駆け登り、あれよあれよという間にメジャーな存在となった女優、わたしにとって、スクリーンではなく、ポスターやグラビアで、その肉体のイメージだけが記憶に残っている女優である。見事な姿態をよこたわせるだけで、その存在を主張できる女優。「女の肉体が思想である」とは誰かがいった言葉であるが、それを具現化して見せた女優であった。もちろん、昨今のグラビア・アイドルなど到底足元にも及ばない存在であることは、言うまでもない。

同じ肉体派としてスタートしながら、女優として完成したといえる、「ソフィア・ローレン」、「ジーナ・ロロブリジータ」、「マリリン・モンロー」などとどう違ったのであろうか。まだ見ていないものも含めて、彼女の出演作を今度はしっかりと見てみたいと思ったが、彼女が一番輝いていたとおもわれる初期の成人映画はまったくDVD化されていないようである。


暗闇でドッキリ [DVD]

20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン

 



そして誰もいなくなった [DVD]

ジュネス企画

  

 



© 2009 JAZZYな生活. All Rights Reserved.

This blog is powered by the Wordpress platform and to just Go Beach Rental.